2024年12月31日
高山辰雄の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
御所蔵の高山辰雄の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
高山辰雄の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、高山辰雄の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
高山辰雄の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の高山辰雄のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた高山辰雄の作品を鑑定して買取りいたします。
絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の高山辰雄の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
東山魁夷、杉山寧とともに「日本画三山」とよばれた高山辰雄は、明治四十五年(一九一二年)生まれです。東京美術学校日本画科に入学して、松岡映丘が主宰する画塾、木之華社に入門します。敗戦直後の生活は貧窮を極めて、半年がかりで制作した絵画作品が、第一回日展に落選し、不安と焦りにさいなまれました。
高山辰雄 いだく
この頃、山本丘人にすすめられてゴーギャンの伝記を読み、強い影響を受けます。「それからは貧乏があまりこわくならなかったし、画についても、入選、落選、特選とか離れて、多少自分というものがわかってきたような気がしました。もう色でも形でも自分の好き勝手に描いてやれという覚悟もできました」
(菊地芳一郎編「現代美術家シリーズ1 高山辰雄」より)
昭和二十一年(一九四六年)、第二回日展に「浴室」を出品して特選となります。昭和三十年代から風景画の制作も多くてがけるようになります。日展理事長、日本芸術院会員となり、昭和五十七年、文化勲章を受章しました。
高山辰雄 本人
「私は、別に家族愛を描いたわけではないのです。この世には男がいて女がいて、そして子供がいる。人間はみんな孤独で淋しいものです。だから寄り添う。人間とは何か。私はそれを知りたい」
(「文藝春秋」平成五年八月号)
高山辰雄 海の見える道
高山辰雄の日本画作品は、近くで見ると、輪郭線が判別できないほど茫洋と描かれたものが多く、どうやって描くのか不思議に思わせる。
しかし、少し離れてみると、ものの形がおぼろげに浮かび上がってはっとさせられる。人を描いては、その生命を描き出し、風景を描いては、森や家、画面に登場しない住人の息づかいを感じさせる。道を描いては、日々そこを歩く人々を思わせる。
神秘的で、静寂を感じながら、高山辰雄の高い品格を画面からじわりと感じる事ができる。
高山辰雄の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.高山辰雄の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.高山辰雄の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.高山辰雄の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.高山辰雄の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。
高山辰雄 略歴
1912年
明治45年6月26日、大分県大分市大字大分(現、大分市中央町)の鍛冶業の家の二男として生まれる。幼少より同郷の田能村竹田の墨絵に親しみます。
1930年
昭和5年東京美術学校の受験を家族に許され、上京して日本画家の荻生天泉のもとで一か月ほど受験準備をするが不合格に終わり、大分県立大分中学校を卒業後、東京に住む実姉をたよりに上京。天泉の紹介で東京美術学校助教授の小泉勝爾に指導を受けます。
1931年
東京美術学校日本画科に入学する。
1933年
松岡映丘の画塾木之華社に入り、早くから映丘にその才能を嘱望された。同年日本画会に「冬の庭」を出品します。
1934年
在学中ながら第15回帝展に「湯泉」が初入選。
1936年
卒業制作に「砂丘」を描き、首席で卒業しました。
1937年
松岡映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが34年に結成した瑠爽画社に参加します。
1940年
同会解散
1941年
旧会員を中心として新たに一采社を結成します。
1943年
川崎小虎、山本丘人らにより結成された国土会にも第1回展より出品した。しかし帝展の後を受けた新文展には入選と落選を繰り返し、必ずしも順調な歩みとはいえない状況が続きます。
1946年
春の第1回日展では「子供と牛」が落選。この頃山本丘人よりゴーギャンの伝記を勧められて読み、その生き方に大きな感銘を受けます。
1946年
秋の第2回日展で「浴室」が特選を受賞。
1949年
第5回日展「少女」が再び特選となり、徐々に画壇での地位を確かなものにしていきます。
1951年
第7回「樹下」が白寿賞となり、この時期ゴーギャンの画風に通ずる鮮やかな色彩と簡略化された色面構成の作品を発表する。
1953年
第9回日展「月」、54年第10回「朝」
1956年
第12回「沼」、57年第13回「岑」など、一転して作者の内面性を強く感じさせる心象的風景画を制作。
1959年
日展評議員となってのち、第2回新日展出品作「白翳」により翌年日本芸術院賞を受賞します。
1965年
1964年第7回新日展に出品した幻想的な「穹」により芸術選奨文部大臣賞を受賞。杉山寧、東山魁夷とともに“日展三山”として人気を集め、戦後の日本画を牽引する役割を果たしました。
1962年
第5回新日展に中国南宋時代の画家梁楷の「出山釈迦図」に啓発されて描いた「出山」を出品して以降再び人物をモティーフにします。
1969年
第1回改組日展「行人」。
1969年
同理事。
1970年
日本芸術大賞を受けます。
1972年
日本芸術院会員、第4回「坐す人」。
1973年
常務理事、個展「日月星辰髙山辰雄展」を開催します。
1974年
第6回「冬」75年第7回「地」など量塊的な人物表現を展開します。
1975年
日展理事長(1977年まで)となります。
1979年
文化功労者となります。
1977年
第9回「いだく」、80年遊星展「白い襟のある」。
1981年
第13回日展「二人」。
1982年
文化勲章を受章し、東京芸術大学客員教授となります。
1983年
同第15回「星辰」など、人間存在を鋭く追求した作品を発表。
1985年
2001(平成13)年にも開催し、風景・人物・静物といった森羅万象からなる「日月星辰」をライフワークとした。この間、61年一采社解散後、同会メンバーらと65年に始玄会を結成。
1987年
『文芸春秋』の表紙絵を担当(1999年まで)。
1989年
東京国立近代美術館で回顧展を開催、初めて描いたという牡丹の連作が中国の院体画に通ずるものとして話題を呼びます。
1990年
平成大嘗祭後の祝宴大饗の儀に使用する風俗歌屏風「主基地方屏風」を制作。
1993年
「聖家族1993年」と題した個展を開催、黒群緑を用いたモノクロームの作品群により新境地を示します。
1995年
海外での初めての個展をパリ、エトワール三越で開催。
1999年
構想以来16年の歳月を経て高野山金剛峯寺に屏風絵を奉納。亡くなる前年の第38回日展に「自寫像2006年」を出品するなど、晩年まで制作意欲は衰えなかった。回顧展としては1980年に大分県立芸術会館(神奈川県立近代美術館に巡回)、1984年に山種美術館、1987年に世田谷美術館。
1989年
東京国立近代美術館(京都府京都文化博物館に巡回)、富山県立近代美術館。
1998年
メナード美術館
2000年
日本橋髙島屋(大分市美術館、京都髙島屋、松坂屋美術館に巡回).
2004年
茨城県近代美術館で開催。
2007年
日本画家で日本芸術院会員の髙山辰雄は、9月14日午後4時19分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年95。
2008年
練馬区立美術館で遺作展が開催。
高山辰雄の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.高山辰雄の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
高山辰雄 査定価格におけるポイント
高山辰雄の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
高山辰雄先生の作品は、風景の作品は小さくても高値の査定価格がつきます。
20万円から300万円ぐらいの買取相場です。版画は2万から5万が相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
高山辰雄の作品は晩年の作品が評価されます。
初期の作品は比較的安値の傾向です。
高山辰雄展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
高山辰雄先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ高山辰雄の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年12月30日
加山又造の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
所蔵の加山又造の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
加山又造の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、加山又造の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
加山又造の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の加山又造のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた加山又造の作品を鑑定して買取りいたします。
絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の加山又造の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
加山又造 本人
加山又造は1927年、昭和2年京都府生まれの日本画家です。祖父は四条・円山派の絵師で、父は京都・西陣の衣装図案師で、幼少期から絵を描くのが好きで、1940年、京都市立美術工芸学校に入学します。
1944年、17歳で東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学し、1945年、学徒勤労令による勤労奉仕で赴いた山口県で終戦を迎えました。1949年、美術学校を卒業し、日本画家・山本丘人に師事します。
上村松篁、秋野不矩、師の山本丘人ら13名の画家たちによって結成された創造美術(1948年発足、後の創画会)にて、戦後日本画の革新を担うひとりとして活躍sます。
ラスコーの洞窟壁画から、ブリューゲル、ルソー、ピカソに至るまで、幅広い時代の西洋絵画に大いに触発され、その手法を自身の日本画のなかに現代的な感覚で取り入れていきます。
加山又造 春秋波濤
1959年に石本正、横山操らと発足した「轟会」では、大画面の作品を発表し、1960年代以降の作品には、日本工芸の意匠や技法への関心が顕著に表れ、代表作《春秋波濤》(1966)や《千羽鶴》(1970)など装飾性の高い作風は「現代の琳派」とも称されました。
また1970年代末から本格的に取り組んだ水墨表現は身延山久遠寺大本堂天井画《墨龍》(1984)などに結実しています。その創作意欲と探求心は終生衰えることなく、最晩年にはペンタブレットを用いてコンピュータ・グラフィックスにも挑戦していました。
2003年、平成15年、文化勲章を受章するも、翌2004年に逝去します。没後5年にあたる2009年、国立新美術館にて大規模な回顧展「加山又造展」が開催されました。
加山又造 猫
「私は猫が好きだ、しかし家内は、もっと猫が好きだ。どちらにしても、ふとした時に不思議な神秘感を見せる この崇高なけもの、猫は私の絵の主題として興味がつきないものの一つである」
その言葉通り、画家は飼い猫をモデルに数多くの猫を制作しております。加山家には一番多いときで26頭の猫がいたそうで、その中でも短毛のシャム猫、長毛のベルシャ猫、ベルシャとシャムの交配種であるマラヤンがモデルでした。
加山又造はその毛の一本一本を、同時代の日本画家たちが驚嘆するほどの繊細なタッチで描き、猫の作品で人気を博していました。
加山又造 口癖は
「人の真似をしてはいけないよ」
加山又造 雪の桜島
加山又造の盟友でもありライバルでもあった横山操との二人のつきあいがはじまったのは加山又造が‘冬’を描いた頃だった。
おもしろい話だが、最初二人は火花を散らし合ったという。しかし、二人はすぐウマがあい、以後横山操が53歳で亡くなるまで仲のいい友人同士であり続けた。
加山又造の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.加山又造の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.加山又造の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.加山又造の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.加山又造の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。
加山又造 略歴
1927年
昭和2年9月24日、京都市上京区相国寺東門前町に、西陣織の衣装図案家の父加山勝也、母千恵の長男として生まれる。祖父は京狩野派の画師でした。
1944年
京都市立美術工芸学校絵画科を修了後、東京美術学校日本画科に入学。
1945年
学徒動員で学業を中断するが、翌年再開します。
1949年
同校を卒業、山本丘人に師事する。丘人らが結成した創造美術の第2回展に「風神雷神」を出品するも落選。
1950年
早々より創造美術の研究会に出席、その年の春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選し、研究会賞を受賞する。
1951年
創造美術が新制作派協会に合流、新制作協会日本画部となって以後、同年第15回新制作展で『ライフ』誌でみたラスコー洞窟の壁画に触発されて制作した「原始時代」が新作家賞を受賞、同会会友となります。
1953年
第17回展「月と犀」等四点。
1954年
第18回展「悲しき鹿」「迷える鹿」
1955年
第19回展「駈ける」が連続して新作家賞を受賞。
1956年
同会会員となる。この時期、動物をモティーフにシュルレアリスムや未来派等、ヨーロッパの造形手法を果敢に取り入れた作風を展開、戦後日本画の革新的傾向を代表するものとして大きな注目を浴びました。
1958年
第2回グッゲンハイム賞国際美術展に「飛翔」を出品、川端実、山口長男らとともに団体賞を受賞した。
1957年
その後親交を結んだ横山操を知り、1958年ごろから縣治朗に切金の技術を学ぶ。1959年には村越画廊の主催により横山操、石本正と轟会を結成。この頃より61年第25回新制作展「火の島」等、大画面を中心とした装飾的な画風へ移行。
1965年
大阪・金剛寺所蔵の「日月山水図屏風」に想を得た第29回新制作展「夏冬山水」および翌年の第30回展「春秋波濤」
1967年
第9回日本国際美術展「雪月花」
1970年
第34回新制作展「千羽鶴」など、大和絵や琳派の技法を鋭い現代的感性のもとに展開した作品を発表します。
1973年
日本芸術大賞を受賞。
1974年
創画会発足とともに会員となります。
1978年
東京国立近代美術館の吹き抜けを飾る壁画として「雪・月・花」を八年越しで完成。“現代の琳派”と称され、幅広い人気を集めます。
1970年
この年代には「黒い薔薇の裸婦」「白い薔薇の裸婦」等、繊細な線描による裸婦像で女性美を追求しました。
1970年
代末から末水墨表現に本格的に取り組み、身延山久遠寺本堂天井画「墨龍」(1984年)などを発表。技術的には染色手法からエアガン、バイブレーター噴霧器まであらゆる技法を駆使しつつ、北宋山水に私淑し1990年前後より倣作を行った。その他にも陶板壁画や緞帳、ジャンボ機や客船の内装デザイン、BMW社から依頼されたアートカーのデザインなど、工芸的な仕事に幅広く挑戦している。
1977年
から1988年に多摩美術大学教授。
1988年
から1995年に東京芸術大学教授をつとめます。
1980年
前年の第6回創画会出品作「月光波濤」により芸術選奨文部大臣賞、82年第1回美術文化振興協会賞を受賞。
1995年
平成7年東京芸術大学名誉教授、97年文化功労者となる。同年天龍寺法堂の天井画「雲龍」が完成します。
1998年
東京国立近代美術館で回顧展が開催されました。
2003年
文化勲章受章。
2004年
日本画家の加山又造は4月6日午後10時25分、肺炎のため東京都内の病院で死去しました。享年76。
加山又造の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.加山又造の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
加山又造 査定価格におけるポイント
加山又造の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
加山又造先生の作品は、牡丹、猫、風景の作品は小さくても高値の査定価格がつきます。
500万円から1000万円ぐらいの買取相場です。版画は2万から50万が相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
加山又造の作品は晩年の作品が評価されます。
琳派の作品が高値で取引されます。猫に牡丹があると高値です。
加山又造展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
加山又造先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ加山又造の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
**************************************
弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年12月29日
鯉江良二の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の鯉江良二の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
鯉江良二の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、鯉江良二の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
鯉江良二の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の鯉江良二のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた鯉江良二の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の鯉江良二の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
鯉江良二 本人
「ロクロというのは、心のレコーディングだ!!」
「一年に一作という人はそれでいい。でも僕はさ、タンポポの種がふわっと散るみたいに、たくさん飛ばしたいのさ。孫悟空が山ほどの分身を生むように、やきものを作りたい。」
「あの手この手を使って、たくさんたくさん作ってさ、一生かかって、何か自分の思っていることが一つでもできれば、それでいいんじゃない。で、ああ、あの人は死にましたなあ、と人に言われる。どうってことはないよ。」
鯉江良二
終戦の7年前に常滑という窯業地でうまれた鯉江良二は陶芸家や芸術家の家系ではありません。土管工場のアルバイト、さらに日本タイルブロック社への入社といったところからキャリアをスタートさせています。
戦後の走泥社の活動に刺激を受けた鯉江良二は、1961年、23歳の時に常滑市立陶芸研究所の創設に伴い入所、以降は常滑を中心に主にグループで作品を発表していきました。常滑市立陶芸研究所というのはいわゆる美大というようなものではなく、どちらかというと窯業、技術的な専門学校の要素が強かったようです。
大きな契機となったのは1970年代、30歳を過ぎてインスタレーション的な作品で注目を浴びたことで、衛生陶器を粉砕したシェルベンという粒状の材料を自らの顔でとった型で押し固め釉薬をかけずに焼成した『土に還る』シリーズで注目を集めると、徐々に社会的なメッセージを込めた現代アート的な作品で存在感を高め、そういった流れの1つのピークとして1980年代後半には自身の代表作ともなリマした。反核のメッセージを込めたチェルノブイリシリーズを発表しています。
鯉江良二が特異的だったことの1つには、そういったどちらかというと現代アート的な作品で名を馳せながらも一方では器の仕事も同じように並行して行ったことです。そこには常滑という窯業地出身ということが関係していますが、彼の自由な姿勢の表れでしょう。
1980年後半、50歳頃になると精力的に茶碗の制作するようになりました。今はクラフト系からアート的な陶芸家まで、猫も杓子も茶碗をつくるような状況になっていますが、当時鯉江良二のような作家が茶碗を作り出すというのはなかなか印象的なことでした。茶碗を陶芸家が作るという事は、彼の残した功績ではないでしょうか。
また、現役お人気作家にもかかわらず、1989年には愛知県立芸術大学の助教授にもなり後進の育成も行ないました。更にこのころから海外の美術館や大学、窯業地に招かれて滞在型のワークショップも世界各地で精力的に開催し、これは以降病気で倒れる直前まで続けています。
鯉江良二の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.鯉江良二の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.鯉江良二の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.鯉江良二の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.鯉江良二の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
鯉江良二 引出黒茶碗
引出黒は鯉江良二の得意な技法の一つで、 その数は多数残っているが、個性が 一碗一碗まったく違う作品のように見える。
もちろん鯉江良二の作品には、出来不出来はあるが、胴で一旦締まり、 ほどよく、絶妙に端反りとなっていて端正な姿です。
釉の掛け外しもこれまた絶妙になっていて、見込はたっぷりと、 浜に寄せて来る波のような印象です。
鯉江良二 略歴
1938年
昭和13年、愛知県常滑市に生まれました。
1953年
昭和28年、常滑市立常滑中学校を卒業しました。土管製造所でのアルバイト作業によって右手中指と薬指の第一関節を失いました。
1957年
昭和32年に愛知県立常滑高等学校窯業科を卒業後、日本タイルブロック製造株式会社に入社しました。
1961年
昭和36年、常滑市立陶芸研究所の開設と共に入所しました。
1965年
昭和40年、常滑陶芸作家協会に入会しました。
1966年
昭和41年、独立して開窯しました。
1968年
昭和43年頃よりマネキンや自分の顔を型取りした作品を制作します。
1971年
昭和46年に名古屋の栄公園に顔を型取りして、シェルベン(衛生陶器を粉末にした物)で焼き固めた作品「土に還る」を設置しました。
常滑造形集団を結成して陶壁制作や「土まつり」を開催しました。
1972年
昭和47年、愛知県常滑市奥条天竺に薪窯を築窯しました。
1973年
昭和48年、「証言‐時計」や「証言‐ミシン」を発表しました。
1975年
昭和50年、愛知県常滑市奥条天竺に新たに大型薪窯を築窯しました。
1980年
昭和55年、国際陶芸アカデミー(IAC)会員となりました。
1982年
昭和57年に四角く型取りした土を設置して崩れるに任せた「雨/土 陶」を発表し、後に牧草の種を蒔いて焼成した作品へと発展しました。
1985年
昭和60年に四角い匣鉢に、ラジオや時計等を詰めてシェルベンで焼き固めた作品を「証言」と題して発表しました。
1986年
昭和61年、「磁場シリーズ」を発表しました。
1987年
昭和62年、紙に泥を流し掛けした「泥‐ing」を発表しました。
1989年
平成元年、愛知県北設楽郡設楽町の金子潤の工房を移転しました。愛知県立芸術大学助教授に就任しました。反核を題材とした「チェルノブイリ」を発表しました。
1990年
平成2年、自身の顔をサンドキャスト(砂型鋳造)したガラス作品を発表しました。
1992年ん
平成4年、信楽土を轆轤挽きして縦に切った「西風・東風」を発表しました。この轆轤で挽いた土の内部を見せる手法は、
1994年
平成6年以降にブロンズやアルミによる「森ヲ歩ク」へと発展します。
1993年
平成5年、愛知県立芸術大学教授に就任しました。
1994年
平成6年、岐阜県恵那郡上矢作町に工房を移転しました。
2002年
平成14年、愛知県常滑市奥条天竺に薪窯を築窯しました。器においても昭和40年代には白土で「コロリ」と呼ばれて親しまれた底の丸い湯呑、轆轤挽きの筒を縦に切り開いて横にした「のべ皿」、細長い皿をぶつ切りにして脚を付けた「電車の皿」、高台のない灰釉の茶碗等、従来の器の世界に驚きと刺激を与えています。国内外の展覧会で「マスクの鯉江」、「メッセージの鯉江」として知られており、伝統陶芸、前衛陶芸という言葉に拘らない作風が特徴です。
鯉江良二 土に帰る
自分の顔が土に戻るのを目の当たりにして何を思ったのか、鯉江良二はその場限りのはずだった作品を、半永久的に残る焼成作品として再現した。
きっちり死者の顔をかたどって「生きていた」ことを伝えるデスマスクとは異なり、あらかじめ崩れ、ひび割れた「土にかえる」の顔は、「生きている」ことについて何かを語りかけてくるようだ。
鯉江良二の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.鯉江良二の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます
鯉江良二 査定価格におけるポイント
鯉江良二の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
鯉江良二先生の作品は茶碗の作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から10万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗は使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
鯉江良二の作品は「土に帰る」の作品が評価されます。
オブジェの作品が高値が期待できます。
鯉江良二展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
鯉江良二先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ鯉江良二の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年12月28日
杉本貞光の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の杉本貞光の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
杉本貞光の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、杉本貞光の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
杉本貞光の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の杉本貞光のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた杉本貞光の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の杉本貞光の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
「長次郎風黒茶碗」、「光悦風赤茶碗」、「高麗の井戸茶碗」、「織部茶碗」、「信楽焼の蹲」杉本貞光の陶芸作品には格調の高い作品がずらりと並び、見る人を圧倒します。
陶芸作家として間もなく半世紀がたち、一貫して求め続けてきたのは「時も人も超えた、わびさびの世界」。杉本貞光の陶芸作品への姿勢はけして入賞を求めるためではなく、茶道に適した焼き物作りの志の高い陶芸作品です。その背景には、京都の大徳寺の立花大亀老師との出会いがありました。
33歳のとき、杉本貞光は信楽の古い壷に魅了され、陶芸の世界に足を踏み入れました。当時は列島改造ブームの真っ最中で、建設ラッシュのためビルの内装や外装のレリーフ制作などの仕事に追われていました。
杉本貞光 本人
39歳のとき、「面白い坊さんがいる」と知人に紹介され、京都の大徳寺の立花大亀老師を訪ねました。そして大亀老師に言われました。
「美術館でたくさんの国宝や重要文化財を見ているだろう? あれをどう思う?“侘び寂び” の思想から生まれた美術品はたくさんあるだろう」
千利休などが活躍した時代の美意識である「侘び寂び」は、徹底的に無駄を省いた究極の美です。季節でいえば秋、一日でいえば夕暮れだろうか?
「桃山時代に返りなさい」
大亀老師に言われたこの一言で、目からうろこが落ちた杉本貞光は、目指すのは「侘び寂びの世界」だと決心しました。そのときからレリーフ制作をきっぱりやめ、民芸風の作陶や現代陶芸からも手を引きました。
立花大亀 本人
「地味で渋く、汚らしいのが侘び寂びではありません。粋で品がよく、おおらかで柔らかい。これがわびさびです」と杉本貞光は言う。
立花大亀老師への師事を願い出た杉本貞光は、老師から条件を二つ出された。
「作家活動をやめること」
「愚痴と弁解は言わないこと」
作家活動は己の個性を追究するもので、目標は展覧会で賞を取ることとは、侘び寂びとはかけ離れた世界です。
確かに審査員はその道に詳しい。しかし、それはたった1人の目に過ぎない。何百年も時代を経て来た名品は、数え切れない人の目にさらされ、時代の変化に耐えて評価されてきています。
つまり、『仏の目で選ばれているに近い』。審査員の目よりも仏の目、己の個性よりも普遍的な美、それが侘び寂びの世界だと大亀老師に教えられました。
一言で侘び寂びと言っても「利休の黒茶碗」や「高麗の井戸茶碗」などさまざまな作風があります。一体どれを目指せばいいのか杉本貞光は迷いました。大亀老師の答えは「全部やりなさい」でした。
杉本貞光 黒楽茶碗
赤は光悦写、黒は長次郎写を製作されます。赤に遅れること2年、1990年に貞光は黒楽を発表しました。
以来、あらゆる名品を見るように努め、そこから学び、それに迫るよう努力しました。むしろ迫る努力というより「超える努力」というべきかも知れない。
杉本貞光 志野茶碗
苦労したのは「土探し」。志野焼の「もぐさ土」と出合うまでには10年以上かかったといいます。納得のいく土を探し出し、土に聴く。
「上手に作りたい、自分を表現したい」
という邪念を捨て、土の持つ個性を引き出すことに全身全霊を注ぐのだという。
「侘び寂びの美に気が付いても、それが表現できるかどうかは、また別です。杉本貞光にとっても永遠のテーマです」
寺垣外窯は立花大亀老師が命名
垣外(かいと)とは、垣の外や、屋敷・村落の囲いの外を意味する語です。この語は、近世の大坂では乞食の意味でも使われ、転じて、江戸時代の大坂の4箇所(天王寺、鳶田、道頓堀、天満)に存在した非人村も垣外と呼ばれました。
なんと、お坊さんが付ける名前は遠慮した名前ですね。
関西地方の被差別民の大半は穢多系であったため、これらは特異な存在であり、歴史研究の大きなテーマになっている。このうち、天王寺のものだけが中世に成立したもので、それ以外は江戸時代になってから成立した事が分かっています。
杉本貞光の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.杉本貞光の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.杉本貞光の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.杉本貞光の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.杉本貞光の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
杉本貞光 略歴
1935年
東京に生まれる
1968年
信楽山中に穴窯築窯。茶陶信楽制作開始
1974年
大徳寺立花大亀老師よりご教導を受け今日に至る 沖縄海洋博にレリーフ制作(レリーフ活動終了) 茶陶伊賀の研究制作を開始
1979年
大徳寺如意庵にて個展 裏千家にて個展 長次郎風の黒茶碗、光悦風の赤茶碗の研究制作を開始 高麗物、井戸、粉引の研究制作を開始 茶陶伊賀の制作発表
1988年
香雪美術館にて信楽展出品
1991年
NY・ロックフェラーセンター・ギャラリーゼロにてアメリカ初個展 1992年 吉兆・湯木美術館(大阪)に作品が収蔵
1933年
ミュンヘン・ギャラリー フレッド ハーンスタジオにてドイツ初個展
1994年
エール大学美術館(アメリカ)に作品が収蔵 自然灰釉による彫塑の制作発表 施釉による彫塑の制作発表 光悦風白茶碗の制作発表 古信楽土発見、研究制作発表
2002年
京都・建仁寺晋山記念として井戸茶碗を納める 台湾台北佛光縁美術館にて「中・日・韓国際陶藝生活藝術展」招待出品 韓国利川(イチョン)世界陶磁センターにて「2002国際陶磁ワークショップ」招待出品
2003年
韓国霊岩陶器センターにて韓日陶芸展招待出品。作品が収蔵 東京都庭園美術館にて「現代日本の陶芸・受容と発信」に出品
2005年
滋賀県立陶芸の森陶芸館に作品が収蔵 渋紙手、高麗黒、青磁、制作完成
2006年
伊賀焼専用の穴窯築窯
2007年
志野、織部、制作完成
2008年
クラーク日本美術・文化研究センター館(アメリカ)に作品が収蔵
2010年
蕎麦、伊羅保、制作完成
2011年
野村美術館にて展覧会
2012年
ロサンゼルス・カウンティ美術館日本館(アメリカ)にて作品展示 フランクロイド・ギャラリーにて個展
2013年
猿投、黄瀬戸、制作完成 野村美術館(京都)にて個展
2014年
臨済宗建仁寺派管長小堀泰厳猊下より、戒名・玄覚貞光をいただく
2015年
横浜高島屋で「杉本貞光傘寿横浜展」を開催
2017年
大阪高島屋で「杉本玄覚貞光侘び寂展」を開催
杉本玄覚貞光 井戸茶碗
2014年4月、杉本貞光は戒師・小堀泰巖猊下(臨済宗建仁寺派管長)より玄覚貞光という戒名を いただきました。
「今後もより一層侘び寂の思想を深めるべく、精進を重ねていく所存でおります。」
杉本貞光の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.杉本貞光の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます
杉本貞光 査定価格におけるポイント
杉本貞光の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
杉本貞光先生の作品は信楽の花入水指の作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から10万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
杉本貞光の作品は黒楽茶碗、赤楽茶碗、井戸茶碗の作品が評価されます。
寺垣外窯の箱書きサインの作品が高値が期待できます。
杉本貞光展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
杉本貞光先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ杉本貞光の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年12月27日
鈴木五郎の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の鈴木五郎の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
鈴木五郎の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、鈴木五郎の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
鈴木五郎の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の鈴木五郎のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた鈴木五郎の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の鈴木五郎の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
鈴木五郎 本人
鈴木五郎さんの事がわかりやすかったので、陶芸家の西岡悠さんの言葉を引用します。
「鈴木五郎さんから積極的に何かを教えてくれるということはないんです。ただ、入門するときに、他人より何かひとつずば抜けたものを身につければ武器になるから、この世界で戦っていける、自分はろくろを武器にしてきたから、ここにいる間はろくろの勉強をするのがいいだろう、といわれました。それで、窯の仕事が終わったら、毎日二時間ろくろの練習をしなさい、と。窯にいる三年間はそれを実践して、とてもためになりました。 あと、日曜日は休みだったんですが、山で掘ってきた土を月曜日に鈴木五郎さんにみてもらって、これはああすれば使える、こうしたほうがいいんじゃないか、といろいろアドバイスをもらったのも大きかったです。その経験が天然原料を使って作陶するのに何よりの勉強になりました。五郎さんのところには、若い頃から掘ってきた土がそれこそ倉庫幾つ分もあるんです。たぶん、美濃、瀬戸では入ったことのない山がないくらいじゃないですかね。だから、その意味では、僕の学びたいことが五郎さんのところにはすべてあったんですね。」
型にはまらない独創的な作品を生み出す陶芸家の鈴木五郎は、16歳で作陶をはじめました。
鈴木五郎は若くして頭角を現します。28歳で訪れたアメリカではアートとしての陶芸にふれます。
その後、伝統ある桃山時代の古陶磁器を追求しながらも単なる模倣とはせず、自由な感覚の作品を生み出す姿勢をもち、独創性あふれる技法を生み出し続けました。
限界に挑むかのように作られた巨大な土瓶や壺などからは、土を知りつくす鈴木五郎のこだわりと確かな轆轤の技、土とともに楽しもうという遊び心を作品から見ることができます。
鈴木五郎の独特の織部焼を紹介します。
鈴木五郎 ロスオリベ茶碗
オリベ 伝統と革新
鈴木五郎の代表的かつ独創的な作品が、1993 年に手がけ始めた「ロスオリベ」は、これまでとは異なる作者独自の織部焼です。 本作は「古田織部がもし飛行機で外国に行 ったら何をつくるか?」という自由な発想のもと制作されており、黒・紫・青・朱・黄・ 緑・ピンクの顔料を使ったポップな色彩と形状が特徴の陶器です。胴部には二箇所の窓に烏、ストラあいぷの線がモダンに描かれています。
五利部の紹介
鈴木五郎 五利部1
黄瀬戸の部分
鈴木五郎 五利部2
青織部の部分
鈴木五郎 五利部3
黒織部の部分
鈴木五郎 五利部4
赤織部の部分
上記の「五利部」とは 古希を超えてなお作陶の高みに挑み続けて、現代の織部と畏敬されております鈴木五郎の作品です。
「五利部」とは鈴木五郎の「五」 千利休の「利」、古田織部の「部」から命名したものでもちろん五郎さんの造語だが 一つの器の中に、志野、黄瀬戸、織部のほか 鳴海オリベ、鉄絵オリベ、天然呉須、青瓷など 釉薬・焼成方法までも異なる技法を同時に用いた 唯一無ニの作品シリーズ 複数の技法によって 千利休や古田織部が謳った美にオマージュを捧げて現代の陶芸界に一石を投じる鈴木五郎のオリジナル作品です。
鈴木五郎の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.鈴木五郎の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.鈴木五郎の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.鈴木五郎の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.鈴木五郎の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
鈴木五郎 略歴
1941年
愛知県豊田市に生まれる。
1957年
瀬戸にある愛知県窯業公共職業補導所に入所、作陶を始める。
1962年
日展入選。
1963年
アジア陶芸展出品。 朝日陶芸展静岡県知事賞受賞。
1964年
第50回記念光風会展入選。
1966年
朝日陶芸展最高賞受賞。
1968年
朝日陶芸展優秀賞受賞。
1969年
アメリカ陶芸視察 ロサンゼルスにて個展。
1971年
第3回中日国際陶芸展奨励賞受賞。瀬戸にて独立。
1975年
朝日陶芸展‘75賞受賞。 ロードアイランド美術大学へ招聘される。
1978年
愛知県豊田市に移転、薪窯。
1982年
クランブルック大学院(アメリカ)へ招聘される。
1992年
個展 東京・大阪・京都・横浜 以後国内外個展多数。
2000年
「五郎の宇宙展」 日本経済新聞社主催。
2001年
世界陶磁器EXPO2001韓国 招待出品。 日本陶磁協会賞受賞。
2002年
東京銀座にて日本陶磁協会賞記念展を開催。
2004年
国際美術村アートサロンにて「国際作家三人展」。
2005年
国際美術村アートサロンにて「鈴木五郎 茶陶の世界展」。
2007年
ギャラリー五郎主催・銀座にて「鈴木五郎志野繚乱」。
2009年
髙島屋四店舗において個展同時開催 「東京:黄瀬戸、横浜:呼継、名古屋:織部、大阪:志野」
2015 年
「鈴木五郎-土に生きる 土に遊ぶ-」 (メナード美術館)
鈴木五郎 黄瀬戸茶碗
古瀬戸の流れをくむ淡黄色に発色した灰釉が見事に出ている作品です。黄瀬戸特有の黄色が温かみを感じさせ、決して華やかではないが、日本人の侘び寂びの良さを感じさせる味わいのある茶碗です。鈴木五郎は黄瀬戸の人気もありますので高額査定をさせていただきます。
鈴木五郎の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.鈴木五郎の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
鈴木五郎 査定価格におけるポイント
鈴木五郎の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
鈴木五郎先生の作品は、黄瀬戸、志野の作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から15万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
鈴木五郎の作品は五利部の作品が評価されます。
ロス織部の作品が高値が期待できます。
鈴木五郎展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
鈴木五郎先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ鈴木五郎の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
**************************************
弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年12月26日
東山魁夷の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
所蔵の東山魁夷の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
東山魁夷の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、東山魁夷の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
東山魁夷の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の東山魁夷のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた東山魁夷の作品を鑑定して買取りいたします。
絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の東山魁夷の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
東山魁夷 本人
明治41年、横浜に生まれた東山魁夷は、東京美術学校を卒業してからドイツ留学します。その後、太平洋戦争への応召、肉親の相次ぐ死といった試練に見舞われるが、そうした苦難のなかから風景の美しさに開眼していきます。
戦後はおもに日展を舞台に活躍しました。自然と真摯に向き合い、思索を重ねながらつくりあげられた岩絵具で描く日本画の芸術世界は、日本人の自然観や心情までも反映した普遍性を有するものとして高く評価されています。
東山魁夷 白馬の森
天国から来たのか、白馬は神秘的で妖精のようである。
白い馬は心の祈り
私は風景の中に人物や動物を描き入れた作品は殆ど無いと言ってよい位でしたが、不思議なことに、昭和四十七年の主な展覧会に発表した作品には、白い馬が小さく見えているのです。 この絵もその中の一つですが、その年の日展に出品した大作であります。 ここに描かれた白い馬も、森の木立ちも、現実なものではなく、私の空想から生まれたものです。 さて、この馬は何を表しているのかと、時々、人から聞かれたことがあります。 私は「白い馬は私の心の祈りです」と答えるだけで、見る人の想像にまかせてきました。 あなたは、どのように感じられるでしょうか。
「東山魁夷館所蔵作品集Ⅰ/信濃新聞社」
東山魁夷の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.東山魁夷の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.東山魁夷の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.東山魁夷の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.東山魁夷の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。
東山魁夷 略歴
1908年
明治41年7月8日、横浜に生まれる。本名新吉。
1911年
父が船具商鈴木商店横浜支店長を退職し、神戸に移住したのに伴い転居。兵庫県立第二神戸中学校を卒業。
1926年
(大正15)年東京美術学校日本画科に入学。小堀鞆音、川合玉堂、結城素明らに師事します。同級生には橋本明治、加藤栄三、山田申吾らがいます。
1929年
在学中、昭和4年第10回帝展に「山国の秋」で初入選。翌年第11回帝展に「夏日」で入選し、以後、官展に出品を続けます。在学中、実家のあった神戸に隠棲していた村上華岳の人と作品に惹かれます。
1931年
東京美術学校日本画科を卒業して同研究科に進学。この頃からドイツ留学を志し、翌年からドイツ語を学びます。
1933年
東京美術学校研究科を修了し、同年秋よりベルリンに滞在します。
1934年
ベルリン大学哲学科美術史部に入学し、ドイツ・イタリア中世からルネサンスの美術史およびキュンメル博士による日本美術史の講座を聴講する。35年、父危篤の報を受け、1年間残っている留学を断念して帰国します。
1936年
帝展に出品するが落選。同年の第1回新文展に「高原秋色」で入選し、以後同展に出品を続ける。39年第1回日本画院展に「冬日(三部作)」を出品して日本画院賞第一席を受賞。
194年、1941年と同展で3年連続同賞を受賞します。
1940年
11月日本画家川崎小虎の長女すみと結婚します。
1943年
北京にいる友人の勧めにより奉天、承徳を経て北京へ旅行し、京城を経由して帰国します。
1944年
から1945年まで山梨県、岐阜県、長野県などに疎開します。
1945年
末から千葉県市川市に居を定めます。
1946年
第1回日展に出品するが落選し、同年の第2回日展に「水辺放牧」で入選を果たします。
1947年
第2回日展に「残照」を出品して特選となります。この作品の制作を契機として風景画に専念することを決意します。
1950年
第6回日展に出品した「道」により、画壇における地位を確立するとともに、社会的知名度も高まりました。
1955年第11回日展に「光昏」を出品し、この作品により翌年第12回日本芸術院賞を受賞します。
1959年
宮内庁から東宮御所の壁画制作を依頼され翌年「日月四季図」が完成します。
1962年
4月から7月にかけてデンマーク、スウェーデン、ノルウェ一、フィンランドを写生旅行し、北欧の風景に自己の根源に響き合うものを見出す。
1963年
杉山寧、高山辰雄、西山英雄、山本丘人とともに五山会を設立します。
1965年
日本芸術院会員となる。
1968年
皇居新宮殿の大壁画「朝明けの潮」を完成。翌年この制作と東山魁夷展の業績により第10回毎日芸術大賞を受賞し、この受賞を記念して「東山魁夷展」(毎日新聞社主催、大丸神戸店、大丸大阪店)が開催されます。同年春から秋にかけてドイツ、オース卜リアを旅行。同年11月文化勲章を受章し、また、文化功労者として顕彰されます。
1971年
唐招提寺障壁画制作を受諾し、唐招提寺と鑑真についての研究を始め、山と海を主題に選んで「山雲」「涛声」1975年に完成します。
1975年
唐招提寺障壁画習作展をパリ吉井画廊、ドイツ・ケルン日本文化開館で開催のため渡欧します。
1976年
中国を訪れ、北京、西安、南京、桂州などを歴訪する。この旅以降、水墨表現が試みられ、その成果が青を基調とする彩色画にも認められるようになる。1970年代後半からは、大規模な展覧会を相次ぎ開催します。
1978年
千葉県立美術館で「東山魁夷展」
1979年
東ベルリン国立美術館およびライプチヒ造形美術館で東山魁夷展開催。
1981年
東京国立近代美術館で「東山魁夷展」
1983年
西ドイツのミュンヘン・フェルカークンデ美術館、デュッセルドルフ・クンストハレ美術館、ブレーメン・ユーバーゼー美術館を東山魁夷展が巡回。
1988年
代表作80点による「東山魁夷展」が京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立近代美術館を巡回します。
1989年
平成元年西ベルリン、ハンブルグ、ウィーンで東山魁夷展が開催します。
1993年
「東山魁夷―青の世界―展」が北海道立近代美術館、名古屋松坂屋美術館、姫路市立美術館で開催され、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。その画業は、初期から人のいない風景画を中心に展開され、対象の再現描写を離れて、画面を独立した平面として形や色彩で構成し、心象を表現する姿勢に貫かれていた。学生時代から写生に訪れた長野県に自作、画集など約650点を寄贈します。
1990年
長野市城山公園に長野県信濃美術館東山魁夷館が開館した。文章もよくし、著書に『東山魁夷画文集』全10巻(新潮社1978―1979年)などがあります。
1999年
日本芸術院会員、文化勲章受章者日本画家東山魁夷は、5月6日午後8時、老衰のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年90。
東山魁夷 夕星 絶筆 1999年
夢の中の風景画は、どこかにありそうでどこにもない風景を作り上げた。
これは何処の風景と云うものではない。そして誰も知らない場所で、実は私も行った ことが無い。つまり私が夢の中で見た風景である。 私は今迄ずいぶん多くの国々を旅し、写生をしてきた。しかし、或る晩に見た夢の中の、この風景がなぜか忘れられない。たぶん、もう旅に出ることは無理な我が身に は、ここが最後の憩いの場になるのではとの感を胸に秘めながら筆を進めている。
「東山魁夷未発表原稿」
東山魁夷の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.東山魁夷の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
東山魁夷 査定価格におけるポイント
東山魁夷の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
東山魁夷先生の作品は、風景の作品は小さくても高値の査定価格がつきます。
500万円から2000万円ぐらいの買取相場です。版画は5万から100万が相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
東山魁夷の作品は晩年の作品が評価されます。
魁夷のサインが入ってる画に高値で取引されます。白馬があると高値です。
東山魁夷展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
東山魁夷先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ東山魁夷の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
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骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年12月26日
横山操の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
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横山操 本人
新潟県燕市(吉田町)に生まれ。横山家の養子になり、幼いころから絵を描くことが好きな少年でした。卒業後、画家を志し14歳で上京します。
川端画学校日本画部の夜間部で絵画の基礎を学びました。
昭和15年9月、第12回青龍展に「渡船場」を初出品して入選します。主宰する川端龍子は、この絵を見て、 「これが君と青龍社をつなぐ渡し舟になるといいね」と声をかけたそうです。
挿絵画家から日本画の大家になった川端龍子を目標にしていた横山操さんはその言葉に大変感動し、日本画への想いを新たにしますが、 12月に軍隊に召集され、本格的に絵を描き始める事はできませんでした。
しかし、従軍・ 捕虜時代も絵を描き続け、復員後はすぐに青龍社に入会、渡船場の絵は確かに二人を繋ぎ続け、 横山操さんは川端龍子のもとでいくつもの傑作を生み出します。
横山操 赤富士 15号
横山操は駆け出しの頃ポスターの仕事に携わります。復員後はネオン会社でデザインの仕事をした経験もあって、独特のデザイン感覚を発揮していました。
「実生活から遊離した富士山なんかに興味はない」
と豪語しつつ、後年「赤富士」の連作に取り組むなど、日本画の装飾的表現への関心も示しました。
横山操の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.横山操の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.横山操の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
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A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.横山操の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.横山操の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。
横山操 渡船場 1940年
横山操 略歴
大正9年
1920年、1月25日新潟県西蒲原郡に生れ、川端画学校日本画科に学美ます。
昭和13年
1938年18歳 この年光風会展に「街裏」(油彩)を出品、初入選します。
昭和14年
1939年19歳、川端画学校日本画部に入学します。
昭和15年
第12回青竜展に「渡船場」が初入選したが、この年応召し、終戦までの5年間中国各地を一兵卒として歩いた。戦後さらに5年間のシベリア抑留生活をつづけます。
昭和20年
1945年25際、この年、終戦と同時にシベリア、カラガンダ、23区第9収容所に抑留され、26番炭坑において石炭採掘に従事します。
昭和25年
シベリアから復員。
昭和26年
青竜展で画生活に戻り、「塔」「熔鉱炉」「炎々桜島」などの大作を発表、「炎々桜島」では青竜賞となった。彼の作品の特色であるブラックを強調した線を、画面に縦横に駆使した激烈な作風は、画壇に一時爆発的ブームを引きおこした。しかし、一方ではこのような傾向に対する批判もまたないわけではなかった。春の青龍展に「カザフスタンの女」を出品。杉田基子と結婚します。
昭和27年
1952年32歳、3月5日、長女彩子生る。4月、春の青龍展に「千住風景」を出品。9月、第24回青龍展に「灯台」を出品。
昭和28年
1953年33歳、4月、春の青龍展に「白壁の家」、「横卧」を出品。「白壁の家」は春展賞を受ける。9月、25周年記念青龍展に「ショーウィンド」、「駅前広場」を出品。「ショーウィンド」は奨励賞を受けます。
昭和29年
1954年34歳、 3月、春の青龍展に「青春」、「熱海月明」を出品。「青春」は春展賞を受ける。8月、第26回青龍展に「変電塔」、「舞妓」を出品。「変電塔」は奨励賞を受ける。社友に推挙される。大井庚申塚のアパートに移転。また、不二ネオン会社社長―故瀬川氏の好意により、会社事務所(鶯谷)の2階を借り大作に着手します。
昭和30年
1955年35歳、3月、春の青龍展に「十文字」を出品、春展賞を受ける。この作品は、東京電力火力発電所にある通称―お化け煙突―の投影をもとに描かれた。8月、第27回青龍展に「対話」を出品、奨励賞を受ける。この年、青龍社新人による小品会―踏青会―に6点出品。また「ブランコ」(スケッチ)を描きます。
昭和32年
1957年37歳、1月、朝日新聞社主催第8回選抜秀作美術展に前記「炎々桜島」を出品。3月、春の青龍展に「時化」「樹」を出品、「時化」は春展賞を受ける。6月、取材のため、北海道旅行。7月、毎日新聞社主催、現代美術10年の傑作展(渋谷東横デパート)に前記「川」を出品。8月、第29回青龍展に「塔」「踏切」を出品。「塔」は奨励賞を受ける。この作品は、上野谷中天王寺の五重塔焼失時に取材され描かれた。11月、朝日新聞社主催今日の新人’57展(日本橋白木屋)に前記「樹」「網―部分―」を出品。この年、踏青会に10点出品。また「時化」(未発表)を描きます。
昭和31年
1956年36歳、1月、第1回個展を銀座松坂屋で開き、「網」、「熔鉱炉」、「架線」、「川」、「木」を出品。2月26日、世田谷区に移転。3月、春の青龍展に「ビルディング」を出品、春展賞を受ける。5月、桜島写生のため旅行。8月、第28回青龍展に、「炎々桜島」を出品、青龍賞を受ける。この賞は社人以外の作品を薦賞する第一賞であり、受賞者は28年間のうち操を含む2名だけである。この年踏青会に8点出品。また「舞妓」を描きます。
昭和37年
青竜社を脱退し、無所属となった。以後、日本の伝統的水墨画の発展に意欲を示し、「瀟湘八景」「越後十景」等の作品がある。昭和46年発病し、半身不随となったが、左手で制作をした「武蔵野風景」などの作品もあります。
昭和32年
1957年37歳、1月に朝日新聞社主催第8回選抜秀作美術展に前記「炎々桜島」を出品。3月、春の青龍展に「時化」「樹」を出品、「時化」は春展賞を受ける。6月、取材のため、北海道旅行。7月、毎日新聞社主催、現代美術10年の傑作展(渋谷東横デパート)に前記「川」を出品。8月、第29回青龍展に「塔」「踏切」を出品。「塔」は奨励賞を受ける。この作品は、上野谷中天王寺の五重塔焼失時に取材され描かれた。11月、朝日新聞社主催今日の新人’57展(日本橋白木屋)に前記「樹」「網―部分―」を出品。この年、踏青会に10点出品。また「時化」(未発表)を描きます。
昭和33年
1958年38歳、1月、第2回個展を銀座松坂屋で開き、「夕張炭鉱」、「昭和新山」、「鉄骨」、「家」、「闇迫る」、「仲仕」、「母子」を出品。同月、第9回選抜秀作美術展に前記「塔」を出品。3月、春の青龍展に。四日市港の所見をもとに描かれた「港」を出品。春展賞を受ける。
5月、毎日新聞社主催第3回現代日本美術展に「犬吠」を出品。受賞候補となる。6月、佐久間ダムへ取材旅行、帰途上高地に立ち寄る。8月、大阪大丸にて個展を開く。9月、第30回青龍展に「ダム」を出品。社人に推挙される。10月、吉祥寺みつぎ画廊で開催の素描展に数点出品。11月、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展に前記「塔」を出品。この年、坦々会(日本橋白木屋)に「大正池」、「網」を出品。野生派第1回展(日本橋三柳堂画廊)に「野の夕」、「灯台」を出品。
昭和34年
1959年39歳、1月、青々会(日本橋三越)に「雪峡」を出品。同月、第10回選抜秀作美術展に「ダム」を出品。3月、銀座村越画廊主催第1回轟会―横山操、加山又造、石本正三人展―に「朔原」、「大正池」、「夕映桜島」を出品。同月、春の青龍展に「網」を出品。5月、毎日新聞社主催第5回日本国際美術展に「峡」を出品。優秀賞を受ける。6月、みづゑ賞選抜・新しい水彩15人展(銀座松屋)に「網」を出品。みづゑ準賞を受ける。9月、第13回青龍展に「岳」を出品。この作品は妙義山へ登った時の印象をもとに描かれた。同月、双樹洞画廊主催第1回9月会に「岳」を出品。この年孔雀画廊主催第1回百合会展に「茜」、踏青会に「道」を出品。
昭和35年
1960年40歳、1月、第11回選抜秀作美術展に「峡」を出品。3月、春の青龍展に「送電源」を出品。4月、兼素洞にて小品の個展を開き、「水映」、「朝」、「火の山」、「道」、「流星」、「明ける海」、「波涛」、「茜の道」を出品。5月、第4回現代日本美術展に「波涛」を出品。
6月、新潟県大和百貨店にて個展を開き、前記「熔鉱炉」、「炎々桜島」、「昭和新山」「夕張炭鉱」、「闇迫る」、「家」、「川」、「灯台」他小品数点を出品。同月、現代美術の焦点シリーズ第1回展(日本橋白木屋)に大作「富士」を出品。8月、第33回青龍展に「建設」を出品。この作品は黒部第四ダムに取材し描かれた。同月、東洋美術館画廊主催第1回地上会展に「舞妓」を出品。12月、三鷹市に移転。この時、過去を絶ち新しく出発する事こそ真の芸術家の生き方だと考え、これまでの作品の大半を焼却した。この年、国立近代美術館主催日本画の新世代展に前記「熔鉱炉」、「塔」、「朔原」、「山湖」を出品。また「潮来の夕」「MADO(窓)」を描くこの頃「暁富士」を描きます。
昭和36年
1961年41歳 1月、第12回選抜秀作美術展に前記「建設」を出品。3月、春の青龍展に「船渠」を出品。同月、第2回轟会に「富士雷鳴」、「早春」、「夕原」、「灯台」、「波涛富士」を出品。4月29日、取材のため渡米、約40日間滞在、主にカリフォルニアを回る。5月、第6回日本国際美術展に「黒い工場」を出品。8月、第33回青龍展に「グランドキャニオン」を出品。この年、兼素洞にて横山操・福王寺法林新作2人展を開き、―アメリカ5題―「ニューヨークシティー」、「コロラド」、「ブルックリン橋」、「ヨセミテの滝」、「マンハッタン」―を出品。
昭和37年
1962年42歳、1月、第13回選抜秀作美術展に「波涛富士」を出品。3月、青龍展に「金門橋」を出品。同月、第3回轟会に「イーストリヴァーの朝」、「イーストリヴァーの夕」「ウォール街」を出品。5月、第5回現代日本美術展に「ウォール街」を出品。夏、青龍社脱退。社は第34回青龍展に出品予定の超大作「十勝岳」(高さ8尺×横24尺)を縮小するよう要請するが、これを聞き入れず、このことが脱退の直接原因となる。11月、兼素洞主催第1回荒土会に「荒土耕人」、「叢々富士」、「晴日」を出品。第3回地上会展「晴るゝ日」出品。
昭和38年
1963年43歳、1月、脱退後第1回の個展―生まれ故郷越後の山水を主題にして―(2・4-12東京画廊「海」「雪原」他数点を出品。)2月、神戸高島屋にて個展を開き「白梅」、「紅梅」「赤富士」等を出品。3月、第4回轟会に「紅白梅」、「早春」を出品。5月、第7回国際美術展に「雪峡」を出品。6月、屏風絵展(6・14-19松屋)を開き「瀟湘八景」を出品。この頃青梅に別荘を建てる。7月、小品展(7・15-20関西画廊)11月、第2回荒土会に「伊豆富士」、「武蔵野の朝」を出品。小林一哉堂創立五拾周年記念展「伊豆富士」出品。日比谷公会堂緞帳、リッカービルの壁画を完成。
昭和39年
1964年44歳1月、第15回選抜秀作美術展に前記「海」を出品。3月、第5回轟会に「湧雲富士」を出品する。5月、第6回現代日本美術展に「高速四号線」を出品。同月、ニューフジヤホテルの壁画「赤富士」完成。9月、アメリカ及びヨーロッパに旅行。イタリア旅行中シエナのホテルにて心臓発作をおこす。病状回復後帰途に着くが、途中フィリピン・マニラに立ち寄る。11月、第3回荒土会「ヴェニス」、「湖の秋」、「月下富士」出品。「ウォール街」東京国立近代美術館買上となる。また船原ホテル・ヒルトンホテルの壁画完成。
昭和40年
1965年45歳、前年より心臓病のため休養する。3月、第6回轟会「パリ郊外」、「黎明パリ」出品。6月、病後早々太陽展(銀座日動画廊)に「ふるさと」出品。9月、多摩美術大学で日本画科教授として加山又造と共に実技の指導にあたる。11月、第4回荒土会「イタリアの丘」、「祇王寺の秋」出品。
同月、高燿会展(高島屋)「遠きノートルダム」出品。小林一哉堂画廊主催横山操・加藤東一・麻田鷹三人展「黎明」「凱旋門」「晴るゝ日」出品。
昭和41年
1966年46歳、3月、第7回轟会「水の都」、「朱富士」出品。4月10日、川端龍子死去。龍子の死は横山に「おやじを失ったよう」な悲しみを与えた。5月、第7回現代日本美術展に「万里長城」出品。同月青龍社解散。6月、中国旅行。香港―広州―長沙―武漢―九江―廬山―南昌―上海―北京と回る。北京では10日間滞在し、明の13陵、8達嶺、万里長城等で写生をする。8月、村越画廊主催中国の旅草描展に「東陵の丘」、「夕凪の泊船」、「長城万里」、「柳映」、「飛燕」、「九江風景」、「河南山水」、「天壇」、「霽れゆく長江」、「江畔の街」を出品。11月、第5回荒土会「天壇」、「塔のある風景」出品。同月、日本橋高島屋主催加山又造・横山操二人展「茜山水」、「紅白梅図」、「暁富士」、「富嶽」出品。
昭和42年
1967年47歳、3月、毎日新聞社主催現代日本画三人展―横山操・石本正・加山又造―(神戸そごうデパート)前記「瀟湘八景」出品。10月、名古屋松坂屋にて個展を開き「富士」、「茜」、「残雪富士」等を出品。昭和43年(1968) 48 4月、銀座彩壺堂主催水墨「越路十景」展を開く。5月、第8回現代日本美術展「TOKYO」出品。6月、日本橋高島屋主催第1回球琳会日本画展「遠富士」出品。6月~9月 日本経済新聞社主催近代日本画名作展(於レニグラード―エルミタージュ・モスクワプーシキン両美術館)「送電源(32回青龍展)」出品。11月、第6回荒土会「風渡る」、「遠富士」、「冬の山」出品。
同月、春秋会展に「朝霜(水墨)」、「清雪富士」出品。この年横山操・加藤東一・麻田鷹司3人展に「奥入瀬の秋」を出品。文化庁主催大正・昭和名作美術展に出品。また、千葉県民会館の緞帳を制作。
昭和44年
1969年49歳、11月、轟会10周年記念展(日本橋高島屋)に富士八景(「冬富士」など)を出品。同月、第7回荒土会「紅葉富士」、「朱富士」を出品。この年第2回球琳会日本画展に「黎明富士」、彩壺堂主催彩春会に「峠の道」を出品。
昭和45年
1970年50歳、6月、第3回球琳会に「むさし野」を出品。この年青梅の別荘にアトリエを新築。
昭和46年
1971歳51歳、春、第20回5都展に「暮雪」を出品。4月、神奈川県立近代美術館主催戦後美術のクロニクル展に「雪原」を出品。同月29日、脳血栓のため入院。1週間ほど意識不明が続き、右半身不随となる。8月、伊豆のリハビリテーションセンターに入院するが、本人の強い希望により11月3日に退院。好きな酒を絶ち自宅にて左手で制作にかかる。11月、第8回荒土会に「雪富士」を出品。この年「清雪富士」を描く。昭和47年(1972) 52 2月、東京国立近代美術館主催戦後日本美術の展開展に「塔」を出品。11月、第13回轟会に「静かなる風景」、「月」を出品。この年一哉堂主催芳樹会展「むさし野」出品。この頃雑誌「新潮」の表紙(48年度)12カ月分を制作したり、明治座や歌舞伎座の公演目録表紙を手がける。
昭和48年
1973年53歳、1月、朝日新聞歌俳壇の挿画(水墨)4点を手がける。2月、第9回荒土会に「茜」、「峡」を出品。3月26日 作画中再び脳卒中のため昏倒。これが「絶筆」となる。27日 病状悪化。入院。4月1日 逝去する法名 景享院篁風玄彩操志居士。深大寺に葬る。9月4日-10月7日追悼特別展「横山操の回顧」日本画家横山操は、4月1日脳卒中のため東京都調布市の慈恵医大附属病院で死去した。享年53歳。
横山操 赤富士
横山操の作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。
見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画である。また、同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山操と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山又造であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきました。
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作品の出来・不出来
横山操の作品は晩年の赤富士の作品が評価されます。
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制作年代
横山操先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
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奥田元宋の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の奥田元宋のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた奥田元宋の作品を鑑定して買取りいたします。
絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の奥田元宋の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
奥田元宋 煌(こう)
緑色の夜空に浮かび上がるように輝く山が描かれ、その右ななめ上に浮かぶ月は限りなく新月に近い細さで描いており、山の紅葉は煌々とした明るさが際立ちます。それとは対照に、深い緑で描かれた水面が、山の鏡像を吸い込むかのような闇で演出しており、上下で異なる世界観が形作られおります。 写生を基にして、奥田元宋の心象を強く反映した風景画は、このような風景がさもどこかにあるように思わせながらも、どこかこの世のものとは思えない不思議な場面となっています。奥田元宋の心象山水の境地がよく表された作品です。
奧田元宋 本人
奥田元宋は広島に生まれて、19歳で上京し、遠縁にあたる同郷出身の日本画家の児玉希望の希望画塾に入門します。1936(昭和11)年、日展の前身である文展(文部省美術展覧会)に初入選し、以後、官展(政府主催の展覧会)へ出品を重ねます。戦後は、「元宋の赤」とよばれる赤を基調に、雄大な自然を描いた独自の風景画を確立しました。また、和歌にも秀で、1981年には宮中歌会始の召人に選ばれています。
奥田元宋の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.奥田元宋の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.奥田元宋の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.奥田元宋の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.奥田元宋の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。
奥田元宋 略歴
1912年
明治45年6月7日、広島県双三郡八幡村(現、吉舎町大字辻)に奥田義美、ウラの三男として生まれる。本名厳三。小学校の図画教師、山田幾郎の影響で中学時代に油彩画を始める。同郷の洋画家南薫造に憧れ、広島に来た斎藤与里の講習会などに参加して学びます。
1931年
昭和6年日彰館中学校を卒業後上京し、遠縁にあたる同郷出身の日本画家、児玉希望の内弟子となります。
1933年
自らの画技に対する懐疑から師邸を出、文学や映画に傾倒、シナリオライターをめざします。
1935年
師の許しを得て再び希望に師事し、画業に励みます。
1936年
新文展鑑査展に「三人の女性」が初入選、翌年より児玉塾展に発表。この頃師より成珠の雅号を与えられるが、中国宋元絵画への憧れと本名に因んで自ら元宋と名乗るようになります。
1938年
第2回新文展で谷崎潤一郎の『春琴抄』に想を得た「盲女と花」が特選を受賞。
1942年
この頃より同郷出身の洋画家靉光と親交を結びます。
1944年
郷里に疎開し1953年まで留まり、美しい自然の中でそれまでの人物画から一転して風景画に新境地を開きます。
1949年
第5回日展で「待月」が特選を受賞。
1950年
官学派への対抗意識のもと児玉塾、伊東深水の青衿会といった私塾関係の作家を糾合した日月社の結成に参加します。
1961年
日月社を解散まで連年出品しました。
1950年
この年代の後半にはボナールに傾倒するも、そこに富岡鉄斎に通じる東洋的な気韻生動の趣を見出し、実景を基としながらも一種の心象風景を追求するようになります。
1958年
新日展発足とともに会員となります。
1962年
第5回日展で「磐梯」が文部大臣賞を受賞、さらに翌年同作品により日本芸術院賞を受賞します。
1973年
日本芸術院会員となります。
1962年
日展評議員。
1969年
日展改組に際し理事。
1974年
常務理事に就任。
1977年
より1979年まで理事長をつとめます。
1967年
この頃より歌人生方たつゑに師事して短歌。
1974年
頃より太刀掛呂山と益田愛隣に漢詩を学びます。
1981年
宮中の歌会始の召人に選ばれます。
1975年
第7回日展出品の「秋嶽紅樹」を原点として“元宋の赤”と称される鮮烈な赤を主調に描いた風景画を制作するようになります。
1976年
第8回日展の「秋嶽晩照」。
1977年
同第9回展の「秋巒真如」など幽趣をただよわせる作風を展開します。
1981年
真言宗大聖院本堂天井画「龍」を制作。同年文化功労者として顕彰されます。
1984年
文化勲章を受章。
1996年
平成8年京都銀閣寺の庫裏・大玄関、および弄清亭の障壁画を完成。
2000年
3月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、翌年刊行の『奥田元宋自伝 山燃ゆる』(日本経済新聞社)に再録される。回顧展は97年に広島県立美術館で開催、また2002年から03年にかけて練馬区立美術館、松坂屋美術館、茨城県近代美術館、富山県立近代美術館を巡回して催されている。
2003年
2月15日、日本画家で日本芸術院会員の奥田元宋は2月15日午前0時10分、心不全のため東京都練馬区富士見台の自宅で死去した。享年90。
奥田元宋・小由女美術館展のご紹介
広島県三次市吉舎町出身の奥田元宋と、大阪で生まれ3才から同町で過ごした奥田小由女。
芸術家夫妻の名前を冠する「奥田元宋・小由女美術館」は、夫妻からの作品の寄贈を受けて2006年4月に開館しました。
「元宋の赤」に代表される自然の姿を多彩な風景画で表現し、現代日本画壇をリードしてきた日本画家の奥田元宋。
抽象的な造形美を追求する「白の時代」から、色胡粉による抒情的な表現の「色彩の時代」にいたるまで現代的な人形表現を追求しつつ、現在も第一線で活躍中の奥田小由女は2020年に人形作家として初めて文化勲章を受章しました。
奥田元宋・小由女美術館展のホームページは下記から紹介
奧田元宋 奥入瀬
「元宋の赤」が際立つ大作の奥入瀬
奥田元宋の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.奥田元宋の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
奥田元宋 査定価格におけるポイント
奥田元宋の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
奥田元宋先生の作品は、赤い風景に月の作品は小さくても高値の査定価格がつきます。
100万円から300万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
奥田元宋の作品は晩年の作品が評価されます。
「元宋の赤」と呼ばれる紅葉の作品が高値で取引されます。新緑の風景画も評価されます。
奥田元宋展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
奥田元宋先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ奥田元宋の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年12月24日
辻常陸の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の辻常陸(つじひたち)の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
辻常陸の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、辻常陸の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
辻常陸の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の辻常陸のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた辻常陸の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の辻常陸の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
辻常陸窯は、史上初の磁器の皇室御用窯元に指定されました名窯です。約350年の歴史を持ち、第112代天皇の霊元天皇から賞賛され、辻家三代喜右衛門から始まり今に至るまで、歴代皇室御用達の磁器窯です。
辻家秘伝の復元された技法「極真焼」は九代喜平次の失伝した技術です。その技術が非常に優れているため、1990年(平成2年)の明仁上皇御即位、愛子内親王御誕生など毎回、皇室の重要な慶祝行事では辻常陸窯で焼いた磁器が使われています。そして、辻常陸窯の作品は、世界各地の博物館や貴族の名家に多く収蔵されています。
辻常陸窯
佐賀県有田町に位置する「辻常陸窯」は、古来より皇室や藩主に献上してきました。江戸時代に正式に皇室御用の窯元「禁裡御用窯」と指定された名家であり、代々皇室に納めてきました。現在も皇室御用の磁器を焼いています。「辻常陸窯」は現在は、十五代辻常陸の満喜男氏が継承しています。「辻」は姓で、「常陸」は天皇により与えられた官職名です。
1706年、辻家六代喜右衛門がこの官職を任されて以来、代々世襲で受け継がれています。辻常陸窯は「禁裡御用窯」とも言われ、「裡」は「皇室」であり「禁裡」は「みだりにその中に入ることを禁じる」という意味です。当時の辻常陸窯は徳川家康ですら勝手に入ることのできない聖域でした。1989年に宮内庁により解禁されてからやっと民間にも開放されました。
14代辻常陸 染付桐花双鳳文花瓶
辻家秘伝の復元された技法の極真焼は、1811年に九代喜平次による失伝した技術です。この技術は製品と同質の磁土で一つの匣鉢を作り、その中に製品を納めます。その後に溶けやすい釉薬を塗り、焼きの工程に入ります。匣鉢により完全に気体が遮断されることで、火や煙灰による素焼き部分や釉薬部分の破壊や汚損を防ぎ、真空状態での焼成は暈し染めのような優雅で透明感のある呉須(青藍)色を生みだします。
焼成が完了すると鉄製の槌で匣鉢から製品を叩き割り、中から取り出します。極真焼は皇室に献上するために編み出された技法ですので、門外不出の技術であり、辻常陸窯は、幻の極真焼と呼ばれています。
江戸時代から現代まで継承されてきた辻常陸窯は、350年にわたり皇室との深いつながりを保ってきました。辻家の使命は皇室御用の磁器として全ての技術を継承し、最高品質のこだわりを持つことです。現在も辻常陸窯は有田焼の中で重要な美術的な地位を占めています。
辻常陸の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.辻常陸の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.辻常陸の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.辻常陸の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.辻常陸の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
十四代辻常陸 略歴
1909年
明治42年、白磁発祥の地である佐賀県有田で、350年続く歴史的な窯元『辻家』に生まれます。本名、辻常喜、辻家は仙台藩主伊達綱宗に端を発し、百十二代霊元天皇に至るまで、辻家が生み出すその鮮麗たる磁器を認められ、以後『常陸大掾(天皇直属の家臣)』の官位を賜り『禁裏御用窯元(皇族のみのための窯元)』として現在も皇室へ数々の磁器を献上しています。また国内外の万博にも出品している。 東京工業大学の前身、東京高等工業学校窯業科を卒業。
1947年
昭和22年に十四代 辻常陸を襲名します。
1951年
昭和26年、第二次世界大戦後の、戦後初めてとなる皇室からの御用命を受けます。
1990年
平成2年の明仁天皇の御即位、愛子内親王のご生誕等、皇室の大事な節目の度に御用命を賜り、宮内庁御用達として生涯に渡り皇室と関わってきた。 皇室関係以外にも積極的に制作に打ち込みます。
1985年
昭和60年にはドイツ共和国マイセン市と有田町による姉妹協定の記念に、有田焼代表として贈られたのは、マイセンの鐘と白磁冠火食鳥噴水です。
2000年
平成12年には、英国王室エドワード王子夫人へ作品を献上し、感謝状を賜っている。
2007年
平成19年3月15日、永眠。享年97。
十五代辻常陸 略歴
1939年
14代辻常陸の長男として生まれます。
1958 年
佐賀県立窯業試験場にて第一期研修生として研修 襲名までの間、様々な展覧会に出品、受賞歴有り。
十四代に師事し共に宮中の美術工芸品の制作に関わる宮殿・御所の春飾り盆器制作/菊花御紋章入肩皿制作/菊花御紋章入金盃制作
2008 年
十五代辻常陸を襲名 全国で襲名記念展を開催
2016年
平成28年 陶都有田400年記念作品三羊開泰制作する。
十五代辻常陸 四君子大壺 2017年
辻常陸の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.辻常陸の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
辻常陸 査定価格におけるポイント
辻常陸の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
辻常陸先生の作品は、大壺の作品に高値の査定価格がつきます。
20万円から40万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
食器などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
辻常陸の作品は細かい絵付けの作品が評価されます。
皇室御用達の食器が高値で取引されます。
辻常陸展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
辻常陸先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ辻常陸の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年12月23日
金重素山の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の金重素山の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
金重素山の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、金重素山の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
金重素山の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の金重素山のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた金重素山の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の金重素山の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
金重素山は、1909年3月31日 岡山県和気郡伊部村に備前焼窯元 金重楳陽(慎三郎)の三男として生まれて、七郎左衛門と名付けられました。父の楳陽が亡くなった時は、小学校へ通いはじめた7歳の時でした。 陶芸の道に入ったのは昭和2年、兄金重陶陽の下手間となった18歳の頃です。ようやく窯焚きが任せられるようになったのはそれから14、5年経った頃だったそうです。
13歳上の兄・金重陶陽は、兄であると同時に、父親のような役目を果たしていました。父の楳陽直伝の何ごとも体験で覚えさせる主義に則り、陶陽も特別な指導をせずに窯入れ、窯焚きなどを素山に伝えました。
「我々は貧乏生まれの貧乏育ち、しかし心の貧乏だけはすまいぞ。心が貧しくては作品に品位がなくなる」
と13才年上の陶陽はいい、兄弟というより子供のように可愛がられた。
「慣れない窯入れで、よく素地物を壊したりしたが、兄は決して怒らなかった」
と素山は振り返る。
金重素山 窯変徳利
天才陶工と呼ばれた兄の金重陶陽先生の助手としてスタートしました。
備前焼の名工として人々に愛される陶芸作品を手掛けた金重素山先生の窯変徳利です。
金重素山の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.金重素山の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.金重素山の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.金重素山の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.金重素山の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
金重素山 略歴
明治42年
3月31日、岡山県備前市伊部1531に備前焼窯元金重楳陽(慎三郎)を父として生まれる。本名七郎左衛門。父が幼時に死去したため、兄の金重陶陽に陶芸を学び、
昭和2年
1927年より陶陽の助手として専ら窯焚をつとめる。大本教を信仰し、
昭和26年
陶陽窯を離れるにあたって大本教主出口直日の招請により京都府亀岡市の大本教本部の大本窯、花明山窯を制作の場と定めた。
昭和34年
大本教本部京都府綾部の鶴山窯に築窯して独立。
昭和39年
岡山市円山に登窯を築窯した。桃山時代の伊部焼「緋襷」に魅せられその再現に力を注ぎ、独自の窯を考案して焼成を試み、
昭和40年
電気窯による「緋襷」制作を創案して翌年それを完成させた。
昭和42年
東京日本橋壺中居にて「緋襷」のみの個展を開催した。
昭和45、47年
東京日本橋三越で個展を開催。
昭和49年
山陽新聞文化賞受賞。
昭和53年
天満屋岡山店にて「金重素山展」を開催する。同57年伊部に牛神下窯を築く。
昭和58年
岡山県指定重要無形文化財保持者の認定を受けた。
昭和59年
東京、大阪、名古屋にて「備前 金重素山展」を開催するとともに岡山高島屋で「金重素山展」を開催。
平成2年
松阪屋本店、三越本店にて「傘寿金重素山展」を開催。同年伝統文化保存振興への貢献に対して文化庁長官表彰を受ける。同3年天満屋岡山店にて茶陶展を開催し、同年岡山県文化賞受賞。
平成6年
三木記念賞を同7年備前市功労賞を受賞した。
昭和50年と
昭和54年に日本陶芸展に推薦出品したほか、兄陶陽一門の展覧会に協賛出品しているが、特定の団体に所属せず、茶陶を中心に独自の作陶を続けた。桃山風のおおらかなフォルムと緋襷の焼成により、風格ある作風を示す一方、伝統的備前焼きの進展に寄与した。
平成7年
12月27日備前焼作家の金重素山は12月27日午後5時50分肺炎のため岡山県赤磐郡山陽町の病院で死去した。享年86。
金重素山 朝鮮唐津徳利
粉引・呉須絵・朝鮮唐津・失透釉なども手掛けていただけでなく、信楽を中心に三島手・流釉・天目釉・灰釉なども作陶していたようです。
また、陶芸の思いの根底の部分でも備前焼だけではなく、陶芸作品に対する多角的なアプローチが関係しているのではないかと思われます。兄の陶陽は、アート寄りの思想を抱きながら陶芸の修行を積み重ねていたようですが、弟である素山の方は、お茶を飲むための茶碗というアプローチで実際に使う事を考えて作陶したのではないか。
金重素山の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.金重素山の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
金重素山 査定価格におけるポイント
金重素山の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
金重素山先生の作品は、徳利やぐい呑みの作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から20万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
金重素山の作品は窯変の作品が評価されます。
伊部愚意呑 と書かれた作品は晩年で高値が期待できます。
金重素山展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
金重素山先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ金重素山の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
**************************************
弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
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