2024年11月30日
高橋敬典の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の高橋敬典の作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
高橋敬典の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、高橋敬典の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
高橋敬典作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の高橋敬典のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた高橋敬典の作品を鑑定して買取りいたします。
工芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の高橋敬典の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
高橋敬典は山形県山形市に生まれ、本名は高治。18歳で父の高橋庄三郎の営んでいた鋳造業「山正鋳造所」の家業を継ぎました。最初は様々な鋳物を制作していましたが、漆芸家の結城哲雄の招きによって鋳造の制作指導に山形に来た初代長野垤至に師事します。この頃から和銑(わずく)を用いた茶の湯釜制作を行なうようになりました。 師であった長野垤至が芦屋釜、天明釜などの茶の湯釜を歴史的に研究したため、高橋敬典もこうした古作の表現法を研究するとともに、材料も日本古来の砂鉄を精錬した和銑にこだわり、また地元の馬見ケ崎川で採集した川砂や土を用いて鋳型作りを行いました。
高橋敬典 本人
「鉄というものは柔らかいものなんだ。硬い鉄で柔らかいものを作りたい」と語っている。
高橋敬典は芦屋釜や天明釜などの古来の表現方法に沿った画一的な作品はほとんど作らず、独自に編み出した様々な技術や表現方法を作品に投影していきました。肌面はきめ細やかな綺麗なものが多く砂肌や絹肌などと表現され、地文は肌の美しさを強調するため施さないものが多いが、波や松、竹などを全面ではなく控えめに配した作品、あるいは細い筋を入れた作品を残しています。 高橋敬典は現代感覚溢れるすっきりとした造形美にこだわり、きめ細やかで美しい釜肌を、生涯を通して追求し続けました。
高橋敬典 平丸釜 菊
現代感覚溢れるすっきりとした造形美にこだわり、きめ細やかで美しい釜肌を、生涯を通して追求し続けました。 鉄と云う素朴な素材、自然の造り出した土と砂、形状と鋳肌の変化が醸し出す手仕事の温もりは限り無い魅力に満ちております。
釜に魅せられ、此の極の無い仕事の世界に入って五十余年、自分なりに精進を重ねて参りました。図らずも平成八年重要無形文化財保持者の認定を受け、此の伝統工芸の世界に身を置く私にとって生涯を掛ける仕事になりました。
釜を制作する高橋敬典
茶の湯釜ができるまで 遠い昔の人の手作りの品々にはそれぞれに生活の知恵と真心が満ちて居ります。それでこそ使い込んだ美しさが生きてくるのでしょう。伝来の家業としてこの仕事に携わり毎日工芸品の製作を続け得ることは心からの喜びであり、もしその製品が人々に喜びを与えることが出来れば、比の上なく有意義で楽しい人生だと思います。 高橋 敬典
高橋敬典の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.高橋敬典の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.高橋敬典の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.高橋敬典の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.高橋敬典の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.釜作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
高橋敬典 略歴
1920(大正9)年9月22日、山形市銅町に父高橋庄三郎、母ちよの一人息子として生まれる。本名高治。
1938(昭和13)年、父の営んでいた鋳造業「山正鋳造所」の家業を継ぐ。始めは様々な鋳物を制作していました。
1950年に漆芸家結城哲雄の招きで鋳造の制作指導に山形に来た初代長野垤至に師事し、この頃から和銑(わずく)を用いた茶の湯釜制作を行ないます。
1951年、第7回日展に初出品した「和銑平丸釜地文水藻」が入選し、以後も日展に出品を続け入選を重ねた。その後発表の場を日本伝統工芸展に移します。
1963年の第10回日本伝統工芸展で「砂鉄松文撫肩釜」が奨励賞を受賞
1976年には「甑口釜」でNHK会長賞を受賞する。師であった長野垤至が芦屋釜、天明釜などの茶の湯釜を歴史的に研究したため、敬典もこうした古作の表現法を研究するとともに、材料の鉄も砂鉄から製鉄した和銑にこだわり、また地元の馬見ケ崎川で採集した川砂や土を用いて鋳型作りを行ないました。
作風は古作を研究したといっても、芦屋釜の真形(しんなり)、天明の形にはまった作はほとんどなく、垤至の進めた斬新な造形を受け入れ、肌はきめ細やかな絹肌か、あるいは砂肌とした綺麗なものが多いです。
また地文は肌の美しさを強調するため施さないものが多いが、波や松、竹などを全面ではなく控えめに配した作、あるいは細い筋を入れた作を残しています。
1992(平成4)年、勲四等瑞宝章を受章
1996年、茶の湯釜で国の重要無形文化財に認定された。代表作に文化庁買上の「波文筒釜」(1971年・東京国立近代美術館)、「平丸釜」(1999年・東京国立博物館)。
2009年、鋳金家で茶の湯釜の重要無形文化財保持者である高橋敬典は6月23日、慢性腎不全のため自宅で死去した。享年88。
高橋敬典作 透木釜 松葉地紋 釜鐶
寸法 高さ約13.0cm(胴のみ)
高さ約15.8cm(蓋含む)
直径約32.8cm、、内口径約11.8cm、外口径約12.7cm
高橋敬典は山形県山形市銅町の生まれております。
この町の歴史は古く、康平年間(1058-1064)に源頼義が武器製造のために京都から鋳物工を招いたのが始まりと伝えられています。
江戸時代の初めになると領主となった最上義光によって、京都、会津、越前あたりから鋳物師を移して銅町としました。
昭和15年には全国各地の民芸品を調査していた柳宗悦が、自著の中で銅町の手仕事などを紹介しました。
「山形市で是非訪れなければならないのは銅町であります。」
と語っております。
高橋敬典の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.高橋敬典の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
高橋敬典 査定価格におけるポイント
高橋敬典の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
高橋敬典先生の作品は、釜の種類によってお値段は変わりまが、箱書き、流派によって家元の書き付けによって価格が左右する場合が多いです。
市場では、釜は1万円ぐらいが相場です。5万ぐらいの買取相場です。
保存状態
痛み傷など、使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
高橋敬典の鉄瓶の作品が評価されます。
釜では、唐銅鳳凰風炉富士釡添など変わり物が高値で取引されております。
高橋敬典展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
高橋敬典先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ高橋敬典の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月29日
角谷勇圭の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の角谷勇圭の作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
角谷勇圭の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、角谷勇圭の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
角谷勇圭作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の角谷勇圭のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた角谷勇圭の作品を鑑定して買取りいたします。
工芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の角谷勇圭の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
角谷勇治(雅号:角谷勇圭)は茶釜の造形のみならず、釜に見られる花鳥風月文様の表現に卓越し、鐶付の形にも優れた造形力を発揮しています。また、文様を外型にヘラ押し技法で反転して描くための絵画的表現に熟練の技と感性を有しています。
日本伝統工芸展や同近畿支部展で数多くの入選歴、受賞歴があり、わが国有数の金属工芸作家です。また、大阪工芸協会の運営にも寄与し、平成4年(1992)に大阪府工芸功労賞、平成13年(2001)に大阪府知事表彰を受けて、令和三年(2021)7月に『人間国宝(重要無形文化財保持者・茶の湯釜)』に認定されました。
角谷勇圭 本人
父の仕事は小さいころから見ていました、大きくなってくると父の手伝いに行きました。
ごく自然にこの道に入りました。父はああしろこうしろとは厳しくは言いませんでした。じーっと見ていると技はこちらまで伝わってきますね。人間国宝を父に持つという事はどうしても比較されるので、非常に悩みました。
父は日展を目指していて、入選するためには昔通りのものを作っていては通りませんから、新しい昭和の時代の釜を作るために、本とか、美術館に行って勉強しました。父は研究心が凄かったです。新しいものを作って行こうと常に考えていました。
角谷勇圭 翡翠繰口釜
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されましたが、責任を果たせるかどうか心配をしました。まだとても父の力には及びません。
父は80代でも仕事をしていましたので、見習いたいとは思います。鉄は使えば使う程味が出て来ます。しょっちゅう使っていると艶が出て来ます。愛着をもって使っていただけると釜も喜びます。
松籟(しょうらい 松風のそよぐ音)と言って、音響的な効果もあります。沸いて来る音色がいろいろ変わってきますので、響きが出て来ます。話題になるような釜も作っていきたい、線も繊細で大胆な釜を考えています。
- いものことば - 釜の鋳型
鋳物を作るときに、溶けた金属を注ぐ型。
耐熱、耐圧が求められ、釜は上下2つの外型と中型からなり、その隙間に鉄を流し込む。
銘は、文様と同じように鋳型に左右反転して、押し刻む。
角谷勇圭の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.角谷勇圭の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.角谷勇圭の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.角谷勇圭の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.角谷勇圭の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.釜作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
角谷勇圭 略歴
1942(昭和17年) 釜師 角谷一圭の次男(勇治)として大阪市に生まれる
1961(昭和36年) 大阪市立工芸高等学校 図案科 卒業 東洋紡 意匠課 勤務
1970(昭和45年) 父 一圭に師事
1990(平成 2年) 第37回日本伝統工芸展「和銑流水文釜」(文化庁蔵)
2001(平成13年) 角谷鋳金工房 設立(大阪府八尾市美園町)
2002(平成14年) 勇圭と改める
2004(平成16年)~2005(平成17年) 現代の「日本の金工」展(デンマーク王立工芸博物館他)
2013(平成25年) THE世界一展(グランフロント大阪 / 日本科学未来館・東京)
2015(平成27年) 大阪府指定無形文化財「茶の湯釜」 保持者 認定
2017(平成29年) なにわの伝統工芸 受け継がれゆく匠の技と美(大阪府立弥生文化博物館)
2019(令和元年) 現代工芸の展開 2019(金沢市立安江金箔工芸館)
2021(令和3年) 平成の寶玉展(薬師寺・奈良)「流線文繰口釜」奉納 重要無形文化財「茶の湯釜」 保持者 認定
2022(令和4年) 工芸・Kôgeiの創造-人間国宝展- (銀座和光)
2024(令和6年) 特別展 式年遷宮と日本伝統工芸(神宮美術館)
角谷勇圭 御子息と工房にて
「恐れ多く…。父にはとても及ばない。責任を感じるが、地味な仕事を評価いただき、ありがたい」
父親は茶の湯釜の世界で釜師の現代最高峰として知られ、人間国宝だった故・一圭(いっけい)さん。
その技を受け継ぎ、親子2代での人間国宝となった。
途絶えていた技術を復元するなど挑戦し続けた父の生き方に「共鳴し、憧れがあった」
角谷勇圭の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.角谷勇圭の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
角谷勇圭 査定価格におけるポイント
角谷勇圭の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
角谷勇圭先生の作品は、釜の種類によってお値段は変わりまが、箱書き、流派によって家元の書き付けによって価格が左右する場合が多いです。
市場では、6万円ぐらいが相場です。25万ぐらいの買取相場です。
保存状態
痛み傷など、使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
角谷勇圭の作品は芦屋釜の写の作品が評価されます。
角谷勇圭展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
角谷勇圭先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ角谷勇圭の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月28日
藤原雄の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の藤原雄の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
藤原雄の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、藤原雄の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
藤原雄作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の藤原雄のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた藤原雄の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の藤原雄の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
藤原啓の長男として備前市穂浪に生まれる。昭和30年に明治大学文学部を卒業後、父について作陶を始めます。日本伝統工芸展を中心に、壺や鉢、花入など伝統的な備前焼を制作する傍ら、東京、大阪、岡山、広島などに大型の創作レリーフを納めます。
豪放で力強く鷹揚とした作風を持ち味とし、平成8年に国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)となりました。国内外から多くの弟子を受け入れて、諸外国で講演会や展覧会を行うなど、備前焼の国際化に努めました。
藤原雄 本人
父は同じく陶芸家で人間国宝の藤原啓、子息もまた陶芸家で、陶心会会長で備前陶友会理事を務める藤原和です。
藤原雄は魯山人ばりの美食家であった。
明治大学の日本文学科に通われていた頃、岡山の陶芸通に紹介されて鎌倉の魯山人のところを訪ねました。 その初対面の日に、
「また一人で飯でも食べに来いよ」
といわれ、毎週土曜日に出かけ、月曜日に下宿に帰ってくる学生生活を三年間続けました。
「魯山人先生には日本的感性とか、美意識とか、風情、人生を粋に生きるというか、モノを上手に活かしていくことなど陶芸の哲学を学んだ。なにしろ先生の影響を受けたものだから知らず知らずに食いしん坊になった」
料理の名店や寿司屋、そして魚市場などへもご一緒されたほど北大路魯山人に可愛がられました。
「料理を手伝いながら、器と料理の調和を言葉ではなく厳しい修業として味合わせていただいた。私の生涯に二度とない素晴らしさをもたらしてくれた魯山人先生に感謝しながら日夜、器造りに精進している」
父の藤原啓から
「父の助手の仕事を終えて、夜、自分の時間に制作したが、はじめの5年間は焼く前に全て父に壊され、ようやく焼くことを許された作品の中に口がすぼまった壺を見て、『今までの備前にない、おもしろいのを造っている』とはじめて褒められた」
藤原 啓 窯変備前花入
見事な焦げと境目に出た窯変やぼたもちの景色が見事にあらわれております。
大きさも茶席に良い大きさです。底にはサインが入っております。
藤原雄の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.藤原雄の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.藤原雄の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.藤原雄の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.藤原雄の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
藤原啓 略歴
1932(昭和7)年6月10日、同じく備前の陶芸家で人間国宝となった父・藤原啓の長男として岡山県和気郡伊里村穂浪(現・備前市)に生まれます。
1955年、明治大学文学部を卒業後、一時みすず書房に編集者として勤務するが、父の看病のため岡山へ戻る。復帰した父の助手となり、備前焼の技法を学びました。
1958年、第5回日本伝統工芸展に<備前壷>を出品し初入選、また第7回現代日本陶芸展でも入選を果たします。
1960年には、初の個展(岡山天満屋、東京日本橋三越)を開催します。
1961年には日本工芸会正会員となり、またスペイン・バルセロナにおける国際陶芸展では、グランプリを受賞(63年)するなど、備前焼の俊英としての地歩を固めました。
1964年にアメリカ、カナダ、メキシコ、スペイン等の国々を廻り、各地で備前焼講座や個展(アメリカ、カナダ)を開催、同時に米国コロンビア大学における第1回国際工芸家会議で日本代表として備前焼の解説を行うなど、海外へ広く備前焼を紹介した。こうした経験は後年、備前焼を世界に普及するという雄の一貫した活動へと結びついていきます。
1967年に独立。同年、日本陶磁協会賞を受賞。金重陶陽や父・啓たちが拓いた茶陶としての現代備前陶という認識から出発した雄は、備前の土味を生かし、穏やかで明快な器形に削ぎや透かし、箆目、線彫で作家の作為性を加味した作風を確立した。とくに壷の制作に焦点を絞り、「百壷展」(岡山天満屋 1972年、及び東京日本橋高島屋 1974年)を開くなど、どっしりとした豪放な壷で新境地を開拓した。「古備前と藤原啓・雄父子」展(パリ市立チェネルスキー美術館他 1976年)、「備前一千年、そして今、藤原雄の世界」展(韓国国立現代美術館 1988年)など海外での発表も積極的に行い、備前焼の発展と普及に貢献しました。
1996年、備前焼で重要無形文化財保持者の認定を受けます。
1998年、紫綬褒章受章
1996年から99年まで倉敷芸術科学大学で芸術学部教授も務めた。主な作品集に『藤原雄 備前 作陶集』(求龍堂 1987年)、『藤原雄 陶の譜:作陶生活40周年記念』(藤原雄陶の譜刊行会 1995年)があります。
2001年、備前焼の陶芸家で国指定重要文化財保持者(人間国宝)の藤原雄は、10月29日午前6時34分、多臓器不全のため岡山県倉敷市の川崎医大付属病院で死去した。享年69歳
藤原雄の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.藤原雄の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
藤原雄 査定価格におけるポイント
藤原雄の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
藤原雄先生の作品は窯変の作品に高値の査定価格がつきます。
1万円から10万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
藤原雄の作品は花入や徳利、ぐい呑みの作品が評価されます。
藤原雄展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
藤原雄先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ藤原雄の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月27日
関谷四郎の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の関谷四郎の彫金作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
関谷四郎の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、関谷四郎の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
関谷四郎作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の関谷四郎のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた関谷四郎の作品を鑑定して買取りいたします。
工芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の関谷四郎の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
関谷四郎は明治40年、現在の秋田市外旭川に生まれた鍛金家です。秋田市内の金銀細工店で修業を積み、昭和2年に東京の鍛金家の河内宗明の内弟子となりました。独立後は異なる金属を結合させる「接合せ(はぎあわせ)」の技法を取り入れて各展に多数の作品を発表します。昭和52年に国の重要無形文化財保持者、(人間国宝)に認定され、日本金工界に大きな業績を残しました。
関谷四郎 本人
関谷四郎は「鍛金屋は金槌以外持っちゃいかん」とおっしゃっていた。
関谷四郎 純金打出天女香炉
関谷四郎作 純金打出香炉 “天女” 480.2g
本体底部に”純金四郎作 徳力”と刻印があります。
純金打出天女香炉関谷四郎作 と箱書きがあります。
関谷四郎の作品は純金の目方相場よりも高値で取引される可能性が高い作家です。
関谷四郎の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.関谷四郎の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.関谷四郎の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.関谷四郎の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.関谷四郎の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.鍛金作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
関谷四郎 銀打出湯沸
こちらの銀便は、波模様のモダンなデザインが素敵な作品です。
純銀刻印 重量936g 共箱
関谷四郎 略歴
明治40(1907)年2月11日、秋田市外旭川字家ノ前(現、秋田市保戸野新町)に生まれます。
明治45年、5才の時、父を失い幼時の大病によって足が不自由になったことから、座業を生業とするべく秋田市内の森金銀細工工店で秋田の伝統工芸、銀線細工を学びます。
昭和2(1927)年、秋田県主宰の鍛金講習会のため来県していた河内宗明に出会い、同年弟子入りします。
昭和6年より日本鍛金協会展に出品を重ねる。同13年独立して東京の本郷団子坂に工房を設立
昭和17年第5回新文展に「銀流し花瓶」で初入選。以後同展、日展に出品します。
昭和37年より日本伝統工芸展に出品し、同38年伝統工芸新作展で奨励賞
昭和40年日本伝統工芸展で優秀賞、同年の伝統工芸新作展で優秀賞、教育委員会賞
昭和43年日本伝統工芸展で総裁賞を受賞
昭和44年以降日本伝統工芸展に招待出品を続け、たびたび審査員を努めます。
昭和48年新作工芸展20周年記念展で特別賞、同51年同展で稲垣賞受賞
昭和52年国指定重要無形文化財保持者に認定された。彫金による表面加工を行わず鍛金のみで豊かな質感をもたせる工夫として、異種の細い板金をろうで溶接する接着技法を創出しその織りなす洗練された、幾何学文様と、表面の質感を特色とする斬新な作風を示した。
昭和56年、金工作家グループ東京関友会設立します。
昭和60年、秋田関友会を設立、後進の育成にも尽力しました。
昭和62年秋田魁新報社主催により傘寿記念展を開催。
平成6年8月28日から10月2日まで秋田市立赤れんが郷土館で「米寿記念人間国宝関谷四郎展」を開催しました。
平成6(1994)年12月3日、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鍛金家関谷四郎は12月3日午前3時10分、肺炎のため東京都板橋区の東京都老人医療センターで死去した。享年87。
関谷四郎の作業姿
関谷四郎は、日本の伝統工芸の中でも独特の領域を持つ鍛金に、常に新しい金属の美を追い求める。鍛金の技術を保持する貴重な打物師でした。
作品は、花生、壺、接合せ(はぎあわせ)皿など多彩である。しかもその作風には現代感覚が盛り込まれ、器物そのものの感情がみずみずしいまでに表現されている。
花器などは、銀と銅、赤銅の3種の地金を用いて、鍛金の中でも難しいとされる接合せの技法で制作される。
関谷四郎の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.関谷四郎の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
関谷四郎 査定価格におけるポイント
関谷四郎の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
関谷四郎先生の作品は、金瓶、銀瓶、香炉の作品に高値の査定価格がつきます。
市場では、5万円ぐらいが相場です。30万ぐらいの買取相場です。
保存状態
痛み傷など、使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
関谷四郎の作品は細かい仕事の作品やオシャレな作品が評価されます。
関谷四郎展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
関谷四郎先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ関谷四郎の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月26日
角谷一圭の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の角谷一圭の作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
角谷一圭の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、角谷一圭の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
角谷一圭作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の角谷一圭のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた角谷一圭の作品を鑑定して買取りいたします。
工芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の角谷一圭の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
鎌倉時代に作られた茶の湯釜の最高峰といわれる筑前芦屋釜を復元し、更に独自の感覚を組み入れた作品を数多く発表して重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。 茶道の釜づくりの重要な部分は鋳型作り。格調高い鋳肌と繊細な模様が釜作りの決め手となります。
角谷一圭 本人
「安心しているとペケがでる」とよく言われたみたいですね。
角谷一圭 牧童図丸釜
釜師・角谷一圭は、日本の伝統工芸の中でも特に高く評価される茶釜の一つ「芦屋釜」を現代に甦らせた名匠です。
江戸時代の初め頃より、侘茶の美意識が主流となり、より簡素な京都の茶釜が好まれるようになり制作が途絶えていきました。
角谷一圭は、消滅してしまった近代、技術や意匠を熱心に研究し、忘れられた伝統を現代に甦らすために尽力しました。その活動により、芦屋釜の芸術性や技術の価値が再認識されました。
近代の茶道文化で再びその存在感を示しています。 角谷一圭の復元は、現代の技術や感性を取り入れることで、伝統と革新の融合を果たした点が特徴です。の美術品としての魅力を持ち、多くの茶人や美術愛好家から愛されています。
角谷一圭の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.角谷一圭の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.角谷一圭の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.角谷一圭の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.角谷一圭の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.釜作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
角谷一圭 略歴
1904(明治37)年10月12日大阪市に生まれる。本名辰治郎。
1917(大正6)年釜師の父巳之助より茶の湯釜の制作技法を習得。のち大国藤兵衛、香取秀真に茶釜、鋳金全般を学ぶ。また細見古香庵からも茶釜制作上の影響を受けました。
1947(昭和22)年昭和天皇大阪行幸の際に釜を献上します。
1952年第8回日展に初入選、以後56年第12回日展まで出品します。
1958年第5回日本伝統工芸展に「海老釜」を出品して高松宮総裁賞を受賞し、以後は同展に出品
1961年には同8回展出品作「独楽釜」で朝日新聞社賞を受賞
その間58年布施市文化功労賞、同年大阪府芸術賞を受けるなど受賞を重ねる。終戦直後に出回った名釜修理・修復に携わり、茶釜の形態、地紋、鉄味を調査、その成果に基づき鎌倉期の筑前・芦屋釜を範とし、のち和銑釜を研究、優雅で格調高い作風を確立しました。
1973年第60回伊勢神宮式年遷宮神宝鏡31面を鋳造
1993(平成5)年第61回遷宮の折も制作を手がけました。
1976年勲四等瑞宝章を受章
1978年国の重要無形文化財「茶の湯釜」保持者(人間国宝)となります。
1984年文化庁企画「茶の湯釜」記録映画で「馬ノ図真形釜」を制作。著書に『釜師―茶の湯釜のできるまで』(1974年 浪速社)がある。弟莎村は釜師、長男征一は金工作家。
1999年、釜師の角谷一圭は1月14日、肺炎のため大阪市の病院で死去した。享年94。
角谷一圭工房
角谷一圭工房をご紹介します。
社名の「角谷一圭」は昭和53年に人間国宝に認定された二代目の名で、現在は三代 角谷征一、四代 角谷圭二郎が日々制作に励んでいます。
工房にて作品のご注文・修理などをお受けしております。 お気軽に営業時間内に下記までご連絡くださいませ。
角谷一圭工房連絡先
https://ikkeikoubou.com/index.html
mail ikkeikoubou1885@gmail.com
fax 06-6782-3377
tel 06-6782-3377
角谷一圭の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.角谷一圭の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
角谷一圭 査定価格におけるポイント
角谷一圭の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
角谷一圭先生の作品は、釜の種類によってお値段は変わりまが、箱書き、流派によって家元の書き付けによって価格が左右する場合が多いです。
市場では、6万円ぐらいが相場です。25万ぐらいの買取相場です。
保存状態
痛み傷など、使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
角谷一圭の作品は芦屋釜の写の作品が評価されます。
角谷一圭展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
角谷一圭先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ角谷一圭の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月25日
増田三男の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の増田三男の彫金作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
増田三男の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、増田三男の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
増田三男作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の増田三男のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた増田三男の作品を鑑定して買取りいたします。
工芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の増田三男の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
身近な草花や動物を写生し、その生命感あふれる姿を表現した彫金の重要無形文化財保持者(人間国宝)増田三男は、 埼玉県に生まれました。東京美術学校で清水南山(亀蔵)に彫金の技を学び、卒業後は、陶芸家の富本憲吉から工芸制作においても個性を尊重する姿勢、「模様より模様を造るべからず」の精神を学びました。
身近な草花や、蝶や鹿やウサギなどをモチーフとした装飾模様を、確かな彫金のわざで表現したその作品は、生命感あふれ、移ろいゆく季節や時間、その場の気配までもが感じられます。
増田三男 本人
彫金は、金や銀、銅などの金属に、鏨を用いて文様を彫り込んだり、刻印したりするのに使われる技法です。20世紀から21世紀初頭にかけて活躍した増田三男は、作品の中で金を効果的に使い、日本の四季の自然や動植物を豊かに表現した金工家として知られる。
生涯現役をつらぬき、晩年も、自宅の庭先のアトリエ「三愚亭」で、朝から夕方まで制作に打ち込む生活を続けていましたが、2009年(平成21年)、100歳の天寿をまっとうし他界しました。
増田三男 金彩柳文水指 1989年
増田三男は、生前に「彫金で一番大切なことは鏨(たがね)だ」と語っています。自分で自分用の鏨を作ることに始まり、伝統技術の中に新しい表現を発見することが大切だと考えていました。
増田三男の作品の魅力の第一は、描き出された模様にある。桟橋にとまるシギの姿や、竹林や雑木林、柳の木立など、比較的具象的な意匠がある一方で、蝶、兎、鹿など古典に学びながら紋様へと昇華したモチーフもある。
幾何学的な模様とも見える麦畑の図を見ると、増田の着想がとてもユニークであることがわかる。 作品に用いられた意匠はさまざまであるが、一貫しているのは独自性であり、その背景には「模様より模様を造るべからず」という富本憲吉の思想があった。増田は富本の言葉に従い、自然の写生に基づく模様の創作に取り組んでいたという。両者の関係はものづくりの思想、あるいは師弟関係にとどまらない。
富本憲吉 色繪透香爐 火屋 増田三男
1936年、東京美術学校を卒業し、たまたま足を運んだ国画会展の会場で、富本憲吉の陶芸作品を目にした増田は深い感銘を受けました。富本憲吉はこの国画会工芸部の創設に尽力した陶芸家で、増田は自身も国画会工芸部に出品するようになり、尊敬する富本憲吉に自分の作品を見てもらえることが何よりの励みになりました。
富本憲吉は香炉のための火屋の制作を増田に依頼しており、その数は200点を超える。火屋の意匠は、増田三男が富本憲吉の作品を独自に解釈してつくりあげたものであった。とくに富本憲吉の書からとった文字の意匠は富本も気に入っていたと増田三男はかつて語っている。富本憲吉は増田三男の仕事を高く評価しており、作品の箱書きや解説にも増田三男の名前が出るよう気を配っていた。
増田三男の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.増田三男の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.増田三男の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.増田三男の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.増田三男の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.彫金作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
増田三男 略歴
1909(明治42)年4月24日、埼玉県北足立郡大門村に父伸太郎、母チカの7人兄弟の三男として生まれる。
1924(大正13)年、埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業、埼玉県立浦和中学校、卒業
1929(昭和4)年、20歳で東京美術学校(現、東京藝術大学)金工科彫金部に入学する。大学では清水亀蔵(南山)、海野清らに学びます。
1934年、彫金部を卒業し、さらに同美術学校金工科彫金部研究科にすすみ、1936年同研究科を終了します。
1933年、第14回帝展に「壁面燭台」が初入選する。研究科終了後は同校資料館で国宝をはじめとする文化財の模造制作に従事し、また個人的には柳宗悦が主宰した民芸運動に関心をいだき民芸論を研究した。この頃の工芸関係の公募展は帝展が最高権威であり、また国画会展の工芸部も有力であった。当時国画会工芸部は民芸派の作家が多く活躍しており、帝展の美術品としてのレベルの高さや技術力よりも、実際に生活の場で使える工芸作品が出品されていて、増田三男自身は師である清水南山らが出品していた帝展(のちに文展)と、国画会工芸部の両方に出品しました。
1936年、11回国画会に出品した「筥」2点が初入選をはたしている。この国画会における工芸部門の創設に尽力した陶芸家富本憲吉に図案の指導を受け、以後増田三男は富本憲吉を生涯の師と仰ぐようになる。1939年には第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が特選
1942年の第17回国画会展では「野草文水指」が国画奨励賞を受賞した。戦時中はとくに金属使用の規制や奢侈品等製造販売禁止令などが発布されて金工作家はとくに苦境におちいったが、第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が入賞したことにより金属材料の配給を受け、その技術保存の立場から制作を続けることができた。第二次世界大戦中の1944年、中学のときの母校である浦和中学の美術講師となります。
1976年に退職するまで30年以上にわたって木工芸の授業を担当しました。
1962年、第9回日本伝統工芸展に初出品した「金彩銀蝶文箱」が東京都教育委員会賞を受賞したのを期に、その活躍の場を日本伝統工芸展とするようになります。
1969年、同展出品の「彫金雪装竹林水指」が朝日新聞社賞を受賞
1990(平成2)年、「金彩銀壺 山背」が保持者選賞を受賞しました。
1991年、82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定される。増田の作品は初期の第14回帝展「壁面燭台」(うらわ美術館蔵)や煙草セット(1937年・東京国立近代美術館蔵)等は、鉄の廃材を利用した当時としてはモダンな作品でした。
1940年代後半からは古文化財の模造によって培われた日本伝統の自然をイメージした小作品を生涯にわたって制作した。箱、壺、水指などを、銀をはじめ素銅、真鍮を打ち出し成形し、そこに菟、鹿や鴛鴦、蝶、梅や柳などの身近な動植物を意匠として、それを蹴彫、切嵌象嵌、布目象嵌によって表し、地には魚々子や千鳥石目を施した作が多い。また金や銀の鍍金による彩金の技法によって季節感、自然感を豊かに表現した。
2009年(平成21年)、彫金家で彫金の無形文化財保持者である増田三男は、9月7日、老衰のため自宅で死去した。享年100。
増田三男 鍍金箱 残月狐影 1964年
一見して名工の名作と判断できる 見事な彫金透かし彫りによる彫金飾箱
増田三男の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.増田三男の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
増田三男 査定価格におけるポイント
増田三男の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
増田三男先生の作品は、飾箱、香炉の作品に高値の査定価格がつきます。
市場では、5万円ぐらいが相場です。30万ぐらいの買取相場です。
保存状態
痛み傷など、使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
増田三男の作品は細かい仕事の作品が評価されます。
増田三男展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
増田三男先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ増田三男の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
**************************************
弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月24日
松田権六の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の松田権六の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
松田権六の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、松田権六の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
松田権六作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の板谷波山のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた松田権六の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の松田権六の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
工芸界の巨匠松田権六は、近代漆芸に偉大な芸術世界を築き上げた作家であり、わが国の伝統工芸の発展にきわめて重要な功績を残しました。 金沢に生まれた松田権六は、加賀蒔絵の伝統を踏まえつつ、正木直彦東京美術学校長や大茶人益田鈍翁との知遇、室町や桃山時代などの古典研究、朝鮮・楽浪漢墓出土の漆器や中尊寺金色堂をはじめとする数々の保存修復をとおして、漆芸の意匠や様式、広範な技法を鋭い洞察と鑑識とで解明し、自らの創作に応用、発展させました。その創作は、まさに近代漆芸の金字塔といっても過言ではないでしょう。
松田権六 本人
松田権六の言葉
「毎日一案は図案を描く。そうするとひと月に30案、1年で365案だから、700、1000案くらいはわけのないことだ。いかに頭の弱い人でも、1000案のあいだに5つから10はすばらしい案があるに決まっている。」
松田権六 蒔絵螺鈿有職文飾箱
松田権六は「漆の神様」を意味する「漆聖(しっせい)」とも呼ばれ、蒔絵の第一人者として文化勲章を受章した人間国宝です。
松田権六 略歴
“うるしの鬼”とも称された漆芸の第一人者松田権六
明治29(1896)年4月20日石川県金沢市に生まれ、既に7歳の時から仏壇職人の兄孝作について蒔絵漆芸を習い始めました。
大正3年石川県立工業学校(漆工科描金部)を卒業し上京、同校教師藤岡金吾の紹介で六角紫水を訪ね、同年東京美術学校漆工科に入学、秋から紫水宅に美校卒業の年まで寄宿しました。
大正8年美校を卒業し、志願兵として1年間入隊する。翌年除隊後、東洋文庫で朝鮮楽浪出土の漆芸品の修理に携わりました。
大正14年、紫水と大村西崖の勧めで並木製作所(パイロット万年筆の前身)に入社し、万年筆やパイプなどに蒔絵を施し世界に広めました。
大正15年、高村豊周、山崎覚太郎らと工芸グループ无型を結成、また、日本工芸美術会結成に参加しました。
昭和2年、並木製作所を退き東京美術学校助教授に就任、この頃、美術校長正木直彦の紹介で益田孝(鈍翁)を知る。
昭和5年、第11回帝展に「多宝塔」を無鑑査出品
昭和8年。には欧州各国へ出張しイギリスではダンヒル商会にパイプの漆加工を指導しました。
昭和11年、日本漆芸院を結成、また、板谷波山、六角紫水らと皐月会を結成します。
昭和6年、帝国議会議事堂御便殿漆工事に携わりました。
昭和14年、には法隆寺夢殿内に新調された救世観音の厨子の漆塗装監督をつとめました。
昭和18年、東京美術学校教授
昭和20年、戦災に遇い自宅を全焼する。戦後は第2回日展から審査員をつとめ、第11回展まで出品したが、日展におけるいわゆる創作工芸になじまずその後日展から離れた。この間、同22年日本芸術院会員となります。
昭和30年、重要無形文化財(蒔絵)保持者に認定され、、社団法人日本工芸会創立に際し理事に就任。以後主に日本伝統工芸展に制作発表を行います。
昭和37年、日本工芸会理事長に就任した。翌38年東京芸術大学を停年退官し、名誉教授となり、同年文化功労者に選ばれました。
昭和39年『うるしの話』(岩波新書)を刊行、同書で翌年第19回毎日出版文化賞を受賞します。
昭和25年、日光二社一寺文化財保存委員会委員となったのをはじめ、国宝中尊寺金堂や正倉院等の保存修理などを指導しました。
昭和49年、日本漆工会結成に際し顧問に就任
昭和51年には文化勲章を受章する。日本と中国の古典技法研究に根ざしながら、漆工芸技術の近代化につとめ豊かで格調高い作品を数多く発表した。代表作に「鶴蒔絵硯箱」(昭和25年、第6回日展)、「有職文蒔絵螺鈿飾箱」(同35年)などがあります。
昭和53年東京国立近代美術館で「松田権六展」が開催される。金沢市、輪島市名誉市民でもあった。没後、6月19日東京都文京区本駒込3-19-17の吉祥寺において、日本工芸会葬(葬儀委員長細川護貞)で葬儀がとり行われました。
昭和61年、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化勲章受章者、東京芸術大学名誉教授の漆芸家松田権六は、6月15日心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年90。
松田権六 蒔絵松桜文棗 1969年
松田の漆芸は古典研究に深く裏付けられ、江戸、桃山、平安、奈良の各時代、さらに中国・朝鮮の文化財にまで研究が及んでいます。
古典研究においても常に制作者としての立場を堅持し、作品意匠や様式などの外的な観察にとどまらず、その構造・技法、使われている用材に至るまで鋭い解明を試み、その成果は松田の作品に見事に結実しています。
「私の師は、物と自然と人である」
と自ら述べているように、その謙虚な心構えと、たゆまない意欲と厳しさがその芸術の基盤となっています。
松田権六の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.松田権六の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
松田権六 査定価格におけるポイント
松田権六の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
松田権六先生の作品は、棗に高値の査定価格がつきます。
市場では、20万円ぐらいが相場です。細かい仕事の作品は200万ぐらいの買取相場です。
保存状態
腕物や棗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
松田権六の作品は細かい漆の蝶貝の作品が評価されます。
松田権六展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
松田権六先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ松田権六の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月23日
藤原啓の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の藤原啓の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
藤原啓の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、藤原啓の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
藤原啓作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の藤原啓のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた藤原啓の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の藤原啓の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
少年時代から文学に熱中し、大正8(1919)年上京し、雑誌の編集執筆に携わります。青年期には、社会主義運動に身を投じたり、詩作や絵画、音楽にも親しみます。昭和12(1937)年、文学や思想に疲れ帰郷します。昭和13年39歳の時から三村梅景、金重陶陽の指導のもと備前焼を始めます。
中世雑器の素朴さに傾倒し、大らかな作風を持ち味とし、日本伝統工芸展を中心に活躍する。昭和44(1969)年には新宮殿に擂座壺1対を献納します。翌年、国指定重要無形文化財保持者に認定されます。
藤原啓 本人
藤原啓は、人の物真似を嫌い、自分自身でつかんだ芸術性に基づいた陶芸作品を創作しました。牧歌的で独特な新感覚の作風を確立し、日本陶芸界に大きな影響を与えました。
「陶芸家はやきものだけではなく、絵画も彫刻も音楽もわからなければ、真の芸術家にはなれない」
積極的でロマンチストな青年であった藤原啓は小説や詩集を出版し、絵を描き、バイオリンを弾き、多くの人々と交遊を持ちましたが、志半ばで、極度の神経衰弱になり、これらすべてのことを断念し、三十八歳で郷里の備前市に帰ることになりました。 そして正宗白鳥の弟で万葉学者の正宗敦夫の勧めで備前焼の道に入っていきます。柔らかで弾力のある備前の土の感触に安らぎを覚え、創作意欲をかきたてられ、希望がもてるようになっていきます。
藤原啓が陶芸家として初窯を焚いたのは四十一歳の時です。 「陶酔」 「豪放」 「無心」 「夢」…… 藤原啓の好きな言葉だった。 素人作家の延長として陶芸を楽しんだ藤原啓はあくまでも単純で牧歌的、おおらかで独特な新感覚の作品を確立し、日本陶芸界に強烈な影響を与えました。
藤原啓 備前徳利
見事な灰被り窯変となっています。 こってりとした灰被りはまるで濡れているかのように滑らかで、 酒豪が手掛ける徳利にピッタリの焼き上がりではないかと思います。 柔らかで吸い付くような灰被り窯変は「早く酒を塗ってくれ」と言わんばかりであり、 所々に出た抜けも酒席を盛り上げる最高の景色となっています。
藤原啓の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.藤原啓の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.藤原啓の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.藤原啓の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.藤原啓の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
藤原啓 略歴
岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身。農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれます。 少年期から俳句や小説の才能を発揮します。
1915年に博文館が手がける『文章世界』に応募した短編が1等を獲得します。
1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文章世界』の編集を担当します。同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始めます。そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。その後は川端洋画研究所に通い、3年間デッサンを学んでいます。
1922年、詩集『夕の哀しみ』を出版
1928年には『ハイネの訳詩集』(生田春月との共著)を新潮社より出版。博文館の『婦人之国』の編集などにも携わりました。
1930年、博文館を辞め作家として独立するが、自己の文学に限界を感じ強度の精神衰弱に陥ります。
1937年、文学を断念し帰郷
1938年、近隣に住む正宗白鳥の弟で万葉学者の正宗敦夫の勧めで、三村梅景に師事し備前陶芸の道を歩み始めます。当時40歳という遅いスタートでした。
1948年に国認定の技術保存資格者(丸技)の資格(備前焼では他に金重陶陽、山本陶秀のみ)を受けたのを機に作陶への生涯を決意します。金重陶陽や北大路魯山人らからも指導を受け、技術向上に邁進しました。特に金重陶陽が先駆となった古備前復興の継承に尽力。桃山古備前の技法を基礎にしながらも、窯の中での自然の変容を生かした近代的な造形が特徴です。師である金重陶陽とは対照的で素朴で大らかな作品が、古くから受け継がれた備前焼の新たな展開を示し、後進へ大きな影響を与えました。
1954年、北大路魯山人の斡旋で日本橋髙島屋にて個展を開く。同年、岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定。
1958年には日本工芸理事に就任。1962年プラハ国際陶芸賞を受賞しました。
1970年4月25日、重要無形文化財「備前焼」(人間国宝)保持者に認定。
1972年、勲四等旭日章を受章。
1976年には備前市名誉市民となる。同年備前市には財団法人藤原啓記念館が設立されており、藤原啓自身の作品や数々の古備前を展示している。
1983年、肝臓ガンのため岡山大学付属病院にて逝去。同日、勲三等瑞宝章を受章しました。
藤原啓 備前茶碗
豪放磊落で優しさが滲み出るような温かな作風で万人に愛されました、藤原 啓の備前茶碗です。陶印や土味などから見て藤原啓の中期頃の作品であると思われます。
藤原啓の中期頃の特徴である、良質の土を用いた非常に柔らかな土味が素晴らしいです。同じ茶碗と重ねて焼き上げられており、直接炎に接した部分はトロトロによく溶けた黄胡麻が、重なっていた部分では一目で土の良さが分かる濃厚な緋襷が出ています。
見込みでも抜群の土味が見られ、柔らかで芳醇な明るい茶色の土味は、備前土の最高峰と言っても差し支えのない素晴らしい色合いです。飾りっ気や小手先の技を嫌い、まるで詩を吟ずるかのようにあるがままの心情を土に乗せた藤原啓らしい、シンプルかつ骨太な造形も素敵です。
藤原啓の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.藤原啓の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
藤原啓 査定価格におけるポイント
藤原啓の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
藤原啓先生の作品は窯変の作品に高値の査定価格がつきます。
1万円から10万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
藤原啓の作品は花入や徳利、ぐい呑みの作品が評価されます。
藤原啓展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
藤原啓先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ藤原啓の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月22日
川北良造の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の川北良造の木工作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
川北良造の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、川北良造の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
川北良造作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の板谷波山のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた川北良造の作品を鑑定して買取りいたします。
木工作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の川北良造の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
挽物の技術ではじめて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認められた川北良造は、挽物とは材料である木を轆轤で回転させながら作品を削り出す技術である。だから必然的に、木材のほとんどは木の屑になってしまう。川北良造は木のほとんどをこのように「無駄」にしてしまうことを木工芸師という仕事の「宿命」であるとしながらも、木に対して常に「申し訳ない」という気持ちを抱いていると言う。
だからこそ完成した作品は最高のものであって欲しいし、丈夫で長持ちして欲しいと、川北良造は願う。たんなる材料として木に向き合っているのではなく、ひとつの「生命あるもの」として向き合っているのである。これはたんなる喩えではなく、実際の制作過程においても木は生きているのである。
川北良造 本人
「荒挽き」という初期の工程が終わり、木から美しい木目が現われ、また、作品のおおよそのかたちが決まると、およそ2か月から6か月の間という長い時間をかけて、作品を自然乾燥させます。その過程において、木は収縮してしまい、作り手が意図していた大きさが「狂う」のである。このように、伐られた後、水分を失ってもなお、木は動こうとする、つまり、生きているのである。
それが木というものの本質なのであり、木工芸作家の仕事とは木のそのような本質との「戦い」であると、川北良造は言う。しかし「戦い」といっても、木工芸師は木の大きさを無理やり決めようとすることはない。むしろ乾燥の過程で、大きさに狂いが出る場合には十分に狂わせる。つまり、いわば木の生命力が尊重されるのである。木工芸作家の仕事の「目的」とは、自分の意図に合わせて木のかたちを変えることではなく、木のもつ可能性が実現するのを手助けすることである、そのようにも言えるであろう。
川北良造 工房にて
川北良造は木地師の家に生まれたが、一度も家業を継げとは言われなかった。小さな頃から、親の仕事場のそばで遊ぶのが常だった。冬、寒いときには、カンナくずの中に埋もれて寝てしまうこともあった。小学校4年生ぐらいになると、親がいないのを見はからって仕事場に入り、見よう見まねで挽いてみたりもした。すぐにカンナの刃先が食い込んで折れる。その刃をカンナくずの中に隠す。そんなイタズラを、父は咎めることはなかった。そのうち、コマを挽けるようになると、職人さんたちから、木には芯があってその芯を真ん中にしてコマをつくるとぶれないし、回転時間も長くなる、と教わる。遊びながら、自然と仕事に触れて成長していく。中学を卒業する頃には、だいたいのことができるようになる。
川北良造の育った山中は、漆器の一大産地である。子供たちは、木地・塗師・上塗り・蒔絵など、暗黙のうちに家業を継ぎます。川北良三は母のすすめで、木地師の家にもかかわらず、蒔絵を習うことになります。山中の漆器工補導所でスケッチから指導を受けました。2年目にふっと、父の仕事を継ぐのが本当ではないのか。父について仕事をしたいと思い、補導所を中退します。
川北良造 欅神代桂双友鉢
まずは、木地師である川北家の本家へ、修業に出ました。ところが、来る日も来る日も雑用ばかり。こんなの習いに来たんじゃない。3〜4年は不満でいっぱいだった。それがあるとき、雑用も将来役に立つと思い始めます。どうすれば、職人さんたちに喜んでもらえるのか、どうすれば早くできるのか。そんなふうに気持ちを切り替えると、どんな仕事も早く確かにこなせると、重宝がられるようになった。
結局、8年が過ぎていた。 職人さんたちは、いろいろな自慢話をする。「徳利袴(お銚子を入れるうつわ)を1日600個挽けたら一人前だ」という話を耳にして、良し、挑戦してみようと思い立つ。父からは「早く仕事をする方法を教えよう」と、目覚まし時計をプレゼントされる。「その秒針と競争しろ」と。600は難なくクリア。1カ月ほどの間に1,000までいった。
天晴れな仕事ぶりだが、腕が動かなくなった。せいぜいが900までだなと思い知る。チャレンジはまだあった。山中は、千筋・平筋・籠目筋など、「筋物挽き」が得意な地。40歳のとき、どれだけ細い筋がつけられるかに挑み、1ミリに8本、線を挽いた。でも10本はどうしてもムリだった。
「好奇心が強いんですね。人がやれないことをやってみたくなる(笑)」。
川北良造 神代欅嵌装鉢
父、浩一が職人木地師として山中漆器木地を生産する中で、人間国宝の氷見晃堂、松田権六との出会いで、指導を受け工芸作品を制作するようになり、自身もその道に入りました。技術、表現も地方の特徴を生かし、その後も創意工夫をしました。
独自の技法の中の1つには、方形の素材を回転させ削り仕上げる作品に加え加飾挽、象嵌、嵌装などがございます。
川北良造の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.川北良造の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.川北良造の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.川北良造の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.川北良造の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.木工芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
川北良造 略歴
石川県出身。木の挽物の産地である山中町(現加賀市)に生まれます。木工芸家である父・川北浩一に師事。のちに氷見晃堂に師事。挽物の技術に秀で、伝統的で高度な技術を持つ。川北良造作品は挽物が中心なので作品は一枚の板からロクロで削りだした皿や椀など丸い形のもの、あるいは丸く作って辺を切るものなどシンプルなものが多く、回転ではできない指物によるような四角い箱型の物は少ないです。
材は欅を中心に桑・楓・黒柿・栃なども使います。近年では象嵌の技法も取り入れる。拭漆の技法を高め、深みのある作品を作る。正倉院宝物の復元にも力をそそぐ。石川県立山中漆器産業技術センター 石川県挽物轆轤技術研修所の所長を務め、後進の育成も行っている。
1934年 石川県江沼郡山中町(現・加賀市)生まれ
1962年 第9回日本伝統工芸展入賞
1966年 第13回日本伝統工芸展日本工芸会長賞
1968年 第15回日本伝統工芸展日本工芸会長賞
1994年 重要無形文化財「木工芸」保持者
1999年 紫綬褒章
2004年 旭日中綬章
川北良造造 縞黒檀中棗
砂磨きされフキ漆で仕上げられています。木工芸加賀山中の人間国宝川良造の晩年の作品で底に在印も有ります。
川北良造の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.川北良造の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
川北良造 査定価格におけるポイント
川北良造の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
川北良造先生はの作品は、盆や鉢に高値の査定価格がつきます。
市場では、10万円ぐらいが相場です。5万ぐらいの買取相場です。
保存状態
腕物や盆などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
川北良造の作品は珍しい木材の作品が評価されます。
川北良造展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
川北良造先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ川北良造の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
**************************************
弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月21日
板谷波山の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の板谷波山の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
板谷波山の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、板谷波山の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
板谷波山作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の板谷波山のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた板谷波山の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の板谷波山の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
明治5(1872)年、茨城県真壁郡下館町(現・筑西市)に生まれた板谷波山(本名、嘉七、1872-1963)は、開校間もない東京美術学校で木彫を学びました。教師として赴任した石川県工業学校で本格的に陶芸の研究を始め、最新の釉薬技術や西洋のアール・ヌーヴォー図案から多くを学びます。明治36(1903)年、陶芸家として独立することを決心し上京します。東京田端に窯を築き、郷里の筑波山にちなんで「波山」と号しました。
「芸術としてのやきもの」を目指した板谷波山は、卓越した彫刻技術を活かした薄肉彫と、釉下彩による豊かな表現によって「葆光彩磁」などの格調高い独自の作風を確立していきました。昭和9(1934)年に帝室技芸員、昭和28(1953)年には陶芸家として初の文化勲章を受章し、近代陶芸史に大きな足跡を残しています。
板谷波山 本人
近代陶芸の祖・板谷波山は、自分は職人ではなく、「工芸」の分野に「個人作家」の創作という意識を持ち込んだ陶芸作家です。
アーティストだという意識が強かった板谷波山は、1960年には「人間国宝」を辞退しています。
「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」
人間国宝を辞退したということは、芸術家であるということの自負があったことが証明しています。
「私は世の中のことを何も考えないで、土をいじり、窯を燃やしていたい。これが私の志願だ。楽しさは自ずとその中にある。」
「私は何から何まで自分自身でやらないと気が済まないのだ」
という完璧主義者でした。
板谷波山葆光 彩磁花卉文花瓶 出光美術館
昭和3年(1928)頃 高 23.4cm 木蓮や紅梅など、早春に花ひらく植物があらわされています。臙脂(えんじ)、青、淡緑の花々は、端正な薄肉彫(うすにくほり)の上に彩色され、葆光釉(ほこうゆう)の淡くかがやくヴェールに包まれて、朝靄に匂い立つかのようです。明治末期から始められた、波山独自の技法である葆光彩が完成を迎えた頃の本作は、器形と意匠のバランス、葆光釉の淡い光の効果、花々の優美な色あいなど、どこをとっても完成度が高く、波山芸術の到達点といわれています。
葆光彩磁
葆光彩磁は板谷波山による装飾技法です。葆光 釉はいわゆるマット釉の一種です。これを施釉して1,230℃で焼成すると、艶消しの効果によって霧が立ちこめたような幻想的な釉調が得られます。 葆光とは「光を包む・保つ」という意味を持ち、彩磁は「磁胎に描画・彩色する」技法を指します。つまり磁器の表面に加飾したのち、葆光釉をかけて艶消しをすることで淡い光そのものを表現しています。 彩磁で使われる植物や鳥獣などのモチーフは、使う顔料ごとにはっきりと発色します。この上に葆光釉をかけて焼成すると顔料の発色がおさえられ、赤・青・緑・黄など鮮やかな色彩は朝もやの中にあるような自然で柔らかい色調となります。
薄肉彫りと彩色
葆光釉をかけるのは最後の仕上げの段階になります。その前に素地を成形して薄肉彫りという彫作業があります。薄肉彫りとは浮き彫りの一種で、私たちの身近な例では100円硬貨などの貨幣があります。 硬貨の表面をみると、数字や模様が薄く浮かびあがって見えますね。ただし硬貨は機械でプレスして作りますので、薄い凹凸の質感が分かれば薄肉彫りのイメージとしては十分です。 実際の作品はこれを手彫りするわけですが、膨大な時間と労力が必要となります。ただ線を描くだけではなく葉脈の陰影や花びらの立体感、鳥の羽の空気感を表現するため、精緻な彫が施されたあとに素焼きされます。
板谷波山 彩磁瑞花祥鳳文花瓶 1916年 MOA美術館
板谷波山の制作の大きな特徴としては、明治前期までの陶工の常識を破り、個人で本格的な高火度焼成の窯を構えて磁器焼成に挑んだことが挙げられます。しかし、当時窯の焼成は薪によるもので、炎のコントロールが困難で失敗のリスクも大きかった。そのため、板谷波山の作品には唯一無二の名品が多くあったいっぽう、波山は60歳を過ぎるまで借金生活で苦しんでいたという。
また、明治前期の輸出陶磁器の制作において、絵付けは浮世絵師や狩野派の画工を雇い入れ、磁器の素地は瀬戸や有田など窯業産地へ発注する分業システムがメインだった。しかし波山は、図案のデザインや絵付けだけではなく、素地も自らつくり、釉薬や顔料の調合も吟味した。また、東京美術学校彫刻科で立体造形や木彫の技法を学んだ波山は、写実主義の影響を受け、立体的な文様を作品に取り込んだ。
板谷波山の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.板谷波山の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.板谷波山の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.板谷波山の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.板谷波山の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
板谷波山 略歴
明治5年(1872) 3月3日、茨城県下館市に生まれる。本名嘉七。生家は醤油醸造業を営む旧家で、父善吉は半癡と号し風流文事を愛し南画を描いた。母は宇多子、波山はその三男である。
明治15年(1882) 7月、父善吉没す。
明治18年(1885) 下館小学校卒業。
明治20年(1887) 上京し成城学校(陸士予備校)に入学。
明治21年(1888) 陸士予備試験の体格検査に不合格、軍人志望を断念、下宿の近所の河久保正名の画塾に通う。
明治23年(1890) 東京美術学校に入学。
明治27年(1894) 東京美術学校彫刻科を卒業。同予備校美術学館彫刻科に教鞭をとり、同時に攻玉舎中学図画経師を兼ねる。卒業制作「元禄美人」(木彫)
明治28年(1895) 瓜生岩子媼の媒酌により福島県出身の鈴木まると結婚、新居を本郷に構える。
明治29年(1896) 9月、白井雨山氏の勧めにより石川県立工業学校木彫科主任教諭として金沢に赴任。31年木彫科廃止のため辞職を決意したが、校長の要望により陶磁器科を担当。この間約7年焼物の研究に没頭した。当時勤川と号した。
明治33年(1900) 9月、母宇多子没す。
明治36年(1903) 陶芸作家を決意し、8月石川県立工業学校を退職、9月上京、東京高等工業学校窯業科嘱託となる。東京田端に住家、工房をつくり、11月3日移住。このころより波山の号を使用す。
明治37年(1904) 平野耕輔氏の指導により、三方焚口の洋風倒焔式丸窯を夫人まると2人で築き、1年3カ月で完成す。ロクロ工人として深海三次郎(有田出身)工作を手伝う。
明治39年(1906) 4月、初窯を焼上げ好成績を得る。
明治40年(1907) 1月、第2回窯は地震の被害をうけ、完全な作品は、「窯変瓢型花瓶」1点のみ。内国勧業博覧会美術部に出品、入賞。出品作「窯変瓢型花瓶」「染付百合花図花瓶」「錆釉八ツ手葉花瓶」
明治43年(1910) 第1回東京美術工芸展審査員となる。深海三次郎中国に招聘され、現田市松(石川県小松出身)後任となる。
明治44年(1911) 9月、窯業共進会へ出品、一等賞金牌を受く。「フキの葉文花瓶」「菊花図飾皿」「蝶貝名刺皿」東京勧業展審査員となる。大正2年(1913) 7月東京高等工業学校嘱託を辞職。マジョリカ陶器を製作。夫人まる協力し作銘玉蘭を用う。東京府工芸展に花瓶を出品、八百円で東京府買上となり、名声を挙ぐ。「彩磁花鳥文花瓶」(東京府工芸展出品)「貝水指」このころインド、ペルシャなどのサラサ文様に興味をもち図案に取入れる。
大正3年(1914) 3月東京大正博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「彩磁花鳥文花瓶」(大正博出品)
大正4年(1915) 東京府工芸図案会審査会委員となる。シカゴ市博覧会に「笹葉文花瓶」を出品受賞。
大正天皇御大典にさいし、東京市献上品「東京十五景」のうち、磁製扇面浅草観音風景額を作る。
大正5年(1916) 「白磁八ツ手葉彫文花瓶」
大正6年(1917) 日本美術協会展覧会に出品金牌第1席を受賞。「葆光彩磁珍果文花瓶」(日本美術協会展)『白磁瑞獣香炉』
大正8年(1919) 「葆光彩磁紅牡丹文花瓶」
大正9年(1920) 「彩磁獅子騎乗童子文大花瓶」
大正10年(1921) 「葆光彩磁草花文花瓶」
大正11年(1922) 3月平和記念東京博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「白磁宝相葉彫文花瓶」(平和博出品)
大正12年(1923) 12月摂政宮殿下御成婚を祝し、久邇宮家献上の「彩磁瑞鳳文花瓶」及全国文武官献上の「彩磁松竹梅花瓶」を作る。「窯変天目茶碗」「肩衝茶入」
大正14年(1925) 大正天皇御成婚25年奉祝の文武官献上文房具中硯屏および筆架をつくる。小型磁器焼成窯を築く。工芸家にて工芸済々会を結成、11月第1回展を高島屋にて開催。「紅棗磁花瓶」(第1回工芸済々会展出品)「葆光彩磁呉須模様鉢」
昭和1年(1926) 「葆光彩磁葡萄文香炉」(第2回工芸済々会出品)
昭和2年(1927) 東京府美術館開館記念聖徳太子奉讃展覧会審査員となる。6月帝国美術院展覧会に工芸部新設され、その委員。7月帝展審査員となる。茨城工芸会を主催し現在に至る。関東在住の陶芸作家の団体東陶会結成され、それを主宰、現在会長として在任、「氷華磁瑞花文大花瓶」「葆光彩磁禽果文大花瓶」(奉讃展出品)「紫金磁珍果彫文花瓶」(帝展出品)
昭和3年(1928) 9月帝展審査委員となり、出品作は院賞を受く。「彩磁草花文花瓶」(帝展出品)「白磁枇杷彫文瓶」
昭和4年(1929) 帝国美術院会員となる。「彩磁唐花文様花瓶」(帝展出品)
昭和5年(1930) 10月フランス政府よりバルム・オフィシェー・アカデミー賞を贈らる。「彩磁草文様花瓶」(帝展出品)
昭和6年(1931) 「彩磁柘榴文花瓶」(帝展出品)
昭和7年(1932) 帝展出品の「彩磁草花文花瓶」政府買上。「彩磁花卉文花瓶」「葆光彩磁草花文花瓶」(帝展出品)
昭和8年(1932) 帝展出品作政府買上。「黄飴瓷文壺」(帝展出品)
昭和9年(1934) 12月帝室技芸員を拝命。
昭和10年(1935) 帝国美術院改組にさいし会員となる。「葆光彩磁草花文花瓶」「窯変鶴首花瓶」(帝展出品)
昭和11年(1936) 「淡紅磁四方香炉」(文展出品)
昭和12年(1937) 6月帝国美術院、帝国芸術院と改組、会員となる。「彩磁名華文花瓶」
昭和13年(1938) 「朝陽磁鶴首花瓶」(文展出品)
昭和14年(1939) 「彩磁水差」(文展出品)
昭和15年(1940) 紀元2600年展覧会審査員となる。「彩磁山草文水差」(2600年展出品)
昭和16年(1941) 学士会館において全工芸美術家による古稀の祝賀宴を受く、長岡市の有志により古稀記念の作品展開催、「彩磁草花文花瓶」(文展出品)
昭和17年(1942) 「白磁延寿文様花瓶」(文展出品)
昭和20年(1945) 4月、戦災により住居工房全焼、下館市に移住し、茨城県筑波郡菅間村洞下に仮工房を設け制作を続行。「黒飴瓷仏手柑彫文花瓶」(日展出品)
昭和21年(1946) 「彩磁唐華文水差」(日展出品)
昭和22年(1947) 「彩磁草花文花瓶」(日展出品)
昭和23年(1948) 「白磁牡丹彫文花瓶」(日展出品)
昭和24年(1949) 「凝霜磁蓮口花瓶」(日展出品)
昭和25年(1950) 東京旧地に工房を再建、現窯を復興。「蛋殻磁鳳耳花瓶」「彩磁美男蔓水指」(日展出品)
昭和26年(1951) 3月、下館市名誉市民に推挙される。「祥桃瑞芝文花瓶」(日展出品)
昭和27年(1952) 「蚕殻磁呉須絵鯉耳花瓶」(日展出品)
昭和28年(1953) 6月下館小学校に胸像建立さる。11月文化勲章を受く。「彩磁桔梗文水差」(日展出品)
昭和29年(1954) 3月、茨城県名誉県民に推挙さる。「黄磁枇杷彫文花瓶」(日展出品)
昭和30年(1955) 「彩磁桜草文水差」(日展出品)
昭和31年(1956) 5月、水戸市にて大観・波山展を開催。「銅燿磁唐花文花瓶」(日展出品)
昭和32年(1957) 「簸釉草文花瓶」(日展出品)
昭和33年(1958) 8月、夫人まる病没。10月、日本橋三越においてはじめて個展を開催。「青磁瓢花瓶」「彩磁花禽文水指」
昭和34年(1959) 4月、東京会館において米寿賀宴催さる。「凝霜鯉耳水指」(東陶会出品)
昭和38年(1963)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師の現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院します。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。波山は1964年東京オリンピックの開幕を楽しみにしていたが、開会式のちょうど1年間前に息を引き取りました。享年92、満91歳没。絶作の作品となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。
板谷波山 青磁竹節香炉 大正末~昭和初期
「青磁」とは中国から伝わった技法による青緑色の磁器のことです。「竹節」は植物の竹の節。「香炉」は香を焚く器で、茶道具の一つでもあります。作品は底にかけてややすぼまった円筒形で、胴にぐるりと巡らされた突起は竹の節を模しています。
器の表面全体に網のように入るヒビは「貫入(かんにゅう)」とよばれる文様で、器の見どころの一つとされます。三つ足で、高さは7.5㎝ほどの両手に収まるサイズ。木製の瀟洒な透かし彫りの蓋は波山の他作品にも多く使われています。すっきりと整った器形と、華美なところのない落ち着きのある風格は波山作品の特質をよく表しています。
板谷波山の買取で当社が選ばれる理由
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板谷波山 査定価格におけるポイント
板谷波山の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
板谷波山先生は葆光彩磁にこだわりさまざまな陶芸作品があります、大壺の作品に高値の査定価格がつきます。
市場では、青磁の香炉をよく見かけます。100万から300万円ぐらいが相場です。
150万円から2000万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
板谷波山の作品は葆光彩磁の作品が評価されます。
板谷波山展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
板谷波山先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ板谷波山の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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