2025年3月4日
猪原大華の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
所蔵の猪原大華の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
猪原大華の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、猪原大華の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
猪原大華の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の猪原大華のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた猪原大華の作品を鑑定して買取りいたします。
絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の猪原大華の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

猪原大華 静日
猪原大華は、福山市神辺町の生まれます。画家を志して大阪に出て、同郷で5歳年長の日本画家の金島桂華の知遇を得ます。大正7の1918年に京都市立絵画専門学校に入学して、同校在学中の大正10(1921)年 第3回帝展に《鷄》が初入選します。
土田麦僊に傾倒し、麦僊らの主導する国画創作協会にも参加しました。土田麦僊没後は、大学時代の師匠の西村五雲の晨鳥社に入ります。戦後は日展に出品して、昭和29年の1954年に、第10回日展で《池》が特選に選ばれ、続いて昭和32年の1957年の第13回日展出品作《梅》も特選を受賞します。
猪原大華の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.猪原大華の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.猪原大華の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.猪原大華の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.猪原大華の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

猪原大華 部屋の花
猪原大華の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.猪原大華の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
猪原大華 査定価格におけるポイント
猪原大華の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
猪原大華先生の作品は、花鳥画の作品に高値の査定価格がつきます。
2万円から15万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
猪原大華の作品は、小禽の描かれたの作品が評価されます。
額装の仕立てが良いと評価されます。
猪原大華展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
猪原大華の作品は、晩年の作品が高値で取引されております。
※このように同じ猪原大華の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
猪原大華 略歴
1897年
明治30年2月17日広島県深安郡に生まれます。本名は寿。
1918年
京都市立絵画専門学校に入学します。
1921年
在学中、第3回帝展に「群鶏」を出品し初入選します。
1923年
卒業とともに同校研究科に進みます。
1929年
退学、同校の嘱託教員となった。翌年3月福田平八郎、山口華楊に同道して1ヶ月間中支へ旅行し、8月に京都市立美術工芸学校へ嘱託教員として転勤しています。
1937年
正教諭となります。
1950年
依願退職し、翌年京都市立美術大学の専任講師なります。
1958年
助教授になります。
1963年
教授となります。
1969年
広島私立比治山短大教授となります。
1974年
京都嵯峨美術短大教授をつとめていた。絵は初め土田麦僊に学び、麦僊没後西村五雲の晨鳥社に移ります。
1938年
西村五雲が没すると、山口華楊とともに塾の指導にあたった。帝展・文展・日展を中心に活躍します。
1954年
と1957年に特選・白寿賞を受賞します。
1960年
会員となります。審査員を4度務めます。
1968年
評議員になります。
1974年
参与となります。
1964年
紺綬褒賞を受章します。
1972年
第4回日展の「浄池」で総理大臣賞。
1974年
芸術院恩賜賞を受け、勲三等瑞宝章を受章した。また京都市文化功労賞、京都府美術工芸功労賞なども受け、その功績を認められている。京都派の流れを汲み花鳥花木図を得意としたが、装飾的画題を荒いタッチで処理した独特の画風を展開した自然観照に基づいた穏健な画風と枯淡な色彩で知られており、写実を越えた現代花鳥画の方向性を導く物として期待され、装飾的画題を荒いタッチで処理した独特の画風を展開しました。
猪原大華 画歴
1921年
第3回帝展 「郡鶏」
1922年
第4回帝展 「七面鳥」
1925年
第5回国画創作協会展 「干鰈」
1926年
第6回国画創作協会展 「果樹」
1927年
第8回帝展 「若桐」
1928年
第9回帝展 「残る夏」
1930年
第11回帝展 「桃」
1931年
第12回帝展 「牡丹花」-土田麦僊研究所、山南塾となる-1932年 第13回帝展 「春苑」
1933年
第14回帝展 「秋初むる小鳥」京都市美術館記念展 「鉄剪花」
1934年
第15回帝展 「水禽図」第1回京都市展 「後庭浅春」 緑賞
1936年
文展鑑査展 「秋趣」-6月10日麦僊死去、塾閉校-
1937年
-西村五雲塾晨鳥社入塾-
1938年
第2回新文展 「閑日(農具と鶏)」9月5日 五雲死去-塾閉校、9月再興晨鳥社入塾-
1940年
2600年大毎展 「棕梠」秋 紀元2600年奉祝美術展覧会 「首夏」第6回京都市展 「鶏頭」
1941年
第7回京都市展 「椿」
1942年
第8回京都市展 「鶏」 緑賞
1943年
第6回新文展 「鶏舎」
1946年
第2回日展 「鶏」第1回京都市展 京展と改称
1947年
第3回日展 「牡丹」朝日新聞社主催総合現代展(招待)
1948年
第4回日展 「蓮池」第2回 朝日現代展(招待)京都新聞社現代展(招待)
1950年
第1回全関西総合展 「静物」 佳作賞
1951年
第7回日展 「河骨の咲く池」
1952年
第8回日展 「池と材木」京展再出発 「池畔」 紅賞
1953年
第9回日展 「樹間」
1954年
第10回日展 「池」 特選 白寿賞3月 日本画賞 美術評論社
1955年
第11回日展 「池」 無鑑査
1956年
第12回日展 「月」
1957年
第13回日展 「梅」 特選 白寿賞
1958年
第1回新日展 「竹」 委嘱
1959年
第2回新日展 「篁」 審査員滋賀県展 審査員
1960年
第3回新日展 「水」 会員
1961年
第4回新日展 「池」京展 審査員
1962年
第5回新日展 「樹」大阪関西総合展 審査員
1963年
第6回新日展 「池」京展 審査員東京朝日主催選抜秀作展 「樹」(招待出品)(東京三越)
1964年
第7回新日展 「白梅」第2回朝日秀作展 「水草の池」(招待)東日大毎国際展(招待)紺綬褒賞受章
1965年
第8回新日展 「暖」東日大毎展(現代)(招待)
1966年
第9回新日展 「河骨」 審査員京展 審査員大毎主催国際展(招待)
1967年
第10回新日展 「庭の椿」大毎現代展(招待)東京高島屋にて第1回個展
1968年
第11回新日展 「梅花」 評議員京都府主催 素描展
1969年
第1回改組日展 「黄葉」 評議員京展 審査員
1970年
第2回改組日展 「秋の陽」 評議員
1971年
第3回改組日展 「老梅」 審査員 評議員京展 審査員
1972年
第4回改組日展 「浄池」 総理大臣賞、評議員
1973年
第5回改組日展 「清明」 (芸術院恩賜賞を受賞)評議員
1974年
第6回改組日展 「若い松」 参与勲三等瑞宝章を受章富山県展 審査員
1975年
第7回改組日展 「松」 参与京都市文化功労者賞滋賀県展 審査員
1976年
第8回改組日展 「慈光」 参与
1977年
第9回改組日展 「鯉」 参与京都府美術工芸功労者賞を受賞 京都朝日画廊にて個展
1978年
第10回改組日展 「悠泳」 参与 京都美術館評議員となる。
1980年
日本画家で日展参与の猪原大華は、2月5日午前零時15分、胃ガンのため京都市中京区の丸太町病院で死去した。享年82。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2025年3月3日
石川晴彦の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
所蔵の石川晴彦の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
石川晴彦の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、石川晴彦の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
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絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の石川晴彦の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

石川晴彦 観静音菩薩
京都府与謝郡に生まれます。本名は利治。1914年の大正3年に、京都市立美術工芸学校絵画部に入学します。1918年の大正7年、同校を中退して、上京を志しますが、途中京都で第1回国画創作協会展を見て感激します。上京を中止し、翌年入江波光の最初の弟子となります。
デューラー、ホルバインにひかれ細密描写を試みます。1923年の大正12年に、同志と結成した生作社展によって村上華岳に認められます。1924年の大正13年、1926年の大正15年に国画創作協会展に連続入選します。
1928年の昭和3年国画創作協会解散の後を受けて結成された新樹社の会員となりますが、翌年の同会解散後は専ら個展による活動を続けます。この頃より村上華岳の影響を受けた水墨作品を制作します。1936年の昭和11年妻の病死を機に水墨の仏画を描き始め、これにより高い評価を受けます。1937年の昭和12年頃から晴彦の画号を用います。
昭和後期まで活躍した日本画家。入江波光、村上華岳の両巨匠に師事し、特に村上華岳から受けた仏画の影響は 石川晴彦の作品から多分に見て取る事が出来きます。
石川晴彦 は西洋の中世宗教画を研究して、仏教を学び座禅をし、古画や仏像を見て歩きました。師の影響を受けながらも、自分なりの仏画を完成させる為にただひたすらに努力を積み重ねました。そんな石川晴彦が描く仏画はどこか西洋的な情緒を漂わせながらも、単なる宗教画ではない人間的な温かみと、安らかで清浄な印象を感じさせます。

石川晴彦 不動明王
石川晴彦の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.石川晴彦の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.石川晴彦の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.石川晴彦の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.石川晴彦の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります
石川晴彦の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.石川晴彦の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
石川晴彦 査定価格におけるポイント
石川晴彦の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
石川晴彦先生の作品は、仏画の作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から20万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
石川晴彦の作品は、観世音菩薩の描かれたの作品が評価されます。
表装の仕立てが良いとと評価されます。
石川晴彦展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
石川晴彦の作品は、晩年の作品が高値で取引されております。
※このように同じ石川晴彦の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
石川晴彦 略歴
明治34年
1901年、京都生まれの画家で、本名は利治といいます。入江波光、村上華岳に師事し、仏画を多く手掛けたことで知られております。彼の作品の中には、村上華岳よりも明るめの色調を使った仏画が多いように思われます。
大正8年
入江波光に師事した後、デューラーやホルバイン風の細密描写を試みるようになります。
大正12年
『父母の肖像』などの作品が博覧会で賞を受けたことや、入江波光らから賛助を得たことによって、「生作社」というグループを結成します。そして、グループ展を開催し、村上華岳に認められることになります。その後、第4回国画創作協会展に入選し、「老父」という作品は、村上華岳が買い上げたということです。
昭和11年
妻の静子が亡くなってからは、仏画や水墨画の制作に没頭してゆきます。
昭和55年
享年78歳でこの世を去ることになります。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2025年2月28日
岡本神草の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
所蔵の岡本神草の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
岡本神草の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、岡本神草の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
岡本神草の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の岡本神草のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた岡本神草の作品を鑑定して買取りいたします。
絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の岡本神草の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

岡本神草 口紅 1916年
若くして亡くなっため、充分な創作活躍はできなかった。作品はいずれも濃艶な雰囲気の女性像の美人画で、成熟した女性の美しさや舞妓の持つ人工的な美しさをモティーフにして独自の作風を発表しました。
菊池契月に師事して、10代半ばで卓越した技術で花鳥画を制作した後、竹久夢二に魅了されて雑誌などに掲載された絵画作品を模写したり、夢二風の少女の絵などを描いていました。
大正9年の第3回国画創作協会展には、舞妓をモティーフとし、心理的な隈というべき陰影を施すことにより,神秘的な存在感を出した作品の《拳けんを打てる三人の舞妓の習作》を出品しています。
岡本神草は将来を期待され、その後に女性を描いて近代京都画壇で活躍していた菊池契月に師事し,昭和に入ってからは,かつてのような官能性を前面に押し出すのではなく,そこはかとなく漂わせるような作品に変化します。しかし,十分な展開を見せる前に,惜しくも昭和8年の1933年に38歳の若さで亡くなりました。
岡本神草庄の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.岡本神草の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.岡本神草の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.岡本神草の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.岡本神草の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります
岡本神草の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.岡本神草の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

岡本神草 遊女遊戯 1932年
岡本神草の言葉を紹介します。
「藝術は完成の刹那に生命を失ふ、永久に完成せざる迄の過程が藝術生命の進展の全意味である。永遠に完成せざる藝術は無限に進歩する」
岡本神草 査定価格におけるポイント
岡本神草の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
岡本神草先生の作品は、衣装が細かく大きな作品に高値の査定価格がつきます。
50万円から200万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
岡本神草の作品は、太夫や芸妓の描かれたの作品が評価されます。
内面的な表情の美人が描かれていると評価されます。
岡本神草展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
岡本神草の作品は、初期の作品が高値で取引されております。
※このように同じ岡本神草の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
岡本神草 略歴
1915年
大正4年に、京都市立美術工芸学校絵画科卒業。同窓生であった甲斐荘楠音や入江波光、玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」の結成に参加します。
1918年
大正7年に、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業します。第1回国画創作協会展に「口紅」が入選。甲斐庄楠音の「横櫛」とともに入賞候補に挙げられる。このとき、「横櫛」を推した村上華岳と「口紅」を推した土田麦僊とが互いに譲らず、結局、竹内栖鳳の仲裁で金田和郎の「水蜜桃」が受賞します。
1920年
大正9年に、国展に「拳を打てる三人の舞妓の習作」を出品、評価を高めます。 「挙を打てる三人の舞妓の習作」
1920年
から1921年の大正10年に、第3回帝展に「拳を打てる三人の舞妓」を出品 「拳を打てる三人の舞妓」
1922年
大正11年に、九名会(福村祥雲堂主催)参加
1928年
昭和3年に、第9回帝展に「美女遊戯」が入選 1932年(昭和7年) – 第13回帝展に「婦女遊戯」が入選 1933年(昭和8年) – 脳溢血により死去。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
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骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
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2025年2月26日
甲斐庄楠音の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
所蔵の甲斐庄楠音の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
甲斐庄楠音の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、甲斐庄楠音の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
甲斐庄楠音の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の甲斐庄楠音のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた甲斐庄楠音の作品を鑑定して買取りいたします。
絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の甲斐庄楠音の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
京都に生まれて育った甲斐荘楠音は、少年時代からレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど西洋画に心惹かれ、その美を日本画へ取り込んでいき。妖艶な人物表現を生み出し、大正期の美人画界で注目されました。
しかし美術界の陰湿な人間関係を嫌い、昭和15年の1940年前後からおよそ25年間は、映画界へ転身しました。京都の太秦にある時代劇映画の撮影現場で、溝口健二や伊藤大輔などの映画監督たちや市川右太衛門のような名優たちに求められるまま豪華な衣裳を次々に考案し、時代劇映画の全盛期を演出していきました。
西洋美術と日本美術を融合させ、美術界と映画界を股にかけた甲斐荘楠音は、このように境界を軽々と越えることができたのは、歌舞伎を愛し、演じることや扮装することを好んだ人だったからであるように思います。
幼少から女装に親しみ、舞台上の女性を演じることにも関心を抱いていた甲斐荘楠音は、美術界では、まるで女性を演じる自分自身の像を描くかのように妖艶な美人画を制作し、映画界では、美しい男女の俳優たちを華麗な衣裳で飾ってみせました。

甲斐荘楠音 島原の女 1920年
島原とは、かつて京都に栄えていた花街で、ここに描かれている女性は、その島原の太夫だろうと考えられます。太夫というのは遊郭における最高位の女性のことで、京都における太夫は公家の接待にあたることもあったため、歌や舞をはじめ、あらゆる芸道に通じ、文学なども解する最高の文化人でした。この日本画の太夫は、黒地に桜の花の模様を配した豪奢な着物に身を包んで、何か物思いに耽っているようで、その静けさに満ちた顔はレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザのように陰影に富んでいます。

甲斐庄楠音 本人
スケッチに「肌香(はだか)」という言葉を残しています。

甲斐庄楠音 横櫛 1916年頃 京都国立近代美術館
横櫛は歌舞伎の演目『處女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』を題材にした日本画で描かれている女性は物語の主人公である通称「切られお富」愛する男のためにゆすりや殺しに手を染めた悪女で、体中に切り傷があることからこの呼び名が付いたといいます。
甲斐庄楠音の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
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Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.甲斐庄楠音の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.甲斐庄楠音の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります
甲斐庄楠音の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.甲斐庄楠音の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
甲斐庄楠音 査定価格におけるポイント
甲斐庄楠音の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
甲斐庄楠音先生の作品は、衣装が細かくの色彩の明るい作品に高値の査定価格がつきます。
40万円から200万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
甲斐庄楠音の作品は、太夫や芸妓の描かれたの作品が評価されます。
グロテスクな美人が描かれていると評価されます。
甲斐庄楠音展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
甲斐庄楠音の作品は、初期の作品が高値で取引されております。
※このように同じ甲斐庄楠音の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
甲斐庄楠音 略歴
明治27年
12月13日京都に甲斐莊正秀、カツの9人兄妹の5男として生れます。甲斐莊家は、河内国金剛山麓甲斐莊村の豪族で、楠正成の一族という。京都市立銅駝小学校から京都府立一中に入学したが、病弱なため京都市立美術工芸学校に転校します。
明治45年
3月同校を卒業した。続いて同市立絵画専門学校に進学します。
大正4年
市立絵画専門学校にを卒業、研究科に2年在籍します。またかたわら川北霞峰の塾にも学んだ。
大正7年
第1回国画創作協会展に「横櫛」が入選し、以後国画創作協会を発表の場とします。第2回出品の「青衣の女」は落選し、第4回帝展に入選するという事態もあったが、国画創作協会解散後は美術界の活動は順調に進まず映画界に入ります。時代考証、道具立てなどの仕事にながく携わり、絵画制作とは遠ざかっていました。
昭和38年
京都市美術館において国画創作協会回顧展を開催に際し、旧作3点が展示します。以後再びその作品が注目されるようになります。
昭和50年
3月には東京三越において「甲斐莊楠音回顧展」が開催されます。作品は自ら美人画専門としていて、対象とする女性像は大正期の風潮を多分に反映した、世紀末的色彩濃いものであった。美人画作品としては、いわゆる綺麗ごとに終始する作風の多い中で、美人画の範疇をこえるものでもあった。そしてその強い個性的作風には、理解ある支持者も少くなかった。国画創作展ほか主要作品はつぎの通りです。「舞ふ」「半裸の女」(1924、国創第4回)「南の女」「歌奴」「裸婦」(1926、同第5回展)「雪女(未成)」「娘子」「母」「逃亡」(1927、第6回展)「椿姫」(1928、第7回展)。「横櫛」(1922、第4回帝展)「花子桜子」(第1回京都市展)。なお、甲斐庄楠音の庄は映画の仕事に携って以後用いています。
昭和53年
日本画家甲斐莊楠音は、6月16日京都市内の知人宅で倒れ、病院に収容中心不全のため死去します。享年84。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2025年2月22日
竹久夢二の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
御所蔵の竹久夢二の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
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竹久夢二 本人
明治17年、岡山県に生まれた竹久夢二は18歳で上京します、雑誌や新聞にコマ絵を寄稿する事から画家としての道を歩み始めました。やがて「夢二式美人」といわれる独特の情感をたたえた美人画のスタイルを確立します、叙情あふれる画集を次々と発表して人気画家となりました。
また、雑誌の表紙や広告から、千代紙、便箋、封筒、うちわ、半襟、浴衣などの日用品まで幅広くデザインを手がけ、商業美術や出版の世界でも卓越した存在を示していきます。
仕事の領域は画家にとどまらず、今でいうイラストレーター、グラフィックデザイナー、あるいはアートディレクターの先駆者といえると思います。そんな竹久夢二の姿は、19世紀末のパリで活躍したベル・エポックを象徴する画家、トゥールーズ=ロートレック(1864〜1901)に重なります。

竹久夢二 この夜ごろ 昭和初期
共に画壇に属さず、版画やポスターを独立したジャンルにまで高めた2人は、時代の先端を読み取る感性を持っていました。明治30年代ごろから、ヨーロッパの世紀末芸術の波が日本にも押し寄せます、竹久夢二も洋雑誌や美術書からロートレックをはじめ、ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、ムンク、ビアズリーらの図版を切り抜いて貼りつけたスクラップブックを残しており、熱心に研究したことがうかがえます。
一方、トゥールーズ=ロートレックら世紀末の芸術家も同時に日本美術の影響を受けていて、時を超えて呼応するかのような関係に興味は尽きません。
夢二の女性関係
夢二式美人画に影響を与えた要素として、竹久夢二の私生活や女性関係については、しばしば言及されます。そんな美人画のモデルをつとめた3人の女性たちを紹介するとともに、永遠の女性像を探し続けた竹久夢二の恋多き人生に迫ります。

岸他万喜(たまき)
好きあって恋愛結婚をします。しかし、二人の結婚生活は長くは続きませんでした。気性の激しいたまきと、繊細な感受性を持つ竹久夢二、しかも揃って我が強い、二人の間には喧嘩が絶えず、たった2年で協議離婚をします。
たまきは後に竹久夢二との関係を振り返った手記で、偽造された印により騙されるようにして竹久夢二の父の菊蔵により別れさせられたと言っています。
あくまでたまきの言い分ですので、果たしてそこまでエゲツナイ手段がとられたのかは不明ですがしかし、菊蔵が竹久夢二たち夫婦の生活ぶりに呆れ怒ったこと、たまきに主婦失格の判を押したこと、二人に別れるように言ったことは考えられます。
八幡で父を手伝う仕事を辞めて、家出同然に上京した竹久夢二は、そもそも郷里にいられなくなったのは、父の女性問題が原因だった。
そのせいで姉も離縁して、彼の父に対する気持ちは決して穏やかではなかったと思います。しかし、この時ばかりは父に従ったところを見ると、竹久夢二自身はこの結婚に疲れていたようです。
また、たまきにしても、竹久夢二に正統派の絵画の勉強をさせようとしますが、あるいは個性を殺すことになると窘められ、あるいは展覧会に落選すると、夫としても画家としても、頼りないものを感じていたと言えるでしょう。
父の菊蔵が促すまでもなく、互いに疲れはてていた、しかし、二人の縁は離婚のみで切れることは無く、この後も次男、三男が生まれています、腐れ縁と思われる。

笠井彦乃
戸籍名はヒコノ、山梨県南巨摩郡西島村に生まれます。竹久夢二にとって「最愛のひと」であり「永遠のひと」。明治36年、一家を挙げて上京します。父親は日本橋で紙商を営み、のちに宮内省御用達となります。大正3年に「港屋絵草紙店」で竹久夢二と出会います。
やがて相思相愛の仲となり、父親の反対を押し切って大正6年から京都で同棲をはじめます、この夏の北陸旅行では金沢で開催された「夢二抒情小品展覧会」において、「山路しの」の名で作品を出品します。湯涌温泉滞在後に、結核で倒れ、わずか25歳でその生涯を閉じます。
大正13年、新聞の連載小説として夢二が発表した『秘薬紫雪』は竹久夢二と彦乃がモデルであり、二人が愛を誓うラストシーンは湯涌温泉が舞台となっています。

竹久夢二、右37歳とモデルであり愛人のお葉左17歳、1921年
竹久夢二の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.竹久夢二の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.竹久夢二の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.竹久夢二の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.竹久夢二の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります
竹久夢二の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.竹久夢二の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
竹久夢二 査定価格におけるポイント
竹久夢二の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
竹久夢二先生の作品は、夢二式美人画の色彩の明るい作品に高値の査定価格がつきます。
50万円から300万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
竹久夢二の作品は、女性の描かれたの作品が評価されます。
大正ロマン風の美人が描かれていると評価されます。
竹久夢二展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
竹久夢二の作品は、後期の作品が高値で取引されております。
※このように同じ竹久夢二の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
竹久夢二 略歴
明治17年、0歳 9月16日 岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)の代々酒造業を営む家に次男として生まれます。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられます。
明治32年、15歳 兵庫県神戸市の叔父宅に寄宿しつつ兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12月には家の都合で中退します。
明治34年、17歳で 家出して単身上京します。
明治35年、18歳で早稲田実業学校専攻科入学します。学生時代、スケッチを『読売新聞』などに投書します。
明治36年、19歳の制作年らしき数字「1903」が記された、文章・絵画からなる冊子『揺籃』が2018年に発掘されています。
明治37年、20歳
明治38年、21歳 友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載されます。これは最初に印刷に附された竹久夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めました。同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選します、このとき、初めて夢二を名乗る。早稲田実業学校専攻科中退します。
明治39年、22歳 童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描きます。
明治40年、23歳 岸たまきと結婚します。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当します。 1908年(明治41年)24歳 長男・虹之助誕生します。
明治42年、25歳の時、たまきと協議離婚します。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなります。
明治43年、26歳 たまきと再び同棲し、その後、二児をもうけます。大逆事件関与の容疑で2日間拘留される。夏、房総方面に旅行し、『宵待草』を発想。
明治44年、27歳 次男・不二彦誕生、たまきと別居します。月刊『夢二 ヱハガキ』発売。
明治45年、28歳 雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表します。京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」。
大正2年、29歳 、11月に絵入り小唄集『どんたく』出版、その中の一節に『宵待草』を現在の三行詩で発表します。
大正3年30歳 、日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦乃と出会います。
大正4年31歳、 婦人之友社より雑誌『子供之友』『新少女』創刊、絵画主任として挿絵を描き始める。たまきとは離別します。
大正5年32歳 、2月、三男の草一が生まれる。セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画、以降270余点を作画します。東京を離れ、京都二寧坂に転居。草一、他家へやられる。
大正6年、33歳の時、高台寺近くに移り彦乃と同棲します。石川県金沢市を旅行中に「夢二抒情小品展覧会」を開きます。 『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表します。
大正7年34歳 、『宵待草』がセノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとなります。長崎方面に旅行。彦乃入院、東京に戻ります。
大正8年35歳 、寄宿先の本郷の菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介されます。日本橋三越にて「女と子供に寄する展覧会」。
大正9年36歳、 彦乃25歳で病没します。『長崎十二景』『女十題』のシリーズ制作します。
大正10年37歳、 お葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持ちます(6年後には離別)。福島の会津を旅行、各地で展覧会を開催します。
大正11年38歳、 春、山形県方面へ旅行に行く、滞在。夏、不二彦と富士山を登山します。
大正12年39歳、 恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足するも、関東大震災(大正関東地震)で潰滅。友人で画家の有島生馬とともに震災後の東京を歩き、スケッチ21枚を『都新聞』に『東京災難画信』として寄稿連載します。
1924年
大正13年40歳 、アトリエ兼自宅「少年山荘」(山帰来荘)を東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設します。この年に発刊された雑誌『婦人グラフ』に掲載するための表紙絵、口絵用に浮世絵の技法による新版画といわれる木版画『秋のしらべ』などを発表します。
1925年
大正14年、41歳の時に作家の山田順子と交渉を持ち、お葉は去ります。後、順子とも別れます。
1926年
大正15年、42歳、海外旅行を希求します。
1927年
昭和2年、43歳 『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。
1928年
昭和3年、44歳 母・也須能、没(享年72)
1929年
昭和4年、45歳
1930年
昭和5年、46歳、4月、群馬県の伊香保温泉に約1ヶ月滞在、「榛名山美術研究所」の構想を練ります。
1931年
昭和6年、47歳 父の菊蔵、没(享年79)。渡米告別展を新宿三越他で開催の後、5月7日に横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米します。
1932年
昭和7年、48歳 米国に1年3ヶ月滞在、西海岸各地にて個展を開くが、米不況もあり受け入れられず不調。 9月にパナマ運河-大西洋を経て渡欧します。約1年の滞欧中、ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイスの諸都市を巡り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残します。
1933年
昭和8年、49歳 ドイツ首都ベルリンに滞在中、ヨハネス・イッテンの画学校で日本画の特別講義をします。8月19日イタリアのナポリを発ち、9月18日神戸に帰国します。10月26日、台湾を訪れて講演し「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」開催します。11月11日帰国、結核を患って病床につきます。
1934年
昭和9年、49歳11ヶ月で逝去。 1月19日、親しい文芸仲間でもあった正木不如丘院長の手配により、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所(現・JA長野厚生連富士見高原病院)に入院します。9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に死去。49歳没。東京雑司ヶ谷霊園の文芸仲間の上田龍耳の義理の弟山地純一の墓に9月19日に埋葬されます。戒名「竹久亭夢生楽園居士」。墓碑には有島生馬に依る揮毫「竹久夢二を埋む」と刻まれている。骨は後に現在の墓に移された。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
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