2025年2月14日

榊原紫峰の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の榊原紫峰の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

榊原紫峰の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、榊原紫峰の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

榊原紫峰の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の榊原紫峰のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた榊原紫峰の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の榊原紫峰の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

榊原紫峰 静物の図 1934年

榊原紫峰 静物の図 1934年

 

榊原紫峰は、明治20年に京都の染織家の家に生まれました。兄の雨村、弟の苔山、始更、弘も共に日本画家になっております。明治40年、京都市立美術工芸学校を卒業して、明治44年には京都市立絵画専門学校(絵専)を、後に国画創作協会を創立する土田麦僊、小野竹喬、村上華岳、入江波光らと共に卒業しました。

 

絵専在学中の明治43年には、第4回文展で《ながき日》が褒状を受け、京都画壇の若手を代表する花鳥画家として文展で入選を重ねていきます。しかし、大正6年の第11回文展で《梅雨霽れ》が好評のうちに無賞に終わったことを受け、かねてから文展の曖昧な体質に不満を抱いていた土田麦僊らと、国画創作協会を創立することになります。

 

 

榊原紫峰 雪柳白鷺図 1924年

榊原紫峰 雪柳白鷺図 1924年

 

大正7年の第1回国画創作協会展に一対の大作《青梅》を出品したのち、第2回展《赤松》、第3回展《奈良の森》と丹念な写生に基づいた立体的な花鳥画を発表します。主要会員の渡欧による中断をはさんだ後期においては、大正13年の第4回展に《雪柳白鷺図》、第5回展《蓮》、第6回展《獅子》、第7回展《冬朝》と、東洋画の古典を再解釈した力作を発表します。いずれの作品も、クラシック音楽の壮大で深遠な調べを造形化したかのような、従来にない花鳥画を創造しました。

 

 

榊原紫峰 墨梅 1966年 晩年

榊原紫峰 墨梅 1966年 晩年

 

昭和3年の国展解散後は、官展への出品はせず、母校の教授を務めながら、小品の水墨画の中に洗練された筆遣いを示していきます。その生涯にわたって、円山四条派の伝統を踏まえつつ、西洋絵画の陰影法と中国の宋元花鳥画の精緻な質感表現を融合した、生新な創作を続けていきました。その高度な筆法技術は日本のみならず、筆文化を持つ東洋の至宝ともいえるものです。

 

 

 

榊原紫峰の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.榊原紫峰の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.榊原紫峰の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.榊原紫峰の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.榊原紫峰の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

榊原紫峰の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.榊原紫峰の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

榊原紫峰 査定価格におけるポイント

 

榊原紫峰の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

榊原紫峰先生の作品は、花鳥画の華やかな作品に高値の査定価格がつきます。

 

5万円から50万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

榊原紫峰の作品、小禽の図柄の作品が評価されます。

 

梅に目白の鳥がふくらんでいる図が、描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

榊原紫峰展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

榊原紫峰の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ榊原紫峰の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

 

 

榊原紫峰 略歴

本名安造。明治20年8月8日日本画家榊原蘆江の次男として京都市中京に生れ、京都市立美術工芸学校卒業後、京都市立絵画専門学校に学び、明治44年第1回生として卒業しました。大正7年に、村上華岳、入江波光、土田麦僊、小野竹喬らと国画創作協会を創立し、新しい日本画創造を目ざして活躍しました。国画創作のほかは官展に出品し、昭和12年京都市立絵画専門学校教授、昭和24年同市立美術大学教授となります。昭和34年退職し、名誉教授となります。この間宇治平等院、醍醐寺三宝院、山科法界寺で壁画模写の指導にあたり、昭和37年には日本芸術院恩賜賞を授与されます。作品は沈静荘重な画風を特色とし、代表作に「赤松」「獅子」「冬朝」「奈良の森」などがあります。著書「紫峰花鳥画集」「花鳥画の本質」「紫峰芸術観」

 

明治20年
日本画家・榊原蘆江の次男として、京都市中京区に生れる。本名、安造。

 

明治40年
京都市立美術工芸学校日本画科卒業。「軍鶏」(卒業制作)引続き同校研究科に進む。この年父より紫峰正勝の画号をもらう。

 

明治42年
京都市立絵画専門学校創設され、村上華岳、入江波光らと共に同校2年に編入。第3回文展に«動物園の猿»初出品、以後大正6年まで文展を中心に出品する。

 

明治43年
「永き日」(褒状)第4回文展

 

明治44年
絵画専門学校本科卒業、続いて研究科に入学。卒業制作«花曇り»を第5回文展に出品して3等賞を受賞。

 

明治45年
「南園の一隅に於ける曲と眠り」第6回文展

 

大正2年
「夕榮」(褒状)第7回文展

 

大正3年
第8回文展出品«秋草»落選 第2回院展に出品する。

 

大正4年
「白梅」第9回文展「秋草」第2回院展

 

大正6年
「梅雨晴れ」第11回文展

 

大正7年
小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花と共に国画創作協会設立の宣言をする。文展を離れて第1回国画創作協会展を開く。「青梅」出品。以後この国展に出品してゆく。

 

大正8年
「赤松」第2回国展

 

大正9年
「奈良の森」第3回国展

 

大正10年
より12年まで、国展は、主力会員のヨーロッパ行きと関東大震災などのため休会する。

 

大正13年 
「雪柳白鷺の図」第4回国展

 

大正14年
「蓮池」第5回国展

 

昭和2年 
「獅子」第6回国展

 

昭和3年
「冬朝」第7回国展。国展第1部(日本画)解散を声明。

 

昭和4年
第10回帝展の推薦となる。また翌昭和5年からは新官制による無鑑査となる。パリ日本美術展に«朝露»を出品。

 

昭和5年
ローマ日本美術展に«風雪白鷺図»を出品。

 

昭和12年
新文展開かれ、参与となる。絵画専門学校教授に就任。

 

昭和14年
第3回新文展の審査員となる。

 

昭和16年 
小野竹喬、入江波光と三人展を開催する。

 

昭和23年
京都市立美術専門学校の客員教授となり、翌年、同美術大学の教授に就任。

 

昭和31年
この年から、宇治平等院、醍醐三宝院、日野法界寺で壁画模写の指導に当る。

 

昭和36年
市立美術大学教授を定年退職、名誉教授となる。この頃から病床につく。

 

昭和37年 
日本芸術院恩賜賞を受ける。

 

昭和44年 
画業60年記念<榊原紫峰>展を大阪・阪神で開催。

 

昭和46年 
日本画家榊原紫峰は、1月7日老衰により京都市北区の自宅で死去した。享年83歳。

画集に«紫峰画集»(大正13年、高島屋美術部)、«同»(大正15年、同)、«紫峰花鳥画集»(昭和9年、芸艸堂)、«紫峰スケッチ集»(昭和23年、全国書房)等、著書に«花鳥画を描く人へ»(昭和4年、中央美術社)、«花鳥画の本質»(昭和10年、芸艸堂)、«紫峰芸観»(昭和15年、河出書房)等がある。この他氏に関する論評及び参考図書等多い。
(年譜京都市美術館年報昭和45年に拠る。)

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

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北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

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電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月13日

小野竹喬の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の小野竹喬の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

小野竹喬の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、小野竹喬の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

小野竹喬の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の小野竹喬のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた小野竹喬の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の小野竹喬の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

小野竹喬 本人

小野竹喬 本人

 

小野竹喬は、1918年、大正7年に京都で設立された国画創作協会のメンバーの一員として、日本画の新しい表現を模索したことで知られます。

 

後年には、温雅な色彩と簡潔なかたちを特徴とする画風を確立して、「風景の中にある香りのようなもの」(竹喬の言葉)を画面にとらえようと、さりげない自然の表情に眼を向け続けました。

 

小野竹喬は国画創作協会の仲間である土田麦僊、野長瀬晩花、そして洋画家の黒田重太郎とともに、1921年にヨーロッパへと出発します。

 

小野竹喬は、色に重きをおく日本画へと転じた1939年、昭和14年頃を大きな転換期とみなし、それを境に小野竹喬の作品は、独自の世界に入りました

 

。新しい画風は、色の面によって対象を把握し、かつ日本画の素材を素直に活かそうとするものでした。この時期、小野竹喬は大和絵の表現を手本とし、線も色も古い大和絵に学ぼうとしたのです。

 

小野竹喬 波切村

小野竹喬 波切村 重要文化財

この転換はその後の竹喬作品の方向性を決定づけました。それ以降、小野竹喬はおおらかで単純な形と温雅な色彩を特徴とする表現を深め、ゆるぎない独自の世界を確立してゆきます。

 

奥の細道句抄絵は小野竹喬晩年の代表作です。小野竹喬はこの作品で、江戸時代の俳人、松尾芭蕉の『おくのほそ道』をもとに、その句意を絵にしようと試みました。小野竹喬は昭和お代表する日本画家でした。

 

 

小野竹喬 奥の細道句抄絵 暑き日を海に入れたり最上川

小野竹喬 奥の細道句抄絵 暑き日を海に入れたり最上川

 
「暑き日を海にいれたる」とは、「気温の高い一日が川によって海に流されていく」「あつい夕日が川によって海に沈められていく」といったような意味合いで用いられています。
 
「暑い一日を海に流し入れてしまった最上川(その河口のあたりから涼しい夕風が吹いてきた)」という意味です。
 
 
 
 

小野竹喬 朝空 1975年

小野竹喬 朝空 1975年

 

冒頭でも述べた、「風景の中にある香りのようなもの」を画面にとらえようと、さりげない自然の表情に眼を向け続けた小野竹喬は、茜雲の作品の評価が非常に高く、ピンクの雲は小野竹喬独自の絵画スタイルとも言えます。

 

 

 

小野竹喬の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.小野竹喬の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.小野竹喬の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.小野竹喬の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.小野竹喬の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

小野竹喬の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.小野竹喬の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

小野竹喬 査定価格におけるポイント

 

小野竹喬の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

小野竹喬先生の作品は、風景画の作品に高値の査定価格がつきます。

 

50万円から300万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

小野竹喬の作品は、松尾芭蕉奥の細道シリーズの図柄の作品が評価されます。

 

ピンクの茜雲が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

小野竹喬展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

小野竹喬の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ小野竹喬の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

 

 

小野竹喬 略歴

 

1889年
明治22年、11月20日、岡山県笠岡市に父小野才次郎母ハナの四男として生まれ、英吉と命名される。生家は浜中屋を屋号とする文具商であったが、のち、ラムネ製造業を始めます。

 

1902年
笠岡小学校高等科を卒業し、家業を手伝います。

 

1903年
父の希望であった商人になることを嫌い、新劇俳優か、日本画家を志望する長兄益太郎(後に坪内逍遙の創立した文芸協会の第1回生として卒業)の勧めで画家になる決心をし、11月2日京都に出て、竹内栖鳳の門に入る。御幸町錦下ルの長兄の下宿に同居します。

 

1905年
竹内栖鳳から「竹橋」の雅号をもらう。油小路御池西入ルの寺で自炊生活を始めたが、許可を得て、竹内栖鳳宅寄宿生となる。間もなく土田麦僊も寄宿生となり、親交が始まる。日本美術協会展に「月宵」が入選します。

 

1906年
4月、第11回新古美術品展に「夏の夕」を出品します。

 

1907年
4月、第12回新古美術品展に「雨の木屋町」を出品、4等褒状を受ける。10月、第1回文部省主催美術展覧会(文展)に「山家の春」を出品し、入選します。

 

1908年
竹内栖鳳寄宿室を出て、下河原の益太郎宅に寄宿したのち、9月、富小路上ルに間借りします。4月、第13回新古美術品展に「春宵」を出品し、3等となります。10月、第2回文展に「落照」を出品します。

 

1909年
4月、土田麦僊とともに京都市立絵画専門学校別科に入学する。同科には他に野長瀬晩花がおり、本科2年には村上華岳、榊原紫峰、入江波光がいました。同月、第14回新古美術品展に「花の山」を出品し、5等となります。

 

1910年
4月、第15回新古美術品展に「暮るる冬の日」を出品し、3等となる。日の出新聞紙上で田中喜作に好評され、以後田中との親交が始まる。12月、田中喜作を中心とする懇談会「黒猫会(シャ・ノアール)」結成に参加。会員は津田青楓、黒田重太郎、田中善之助、新井謹也、泰輝男、土田麦僊らでした。

 

1911年
3月、京都市立絵画専門学校を卒業。卒業制作に「まつり」を出し、絵専美工校友会展で銀賞を得、学校の所蔵となったが、のちに仮面会展に出品した「南国」と取りかえます。4月、黒猫会は展覧会を開くことになったが、会員間の意見の相違のため解散し、5月、黒田、新井、田中(善)、土田と共に「黒猫会」の発展として「仮面会(ル・マスク)」を結成する。その第1回展を京都三条柳馬場京都青年基督教開館で開き、「南国」「朝」を出品する。10月、第5回文展に「港」を出品します。

 

1912年
5月、第2回仮面会展に「紺屋の裏」「学校」「棕梠」を出品する。この後、同会は会員の多くが京都を離れ、自然消滅する。同月、麦僊と共に知恩院山内崇泰院に移住します。

 

1913年
4月、第18回新古美術品展に「南島-春夏秋冬」を出品する。5月、岡山市郊外大供に移り、文展出品作を制作する。晩秋、再び上洛する。10月、第7回文展に「麦秋」を出品します。

 

1915年
10月、第2回院展に前年度文展の落選作「黍熟るゝ頃」を出品し、入選する。居を粟田口三条に移します。

 

1916年
10月、第10回文展に「島二作」を出品し、特選を受ける。居を室知恩院山内林下町に移します。

 

1917年
10月、第11回文展に「郷土風景」を出品したが鑑別される。居を室町出水上ルに移します。

 

1918年
1月20日、京都倶楽部で「国画創作協会」の結成を発表(この後1月21日、東京上野精養軒でも発表)。11月、第1回国画創作協会展(国展)を東京・白木屋で、引き続き京都・岡崎第一勧業館で開き、「波切村」を出品します。

 

1919年
11月、第2回国展に「夏の五箇山」「風景」を出品します。

 

1920年
11月、第3回国展に「海島」を出品します。

 

1921年
10月4日、土田麦僊、黒田重太郎、野長瀬晩花らと共に神戸出航の賀茂丸にて渡欧の途につく。途中、香港、シンガポール、マラッカ、ボンベイ等を経て、11月16日、マルセーユに着き、アビニヨン、リヨンを見学し、同18日パリに到着、ノートルダム寺院に近いセーヌ河畔のオテル・ビッソンに投宿します。

 

1922年
1月~2月、イタリア、2月スペイン、3月イギリスを訪れ、4月5日帰国の途につき、5月20日に帰国する。帰国と同時に住居が、市電烏丸線の延長計画にかかり、立ち退きを迫られていることを知り、居を等持院南町に移し、アトリエを等持院北町に定める。雅号の「竹橋」を「竹喬」と改めます。

 

1923年
11月、大阪毎日新聞社主催 日本美術展覧会に「村道」を出品します。

 

1924年
11月、第4回国展に「春耕」を出品します。3月、第5回国展に「長門峡」を出品します。

 

1926年
5月、第1回聖徳太子奉讃展に「八瀬村頭」を出品します。

 

1927年
4月、第6回国展に「青海」「波涛」を出品します。

 

1928年
4月、第7回国展に「冬日帖」を出品します。7月28日、東京・帝国ホテルで国画創作協会第1部(日本画)の解散を発表。11月、国画創作協会第1部会員ら26名によって設立された、新樹社の賛助会員になります。

 

1929年
9月、帝国美術院推薦となります。10月、第10回帝展に「山」を出品します。

 

1930年
10月、第11回帝展に「風浪」を出品します。7月、翌年1月、ベルリンで開催される日本美術展の国内公開展に「冬の室戸岬」を出品します。

 

1931年
等持院北町に移転します。

 

1932年
10月、第13回帝展に「立獅子峡」を出品します。

1933年
10月、第14回帝展に「はざまの路」を出品します。11月、竹内栖鳳の主宰する竹杖会が解散します。

 

1934年
5月、大礼記念京都美術館美術展覧会に「出靄」を出品します。

 

1935年
4月、春虹会(京都の帝展系作家16名に院展の冨田溪仙を加えた17名を会員として組織される)第1回日本画展に「稲」を出品する。10月、帝展出品無鑑査の指定を受けます。

 

1936年
9月、新文展審査委員に任命されます。11月、新文展招待展に「室戸岬」を出品します。

 

1938年
4月、第3回京都市美術展覧会に「雪後」を出品します。

 

1939年
10月、第3回文展に「清輝」を出品する。同作品は京都市美術館に買上げられたが、終戦後の同館接収時に行方不明となります。

 

1940年
2月、大阪・高島屋にて個展を開催。「山峡の月」「溪潤」「帰樵」「洛北の春」「奈良早春」「喧春」「春霞」「深春」「富嶽」「松巒」「蔬菜」「石榴」「早晨」を出品します。7月、京都・佐藤梅軒画廊で入江波光・小野竹喬・榊原紫峰新作展が開かれ、「清宵」「層巒」「秋霽」「春暁」を出品します。9月、都市と芸術社主催、池田遙郎・小野竹喬山水画新作展が東京・銀座資生堂で開かれる。大阪毎日新聞社主催紀元2600年奉祝美術展覧会の審査員になる。

 

1941年
5月、第6回京都市展に「晴日」を出品します。9月、第4会文展審査員を委嘱される。

 

1942年
5月、岡山県の依頼で同県護国神社本殿用四季山水屏風を完成奉納する。11月、第1回十宜会展を東京・日本橋三越で開催(同会は京都作家10氏の会)

 

1943年
10月、第6回文展に「冬」を出品する。同作品を政府に買上げられ、ラウレル・フィリピン大統領に贈られます。

 

1944年
7月、平安神宮御鎮座50年、平安遷都1150年奉祝京都市美術展覧会に「月」を出品します。11月、文部省戦時特別美術展に「太平洋」を出品し、京都市に買い上げられます。

 

1945年
11月、第1回京都市主催美術展覧会(京展)に「新冬」を出品します。

 

1946年
9月、第2回日展の審査員を委嘱されます。

 

1947年
3月、京都市美術専門学校教授となります。4月、帝国芸術院会員となる。6月、第3回京都市美術展覧会に「麓」10月、第三回日展に「仲秋の月」を出品します。

 

1948年
9月、第4回日展の審査員を委嘱される。10月、第4回日展に「新秋」を出品します。

 

1950年
4月、京都市美術専門学校が新制大学の京都市立美術大学として新発足し、その教授となります。

 

1951年
6月、第7回日展の審査員を委嘱される。10月、第7回日展に「奥入瀬の渓流」を出品します。

 

1952年
10月、第8回日展に「雨の海」を出品し、国立近代美術館に買い上げられます。

 

1953年
6月、第9回日展の審査員を委嘱されます。10月、第9回日展に「夕空」を出品する。11月、京都市立美術大学教授を依願退職し、以後非常勤講師となります。

 

1954年
1月、第5回秀作美術展に「雨の海」が出品されます。2月、東京・上野松坂屋にて「契月、翠嶂、竹喬」日本画展を開催される。7月、国立近代美術館で「大正期の画家」展が開催され、「島二作」が出品されます。

 

1955年
1月、第6回秀作美術展に「夕空」が出品される。6月、第11回日展の審査員を委嘱されます。日展参事となる。10月、第11回日展に「深雪」を出品します。

 

1956年
5月、第8回京展に「残照」を出品します。6月、第12回日展の審査委員を委嘱されます。10月、第12回日展に「高原」を出品します。

 

1957年
1月、第8回秀作美術展に「深雪」が出品されます。7月、東京・銀座松屋にて「小野竹喬写生展」(朝日新聞社主催“スケッチ展シリーズ”第11輯)を開催、「高原」など30点を出品します。9月、京都府ギャラリーにてスケッチ展を開催。

 

1958年
3月、社団法人日展の発足にあたりその常務理事となります。5月、第10回京展に「木」(スケッチ)を出品します。11月、第1回日展に「山月」を出品します。

 

1959年
11月、第2回日展に「曇り日の海」を出品します。

 

1960年
4月、東京・日本橋三越にて「小野竹喬日本画展」を開催。6月、日本中国文化交流協会・朝日新聞社共催の「日本現代画展」が中国各地で開催され、「高原」が展示されます。9月、文部省、毎日新聞社主催明治・大正・昭和美術秀作展に「高原」が選ばれます。11月、第3回日展に「夕映」を出品する。

 

1961年
11月、第4回日展に「樹」を出品します。

 

1962年
1月、現代画壇の20人展に「深雪」を出品します。4月、現代美術京都秀作展に「夕映」が選ばれます。5月、第5回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「ヨウシュヤマゴボウ」を出品します。5月、第14回京展に「冬樹」を出品します。11月、第5回日展に「残照」を出品します。

 

1963年
9月、国立近代美術館の「近代日本美術における1914年」展に「島二作」が出品されます。11月、京都市美術館の国画創作協会回顧展に「波切村」「海島」「冬日帖」が出品されます。

 

1964年
1月、郷土出身芸術院4人展が岡山県総合文化センターで開催され、「雨の海」「深雪」「山月」「黎明」「彩秋」「夕映」「樹」「雲」「ヨウシュヤマゴボウ」「比叡」が出品される。1月、第15回記念秀作美術展に「残照」が選ばれる。4月、現代美術京都秀作展に「残照」が出品されます。7月、昭和31年より38年まで続けられた朝日新聞主催の「スケッチ展シリーズ」完結記念の「50人画家展」が東京・銀座松屋で開かれ、「茜」を出品します。7月、国立近代美術館の「京都の日本画-円山応挙から現代まで-」展に「波切村」が出品される。11月、第7回日展に「洩れ日」を出品します。

 

1965年
11月、第8回日展に「夕雲」を出品します。京都の日本画展に「洩れ日」を出品します。

 

1966年
1月、現代美術京都秀作展に「洩れ日」が出品されます。2月、毎日新聞に随想「絵画十話」を20回にわたり、連載する。6月、東京・高島屋にて「喜寿記念小野竹喬展」(毎日新聞社主催)が開催され、自選38点(大正2~昭和41年)が展示される。9月、三彩社より『小野竹喬作品集』が刊行されます。11月、第9回日展に「宿雪」を出品する。11月、岡山県笠岡市の名誉市民章を受けます。

 

1967年
6月、京都国立近代美術館の「近代日本画の名作」展に「冬日帖」「残照」が出品されます。11月、第10回日展に「池」を出品します。

 

1968年
5月、第8回現代日本美術展に「夕茜」を出品します。11月、文化功労者の表彰を受けます。

 

1969年
5月、京都市美術館において京都市主催「小野竹喬回顧展」が開催され、自選53点(大正2~昭和44年)、スケッチ50点(うち、滞欧作5点)が展示されます。11月、勲二等に叙せられます。

 

1970年
4月、大阪・大丸の「日本巨匠20人展」(毎日新聞社主催)に「池」「宿雪」「夕茜」が出品されます。11月、第2回日展に「沼」を出品し、京都市に買い上げられます。

 

1971年
9月、「天皇の世紀」原画展が東京・銀座吉井画廊新館で開催され、80点を出品する(朝日新聞連載、大佛次郎原作「天皇の世紀」の原画)。11月、兼素洞主催小野竹喬画展が開催され、8点を出品します。日本橋三越主催の彩交会展は6名の会員中2名死去したため、24会は新作展ではなく会員自選による回顧展となり、第17回出品の「湖山早春」と第22回出品の「晨」を出品する。この年、中央公論美術出版より『竹喬挿画』を刊行します。

 

1972年
4月、第24回京展に「交叉」(のち「樹」と改題)を出品します。11月、第4回日展に「1一本の木」を出品します。

 

1973年
9月、東京国立近代美術館の「開館20年記年現代の眼-近代日本の美術から」展に「雨の海」「山月」が出品されます。10月、京都市名誉市民の称号を受けます。10月、岡山・高島屋で「小野竹喬展」(山陽新聞社主催)が開催される。10月、笠岡市市民会館の緞帳の原画「朝の海」完成。11月、東京・銀座松屋にて「竹喬素描展」が開催されます。11月、京都市美術館の「開館40年記念昭和期における京都の日本画と洋画」展に「冬日帖」「夕映」「沼」が出品されます。

 

1974年
4月、日本の四季・山本丘人との2人展(“日本の四季シリーズ”第1回)が北辰画廊にて開催されます。5月、26回京展に「阿蘇火口」(スケッチ)を出品します。11月、第6回日展に「樹間の茜」を出品します。昭和19年、戦時特別展に出品し、京都市に買い上げられた「太平洋」を改作し、「海」として京都市美術館に納めます。

 

1975年
2~3月、東京、大阪の三越で「画業60年記念小野竹喬展」(読売新聞社主催)が開催され、大正初期より昭和49年にいたる53点の主要作品と34点のスケッチを出品します。3月、京都・朝日画廊の開廊記念展として「小野竹喬墨彩画・スケッチ展」が開催されます。4月、東京・銀座資生堂ギャラリーで「小野竹喬の画室展」(「作家のアトリエ」シリーズ)が開催されます。5月、「奥の細道句抄絵」制作のため、山形県にスケッチ旅行し、最上川上流の隼、碁点にまで足をのばします。9月、2度目の「奥の細道」取材のため、単身、山形県及び秋田、新潟へ旅行します。

 

1976年
4月、山種美術館開催の「第2回現代日本画の10人展」に「春の湖面」「川の辺り」「京の灯」「樹間の茜」を出品します。山種美術館10周年記念展に「冬樹」を制作します。6月~7月にかけて、朝日新聞社主催「奥の細道句抄絵展」を東京・大阪・京都・岡山の高島屋で開催する。11月、文化勲章を受章します。12月、心筋梗塞のため京大病院に入院します。

 

1977年
3月末、退院。6月、奥の細道ゆかりの酒田市本間美術館で「奥の細道句抄絵展」が開催されます。10月、米寿記念『小野竹喬画集』が朝日新聞社より刊行される。第9回日展に「沖の灯」を出品すします。

 

1978年
3月、京都・朝日画廊で「小野竹喬墨彩展」を開きます。4月、山種美術館開催の「第3回現代日本画10人展」に「奥の細道句抄絵」より「田1枚」「笠嶋は」「涼しさや」「象潟や」「あかあかと」「暑き日を」が出品される。9月、白浜に転地療養する。10月、京大病院に入院、11月に退院します。

 

1979年
1月、冨田病院に入院する。4月、求龍堂より随筆集『冬日帖』が刊行されます。5月10日胃癌のため、冨田病院で死去。12日、自宅で密葬が行われ、5月22日北区の上品蓮台寺で告別式が行われ、同寺に葬る。法名・実相院殿覚法竹喬大居士。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

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北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月12日

池田遥邨の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の池田遥邨の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

池田遥邨の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、池田遥邨の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

池田遥邨の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の池田遥邨のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた池田遥邨の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の池田遥邨の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

池田遥邨 本人

池田遥邨 本人

 

池田遙邨は、1895年の明治28年岡山県に生まれました。幼少期から絵を描くのが好きな少年で、15歳の時に大阪に出て洋画を学びます。19歳となった1914年、大正3年には水彩画『みなとの曇り日』で第8回文展に初入選します。

 

しかし、その後は、同郷の小野竹喬との出会いなどから次第に日本画に接近します。1919年、大正8年には京都の竹内栖鳳の画塾、竹杖会で本格的な日本画の修行に入ります。そして、この年の第1回帝展に「南郷の八月』が入選し、日本画壇にデビューしている。

 

さらに1928年、昭和3年の第9回帝展で「雪の大阪」が、1930年、昭和5年の第11回帝展では『烏城』が特選となり、大和絵を新解釈したその清新な作風は高く評価されました。

 

 

池田遙邨 朧夜

池田遙邨 朧夜

 

一時の成功に安住せず、時代とともに作風を変化させながら新たな展開を見せていく池田遙邨の芸術は、晩年には漂泊の俳人、種田山頭火に心を寄せ、その句境の絵画表現に挑見ました。「山頭火シリーズ」に情熱を傾けました。

 

1976年、昭和51年に日本芸術院会員に選晴れます。それから1984年、昭和59年に文化功労者として表彰されました。

 

1986年、昭和61年には倉敷市名誉市民となるなど日本面壇の内外で愛される存在であったが、1988年、昭和63年9月26日、93歳の誕生日を目前に急性心不全のため他界しました。

 

 

池田遥邨 うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火

池田遥邨 うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火

 

晩年には漂泊の俳人種田山頭火に心を寄せ、その句境を絵画表現に挑見ました。いわゆる山頭火シリーズに制作の情熱を傾け、その画境に新たな展開を見せたのは、近代日本画の可能性を探る上でも特筆すべきことでした。

 

 

 

 

池田遙邨の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.池田遙邨の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.池田遙邨の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.池田遙邨の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.池田遙邨の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

 

池田遥邨 略歴

明治28年
11月1日、鐘ケ淵紡績工務係技手をつとめる池田文四郎と鹿代の長男として岡山県に生まれる。本名、曻一。生まれて間もなく、父の転勤で大阪府北河内郡に一家は移住します。

明治31年
父の転勤に伴い大阪市の天満橋筋あたりに移住します。

 

明治33年
父の転勤に伴い、福岡県大牟田に移住します。

 

明治35年
4月、大牟田尋常小学校に入学します。

 

明治36年
父の転勤に伴い、一家で上海に渡り、本願寺経営の開導小学校2年生に転校します。

 

明治37年
父が鐘ケ淵紡績から福島紡績大阪本社に転じたため日本に帰り、父の姉がいた大阪・堺市に移住、南旅篭尋常小学校3年生に転校します。

 

明治39年
4月、堺市宿院尋常高等小学校に入学します。

 

明治42年
父が福島紡績福山工場長として転勤したため、一家で広島県福山町に移り、福山尋常高等小学校4年生に転校します。

 

明治43年
3月、福山尋常高等小学校を卒業します。4月、広島の中学校を受験の日、スケッチに出かけて試験を放棄します。初夏、忠田嘉一の紹介で、単身大阪に出て松屋町にあった松原三五郎の天彩画塾に入り、洋画の勉強を始めます。

 

大正2年
福山で、水彩画約30点による初めての個展を開催します。小野竹喬と出会います。

 

大正3年 10月、第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が初入選します。

 

大正5年 10月、兵役中、第10回文展に水彩画「衛戌病院」を出品したが落選します。

 

大正7年 10月、日本画に興味を持って独学で制作した、六曲一双屏風「草取り」を第12回文展に出品したが落選します。

 

大正8年 4月、小野竹喬をたよって京都に出て竹内栖鳳の画塾<竹杖会>に入り、知恩院崇泰院に仮寓する。遥村と号します。10月、第1回帝展に日本画「南郷の八月」を出品し入選します。

 

大正9年
10月、第2回帝展に「湖畔残春」が入選します。

 

大正10年
1月、小野竹喬の仲人で真塚品子と結婚します。4月、京都市立絵画専門学校別科に入学し、あわせて京都市立外国語学校仏文科(夜間)にも通います。この頃から、ムンクやゴヤの影響を受けます。10月、第3回帝展に「枯れつつ夏は逝く」を出品したが落選します。この年、第1回芸術院展に「颱風来」が入選します。京都で初めての個展(京都府図書館)を開催します。

 

大正11年
3月、朝鮮・慶州、満州・ハルビンに旅行する。10月、第4回帝展に「風景」が入選。この年、京都市立外国語学校を中退します。

 

大正12年
9月、鹿子木孟郎とともに関東大震災後の東京をスケッチしてまわり、約400枚を描く。この年、四国を旅行します。

 

大正13年
3月、京都市立絵画専門学校を卒業し、さらに研究科へ進見ます。10月、第5回帝展に大震災跡に取材した「災禍の跡」を出品したが落選します。

 

大正14年
10月、第6回帝展に「貧しき漁夫」を出品したが落選します。

大正15年
昭和元年 3月、京都在住の岡山県出身の画家、小野竹喬、鹿子木孟郎らと<烏城会>を結成、発会式を挙げる。京都市立絵画専門学校研究科を修了します。5月、第1回聖徳太子奉讃美術展に「林丘寺」が入選。この頃から画号を<遥村>から<遥邨>に改める。10月、第7回帝展に「南禅寺」が入選します。

 

昭和2年
10月、第8回帝展に「華厳」が入選します。

 

昭和3年
4月、東海道写生旅行を決行します。10月、第9回帝展に「雪の大阪」が入選、特選となります。

 

昭和4年
6月、パリ(6/1~7/25)及びブリュッセルで開催の日本美術展に「雪の日」を出品。10月、第10回帝展に「京の春宵」を無鑑査出品します。

 

昭和5年
3月、2回目の東海道写生旅行をする。第2回聖徳太子奉讃美術展に「錦小路」を出品します。7月、翌年1月からベルリンで開催予定の日本美術展国内展に「鴨川春宵」を出品します。10月、第11回帝展に「烏城」が入選し、特選となります。

 

昭和6年
3月、帝展推薦となります。8月、10月から11月にかけてアメリカ・オハイオ州トレドで開催予定の日本画展国内展に「閑居」を出品。10月、第12回帝展に「祇園御社」を出品。この年、「東海道五十三次図絵」を完成します。

 

昭和7年
10月、第13回帝展に「大漁」を出品します。

 

昭和8年
5月、竹杖会ただ一度の塾展となった竹杖会大研究会が開催され、「鴨川」を出品します。10月、第14回帝展に「巨椋沼」を出品します。

 

昭和9年
10月、第15回帝展「浜名湖今切」を出品。この年、「日本六十余州名所」の大半が完成。竹杖会の解散に伴い、葱青社を結成します。

 

昭和10年
10月、帝国美術院の松田改組により、無鑑査に指定されます。

 

昭和11年
5月、京都市立絵画専門学校助教授となる。11月、文展招待展に「日光山」を出品。<水明会>を結成、日本画壇の革新を目指します。

 

昭和12年
10月、徳岡神泉らと六人会を組織。第1回文展に「江州日吉神社」を出展します。

 

昭和13年
3回目の東海道写生旅行する。7月、京都で<池田遥邨・上村松篁新作祇園会展>が開催されます。10月、第2回文展に「日吉三橋」を出品。『東海道五十三次図絵』を芸艸堂から出版します。

 

昭和14年
4月、ニューヨーク万国博覧会に「拾翠池」を出品。7月、朝鮮において<池田遥邨東海道五十三次展>を開催。10月、中国に渡り、杭州、揚州、蘇州などをスケッチ旅行します。

 

昭和15年
11月、紀元二千六百年奉祝展に「肇国之宮居」を出品し、宮内省買い上げとなる。秋、目黒雅叙園襖絵揮毫のため竹杖会会員とともに東上、1カ月にわたって制作、遥邨は「東海総行脚」を描きます。

 

昭和16年
1月、伊勢神宮から熊野三山を巡拝する。12月、葱青社解散します。

 

昭和17年
1月、九州の諸神社を巡拝し、出雲大社に参詣します。10月、第5回文展に審査員として「三尾四季之図」を出品、政府買い上げとなります。

 

昭和18年
9月、神社を描いた作品を集めた『池田遥邨作品集』を刊行。10月、第6回文展に「吉野拾遺」を出品します。

 

昭和19年
11月、戦時特別文展に「伊勢神宮」を出品します。

 

昭和20年
11月、第1回京展に「金閣・銀閣」を無鑑査出品します。

 

昭和22年
10月、第3回日展に審査員として「雪の神戸港」を出品します。

 

昭和23年
10月、第4回日展に「白鷺城を想う」を出品します。

 

昭和24年
7月、京都市立美術専門学校助教授を退職する。10月、第5回日展に「鳴門」を出品します。

 

昭和25年
第6回日展に「金閣追想」を出品します。

 

昭和26年
10月、第7回日展に審査員として「戦後の大阪」を出品します。

 

昭和27年
10月、日展参事となり、第8回日展に「幻想の明神礁」を出します。

 

昭和28年
3月、画塾<青塔社>を結成、主宰する。10月、日展評議員となり、第9回日展に「灯台」を出品。この年、岡山大学教育学部講師となります。

 

昭和29年
10月、第10回日展に審査員として「瀧」を出品します。

 

昭和30年
10月、第11回日展に「銀砂灘」を出品。文部省買い上げとなります。

 

昭和31年
10月、第12回日展に「溪」を出品します。

 

昭和32年
11月、第13回日展に審査員として「石」を出品します。

 

昭和33年
6月、岡山後楽園延養亭の能舞台鏡板に「松竹」を描く。11月、社団法人となった第1回新日展に審査員として「灯台」を出品します。

 

昭和34年
11月、第2回新日展に「波」を出品します。

 

昭和35年
3月、前年の日展出品作「波」で昭和34年度日本芸術院賞を受賞。11月、第3回新日展に審査員として「沼」を出品します。

 

昭和36年
11月、第4回新日展に「大王崎」を出品します。

 

昭和37年
11月、第5回新日展に「古刹庭上」を出品します。

 

昭和38年
11月、第6回新日展に審査員として「雪庭」を出品。この年、紺綬褒章を受章します。

 

昭和39年
11月、第7回新日展に「雪の神戸」を出品します。

 

昭和40年
11月、第8回新日展に「飛石」を出品します。

 

昭和41年
5月、岡山で小林和作と二人展(金剛荘)を開催し、日本画のほか模写を出品する。11月、第9回新日展に「叢」を出品します。

 

昭和42年
11月、第10回新日展に「明星」を出品。この年、大阪市立美術館運営委員となります。

 

昭和43年
11月、第11回新日展に「海底」を出品します。

 

昭和44年
11月、日展が改組され、第1回展に審査員として「堤」を出品します。

 

昭和45年
11月、第2回改組日展に「寥」を出品します。

 

昭和46年
10月、京都市主催<京都日本画の精華展>に10点が出品される。11月、第3回改組日展に「閑」を出品します。

 

昭和47年
3月、この年制定された京都府美術工芸功労者の表彰を受けます。10月、『池田遥邨画集』をマリア書房から刊行する。11月、第4回改組日展に「囁」を出品。この年、岡山大学構師を退職します。

 

昭和48年
6月、紺綬褒章を受章。11月、第5回改組日展に「谿」を出品。京都市文化功労者に選ばれます。

 

昭和49年
7月、『池田遥邨集』(現代作家デッサンシリーズ<1>)が中外書房から出版。11月、日展参与となり、第6回改組日展に「礎石幻想」を出品します。

 

昭和50年
11月、第7回改組日展に「群」を出品します。

 

昭和51年
10月、第8回改組日展に「影」を出品。12月、日本芸術院会員に選ばれます。

 

昭和52年
10月、日展顧問となり、第9回改組日展に「海鳴り」を出品。11月、勲三等瑞宝章を受章します。

 

昭和53年
7月、紺綬褒章を受章。11月、第10回改組日展に「川」を出品します。

 

昭和54年
10月、第11回改組日展に「堰」を出品します。

 

昭和55年
9月、岡山県の文化発展に尽くした功績により、第13回岡山県三木記念賞を受賞。10月、郷里倉敷市に作品、スケッチ489点を寄贈します。これを記念して、岡山で<倉敷市へ寄贈記念-池田遥邨作品展>開催します。11月、第12回改組日展に「錦帯橋」を出品します。

 

昭和56年
10月、第13回改組日展に「稲掛け」を出品します。

 

昭和57年
3月から5月、京都、岡山、大阪、東京で<池田遥邨回顧展>開催します。10月、第14回改組日展に「朧夜」を出品します。11月、『池田遥邨の履歴書、聞き書き・エッセイ』出版(京都書院)。

昭和58年
3月、新しく制定された京都府文化賞特別功労賞を受賞します。10月、第15回改組日展に「芒原」を出品。紺綬褒章を受章。11月、倉敷市立展示美術館が開館し、遥邨常設展示室で寄贈作品による池田遥邨展開催します。

 

昭和59年
4月から5月、東京、大阪、京都、岡山(高島屋)において新作個展<池田遥邨展>開催します。『池田遥邨画集』が京都書院から出版されます。11月、文化功労者の表彰を受けます。第16回改組日展に「うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火」を出品します。

 

昭和60年
11月、第17回改組日展に「鉄鉢の中へも霰山頭火」を出品します。

 

昭和61年
1月、<池田遥邨展>(愛媛県立美術館)開催。5月、東京で<池田遥邨展>(渋谷東急)開催。11月、京都、神戸、岡山で<池田遥邨展>が開催 第18回改組日展に「雪へ雪ふるしづけさにをる 山頭火」を出品します。12月、倉敷市名誉市民となります。不整脈を訴え入院、翌年4月まで病床によこたわる。

 

昭和62年
11月、第19回改組日展に「あすもあたたかう歩かせる星が出ている 山頭火」を出品します。姫路で<池田遥邨展-城と月のある風景->(姫路市立美術館)開催。文化勲章を受章します。受章後体調を崩し、心臓疾患のため上京区の京都府立医科大学附属病院に再度入院、翌年5月中旬まで病床に臥す。

 

昭和63年
 4月、高島屋美術部創設80年記念<放浪と行乞の旅に魅せられて-池田遥邨展>が京都、東京、岡山で開催されます。8月、風邪のため制作を中断する。倉敷市に作品、スケッチ211点を寄贈します。9月24日みたび入院するが、9月26日午前0時55分、急性心不全のため、京都市上京区の相馬病院で死去する。(『池田遥邨遺作展』1989年京都国立近代美術館図録より抜粋)

 

 

 

池田遙邨 薩埵峠の富士

池田遙邨 薩埵峠の富士

 

遙邨は、このような富士の絵を沢山残しています。当時、注文が殺到したのか、やはり日本画は、富士、梅、桜、菖蒲、滝、紅葉、桔梗、雪は多いですね。しかし、池田遙邨の画集を拝見していると、モダンな図やマンガチックな可愛らしい図柄などがあり、当時としては感覚の良い画を残してましから、今後もっと評価されてほしいですね。

 

 

 

 

池田遙邨の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.池田遙邨の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

池田遙邨 査定価格におけるポイント

 

池田遙邨の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

池田遙邨先生の作品は、富士や嵐山の作品に高値の査定価格がつきます。

 

10万円から30万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

池田遙邨の作品は、山頭火シリーズや替わり図柄の作品が評価されます。

 

祇園の夜桜の風景が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

池田遙邨展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

池田遙邨先生の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ池田遙邨の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月9日

秋野不矩の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の秋野不矩の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

秋野不矩の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、秋野不矩の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

秋野不矩の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の秋野不矩のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた秋野不矩の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の秋野不矩の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

秋野不矩 紅裳 1938年

秋野不矩 紅裳 1938年

 

秋野不矩は、静岡県天竜市に生まれます。本名ふく。大正15年静岡県女子師範学校を卒業して、天竜市横山高等小学校の教師となります。翌年、教師を辞めて、千葉県大網町の石井林響、次いで京都の西山翠嶂のもとで日本画を学びました。

 

昭和13年、第2回新文展に《紅裳》を出品、特選を受賞します。昭和23年、上村松篁、広田多津らと創造美術を結成します。翌年京都市立美術専門学校の助教授に就任します。昭和26年2月、第1回上村松園賞受賞。8月、創造美術が新制作派協会と合流し、新制作協会日本画部会員となります。

 

 

秋野不矩 村落 カジュラボ 1994年

秋野不矩 村落 カジュラボ 1994年

 

インドのビスババラティー大学に客員教授として招かれたのを契機に、昭和37年より、10回にわたり渡印し、インドの風土や風俗に取材した作品を多数制作します。昭和61年、毎日芸術賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、日本芸術大賞受賞。平成11年には、故郷天竜市に市立秋野不矩美術館が開館します。

 

平成12年、女性画家として4人目となる文化勲章を受章します。翌年には新たな題材を求めてアフリカを初訪問するなど、一貫して絵画制作に情熱的に取り組んだ。 平成13年、心不全のため自宅アトリエで逝去。享年93才。最後まで絵筆を持ち続け、画家としての生涯をまっとうしました。

 

 

秋野不矩 猫

秋野不矩 猫

 
秋野不矩は1960年代、親交の深かった加山又造からシャム猫2匹(名前はピートとヤン)をプレゼントさされている。秋野不矩の猫好きは有名で、多い時は3匹ほど飼っていました。
 
 
猫を描いた日本画作品は1960年から2000年までに数点も制作しています。アトリエでの猫たちは自由気ままに振る舞ていた。描いている時、画面の上を猫が歩く事があったが、秋野不矩は叱らなかったといいます。猫の足跡が残っている素描や下図も多く残されています。
 
本作は背景に金箔を大胆に使って描き、瞳の下にも箔を使って美し青を際立たせています。

 

 

 

秋野不矩の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.秋野不矩の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.秋野不矩の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.秋野不矩の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.秋野不矩の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

秋野不矩 舞妓 1984年

秋野不矩 舞妓 1984年

 

色とりどりの華やかな衣装とともに描き出される舞妓は、日本画における主な画題のひとつとしての人々に親しまれてきました。

 

特に、京都では、古くから優美な染織産業が発達し、花街の文化が息づいている事など他にはない独自の美意識が育まれてきたといえます。京都で活躍した秋野不矩は、少なからずそのような空気にふれ、豊かな感性を発揮して、多くの魅力的な女性像を描きました。

 

秋野不矩によって描かれた愛らしく麗しい、優美な京の舞技、その端正な姿態や表情による女性美はもちろん、花鳥や流水、縞や絣などの伝統的な文様をモダンな色彩で彩られた衣装デザインもこの作品の見どころです。

 

 

 

秋野不矩 略歴

 

1908年
明治41年7月25日、静岡県磐田郡二俣町(現天竜市二俣町)の神主の家に生まれます。本名ふく。静岡県女子師範学校卒業後小学校の教師していた。

 

1927年
昭和2年19歳で画家を志し、父親の知人の紹介により帝展の日本画家で、千葉県大網町に住む石井林響に入門、住み込みの弟子となる。

 

1929年
石井林響が脳溢血症で倒れると京都に移り、西山翠嶂の画塾青甲社に入る。

 

1930年
第11回帝展に「野を帰る」が初入選、その翌年は落選します。

 

1932年
から1934年まで連続入選を果たします。

 

1932年
塾の先輩である沢宏靭と結婚します、その後もうけた六人の子供を育てる傍ら身辺のモティーフを題材に制作を続け、そこで育まれたヒューマニズムは生涯貫かれることになります。

 

1936年
新文展鑑査展で天竜川岸の白砂に寝そべる女と子供を描いた「砂上」が選奨。

 

1938年
第2回新文展では紅の着物をまとう五人の女性を円形に構成した「紅裳」が特選を受賞し、無鑑査となるなど官展で着実に地歩を築いていく。

 

1940年
大毎東日奉祝(大阪毎日・東京日日新聞主催)日本画展覧会で夫をモデルにした「陽」が特選一席となります。

 

1943年
京都市展では「兄弟」が京都市展賞を受賞。

 

1948年
戦後、日展を離脱します、日本画の革新を目指して創造美術の結成に参加します。

 

1951年
同第3回展に自分の子供をモデルとした「少年群像」を出品、同作により第1回上村松園賞を受賞します。

 

1951年
創造美術は新制作派協会と合併、新制作協会日本画部となり、同会会員として同展に出品します。

 

1949年
京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)助教授となります。

 

1962年
ビスババーラティ大学(現タゴール国際大学)の客員教授として一年間インドに滞在。これを契機にそれまでの人物画からインドの自然風物、宗教に主題を求めた浄福感あふれる作品へと移行する。その後も度々インドに渡り、中近東へも足を伸ばした。

 

1974年
京都市立芸術大学を退官し、同大学名誉教授となります。また同年新制作協会より独立結成された創画会の会員となります。この時期二度にわたり火災によりアトリエを失います。

 

1980年
京都市内から同府北部の山間にある美山町に画室を移し、制作を続けます。

 

1978年
京都市文化功労者。

 

1981年
京都府美術工芸功労者。

 

1983年
天竜市名誉市民。

 

1985年
「秋野不矩自選展」(京都ほか)を開催します。

 

1986年
には毎日芸術賞を受賞します。

 

1988年
第1回京都美術文化賞を受賞します。

 

1991年
(平成3)年に文化功労者となります。

 

1992年
には画文集『バウルの歌』(筑摩書房)を出版。

 

1993年
第25回日本芸術大賞受賞。

 

1998年
生地である天竜市二俣町に天竜市立秋野不矩美術館が開館します。

 

1999年
文化勲章を受章。

 

2000年
アフリカ行きが最後の海外旅行、翌年の第28回創画会出品作「アフリカの民家」が最後の出品となったが、個展準備のためインドへの取材旅行を計画していた矢先の逝去であり、最晩年に至るまでその創作意欲は衰えることがなかった。

 

2001年
インドの大地と人物を描き続けた日本画家で文化勲章受章者の秋野不矩は10月11日午前11時27分、心不全のため京都府美山町の自宅で死去。享年93。

 

2003年
没後、兵庫県立美術館ほかで大規模な回顧展「秋野不矩展―創造の軌跡」が開催されます。

 

 

 

秋野不矩 朴の花 8号

秋野不矩 朴の花 8号

 

 

秋野不矩は、その「不矩」という雅号を体現するように、型に収まることを良しとせず、大らかな心で自由奔放に創作活動を続けました。そして、溢れる生命力をモチーフに宿しての日本画を描き上げてました。

 

人間や風景、そして草花などの自然から発せられる本質的な「力」と「美」とが、今も秋野不矩の画の世界で輝き続けています。

 

 

 

秋野不矩の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.秋野不矩の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

秋野不矩 査定価格におけるポイント

 

秋野不矩の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

秋野不矩先生の作品は、花や猫の作品に高値の査定価格がつきます。

 

20万円から150万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

秋野不矩の作品は、瓶花の作品や舞妓の作品が評価されます。

 

インドの風景が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

秋野不矩展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

秋野不矩先生の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ秋野不矩の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

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営業10:00-18:00

2025年2月8日

荻須高徳の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の荻須高徳の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

荻須高徳の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、荻須高徳の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

荻須高徳の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の荻須高徳のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた荻須高徳の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の荻須高徳の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

荻須高徳 アンジュ河岸・パリ 1936年

荻須高徳 アンジュ河岸・パリ 1936年

 

フランスのパリを訪れたことのある人なら誰でも、この風景を思い出すことがあるでしょう。サンルイ島のアンジュ河岸です。荻須高徳がパリを訪 れたのは、当時 26歳の年、1927年の昭和2年の秋です。彼はまず、すでにパリで制作を続けていた佐伯祐三を訪れ、ルーブル美術館などを見 学しています。

 

荻須高徳が佐伯祐三の死を知るのは、彼がブルターニュを旅行していた時でした。荻須高徳は遺骨を抱きながら帰国の途につく夫人をマルセイユ港に見送っています。 荻須高徳の風景画は、佐伯祐三の愛したパリの街路をモチーフにしながらも、荻須高徳の独特の端正な筆致 で描かれ、画面は明るく風通しのよい作品に仕上げられています。

 

荻須高徳は、藤田嗣治に次ぐ国際的画家です。戦前、戦後を通じ、フランスを中心とするヨーロッパで支持され、人生のほとんどをパリで過ごしました。戦後はじめて日本人画家としてフランス滞在を許されました。モナコ大賞受賞。フランス国立造幣局は荻須高徳画伯の肖像を浮き彫りにしたメダイユを発行しました。フランス、レジオン・ドヌール勲章受章。文化勲章受章しています。

 

荻須高徳 ガルロン通り

荻須高徳 ガルロン通り

 

 「荻須さんというと、私はいつも穏やかな中にもキッとして姿勢正しい作者のすがたを思い浮かべる。荻須さんが愛知県稲沢市井堀高見町の出身であることは知られているが、幼児病身だったのが旧制中学時代には8粁の道を自転車で通い、5年間を無欠席で通すほど健康になったという。しかも在学中に剣道も強くなり、対抗試合にも出たそうで、この方は美術学校に進んでからも続けていた。同期の山口長男氏の思い出によると、美校時代には几帳面な絵をかいて、いかにも学生らしい学生だったといわれている。「田舎の模範青年団員」という愛称さえもあったというから、若き日の作者のほほえましい風格が忍ばれよう。」(河北倫明)

 

 

荻須高徳 本人

荻須高徳 本人

「芸術は生活と離れちゃいけない」という言葉を残しています。

 

住んでいるところ

自分の生きているところ

住んでいる周りで受ける

いろんなヒントが非常に大事

 

 

荻須高徳の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.荻須高徳の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.荻須高徳の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱が無いのですが買取りしてもらえますか?
A.箱が無くても買取りは可能ですが、額が痛みますので丁寧に扱ってください。

 

Q.荻須高徳の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.荻須高徳の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.洋画家の作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

荻須高徳 略歴

 

戦前、戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人です。

 

明治34年
1901年11月30日愛知県中島郡に生まれた。愛知県第三中学校を卒業します。

 

大正9年画家を志して上京、川端画学校で藤島武二の指導を受けます。

 

大正10年
東京美術学校西洋画科に入学します。同期に小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らがいました。

 

大正15年
東京美術学校卒業します。フランスから帰国中の佐伯祐三を山口長男と訪ね、佐伯祐三に鼓舞されてフランス留学を決意し、同年山口長男とともに渡仏します。パリでは佐伯祐三の側で制作を進め、当初は画風の上で佐伯祐三の強い影響を受けて出発しました。

 

昭和2年
佐伯祐三没後は、ユトリロの作品に強くひかれていきます。

 

昭和3年
サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品を続けます。

 

昭和11年
サロン・ドートンヌ会員となります。

 

昭和6年
パリのカティア・グラノワ画廊で個展を開催したのをはじめ、以後ジュネーヴ、ミラノなどでも個展を開きました。

 

昭和11年
「プラス・サンタンドレ」がフランス政府買上げとなります。

 

昭和12年
サロン・ドートンヌ出品作「街角」がパリ市買上げとなります。

 

昭和14年
第2次世界大戦勃発にともない翌年帰国し、新制作派協会会員に迎えられ、同年の第5回同協会展に滞欧作が特別陳列されます。

 

昭和17年
陸軍省嘱託として仏領インドシナなどに派遣されます。

 

昭和23年
日本人画家としては戦後はじめてフランスへ渡り、以後パリを中心に制作活動を展開、

 

昭和26年
サロン・ド・メに招待出品したのをはじめ、サロン・ド・テュイルリやヨーロッパ各地での個展で制作発表を行う。パリの街角を独自の明快で骨太な筆触で描き続けた作品は、広くパリ市民にも愛されます。

 

昭和31年
フランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章を受章します。

 

昭和49年
パリ市からメダイユ・ド・ヴェルメイユを受けます。

 

昭和54年
パリ市主催でパリ在住50年記念回顧展が開催される。また、松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力するなど、日仏文化交流にも尽しました。

 

昭和29年
第5回毎日美術賞特別賞を受賞。

 

昭和30年
神奈川県立近代美術館、翌年ブリヂストン美術館でそれぞれ回顧展が開催されます。

 

昭和37年
国際形象派結成に同人として参加しました。

 

昭和40年
17年ぶりに一時帰国します。

 

昭和55年
東京新聞紙上に連載したパリ生活の回想をもとに『私のパリ、パリの私』を刊行、中日文化賞を受賞。

 

昭和56年
文化功労者に選任されます。

 

昭和58年
郷里の稲沢市に稲沢市荻須記念美術館が開館します。

 

1986年
パリ在住の洋画家荻須高徳は、10月14日午前2時(日本時間同10時)パリ市18区の自宅近くのアトリアで制作中死去した。享年84。

 

戦後の作品に「サン・マルタンの裏町、パリ」(昭和25年)、「路に面した家・パリ」(昭和30年)などがある。葬儀は10月17日モンマルトル墓地で執行され、画家のジャン・カルズー、アイスビリー、カシニョル、ワイスバッシュ、シャプランミディをはじめ、本野盛幸駐仏大使ら在パリ日本人会など三百人余が参列した。また、没後日本政府から文化勲章が追贈された。

 

 

 

荻須高徳 オレンジ色の日除よけ 1984年 リトグラフ

荻須高徳 オレンジ色の日除よけ 1984年 リトグラフ

 

荻須高徳の作品は、上記のような、版画も多数残っております。当時人気がすごくあり、お客様のご自宅に飾ってある事が結構あり時々見受けます。

 

 

 

荻須高徳の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.荻須高徳の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

荻須高徳 査定価格におけるポイント

 

荻須高徳の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

荻須高徳先生の作品は、パリの街並みの作品に高値の査定価格がつきます。

 

200万円から800万円ぐらいの買取相場です。版画は3万から8万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

荻須高徳の作品は、キャンバスの作品が評価されます。

 

パリやイタリアの風景が描かれていると評価されます。

 

リトグラフ、版画の作品もあります。水彩画の残されています。

 

荻須高徳展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

荻須高徳先生の作品は、初期の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ荻須高徳の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

**************************************

 

弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

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営業10:00-18:00

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