2024年11月25日
増田三男の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の増田三男の彫金作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
増田三男の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、増田三男の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
増田三男作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の増田三男のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた増田三男の作品を鑑定して買取りいたします。
工芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の増田三男の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
身近な草花や動物を写生し、その生命感あふれる姿を表現した彫金の重要無形文化財保持者(人間国宝)増田三男は、 埼玉県に生まれました。東京美術学校で清水南山(亀蔵)に彫金の技を学び、卒業後は、陶芸家の富本憲吉から工芸制作においても個性を尊重する姿勢、「模様より模様を造るべからず」の精神を学びました。
身近な草花や、蝶や鹿やウサギなどをモチーフとした装飾模様を、確かな彫金のわざで表現したその作品は、生命感あふれ、移ろいゆく季節や時間、その場の気配までもが感じられます。

増田三男 本人
彫金は、金や銀、銅などの金属に、鏨を用いて文様を彫り込んだり、刻印したりするのに使われる技法です。20世紀から21世紀初頭にかけて活躍した増田三男は、作品の中で金を効果的に使い、日本の四季の自然や動植物を豊かに表現した金工家として知られる。
生涯現役をつらぬき、晩年も、自宅の庭先のアトリエ「三愚亭」で、朝から夕方まで制作に打ち込む生活を続けていましたが、2009年(平成21年)、100歳の天寿をまっとうし他界しました。

増田三男 金彩柳文水指 1989年
増田三男は、生前に「彫金で一番大切なことは鏨(たがね)だ」と語っています。自分で自分用の鏨を作ることに始まり、伝統技術の中に新しい表現を発見することが大切だと考えていました。
増田三男の作品の魅力の第一は、描き出された模様にある。桟橋にとまるシギの姿や、竹林や雑木林、柳の木立など、比較的具象的な意匠がある一方で、蝶、兎、鹿など古典に学びながら紋様へと昇華したモチーフもある。
幾何学的な模様とも見える麦畑の図を見ると、増田の着想がとてもユニークであることがわかる。 作品に用いられた意匠はさまざまであるが、一貫しているのは独自性であり、その背景には「模様より模様を造るべからず」という富本憲吉の思想があった。増田は富本の言葉に従い、自然の写生に基づく模様の創作に取り組んでいたという。両者の関係はものづくりの思想、あるいは師弟関係にとどまらない。

富本憲吉 色繪透香爐 火屋 増田三男
1936年、東京美術学校を卒業し、たまたま足を運んだ国画会展の会場で、富本憲吉の陶芸作品を目にした増田は深い感銘を受けました。富本憲吉はこの国画会工芸部の創設に尽力した陶芸家で、増田は自身も国画会工芸部に出品するようになり、尊敬する富本憲吉に自分の作品を見てもらえることが何よりの励みになりました。
富本憲吉は香炉のための火屋の制作を増田に依頼しており、その数は200点を超える。火屋の意匠は、増田三男が富本憲吉の作品を独自に解釈してつくりあげたものであった。とくに富本憲吉の書からとった文字の意匠は富本も気に入っていたと増田三男はかつて語っている。富本憲吉は増田三男の仕事を高く評価しており、作品の箱書きや解説にも増田三男の名前が出るよう気を配っていた。
増田三男の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.増田三男の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.増田三男の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.増田三男の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.増田三男の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.彫金作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
増田三男 略歴
1909(明治42)年4月24日、埼玉県北足立郡大門村に父伸太郎、母チカの7人兄弟の三男として生まれる。
1924(大正13)年、埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業、埼玉県立浦和中学校、卒業
1929(昭和4)年、20歳で東京美術学校(現、東京藝術大学)金工科彫金部に入学する。大学では清水亀蔵(南山)、海野清らに学びます。
1934年、彫金部を卒業し、さらに同美術学校金工科彫金部研究科にすすみ、1936年同研究科を終了します。
1933年、第14回帝展に「壁面燭台」が初入選する。研究科終了後は同校資料館で国宝をはじめとする文化財の模造制作に従事し、また個人的には柳宗悦が主宰した民芸運動に関心をいだき民芸論を研究した。この頃の工芸関係の公募展は帝展が最高権威であり、また国画会展の工芸部も有力であった。当時国画会工芸部は民芸派の作家が多く活躍しており、帝展の美術品としてのレベルの高さや技術力よりも、実際に生活の場で使える工芸作品が出品されていて、増田三男自身は師である清水南山らが出品していた帝展(のちに文展)と、国画会工芸部の両方に出品しました。
1936年、11回国画会に出品した「筥」2点が初入選をはたしている。この国画会における工芸部門の創設に尽力した陶芸家富本憲吉に図案の指導を受け、以後増田三男は富本憲吉を生涯の師と仰ぐようになる。1939年には第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が特選
1942年の第17回国画会展では「野草文水指」が国画奨励賞を受賞した。戦時中はとくに金属使用の規制や奢侈品等製造販売禁止令などが発布されて金工作家はとくに苦境におちいったが、第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が入賞したことにより金属材料の配給を受け、その技術保存の立場から制作を続けることができた。第二次世界大戦中の1944年、中学のときの母校である浦和中学の美術講師となります。
1976年に退職するまで30年以上にわたって木工芸の授業を担当しました。
1962年、第9回日本伝統工芸展に初出品した「金彩銀蝶文箱」が東京都教育委員会賞を受賞したのを期に、その活躍の場を日本伝統工芸展とするようになります。
1969年、同展出品の「彫金雪装竹林水指」が朝日新聞社賞を受賞
1990(平成2)年、「金彩銀壺 山背」が保持者選賞を受賞しました。
1991年、82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定される。増田の作品は初期の第14回帝展「壁面燭台」(うらわ美術館蔵)や煙草セット(1937年・東京国立近代美術館蔵)等は、鉄の廃材を利用した当時としてはモダンな作品でした。
1940年代後半からは古文化財の模造によって培われた日本伝統の自然をイメージした小作品を生涯にわたって制作した。箱、壺、水指などを、銀をはじめ素銅、真鍮を打ち出し成形し、そこに菟、鹿や鴛鴦、蝶、梅や柳などの身近な動植物を意匠として、それを蹴彫、切嵌象嵌、布目象嵌によって表し、地には魚々子や千鳥石目を施した作が多い。また金や銀の鍍金による彩金の技法によって季節感、自然感を豊かに表現した。
2009年(平成21年)、彫金家で彫金の無形文化財保持者である増田三男は、9月7日、老衰のため自宅で死去した。享年100。

増田三男 鍍金箱 残月狐影 1964年
一見して名工の名作と判断できる 見事な彫金透かし彫りによる彫金飾箱
増田三男の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.増田三男の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
増田三男 査定価格におけるポイント
増田三男の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
増田三男先生の作品は、飾箱、香炉の作品に高値の査定価格がつきます。
市場では、5万円ぐらいが相場です。30万ぐらいの買取相場です。
保存状態
痛み傷など、使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
増田三男の作品は細かい仕事の作品が評価されます。
増田三男展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
増田三男先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ増田三男の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月24日
松田権六の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の松田権六の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
松田権六の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、松田権六の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
松田権六作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の板谷波山のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた松田権六の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の松田権六の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
工芸界の巨匠松田権六は、近代漆芸に偉大な芸術世界を築き上げた作家であり、わが国の伝統工芸の発展にきわめて重要な功績を残しました。 金沢に生まれた松田権六は、加賀蒔絵の伝統を踏まえつつ、正木直彦東京美術学校長や大茶人益田鈍翁との知遇、室町や桃山時代などの古典研究、朝鮮・楽浪漢墓出土の漆器や中尊寺金色堂をはじめとする数々の保存修復をとおして、漆芸の意匠や様式、広範な技法を鋭い洞察と鑑識とで解明し、自らの創作に応用、発展させました。その創作は、まさに近代漆芸の金字塔といっても過言ではないでしょう。

松田権六 本人
松田権六の言葉
「毎日一案は図案を描く。そうするとひと月に30案、1年で365案だから、700、1000案くらいはわけのないことだ。いかに頭の弱い人でも、1000案のあいだに5つから10はすばらしい案があるに決まっている。」

松田権六 蒔絵螺鈿有職文飾箱
松田権六は「漆の神様」を意味する「漆聖(しっせい)」とも呼ばれ、蒔絵の第一人者として文化勲章を受章した人間国宝です。
松田権六 略歴
“うるしの鬼”とも称された漆芸の第一人者松田権六
明治29(1896)年4月20日石川県金沢市に生まれ、既に7歳の時から仏壇職人の兄孝作について蒔絵漆芸を習い始めました。
大正3年石川県立工業学校(漆工科描金部)を卒業し上京、同校教師藤岡金吾の紹介で六角紫水を訪ね、同年東京美術学校漆工科に入学、秋から紫水宅に美校卒業の年まで寄宿しました。
大正8年美校を卒業し、志願兵として1年間入隊する。翌年除隊後、東洋文庫で朝鮮楽浪出土の漆芸品の修理に携わりました。
大正14年、紫水と大村西崖の勧めで並木製作所(パイロット万年筆の前身)に入社し、万年筆やパイプなどに蒔絵を施し世界に広めました。
大正15年、高村豊周、山崎覚太郎らと工芸グループ无型を結成、また、日本工芸美術会結成に参加しました。
昭和2年、並木製作所を退き東京美術学校助教授に就任、この頃、美術校長正木直彦の紹介で益田孝(鈍翁)を知る。
昭和5年、第11回帝展に「多宝塔」を無鑑査出品
昭和8年。には欧州各国へ出張しイギリスではダンヒル商会にパイプの漆加工を指導しました。
昭和11年、日本漆芸院を結成、また、板谷波山、六角紫水らと皐月会を結成します。
昭和6年、帝国議会議事堂御便殿漆工事に携わりました。
昭和14年、には法隆寺夢殿内に新調された救世観音の厨子の漆塗装監督をつとめました。
昭和18年、東京美術学校教授
昭和20年、戦災に遇い自宅を全焼する。戦後は第2回日展から審査員をつとめ、第11回展まで出品したが、日展におけるいわゆる創作工芸になじまずその後日展から離れた。この間、同22年日本芸術院会員となります。
昭和30年、重要無形文化財(蒔絵)保持者に認定され、、社団法人日本工芸会創立に際し理事に就任。以後主に日本伝統工芸展に制作発表を行います。
昭和37年、日本工芸会理事長に就任した。翌38年東京芸術大学を停年退官し、名誉教授となり、同年文化功労者に選ばれました。
昭和39年『うるしの話』(岩波新書)を刊行、同書で翌年第19回毎日出版文化賞を受賞します。
昭和25年、日光二社一寺文化財保存委員会委員となったのをはじめ、国宝中尊寺金堂や正倉院等の保存修理などを指導しました。
昭和49年、日本漆工会結成に際し顧問に就任
昭和51年には文化勲章を受章する。日本と中国の古典技法研究に根ざしながら、漆工芸技術の近代化につとめ豊かで格調高い作品を数多く発表した。代表作に「鶴蒔絵硯箱」(昭和25年、第6回日展)、「有職文蒔絵螺鈿飾箱」(同35年)などがあります。
昭和53年東京国立近代美術館で「松田権六展」が開催される。金沢市、輪島市名誉市民でもあった。没後、6月19日東京都文京区本駒込3-19-17の吉祥寺において、日本工芸会葬(葬儀委員長細川護貞)で葬儀がとり行われました。
昭和61年、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化勲章受章者、東京芸術大学名誉教授の漆芸家松田権六は、6月15日心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年90。
松田権六 蒔絵松桜文棗 1969年
松田の漆芸は古典研究に深く裏付けられ、江戸、桃山、平安、奈良の各時代、さらに中国・朝鮮の文化財にまで研究が及んでいます。
古典研究においても常に制作者としての立場を堅持し、作品意匠や様式などの外的な観察にとどまらず、その構造・技法、使われている用材に至るまで鋭い解明を試み、その成果は松田の作品に見事に結実しています。
「私の師は、物と自然と人である」
と自ら述べているように、その謙虚な心構えと、たゆまない意欲と厳しさがその芸術の基盤となっています。
松田権六の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.松田権六の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
松田権六 査定価格におけるポイント
松田権六の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
松田権六先生の作品は、棗に高値の査定価格がつきます。
市場では、20万円ぐらいが相場です。細かい仕事の作品は200万ぐらいの買取相場です。
保存状態
腕物や棗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
松田権六の作品は細かい漆の蝶貝の作品が評価されます。
松田権六展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
松田権六先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ松田権六の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月23日
藤原啓の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の藤原啓の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
藤原啓の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、藤原啓の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
藤原啓作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の藤原啓のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた藤原啓の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の藤原啓の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
少年時代から文学に熱中し、大正8(1919)年上京し、雑誌の編集執筆に携わります。青年期には、社会主義運動に身を投じたり、詩作や絵画、音楽にも親しみます。昭和12(1937)年、文学や思想に疲れ帰郷します。昭和13年39歳の時から三村梅景、金重陶陽の指導のもと備前焼を始めます。
中世雑器の素朴さに傾倒し、大らかな作風を持ち味とし、日本伝統工芸展を中心に活躍する。昭和44(1969)年には新宮殿に擂座壺1対を献納します。翌年、国指定重要無形文化財保持者に認定されます。

藤原啓 本人
藤原啓は、人の物真似を嫌い、自分自身でつかんだ芸術性に基づいた陶芸作品を創作しました。牧歌的で独特な新感覚の作風を確立し、日本陶芸界に大きな影響を与えました。
「陶芸家はやきものだけではなく、絵画も彫刻も音楽もわからなければ、真の芸術家にはなれない」
積極的でロマンチストな青年であった藤原啓は小説や詩集を出版し、絵を描き、バイオリンを弾き、多くの人々と交遊を持ちましたが、志半ばで、極度の神経衰弱になり、これらすべてのことを断念し、三十八歳で郷里の備前市に帰ることになりました。 そして正宗白鳥の弟で万葉学者の正宗敦夫の勧めで備前焼の道に入っていきます。柔らかで弾力のある備前の土の感触に安らぎを覚え、創作意欲をかきたてられ、希望がもてるようになっていきます。
藤原啓が陶芸家として初窯を焚いたのは四十一歳の時です。 「陶酔」 「豪放」 「無心」 「夢」…… 藤原啓の好きな言葉だった。 素人作家の延長として陶芸を楽しんだ藤原啓はあくまでも単純で牧歌的、おおらかで独特な新感覚の作品を確立し、日本陶芸界に強烈な影響を与えました。

藤原啓 備前徳利
見事な灰被り窯変となっています。 こってりとした灰被りはまるで濡れているかのように滑らかで、 酒豪が手掛ける徳利にピッタリの焼き上がりではないかと思います。 柔らかで吸い付くような灰被り窯変は「早く酒を塗ってくれ」と言わんばかりであり、 所々に出た抜けも酒席を盛り上げる最高の景色となっています。
藤原啓の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.藤原啓の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.藤原啓の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.藤原啓の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.藤原啓の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
藤原啓 略歴
岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身。農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれます。 少年期から俳句や小説の才能を発揮します。
1915年に博文館が手がける『文章世界』に応募した短編が1等を獲得します。
1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文章世界』の編集を担当します。同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始めます。そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。その後は川端洋画研究所に通い、3年間デッサンを学んでいます。
1922年、詩集『夕の哀しみ』を出版
1928年には『ハイネの訳詩集』(生田春月との共著)を新潮社より出版。博文館の『婦人之国』の編集などにも携わりました。
1930年、博文館を辞め作家として独立するが、自己の文学に限界を感じ強度の精神衰弱に陥ります。
1937年、文学を断念し帰郷
1938年、近隣に住む正宗白鳥の弟で万葉学者の正宗敦夫の勧めで、三村梅景に師事し備前陶芸の道を歩み始めます。当時40歳という遅いスタートでした。
1948年に国認定の技術保存資格者(丸技)の資格(備前焼では他に金重陶陽、山本陶秀のみ)を受けたのを機に作陶への生涯を決意します。金重陶陽や北大路魯山人らからも指導を受け、技術向上に邁進しました。特に金重陶陽が先駆となった古備前復興の継承に尽力。桃山古備前の技法を基礎にしながらも、窯の中での自然の変容を生かした近代的な造形が特徴です。師である金重陶陽とは対照的で素朴で大らかな作品が、古くから受け継がれた備前焼の新たな展開を示し、後進へ大きな影響を与えました。
1954年、北大路魯山人の斡旋で日本橋髙島屋にて個展を開く。同年、岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定。
1958年には日本工芸理事に就任。1962年プラハ国際陶芸賞を受賞しました。
1970年4月25日、重要無形文化財「備前焼」(人間国宝)保持者に認定。
1972年、勲四等旭日章を受章。
1976年には備前市名誉市民となる。同年備前市には財団法人藤原啓記念館が設立されており、藤原啓自身の作品や数々の古備前を展示している。
1983年、肝臓ガンのため岡山大学付属病院にて逝去。同日、勲三等瑞宝章を受章しました。

藤原啓 備前茶碗
豪放磊落で優しさが滲み出るような温かな作風で万人に愛されました、藤原 啓の備前茶碗です。陶印や土味などから見て藤原啓の中期頃の作品であると思われます。
藤原啓の中期頃の特徴である、良質の土を用いた非常に柔らかな土味が素晴らしいです。同じ茶碗と重ねて焼き上げられており、直接炎に接した部分はトロトロによく溶けた黄胡麻が、重なっていた部分では一目で土の良さが分かる濃厚な緋襷が出ています。
見込みでも抜群の土味が見られ、柔らかで芳醇な明るい茶色の土味は、備前土の最高峰と言っても差し支えのない素晴らしい色合いです。飾りっ気や小手先の技を嫌い、まるで詩を吟ずるかのようにあるがままの心情を土に乗せた藤原啓らしい、シンプルかつ骨太な造形も素敵です。
藤原啓の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.藤原啓の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
藤原啓 査定価格におけるポイント
藤原啓の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
藤原啓先生の作品は窯変の作品に高値の査定価格がつきます。
1万円から10万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
藤原啓の作品は花入や徳利、ぐい呑みの作品が評価されます。
藤原啓展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
藤原啓先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ藤原啓の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
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2024年11月21日
板谷波山の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の板谷波山の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
板谷波山の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、板谷波山の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
板谷波山作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の板谷波山のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた板谷波山の作品を鑑定して買取りいたします。
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明治5(1872)年、茨城県真壁郡下館町(現・筑西市)に生まれた板谷波山(本名、嘉七、1872-1963)は、開校間もない東京美術学校で木彫を学びました。教師として赴任した石川県工業学校で本格的に陶芸の研究を始め、最新の釉薬技術や西洋のアール・ヌーヴォー図案から多くを学びます。明治36(1903)年、陶芸家として独立することを決心し上京します。東京田端に窯を築き、郷里の筑波山にちなんで「波山」と号しました。
「芸術としてのやきもの」を目指した板谷波山は、卓越した彫刻技術を活かした薄肉彫と、釉下彩による豊かな表現によって「葆光彩磁」などの格調高い独自の作風を確立していきました。昭和9(1934)年に帝室技芸員、昭和28(1953)年には陶芸家として初の文化勲章を受章し、近代陶芸史に大きな足跡を残しています。

板谷波山 本人
近代陶芸の祖・板谷波山は、自分は職人ではなく、「工芸」の分野に「個人作家」の創作という意識を持ち込んだ陶芸作家です。
アーティストだという意識が強かった板谷波山は、1960年には「人間国宝」を辞退しています。
「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」
人間国宝を辞退したということは、芸術家であるということの自負があったことが証明しています。
「私は世の中のことを何も考えないで、土をいじり、窯を燃やしていたい。これが私の志願だ。楽しさは自ずとその中にある。」
「私は何から何まで自分自身でやらないと気が済まないのだ」
という完璧主義者でした。

板谷波山葆光 彩磁花卉文花瓶 出光美術館
昭和3年(1928)頃 高 23.4cm 木蓮や紅梅など、早春に花ひらく植物があらわされています。臙脂(えんじ)、青、淡緑の花々は、端正な薄肉彫(うすにくほり)の上に彩色され、葆光釉(ほこうゆう)の淡くかがやくヴェールに包まれて、朝靄に匂い立つかのようです。明治末期から始められた、波山独自の技法である葆光彩が完成を迎えた頃の本作は、器形と意匠のバランス、葆光釉の淡い光の効果、花々の優美な色あいなど、どこをとっても完成度が高く、波山芸術の到達点といわれています。
葆光彩磁
葆光彩磁は板谷波山による装飾技法です。葆光 釉はいわゆるマット釉の一種です。これを施釉して1,230℃で焼成すると、艶消しの効果によって霧が立ちこめたような幻想的な釉調が得られます。 葆光とは「光を包む・保つ」という意味を持ち、彩磁は「磁胎に描画・彩色する」技法を指します。つまり磁器の表面に加飾したのち、葆光釉をかけて艶消しをすることで淡い光そのものを表現しています。 彩磁で使われる植物や鳥獣などのモチーフは、使う顔料ごとにはっきりと発色します。この上に葆光釉をかけて焼成すると顔料の発色がおさえられ、赤・青・緑・黄など鮮やかな色彩は朝もやの中にあるような自然で柔らかい色調となります。
薄肉彫りと彩色
葆光釉をかけるのは最後の仕上げの段階になります。その前に素地を成形して薄肉彫りという彫作業があります。薄肉彫りとは浮き彫りの一種で、私たちの身近な例では100円硬貨などの貨幣があります。 硬貨の表面をみると、数字や模様が薄く浮かびあがって見えますね。ただし硬貨は機械でプレスして作りますので、薄い凹凸の質感が分かれば薄肉彫りのイメージとしては十分です。 実際の作品はこれを手彫りするわけですが、膨大な時間と労力が必要となります。ただ線を描くだけではなく葉脈の陰影や花びらの立体感、鳥の羽の空気感を表現するため、精緻な彫が施されたあとに素焼きされます。

板谷波山 彩磁瑞花祥鳳文花瓶 1916年 MOA美術館
板谷波山の制作の大きな特徴としては、明治前期までの陶工の常識を破り、個人で本格的な高火度焼成の窯を構えて磁器焼成に挑んだことが挙げられます。しかし、当時窯の焼成は薪によるもので、炎のコントロールが困難で失敗のリスクも大きかった。そのため、板谷波山の作品には唯一無二の名品が多くあったいっぽう、波山は60歳を過ぎるまで借金生活で苦しんでいたという。
また、明治前期の輸出陶磁器の制作において、絵付けは浮世絵師や狩野派の画工を雇い入れ、磁器の素地は瀬戸や有田など窯業産地へ発注する分業システムがメインだった。しかし波山は、図案のデザインや絵付けだけではなく、素地も自らつくり、釉薬や顔料の調合も吟味した。また、東京美術学校彫刻科で立体造形や木彫の技法を学んだ波山は、写実主義の影響を受け、立体的な文様を作品に取り込んだ。
板谷波山の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.板谷波山の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.板谷波山の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.板谷波山の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.板谷波山の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
板谷波山 略歴
明治5年(1872) 3月3日、茨城県下館市に生まれる。本名嘉七。生家は醤油醸造業を営む旧家で、父善吉は半癡と号し風流文事を愛し南画を描いた。母は宇多子、波山はその三男である。
明治15年(1882) 7月、父善吉没す。
明治18年(1885) 下館小学校卒業。
明治20年(1887) 上京し成城学校(陸士予備校)に入学。
明治21年(1888) 陸士予備試験の体格検査に不合格、軍人志望を断念、下宿の近所の河久保正名の画塾に通う。
明治23年(1890) 東京美術学校に入学。
明治27年(1894) 東京美術学校彫刻科を卒業。同予備校美術学館彫刻科に教鞭をとり、同時に攻玉舎中学図画経師を兼ねる。卒業制作「元禄美人」(木彫)
明治28年(1895) 瓜生岩子媼の媒酌により福島県出身の鈴木まると結婚、新居を本郷に構える。
明治29年(1896) 9月、白井雨山氏の勧めにより石川県立工業学校木彫科主任教諭として金沢に赴任。31年木彫科廃止のため辞職を決意したが、校長の要望により陶磁器科を担当。この間約7年焼物の研究に没頭した。当時勤川と号した。
明治33年(1900) 9月、母宇多子没す。
明治36年(1903) 陶芸作家を決意し、8月石川県立工業学校を退職、9月上京、東京高等工業学校窯業科嘱託となる。東京田端に住家、工房をつくり、11月3日移住。このころより波山の号を使用す。
明治37年(1904) 平野耕輔氏の指導により、三方焚口の洋風倒焔式丸窯を夫人まると2人で築き、1年3カ月で完成す。ロクロ工人として深海三次郎(有田出身)工作を手伝う。
明治39年(1906) 4月、初窯を焼上げ好成績を得る。
明治40年(1907) 1月、第2回窯は地震の被害をうけ、完全な作品は、「窯変瓢型花瓶」1点のみ。内国勧業博覧会美術部に出品、入賞。出品作「窯変瓢型花瓶」「染付百合花図花瓶」「錆釉八ツ手葉花瓶」
明治43年(1910) 第1回東京美術工芸展審査員となる。深海三次郎中国に招聘され、現田市松(石川県小松出身)後任となる。
明治44年(1911) 9月、窯業共進会へ出品、一等賞金牌を受く。「フキの葉文花瓶」「菊花図飾皿」「蝶貝名刺皿」東京勧業展審査員となる。大正2年(1913) 7月東京高等工業学校嘱託を辞職。マジョリカ陶器を製作。夫人まる協力し作銘玉蘭を用う。東京府工芸展に花瓶を出品、八百円で東京府買上となり、名声を挙ぐ。「彩磁花鳥文花瓶」(東京府工芸展出品)「貝水指」このころインド、ペルシャなどのサラサ文様に興味をもち図案に取入れる。
大正3年(1914) 3月東京大正博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「彩磁花鳥文花瓶」(大正博出品)
大正4年(1915) 東京府工芸図案会審査会委員となる。シカゴ市博覧会に「笹葉文花瓶」を出品受賞。
大正天皇御大典にさいし、東京市献上品「東京十五景」のうち、磁製扇面浅草観音風景額を作る。
大正5年(1916) 「白磁八ツ手葉彫文花瓶」
大正6年(1917) 日本美術協会展覧会に出品金牌第1席を受賞。「葆光彩磁珍果文花瓶」(日本美術協会展)『白磁瑞獣香炉』
大正8年(1919) 「葆光彩磁紅牡丹文花瓶」
大正9年(1920) 「彩磁獅子騎乗童子文大花瓶」
大正10年(1921) 「葆光彩磁草花文花瓶」
大正11年(1922) 3月平和記念東京博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「白磁宝相葉彫文花瓶」(平和博出品)
大正12年(1923) 12月摂政宮殿下御成婚を祝し、久邇宮家献上の「彩磁瑞鳳文花瓶」及全国文武官献上の「彩磁松竹梅花瓶」を作る。「窯変天目茶碗」「肩衝茶入」
大正14年(1925) 大正天皇御成婚25年奉祝の文武官献上文房具中硯屏および筆架をつくる。小型磁器焼成窯を築く。工芸家にて工芸済々会を結成、11月第1回展を高島屋にて開催。「紅棗磁花瓶」(第1回工芸済々会展出品)「葆光彩磁呉須模様鉢」
昭和1年(1926) 「葆光彩磁葡萄文香炉」(第2回工芸済々会出品)
昭和2年(1927) 東京府美術館開館記念聖徳太子奉讃展覧会審査員となる。6月帝国美術院展覧会に工芸部新設され、その委員。7月帝展審査員となる。茨城工芸会を主催し現在に至る。関東在住の陶芸作家の団体東陶会結成され、それを主宰、現在会長として在任、「氷華磁瑞花文大花瓶」「葆光彩磁禽果文大花瓶」(奉讃展出品)「紫金磁珍果彫文花瓶」(帝展出品)
昭和3年(1928) 9月帝展審査委員となり、出品作は院賞を受く。「彩磁草花文花瓶」(帝展出品)「白磁枇杷彫文瓶」
昭和4年(1929) 帝国美術院会員となる。「彩磁唐花文様花瓶」(帝展出品)
昭和5年(1930) 10月フランス政府よりバルム・オフィシェー・アカデミー賞を贈らる。「彩磁草文様花瓶」(帝展出品)
昭和6年(1931) 「彩磁柘榴文花瓶」(帝展出品)
昭和7年(1932) 帝展出品の「彩磁草花文花瓶」政府買上。「彩磁花卉文花瓶」「葆光彩磁草花文花瓶」(帝展出品)
昭和8年(1932) 帝展出品作政府買上。「黄飴瓷文壺」(帝展出品)
昭和9年(1934) 12月帝室技芸員を拝命。
昭和10年(1935) 帝国美術院改組にさいし会員となる。「葆光彩磁草花文花瓶」「窯変鶴首花瓶」(帝展出品)
昭和11年(1936) 「淡紅磁四方香炉」(文展出品)
昭和12年(1937) 6月帝国美術院、帝国芸術院と改組、会員となる。「彩磁名華文花瓶」
昭和13年(1938) 「朝陽磁鶴首花瓶」(文展出品)
昭和14年(1939) 「彩磁水差」(文展出品)
昭和15年(1940) 紀元2600年展覧会審査員となる。「彩磁山草文水差」(2600年展出品)
昭和16年(1941) 学士会館において全工芸美術家による古稀の祝賀宴を受く、長岡市の有志により古稀記念の作品展開催、「彩磁草花文花瓶」(文展出品)
昭和17年(1942) 「白磁延寿文様花瓶」(文展出品)
昭和20年(1945) 4月、戦災により住居工房全焼、下館市に移住し、茨城県筑波郡菅間村洞下に仮工房を設け制作を続行。「黒飴瓷仏手柑彫文花瓶」(日展出品)
昭和21年(1946) 「彩磁唐華文水差」(日展出品)
昭和22年(1947) 「彩磁草花文花瓶」(日展出品)
昭和23年(1948) 「白磁牡丹彫文花瓶」(日展出品)
昭和24年(1949) 「凝霜磁蓮口花瓶」(日展出品)
昭和25年(1950) 東京旧地に工房を再建、現窯を復興。「蛋殻磁鳳耳花瓶」「彩磁美男蔓水指」(日展出品)
昭和26年(1951) 3月、下館市名誉市民に推挙される。「祥桃瑞芝文花瓶」(日展出品)
昭和27年(1952) 「蚕殻磁呉須絵鯉耳花瓶」(日展出品)
昭和28年(1953) 6月下館小学校に胸像建立さる。11月文化勲章を受く。「彩磁桔梗文水差」(日展出品)
昭和29年(1954) 3月、茨城県名誉県民に推挙さる。「黄磁枇杷彫文花瓶」(日展出品)
昭和30年(1955) 「彩磁桜草文水差」(日展出品)
昭和31年(1956) 5月、水戸市にて大観・波山展を開催。「銅燿磁唐花文花瓶」(日展出品)
昭和32年(1957) 「簸釉草文花瓶」(日展出品)
昭和33年(1958) 8月、夫人まる病没。10月、日本橋三越においてはじめて個展を開催。「青磁瓢花瓶」「彩磁花禽文水指」
昭和34年(1959) 4月、東京会館において米寿賀宴催さる。「凝霜鯉耳水指」(東陶会出品)
昭和38年(1963)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師の現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院します。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。波山は1964年東京オリンピックの開幕を楽しみにしていたが、開会式のちょうど1年間前に息を引き取りました。享年92、満91歳没。絶作の作品となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。

板谷波山 青磁竹節香炉 大正末~昭和初期
「青磁」とは中国から伝わった技法による青緑色の磁器のことです。「竹節」は植物の竹の節。「香炉」は香を焚く器で、茶道具の一つでもあります。作品は底にかけてややすぼまった円筒形で、胴にぐるりと巡らされた突起は竹の節を模しています。
器の表面全体に網のように入るヒビは「貫入(かんにゅう)」とよばれる文様で、器の見どころの一つとされます。三つ足で、高さは7.5㎝ほどの両手に収まるサイズ。木製の瀟洒な透かし彫りの蓋は波山の他作品にも多く使われています。すっきりと整った器形と、華美なところのない落ち着きのある風格は波山作品の特質をよく表しています。
板谷波山の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.板谷波山の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
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板谷波山 査定価格におけるポイント
板谷波山の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
板谷波山先生は葆光彩磁にこだわりさまざまな陶芸作品があります、大壺の作品に高値の査定価格がつきます。
市場では、青磁の香炉をよく見かけます。100万から300万円ぐらいが相場です。
150万円から2000万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
板谷波山の作品は葆光彩磁の作品が評価されます。
板谷波山展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
板谷波山先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ板谷波山の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
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出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月20日
小山富士夫の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の小山富士夫の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
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世界的な陶磁研究者として知られる小山冨士夫(1900~1975)は、若い頃に陶工を志した後、研究者へと転じ、現在の陶磁研究の基礎を築いた人物です。小山冨士夫は1960年(昭和35)の「永仁の壺事件」以後に作陶を再開します。
1973年(昭和48)に陶芸家塚本快示を介して交流のあった二宮安徳市長の招きにより土岐市へ移住し、「花の木窯」を開きます。小山冨士夫は種子島の土による作品を独特の薪窯で焼成するなど、短期間ながら精力的な創作活動を行い、1975年(昭和50)に土岐市において75歳の生涯を終えます。

轆轤を引く小山冨士夫
晩年を土岐市で過ごした小山冨士夫ですが、美濃との関わりは長く、とくに親しかった陶芸家荒川豊蔵との交流により昭和初期からたびたび美濃を訪れていました。
小山冨士夫は中国定窯古窯址の発見で一躍世界的に陶磁学者として知られ、日本中世「六古窯」の研究や正倉院蔵の奈良三彩の調査など古陶磁研究で多くの業績を残していますが、その研究の対象は朝鮮、日本の古陶磁から中近東、ヨーロッパの陶磁器、さらには現代陶芸にまで及びます。

小山富士夫 本人
研究以外でも、小山冨士夫は人間国宝制度の創設をはじめ、文化財行政の骨格を作り上げた一人として大きな役割を果たしました。
小山冨士夫は、石黒宗麿や荒川豊蔵はじめ、塚本快示、中里無庵、金重陶陽、川喜田半泥子、北大路魯山人他の近代の代表的な陶芸家たちと友情を深めながら、小山冨士夫は自ら「窯場荒らし」と称して各地の親しい陶芸家のもとを訪ねて制作しています。各地窯業の伝統や約束事にとらわれず、自由な造形を追求したその天衣無縫な作風は多くの人々に愛されています。

小山冨士夫 種子島茶碗
偶然にも種子島の職員から「種子島にあった能野焼(よきのやき)の再興に協力してほしい」と要請があった。 能野焼は江戸末期から明治の中ごろまで数十年間、擂鉢や甕、片口など生活雑器を焼いていた窯である。それらは土灰釉が施されていたが、首里での荒焼を思い出した小山冨士夫先生は、「無釉の焼締で良かったら、やってもよいが」と返事されると、「先生にお任せします」との承諾を得たので引き受けることになった。
早々に種子島に出向き、能野焼古窯址付近にあった12種類の土を採集して、自宅にある永福窯で試験焼をされた。試験焼の結果、その中から田土を選んだ。土の耐火度は低いが、きめ細かな土が気に入られたのだ。 丹波の窯を参考にして間仕切りのない蛇窯として西ノ表市で築窯することになった。
赤く焼かれた肌と炭化した黒い焼肌との対比を好んだ小山冨士夫が蛇窯で焼く、新たな「種子島焼」を誕生させたのある。自然とともに焼締陶の楽しさ面白さを世に問うた作品群であった。

小山冨士夫 宋赤絵風花酒觴
作者の代名詞ともいえる「花」。宋赤絵を範としながらも古陶磁研究で養われた感性により 小山冨士夫独自の花として開花した盃と言えましょう。
小山冨士夫の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.小山冨士夫の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.小山冨士夫の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
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Q.小山冨士夫の作品は画像で査定していただけますか?
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Q.小山冨士夫の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

小山冨士夫 信楽水指
小山冨士夫の轆轤さばきは、一気加勢に挽きあげ、実に見事なものだったそうです。
その轆轤を引き上げる際の勢いをそのままに感じる水指の畳付には「古山子」のこれまた勢いあるサインが入る。
小山冨士夫 略歴
明治33年(1900)3月24日、岡山県玉島市に父善太郎、母幾無の長男として生まれる。 父善太郎は花蓆を輸出する貿易商でした。東京府立第一中学(現・ 日比谷高校)から東京商科大学(現・一橋大学)に入学したが、大正12年(1923)中途退学、その後さまざまの数奇な体験をへて作陶生活、ついで古陶磁 研究へすすみます。
明治37年 東京・麻布に転居、姉たちと近所のフレンド教会の日曜学校に通い、ボール博士の教えをうけます。
大正8年 3月、東京府立第一中学校(現・日比谷高校)を卒業。
大正9年 4月、東京商科大学予科(現・一橋大学)に入学。
大正12年 6月、東京商科大学を中退し、社会主義運動に共鳴し一労働者たることを決意してカムチャッカへ赴く。関東大震災の報をうけて帰国。フレンド教会の救済事業に従事する。12月、近衛歩兵第三聯隊に一年志願兵として入隊する。岡部長世を知り、陶器に興味をいだきます。
大正13年 11月、除隊。上野図書館に通い、館蔵の陶器関係図書を読破します。
大正14年 2月、友人坂部甲次郎の紹介により瀬戸の矢野陶々に弟子入りする。兄弟子余郷潔につれられて小長曾古窯を訪れる。これが、古陶磁研究への発端となる。9月、近衛歩兵第三聯隊に見習士官として再入隊、11月予備歩兵少尉として除隊。12月、京都山科の真清水蔵六に弟子入りする。清閑寺、山科街道沿いに須恵器窯址を探ります。
大正15年 朝鮮半島、中国に旅行。旅行から帰り、京都市に借家し、独立して作陶する。 昭和2年 3月、住いのすぐ前に石黒宗麿が越してきたため親交を結び、唐三彩などを試作します。
昭和5年 京都・大丸で石黒宗麿と二人展。川喜田半泥子(久太夫)小山の作陶を買いあげる。4月、古陶磁研究を志して上京、東洋文庫へ通い、郭末若、江上波夫、三上次男などをしる。東洋陶磁研究所設立され、所員となります。
昭和5,6年ころ留学中の郭沫若と親交を結び、昭和10年代に中国諸地方の古窯址を踏査をします。
昭和6年 毎日新聞社の本山彦一の古窯調査団に参加し、美濃、瀬戸、常滑の古窯を調査する。東洋文庫奥田誠一の仲介により横河民輔の中国陶磁コレクションの整理にあたります。
昭和7年 奥田誠一の要請により東洋陶磁研究所(日本橋通3丁目松慶ビル)で雑誌『陶磁』の編集にあたり、論文を発表しはじめます。
昭和8年 5月、奥田誠一の推薦で文部省宗教保存課国宝調査室嘱託となる。この年、京都時代の友人の社会主義者を泊めたという理由で碑文谷署に留置されます。
昭和9年 1月、文部省国宝調査室嘱託を辞職。6月~7月、国宝調査室の田沢金吾と薩摩古窯を調査。
昭和15年 10月、中国東北区に旅行、遼陽缸官屯古窯、撫順大官屯古窯を調査。
昭和16年 2月、田沢金吾との共著『薩摩焼の研究』刊。3月~5月、中国古窯址踏査旅行、河北・河南・山東・内蒙古を調査、4月10日に定窯古窯址を発見します。
昭和17年 10月、文部省帝国美術院附属美術研究所嘱託、根津美術館嘱託となります。
昭和18年 7月、『宋磁』刊(聚楽社)。12月、『支那青磁史稿』刊(文中堂)。12月には、いまなお名著として高い評価をうけている『支那青磁史稿』を発表しました。戦後は、東京国立博物館調査員、文 化財保護委員会調査官として陶磁工芸の調査と文化財指定、各種陶磁全集の編集、評論に活躍します。
昭和19年 5月~6月、中国東北区、モンゴル区を調査旅行し、林東の遼上京窯址、赤峰乾瓦窯址などを発掘調査します。『満蒙の古陶磁』刊(満蒙古蹟古物保存協会)。
昭和20年 応召、少尉として朝鮮へ行き敗戦をむかえる。東洋陶磁研究所被災、焼失し、解散します。
昭和21年 日本陶磁協会設立に関与し、三上次男らと瀬戸古窯を発掘調査する。日本陶磁振興会理事昭和24年 文部技官となる。
昭和25年 9月、文化財保護委員会の発足、美術工芸課勤務となる。
昭和26年 4月、東京大学文学部講師(28年3月まで)。6月、神奈川県立近代美術館運営委員(50年10月まで)。
昭和27年 8月、文化財保護委員会無形文化課勤務となる。
昭和29年(1954)の『東洋古陶磁』全6巻(美術出版社)は、数ヶ国語に訳出され、世界的に知られている著作である。『東洋古陶磁』全6巻。河出書房『世界陶磁全集』全16巻の編集に参加。同年秋、「永仁 の壷」重要文化財指定解除問題がおこります。
昭和30年 2月、日本陶磁協会理事に就任。平凡社『陶器全集』全32巻の監修にあたる。
昭和32年 5月~7月、アメリカ国務省からの招きで渡米、各地美術館を歴訪し講演する。
昭和33年 中津川古窯址の発掘調査に参加。
昭和34年 1月、文化財保護委員会無形文化課調査官となる。
昭和35年 3月、第10回文部大臣賞芸術選奨(評論その他部門)をうける。
昭和36年 7月、文化財保護委員会事務局を辞職する。
昭和37年 3月~4月、イギリス国際文化振興会の招きによりイギリス各地を旅行、講演する。秋、正倉院の陶器の調査に参加。10月、神奈川県文化財専門委員となる。 昭和38年 4月、出光美術館顧問となる。
昭和39年 1月、エジプト、フスタート遺跡出土の中国陶磁を調査。3月、欧米諸国を旅行し、8月開催の「現代国際 陶芸展」(朝日新聞社主催)に尽力する。この年から鎌倉の自宅で再び作陶をはじめる。
昭和40年 3月、文化財専門審議会専門委員。4月~5月、中国政府より招かれ、新中国の各地を訪問、戦後発見の新資料を調査。
昭和41年 2月、佐野美術館理事に就任。4月、和光大学教授会会員。5月、日本工芸会副理事長となる。同月、中国美術史研究日本学術代表団の一員として中国各地を旅行する。鎌倉の自宅に永福窯を築窯。
昭和42年 4月、和光大学教授。6月、日本工芸会副理事長となる。
昭和43年 3月~4月、フィリッピン美術史学会の招きによりマニラで開かれた陶磁交易ゼミナールに参加。タイ、シンガポール、ジャカルタ、バリ、サラワクのクチン、台湾などの窯址を調査。
昭和44年 7月、国際芸術見本市協会理事となる。9月台北の故宮博物院を訪問、汝官窯を研究、「日本にある中国陶磁」について講演する。 昭和45年 3月、台北・故宮博物院で「西方各国出土の中国陶器」と題して講演、蒋介石と会見する。
昭和46年 4月、勲三等瑞宝章をうける。
昭和47年 8月~9月、ヨーロッパ旅行。11月、神奈川文化章受賞。土岐市に花の木窯築窯。
昭和48年 3月、和光大学教授を退職。5月、花の木窯初釜。同月、古田紹欽と柊画廊で二人展。6月、「現代日本の伝統工芸」展開催のため中国を訪問。7月、東洋陶磁学会発足し常任委員長となる。秋、韓国を訪問。 昭和49年 11月、日本橋壷中居において「作陶10年」展を開く。 昭和50年 4月、「小山冨士夫・岑一、書と陶芸」展を銀座松屋で開催。「花ノ木窯作陶展」(グリーンギャラリー)。7月~8月、社会保険中央病院に入院。10月7日、心筋障害で急逝。
昭和49年11月、日本橋壷中居において「作陶 10年」展を開催しました。

小山冨士夫 紅毛茶碗
紅毛とは古来、茶の湯文化で言い習わされているオランダ・デルフト焼の和名。 小山冨士夫先生は、欧州で出会ったデルフト陶に魅せられ、茶碗に限らず、水指や酒器でも、好んでこのブルーと黄色が織りなす紅毛の作品を作りだした。 真っ白な化粧土の上には、透き通るような青色と、黄色が交互に配されています。
特に、口縁には呉須を用いたのか、他で見られるものよりも深い藍色が乗って全体を引き締めている。 一部釉が流れているのも、色の流れる幅やリズムが出て面白くなっている。 茶室に光が射しこんだような明るさを灯してくれるだろう。
小山冨士夫の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
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5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
小山冨士夫 査定価格におけるポイント
小山冨士夫の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
小山冨士夫先生の種子島焼にこだわりさまざまな陶芸作品があります、水指やぐい呑みの作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から30万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
小山冨士夫の作品は茶碗の作品が評価されます。
小山冨士夫展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
小山冨士夫先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ小山冨士夫の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
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