2025年11月14日

鄭孝胥(ていこうしょ)の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

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鄭孝胥(てい・こうしょ/じょう・こうしょ)は、清末から中華民国期にかけて活動した政治家・外交官であり、同時に近代中国を代表する書家の一人としても知られている人物です。1860年に江蘇省蘇州府呉県(現・江蘇省蘇州市)に生まれ、1938年に満洲国新京(長春)で没しました。

 

鄭孝胥 本人

鄭孝胥 本人

 

若い頃に科挙で挙人となり、李鴻章の幕僚として外交の実務に携わりました。1880年代末から日本各地の公使館や領事館に勤務し、東京・大阪・神戸などで在留華僑との交流を深める一方、日本の政治家・知識人とも幅広く接触しています。こうした経験を通じて、東アジア国際情勢の変化を肌で感じた官僚世代の一人と言える存在です。

 

日清戦争後は張之洞ら改革派官僚のもとで中央・地方の要職を歴任しますが、1911年の辛亥革命で清朝が倒れると、彼は終始「清朝への忠誠」を掲げ、中華民国政府への正式な仕官を拒みました。その後は上海などで半ば隠棲しながら、詩文・書法の創作と、時局批判の文章執筆に専念したと伝えられます。

 

1920年代に入ると、廃帝となっていた溥儀から召されて宮廷の整理や政治顧問役を務め、やがて日本側とも接触しながら「満洲における清朝復辟」の構想に深く関わるようになります。1932年、日本軍の軍事行動を背景として満洲国が建国されると、その初代国務総理大臣(首相)に就任し、溥儀を元首とする新政権の顔として活動しました。また、満洲国国歌「満洲国国歌」の歌詞も鄭孝胥の作とされています。

 

鄭孝胥 行書 文心雕龍

鄭孝胥 行書 文心雕龍

 

しかし実権は関東軍が握っており、鄭孝胥自身は日本側との方針をめぐりしばしば対立したともいわれます。1935年には辞任を余儀なくされ、その後1938年に急逝しました。死因については当時からさまざまな憶測があり、日本側による毒殺説も取り沙汰されましたが、確定的な証拠はありません。

 

政治的には「対日協力者」「満洲国要人」として評価が分かれる人物である一方、書家としての名声は非常に高く、行書・楷書に秀でた近代の大家として中国書法史上に位置づけられています。号として「蘇戡(蘇堪)」「海蔵楼主人」など多くを名乗り、その端正で力強い筆致は生前から高値で取引されました。現在でも掛軸や聯句作品などがオークションに出品され、高い評価を受け続けています。

 

美術市場の文脈で見ると、鄭孝胥は「満洲国の政治家」という歴史的背景を持ちながらも、純粋に書法作品として優れた完成度を示す作家です。そのため、近代中国書道を代表する一人として扱われることが多く、コレクターの間でも根強い人気を保っていると言えるでしょう。

 
 

北岡技芳堂では、清末から中華民国期にかけて活躍した書家・鄭孝胥(ていこうしょ)の作品をお買取りしております。行書・楷書ともに評価が高く、気品ある筆致と端正な構成で知られる作家で、掛軸や額装、屏風や条幅、色紙など、さまざまな形態の書作品が取り扱いの対象となります。

 

シミや汚れ、表具の傷みがある掛軸でも、書かれている内容や落款・印章、制作年代や来歴によってはしっかりと評価できる場合がございます。ご自宅やご実家に眠っている書作品が鄭孝胥のものか分からない、といったご相談も歓迎しております。

 

名古屋の店舗へのお持ち込みはもちろん、点数が多い場合や遠方のお客さまには出張査定や写真による事前のご相談も承っております。鄭孝胥の作品のご売却をお考えの際は、どうぞお気軽に北岡技芳堂までお問い合わせください。

 
 

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

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まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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2025年11月12日

大観と春草、二人の天才の足跡を追う企画展 〜北岡技芳堂の骨董品買取りブログ〜

現在、三重県菰野町にあるパラミタミュージアムで「横山大観と菱田春草 近代日本画を築いた二人の挑戦」という企画展が開催中です。横山大観は1868年生まれ、菱田春草は1874年生まれ。ともに明治期以降に活躍した近代日本画家です。しかし二人が画家を志した当時は、日本画というジャンルそのものが「時代遅れ」といわれた時代。そんな逆風の真っ只中に彼らが起こした革新とは――。このブログ記事ではそれぞれの画家のアウトラインと、今回の企画展の狙い・見どころについてご紹介したいと思います。ちなみに、横山大観はちょうど明治元年生まれ。以下に和暦も併記いたしますので、大観が何歳の時の出来事か、パッとお分かりいただけるかと存じます。

 

■二人の天才を導いた岡倉天心

明治維新以降、欧米の列強に負けない国をつくるため、日本は大急ぎで西洋化を進めました。近代化を目指す大きなうねりの中には絵画も含まれており、「西洋式の油絵こそ文明的」とする風潮が世の中を支配しはじめます。その結果、伝統的な日本画は「古くさい」と隅に追いやられ、政府主催のイベントでも油彩画ばかりがもてはやされるように・・・。明治初期の日本画は、その社会的地位を失いかけていたのです。

この状況に危機感を抱いたのが岡倉天心(1863(文久3)〜1913(大正2)年)です。彼は東京大学を卒業したのち文部省に入省。明治政府の神仏分離令・廃仏毀釈により仏像等が破壊され、優れた日本の美術品が海外に流出する様子に心を痛め、古美術の保護に強い関心をもつようになります。1886年(明治19年)に東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)の設立準備として欧州を訪れた際、ジャポニズムに沸く現地の熱気に触れたことなどをきっかけに「日本美術がもつ優れた価値を認め、復興とさらなる発展を図らなければならない」と考えるようになりました。

天心は校長を務める東京美術学校を去った後、1898年(明治31年)に日本美術院を設立。日本の美術文化および現存する文化財の保護と、未来の日本美術のあり方を研究する団体としてスタートします。彼の古美術保護の精神は現行の「文化財保護法」に受け継がれ、今日の日本の文化財保護活動の礎を築きました。

そして、この日本美術院の創立メンバーに名を連ねていたのが、横山大観(1868(明治元年)〜1958(昭和33)年)と菱田春草(1874(明治7)〜1911(明治44)年)です。天心の志に共感する彼らは「新しい日本画の創造」を目指し、西洋化の流れに逆らう形で革命を起こしていくことになります。

 

岡倉天心 

岡倉天心の写真

 

■日本画の新しい道筋を示した「朦朧体」

日本画の大家として知られる大観ですが、実は絵を描き始めたのが20歳とかなり遅く、他の画塾の門弟たちとはその時点でかなりの力量の差があったと思われます。それでも1889年(明治22年)、21歳の時に行われた東京美術学校の一期生試験に合格するのですから、やはりただならぬ資質があったのでしょう。

一方、幼い頃から絵が達者だった菱田春草は高校生の頃、後に洋画家として活躍する中村不折に図画と数学を習いました。この時、不折から「君には絵の才がある。画家になってその才能を生かすべきだ」と強く勧められたそうです。こうしたアドバイスなどもあり、大観と同じ年に東京美術学校に進むことになるのです。

二人はここで生涯の師となる岡倉天心に出会います。従来の日本画の枠組みを越えんとする天心の熱心な指導を受けた大観と春草は、ともに画壇デビューを果たしそれぞれの道で順調にキャリアを築いていきます。その後、天心が設立した日本美術学院で二人は新しい画法の研究に打ち込み、「朦朧体」という技法を編み出しました。これは空気の流れや光線などを表現する際、日本画で伝統的に用いられてきた輪郭線を排し、ぼかしや滲みを伴う色面表現を用いるというものです。墨線による輪郭描写こそが日本画を東洋画たらしめる要因だとされてきた美術界に悪い意味でのインパクトを与え、猛烈な批判を受けました。

逆風の最中である1903年(明治36年)、二人は天心の勧めにより海外に渡りインド、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなどの国々で展覧会を開催しました。すると日本での不評が嘘のように、朦朧体を用いた作品が高い評価を得ます。当時、西欧ではターナー(1775〜1851年)やホイッスラー(1834〜1903年)といった画家たちの感覚に訴えかけるような色彩画が流行しており、こうした国際的な潮流に朦朧体の色彩がマッチしたことが要因ではないかといわれています。

この欧州外遊での成果を受けて日本画の研究はさらに進化し、朦朧体の「没線彩画描法」は俵屋宗達(生没年不明)や尾形光琳(1658〜1716年)の正当な発展形であると認められ、元号が大正に変わる頃には広く社会に受け入れられるようになっていきました。

その後、大観は自らの作風の飛躍に取り組み、作品はより色彩豊かなものへと変わっていきます。昭和の敗戦・復興の混乱の中でも絵筆を握り続け、日本画壇に君臨する大家となりました。常に日本画の高みを目指し続けた大観でしたが、東京タワーが完成した1958年(昭和33年)、89年の生涯を閉じています。

一方の春草は「夭折の天才」と称されることから分かるように、1911年(明治44年)にわずか36歳でこの世を去っています。外遊からの帰国後も大観と連名で論文を発表するなど精力的に活動し、積極的に画業に取り組みました。しかし、慢性腎臓炎による網膜炎を発症し、画業を休むよう医師から通告を受けます。その後一時回復したものの、3年後に再発。志半ばで病死しました。無二の親友であった大観は春草の死を悲しみ、日本画革新への決意を新たにしたといいます。

 

 

 

左菱田春草 飛泉右横山大観 飛泉

飛泉 左菱田春草 右横山大観

 

飛泉は、滝を主題とする横山大観と菱田春草の合作で、両者の落款と印章から明治33~36年頃の制作とみられます。ちょうどこの時期の二人は、新たな表現の探求としていわゆる「朦朧体」に取り組み、伝統的な輪郭線を抑え、光や空気、空間の気配を没骨彩色によって捉えようとしていました。そうした試みの流れのなかで、合作も集中的に制作されています。

本作では、墨の濃淡だけで大瀑布が轟々と落ちかかる迫力を描き出し、画面全体には、空刷毛(からばけ)乾いた刷毛で軽く掃き、柔らかなぼかしを生む技法が施されています。水しぶきが舞い、周囲の湿り気まで感じさせる空気感が、繊細な階調の重なりから立ちのぼります。

表現の役割分担も見どころです。大観は奔流のスピードと量感を強調し、雄渾なリズムを前面に引き出しています。対して春草は前景に量塊感のある岩を据え、空間に確かな奥行きをつくることで、滝の神秘的な気韻を静かに支えています。豪放で情熱的な大観と、繊細で理知的な春の対照的な個性が響き合い、若き日の二人を偲ばせる貴重な一作となっています。

※上記の作品は今回の展覧会には出品されていません。

 

 

 

■企画展の見どころ

今回の展覧会は7章構成。伝統的な日本画を描いた若かりし時代の作品から、朦朧体などの新しい日本画のスタイルを模索し、発展させていく過程ごとに区分けされており、大観と春草の成長と変化、日本画が発展していく様子を追いながら楽しめる内容になっています。

二人が影響を受けた画家や初期の作品、大観の出世作「無我」(残念ながら「無我」は11月3で他の作品と入れ替え)をはじめ、朦朧体につながる表現方法を模索した時代の作品などが並びます。春草が36歳の若さで早逝したことを受け、第5章以降は大観の作品のみの展示です。総展示数は68点で、空を舞う鶴と海原や朝日、雲が美しい二人の合作「旭日靜波」なども展示されています。

大観は「大観自伝」(講談社)の中で「菱田が氷のような人だとすると、私は火のような人間なんです。菱田が冷静な理知の男であったとすれば、私は激しく燃えるような情熱の男です」と記しており、こうした二人の対比を知った上で鑑賞すると、展示はさらに面白いものになるのではないでしょうか。別会場では大観と交流があった辰澤家ゆかりの品々も展示されており、大観がデザインした婚礼衣装や器類などを見ることもできますので、そちらもぜひ。11月30日までの開催となっておりますので、興味をお持ちになった方はお早めにどうぞ。

 

「横山大観と菱田春草 近代日本画を築いた二人の挑戦」

会期:2025年10月3日(金)~11月30日(日)

会場:パラミタミュージアム(三重県三重郡菰野町)

時間:午前9時30分から午後5時30分まで(入館は午後5時まで)

休館日:会期中無休

 

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2025年11月11日

壺の買取は、 名古屋随一の目利きがいる 北岡技芳堂にお任せください!

こんにちは。北岡技芳堂・鑑定人の北岡です。陶磁器づくりの技術が高まるとともに、さまざまな歴史的・美術的価値をもつようになった壺の中には、びっくりするような高値で取引されるものも多くあります。ただ、そのバリエーションの豊富さから「正しくその価値を見抜くのは難しいのでは?」との不安をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
しかし、ご安心ください。昭和25年から続く当ギャラリーでは、宝飾品や骨董品に精通した鑑定人である私が常時在籍しておりますので、どのようなご質問、売却・鑑定のご相談もお客様にご納得いただけるまでお話させていただきます。
処分をお考えの皆さまの参考になればと考え、以下のページで壺全般についてご紹介しています。お時間がある時にご一読いただければ幸いです。

 

常滑二筋壺(鎌倉時代初期)

 

常滑二筋壺は、主に貯蔵容器として使用されていました。 具体的な用途としては、以下のようなものが考えられます。

 

種籾(たねもみ)の貯蔵:次の作付けシーズンまで種を湿気や害虫から守るために使われました。

 

穀物の貯蔵:米や他の穀物を保存するのに利用されました。

 

水甕(みずがめ):水を貯めておくために使われることもありました。

 

塩や調味料などの貯蔵:生活必需品を保管するための容器としても広く用いられていました。

 

常滑焼の壺は、鉄分を多く含む土壌で作られており、しっかりと焼き締まるため水漏れが少なく、貯蔵に適していました。また、二筋壺に見られるような装飾は、単なる実用品でありながらも、当時の人々の生活や美意識を反映したものでした。

 

<歴史>紀元前から人の営みとともに発展

「壺の世界史」は、新石器時代にまで遡ります。土を焼き固める方法が発明された紀元前8000年ごろから、主に食料や穀物の種を保存するための道具として使われてきたようです。その後、青銅や鉄の発明により金属製の壺がつくられるなど、素材や製法の発展、陶工らの技術向上に伴いさまざまなタイプの壺が登場するようになります。やがて各地域に土着した宗教の儀式で使われるなど、その土地土地の文化や風習にあわせた形に進化していきました。

◎中国:中国文明の象徴の一つである彩文土器に代表されるように、数千年の昔から壺と共にあった中国の文化。唐・宋代(7~13世紀)に白磁や青磁の技術が急速に発展し、邢州窯や定窯、汝窯などの名窯が生まれ、高品質な壺が生産されるようになります。明・清代(14~19世紀)には青花(染付)、斗彩、五彩といった技法が生み出され、実用品から美術品へと昇華。シルクロードなどを通じて古くから東西の文化交流が盛んだったこともあり、一つの作品から時代の移り変わりを読み取れる中国の壺は、芸術性と共にその歴史的価値から特に人気が高い骨董品の一つです。

◎朝鮮:宋の越州窯から持ち込まれた青磁の技術をアレンジする形で、10世紀の前半から朝鮮半島でも壺がつくられるようになります。高麗時代(10〜14世紀)には象嵌など独自の装飾を施した壺が生み出され、李氏朝鮮時代(14〜19世紀)には粉青沙器や李朝白磁へと発展します。粉青沙器は青い素地に白化粧の装飾を施したもので、一方の李氏白磁は装飾が少なく、時代が進むにつれ純白から青みを帯びた白、濁った白色へと変化していく色合いが特徴です。この清廉な白色の陶磁器は、儒教の影響を受けているともいわれています。朝鮮で発展した白磁は、その後日本の伊万里焼などに大きな影響を与えました。

◎日本:日本でも縄文時代から食物の保存などに使用され、弥生時代には稲作の普及とともに米を貯蔵するための壺がつくられるようになります。奈良・平安時代以降、中国の影響を受けて陶磁器の技術が発展。鎌倉時代の頃から常滑焼、瀬戸焼、信楽焼などの産地が興り、17世紀には有田焼や伊万里焼で知られる有田で本格的な磁器生産がスタートします。安土桃山時代から江戸時代にかけて茶道の文化が花開くと、茶壷に適したものを茶事に用いるようになりました。ただ、ほとんどの壺は茶壺に適しておらず、唐物の茶壺や珍しい壺の中から、適したものを探し出して使うようになります。自然釉薬「自然釉」の灰釉など釉薬の変化を景色として楽しみ、壺を一つ一つ鑑賞しながら出来の良さや仕上がりの良さを見抜いて珍重するようになったのです。装飾品としての壺づくりが本格的にはじまるのは明治以降で、さまざまな作家がこの時期に製作をはじめました。特にパリ万博(1889年)向けの輸出が増加して以降、薩摩や伊万里などの色絵壺が多くつくられるようになります。昭和に入ってからも名工が続々と生まれ、人間国宝の誕生や現代アート作家による壺づくりが始まるなど、古くから続く伝統や文化が脈々と受け継がれています。

 

縄文土器 壺

 

縄文土器の壺の用途は、貯蔵、煮炊き、祭祀・儀礼、そして墓制など、多岐にわたります。具体的には、種子や食料の保存、液体を貯蔵する容器、音を出す太鼓、儀式で使う容器、そして「再葬墓」の容器として使われたと考えられています。

 

 

<特徴>生活や文化に応じて異なる形に

一部金属製などの例外があるものの、壺は基本的に陶磁器です。胴部が膨らみ、開口部と底部が狭まっている形状をしており、元々は食料や調味料、水などの貯蔵容器として使用されました。その他、小さなものは骨壷として使われるケースもあります。現在では水を運ぶ水瓶、酒を貯蔵する酒壺、花を生ける花瓶などが一般的ですね。

◎中国の壺の特徴:長い歴史の中で時代ごとに異なる技術や美意識を反映した名品がつくられてきた中国は、世界の陶磁器界をリードしてきた存在といっても過言ではありません。時間をかけて発展し続けてきた中国の陶磁器は、造形の優雅さ、釉薬の多様さなどに特徴を見出すことができます。紀元前にはすでに植物の灰からつくられる灰釉を用いた原始青磁なるものが登場しており、交易が盛んな時期には西方やイスラム文化の影響を受けた壺が生み出されました。「中国陶磁の黄金期」とされる宋代には、実用性と美とを兼ね備えた造形がなされるようになります。清代(17〜19世紀)に至り、壺は贈答品・儀礼品として用いられる芸術品となり、超絶技巧によるきらびやかな装飾は一つの頂点を極めたといえるでしょう。時代のトレンドを取り入れながら、さまざまな窯で職人たちが技巧をつくしてきた中国の壺。美しさだけでなく、悠久の歴史を歩んできた希少価値のある作品が豊富なことから、日本だけでなく海外コレクターからも高い人気を誇る骨董品目となっています。

◎朝鮮の壺の特徴:中国の影響を受けつつも、独自の美意識と造形感覚を発展させてきました。自然なゆがみ、控えめな装飾、静かな気品などが中国陶磁との相違点といえます。高麗時代は胴がふくらみ、頸がすっと立ち上がる優雅な壺形が特徴的。余白を生かした品のある絵付けや、象嵌技法による精緻な装飾も独特です。李氏朝鮮時代に入ってからは、胴が大きくふくらんだ、口と底が小さく丸い「月壺(ウォルホ)」が知られています。完璧な球体ではなく、わずかな歪みを残すことで不完全さを表現しているとのこと。高麗青磁の伝統を継ぎつつ、より庶民的で素朴な様式となった「粉青沙器」も有名です。完璧ではないが、調和している。そんな「ゆらぎの美」が朝鮮陶磁の真髄とされています。

◎日本の壺の特徴:中国や朝鮮から伝わった技術を基盤としながらも、侘び寂びや用の美、自然との調和など独自の美意識とともに発展してきました。日本人にとって壺は実用品であると同時に、国土由来の精神性や感性を込めた造形物でもあるともいえます。日本には多くの壺の有名産地がありますが、その中でも諸外国の影響を受けながら独自の発展を遂げた「日本六古窯」と呼ばれる窯場は、特に独自性の強い焼き物をつくることで知られています。平安時代から江戸時代にかけて六古窯でつくられた壺のほとんどは作者不詳で、明治に入ってから名のある陶工らによる壺づくりが始まりました。

瀬戸

(愛知県瀬戸市):約1000年前から現在に至るまで途切れることなく焼き物を生産し続けている、世界的にも大変珍しい窯場です。中世においては国内で唯一施釉陶器を生産していた窯場で、壺では鎌倉時代につくられた古瀬戸の瓶子が有名ですね。その後技法が発展し、江戸時代には染付の壺や鉄釉の壺などもつくられました。

越前

(福井県丹生郡越前町):素朴で力強い造形、温かみのある風合いで知られる焼き物です。陶土に石英などのガラス成分を多く含むため、硬く緻密な焼き上がりが特徴です。鎌倉時代に考案された「陶芸越前大がめ捻じたて成形技法」が今も継承されており、当時から続く大型の壺の製作を現代に伝えています。

常滑

(愛知県常滑市):瀬戸焼同様およそ1000年の歴史を持つ、六古窯の中でも最大規模を誇る窯場。中世から続く巨大登り窯で知られています。鉄分を多く含む赤褐色の陶肌が特徴的で、壺では中世につくられた「三筋壷(さんきんこ)」などが知られています。

信楽

(滋賀県甲賀市):たぬきの置物でも有名な信楽焼は、鎌倉時代に常滑焼の技がこの地に伝わったことから始まったとされています。その自然な風合いと温かみのある「火色(ひいろ)」と呼ばれる赤橙色が特徴的な壺が製作されています。

丹波

(兵庫県丹波篠山市):素朴で自然な風合いが特徴。良質な粘土を薪窯で高温焼成することで、独特の色合いや質感を持つ壺を生み出しています。

備前

(岡山県備前市):独特の自然や胡麻、火襷などの窯変を愛でる焼き物で、北大路魯山人は「世界一の焼き物」と評しました。

 

 

信楽大壺 室町時代

 

 

<現代>日本の陶芸を芸術に変えた二人の作家

実用品・芸術品として発展してきた日本の陶芸。近代に至っても美を追求する手を止めることなく、多くの芸術家・名工たちが優れた作品を世に送り出してきました。ここではそのうちの二人をご紹介しましょう。

黒田泰蔵:1946年滋賀県生まれ。現代日本を代表する陶芸家の一人で、白磁の究極的な美を追求したことで知られています。極限まで薄くした釉薬、シンプルに削ぎ落とされた造形美から「白磁の詩人」と称されました。「白磁は、私にとっては形態とか釉調だけではなく、一つの真理みたいなものかもしれない」などの発言からは陶芸家というよりも芸術家・哲学者に近いマインドを読み取ることができ、その精神性が陶芸を純粋芸術の域まで高めたともいえるでしょう。国内はもとより海外での評価も高く、サザビーズやクリスティーズなどの国際オークションでも高額で取引されています。

 

黒田泰三 白磁壺

黒田泰三 白磁壺

 

富本憲吉:1886年奈良県生まれ。もともとは画家を目指していましたが、イギリス人陶芸家との出会いなどを経て陶芸の道へ。伝統とモダンデザイン、西洋美術と日本の美意識を融合により陶芸を芸術の域まで高めた功績などから、「近代陶芸の開拓者」と評されています。若い頃は柔和で温かみのある作風、40代に入ってからはきらびやかで華やかな作品で知られます。晩年は華やかな装飾を離れ、静謐な白磁・染付を追求。1955年には重要無形文化財である「色絵磁器」の保持者として人間国宝に指定されました。黒田同様、近代日本の陶芸を語る上で欠くことのできない存在です。

 

富本憲吉 白磁壺

富本憲吉 白磁壺

 

 

 

<価値>中には数十億円の価値を持つものも。国内では初期の壺ほど高額に

いかがでしたか。長い時間をかけて、単なる道具から芸術的な価値を持つ作品へと発展していった様子がおわかりいただけたでしょうか。現在も壺は世界中で取引されており、2024年に中国・北宋時代の「北宋汝窯天青釉洗(ほくそうじょようてんせいゆうせん)」がサザビーズで約42億4800万円(2億9430万香港ドル)で落札されるなど、揺るがぬ人気の高さがうかがえます。
日本の著名作家による作品も高額で取引されており、中には数千万円を超えるものも珍しくありません。国内においても長い歴史を持つ壺ですが、他の骨董品同様、始まりの頃のものが高く評価される傾向にあります。例えば平安時代に製作されたものは口が広く肩が張り、底は細くすぼまった力強い形状をしているのに対し、江戸時代のものは口が狭くなり、垂直にすとんと落ちるシンプルな形状へと変わっています。これは文化や価値観、製造方法などの変化によるものですが、現在の骨董市場においては平安期のものの人気が高く、高値で取引されています。江戸時代の壺は数そのものが多いこともあり、それほど値がつかないのが現状です。
ご自宅にある壺の価値が気になっている方、処分を検討している方は、これまで多くの骨董的価値のある壺を扱ってきた当ギャラリーにお任せください。あらゆる品物を丁寧に査定し、評価の根拠をしっかりと説明させていただきます。

◎鑑定人プロフィール
北岡淳(北岡技芳堂 代表)
初代である祖父が掛け軸の表具師を生業としており、幼い頃から美術品や骨董品に親しむ。その後京都での修行を経て、3代目として北岡技芳堂を継承。2006年に名古屋大須にギャラリーを構え、幅広い骨董品や美術品を取り扱いながらその鑑定眼を磨いてきた。

 

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骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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2025年11月3日

陳半丁(ちんはんちょう)の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

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陳半丁 肖像画

陳半丁 肖像画

 

(1876-1970)は、中国近代絵画史において「京派」を代表し、北・南の画壇をつなぐ架け橋となった傑出した画家です。浙江省紹興山陰(現在の紹興市)に生まれ、幼くして父母を失い、家境は貧しく学徒生活から書画・拓印業に携わりながら、芸術家としての道を切り開いていきました。

 

若き日には上海へ出て、印章・拓本を生業としながら、海上画壇の重鎮 任伯年 や 吴昌硕 と出会い、特に吴昌硕に師事して花鳥・山水・人物・篆刻・書法を学びました。

 

その後北京へ移住し、北京画院創設にも関わるなど、北京を中心とした画壇(京派)の形成に大きく貢献。花鳥画を中心としつつ、山水・人物にも卓越した画風を展開し、「陳派」とも言われる独特の小写意画法を確立しました。 

 

作品の筆致には、明末・清初の画人たち(例えば 石涛、徐渭 など)からの影響が感じられつつも、近代の感覚で花鳥に生命の気配を宿らせ、「老練ながらも重たくならず、清秀ながらも弱さを感じさせない」表現として今日高く評価されています。

 

1970年1月29日に北京で逝去。享年94。晩年には文化大革命の混乱期を経験しながらも、その芸術的足跡は揺るぎないものとして、現代の中国画壇に大きな影響を残しています。

 

 

主な画風・テーマ

陳半丁は花鳥画を得意とし、とりわけ梅・菊・牡丹・竹・蘭などの植物を題材に、広幅・連作・屏風形式でも多くの作品を残しました。色彩は落ち着いていながらもしっとりと諧調を帯び、筆線は鮮明で骨格が明らかなものが多く、「詩・書・画・印」が相互に響きあう統合的な芸術を目指しました。

 

花鳥だけでなく、山水では石涛風の豪放な筆致と構図も見せ、書法・印章とともに作品の完成度を高めています。市場では「運古派」の代表格ともされ、伝統の系譜を活かしつつも、近代の視点を取り入れた芸術性が人気です。

 

陳半丁 巖洞問法 洞窟の啓蒙

陳半丁 巖洞問法 洞窟の啓蒙

 

北岡技芳堂では、中国近代絵画の巨匠・陳半丁(ちんはんちょう)の作品を丁寧に査定・買取しております。陳半丁は、清末から中華民国、そして新中国成立後にかけて活躍した画家で、北京画壇を代表する「京派」の中心的存在として知られます。花鳥画をはじめ、山水や人物画にも優れ、詩・書・画・印が一体となった高雅な芸術性を確立しました。

 

陳半丁の作品は、伝統的な文人画の精神を継承しながらも、近代の感覚を取り入れた独自の小写意画風により、国内外で高い評価を受けています。特に、梅・菊・牡丹・竹などを題材とした花鳥画は人気が高く、現在でもコレクターの間で需要が絶えません。

 

北岡技芳堂では、陳半丁の掛軸、画帖、扇面、巻物、書画など幅広い作品を対象としており、真贋鑑定から市場価値の分析まで、専門の鑑定士が一点ずつ丁寧に拝見いたします。箱書きや印章、落款、保存状態なども重要な査定要素となりますので、そのままの状態でお気軽にご相談ください。

 

査定はすべて無料で行っており、出張・持込・オンライン査定のいずれにも対応しております。名古屋を拠点に全国各地で買取を行っておりますので、遠方の方でも安心してご利用いただけます。昭和25年創業の北岡技芳堂が、誠実な対応でお客様の大切なお品物を適正に評価し、次の世代へと受け継ぐお手伝いをさせていただきます。

 

 

陳半丁 略歴

 

1876年
中国・浙江省紹興山陰(現・紹興市柯橋区)に生まれました。 若年期には上海へ移り、拓印業や書画制作に携わる中で、 呉昌碩 や 任頤 といった画家たちと交流し、画の道を深めていきました。 

1916年頃
北京の芸術専門学校などで講師を務め始め、教育活動にも取り組みました。

1918年
北平(北京)にて美術教育の立場を得て、画壇における存在感を高めていきます。

 

1950年代以降
中国美術家協会、北京画院などの要職に就き、近代中国画の発展にも尽力しました。

 

1970年
北京にて逝去しました。享年はおおよそ94歳とされています。

 

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北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

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まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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営業10:00-18:00

2025年11月1日

型破りな魯山人の、型破りな焼き物たち 〜北岡技芳堂の骨董品買取りブログ〜

美食家で有名な北大路魯山人(1883〜1959)ですが、芸術や骨董の世界では陶芸に革命を起こした存在として知られています。それまでの陶芸は古陶磁の再現を目指した伝統工芸品か、河井寬次郎や濱田庄司ら高い作家性をもつ陶工がつくる芸術作品かのどちらかでした。そのため魯山人が掲げた「器は料理の着物である」という考え方はかなり異質で、発想の出発点が異なるために画期的な作品が次々と生まれたというわけです。ここでは魯山人の代表作をご紹介しながら、彼の作品が陶芸界にどのようなインパクトを与え、後世にどのような影響を残したのか。いくつかの実例をご紹介しながら振り返ってみたいと思います。

 

作陶する北大路魯山人

作陶する北大路魯山人

 

■織部まな板皿

「織部焼」は岐阜県発祥の陶磁器で、桃山時代(1605〜)にはじまったとされています。千利休の弟子である茶人・古田織部の手によって生み出され、彼が目指す「破調の美」を体現する奇抜な形状や模様が特徴です。緑釉に絵付けをした青織部が最も知られていますが、試行錯誤のうちに黒織部、織部黒、赤織部、志野織部などさまざまなバリエーションがつくられました。その後、元和年間(1615〜1624)に入ると形状・模様の単純化が進み、瀟洒な作風へと変貌していきます。

焼き物にはいろいろな技法や窯があり、それぞれに個性があるのですが、魯山人は特にこの織部焼を好んだといいます。その変幻自在な釉調、斬新なデザインに魅せられた魯山人は、織部焼を研究し自らの作陶に取り入れていきました。当時忘れられつつあった織部焼の再生に努め、より一層の発展を促した功績により、魯山人は「国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)」認定の打診を受けました(後に固辞しています)。

そんな魯山人の織部のうちの一つが、前代未聞の「まな板皿」です。その名の通り、まな板のような大ぶり(一辺50cm以上のものも!)かつ厚手の板状をしていて、四隅が少し上を向いています。やや歪な形に仕上げることで手仕事のあたたかみを、釉薬をかけずあえて肌を見せることで自然で素朴な風合いをそれぞれ演出しています。枝や葉などが描かれた模様も美しいどっしりとした大皿です。

魯山人が切り盛りした会員制料亭「星岡茶寮」では、伊勢海老や大きな魚の焼いたものを豪快に盛り付けたり、皿を川に見立てて焼き鮎を盛り付けたり、色とりどりの寿司をゆったり盛り付けて余白の美を演出したり・・・まさに料理を芸術に仕上げるためのカンバスとして使われました。普通は美しい器を探してきて、それに見合った盛り付けを考えるものですが、まな板皿は「この料理に合う皿とは?」という逆の発想から生み出されたものなのです。

 

北大路魯山人 織部まな板皿

北大路魯山人 織部まな板皿

 

 

■乾山風 椿絵鉢&土器(かわらけ)皿

江戸時代を代表する画家の一人に尾形光琳(1658〜1716)がいます。豊かな装飾性・デザイン性で知られる「琳派」を代表する一人ですが、魯山人が惹かれたのは光琳ではなくその弟・尾形乾山でした。絵描きであると同時に陶芸家でもあった乾山は、絵と器の融合を目指した独自の美学で知られています。魯山人は乾山を「陶画家」と呼び、楽焼による男性味溢れた作風に惚れ込み、自らの作品に進んで取り入れました。

そのうちの一つが乾山風椿絵鉢です。国宝である乾山の「色絵竜田川文透彫反鉢」を思わせる作品で、白地に透明釉をかけて本焼きし、緑の絵具を塗る際に型紙を用いて椿の輪郭を明瞭にする技法は、乾山焼に見られる特徴の一つです。

そのほか乾山の土器皿にも魅了された魯山人は、粗めの赤土に白化粧を施し、乾山風の文様を描いた皿をいくつも手がけています。しかし単なる再現にとどまらず、余白に金泥や金箔を用いる独自のアレンジを加えるなど、星岡茶寮で提供される料理を華やかに演出する工夫がなされました。金彩の施し方も魯山人特有で、厚くぽってりと盛る独特の技法からは「乾山の写しを下地に金襴手をつくってやろう」という気概を感じます。こうした焼き物の中には高台に鉄絵具で「乾山」と入れられた作品もあり、魯山人の乾山に対する敬意と憧憬の強さを窺い知ることができます。

ちなみに魯山人は、刺身や酢の物を盛る浅い皿のことを「平向」と呼びました。茶の湯においては皿よりも平向の方を格上と見るからなのですが、京都生まれということもあってか茶道にも精通していた彼は、皿と平向の違いを意識して作陶に取り組んでいたようなのです。料理人の視点だけではなく数寄者としての視点も持ち合わせていた陶芸家は、魯山人のほかにいないのではないでしょうか。

 

 

北大路魯山人 乾山風 椿絵鉢

北大路魯山人 乾山風 椿絵鉢

 

 

■紅志野

多種多様な器を世に送り出してきた魯山人が、最初期から最晩年に至るまで一貫して制作を続けたのが「志野焼」です。もともと相当な勉強家で、古今東西のあらゆる美について研究を重ねた彼が「志野の出来のよい物になると、足利前後の絵画彫刻に比して一歩も譲らない芸術的価値を持っているといえよう」「長次郎も及ばない凛とした格を備えている」と絶賛するほどですから、その入れ込みようは尋常ではなかったはずです。

志野は織部焼と同じ岐阜県発祥で、始まった時期も同じ桃山時代とされています。日本ではそれまでになかった「白い焼き物」として珍重され、以降は国焼きの代表格に据えられるようになりました。

当初、魯山人は志野焼に一般的な白いモグサ土を使っていました。しかし、モグサ土は多孔質で焼き締まりが弱いため、茶碗などの器として用いた時に水や油が浸潤してしまいます。あくまで「器は料理の着物」と考える彼はこうした不都合を解決するべく、大胆にも肌理が細かく汁染みが少ない信楽産の赤土を用いるようになりました。戦後に手掛けはじめた赤色が特徴的な「紅志野」は、この赤土に由来しています。さらに強い赤を出すために鬼板という鉄分を多く含む化粧泥で表面を覆うなど、魯山人の紅志野は年を経るごとに熟成され、最晩年にはまるで炎が燃え立つような鮮やかな緋色になりました。白い焼き物として知られた志野焼を真っ赤に染めてしまう技法は、当時の陶芸界に大きな衝撃を与えたそうです。

伝統を重んじる当時の茶道家・美術関係者たちからはバッシングを受けたものの、そういった声には耳を貸さず、魯山人は自らが理想とする作品をつくり続けました。その結果、加藤唐九郎や荒川豊藏らフォロワーが生まれ、現在の志野焼において紅志野がスタンダードの一つに数えられるまでになったのです。

 

北大路魯山人 紅志野燕子花四方鉢

北大路魯山人 紅志野燕子花四方鉢

 

■日本文化に与えた影響

魯山人の登場以前にも、茶の湯および懐石料理の場では「器」が重要視されていました。しかしこれはあくまで茶道に限定された話で、京料理や料亭文化が発達したのちも器の選定は料理人の仕事ではありませんでした(たまに茶人や文化人が選ぶ程度)。ここに「料理は器も含めた総合芸術」という文化を創出したのが、他ならぬ魯山人です。以降、料亭での器選びは料理人の仕事の一部となり、今では村田吉弘や道場六三郎、三國清三など名だたる料理人たちが器の美意識を語る文化が根付きました。決して大袈裟ではなく、彼がいなければこうした美意識が社会に広く浸透することはなかったでしょう。

また、先ほどご紹介した織部焼や志野焼の再生も忘れてはいけません。魯山人は桃山時代に栄えた織部焼・志野焼・黄瀬戸などに強く惹かれ、独自に研究を重ねながら伝統技法を現代に甦らせました。江戸時代以降は京焼や伊万里焼が主流になり、「忘れられた古陶」になっていた織部や志野。魯山人はその本質的な美しさを見抜き、眠れる伝統技法の再生に尽力したのです。これにより戦後の人間国宝である荒川豊蔵、金重陶陽たちにも強い影響を与えました。

独善的な性格から周囲との衝突が絶えなかった魯山人ですが、自らの美意識への絶対的な信頼と強い意志が日本の陶芸界を変えたといっても過言ではありません。その功績に感謝するとともに、日本の伝統的な美意識をしっかり受け継いでいかなければならないですね。

 

北大路魯山人 日月腕

北大路魯山人 日月腕

 

■作品価値はどれくらい

自らの窯を持ち、生涯を通じて数十万点という作品を生み出した魯山人。小ぶりなものから大作に至るまで作品の幅も非常に広いのですが、小品でも最低数十万円はしますし、質の高いものについては数百万〜1,000万円超という高額で取引されています。現在でも一部の料亭で客に提供する際に使われるなど、彼が目指した「用の美」は今も息づいています。そのほか各地の美術館に収蔵されたものも多いですし、オークションや骨董品店などでも度々見られます。興味をお持ちの方は一度そちらをのぞいてみてください。もし、お手元にお持ちでしたら、査定だけでも結構ですので、ぜひ当ギャラリーにご相談ください。過去に魯山人作品を多くみてきた鑑定人が、責任を持って見させていただきます。

 

■魯山人の作品もそれ以外も 骨董・アートの高価買取は北岡技芳堂へ

北岡技芳堂では陶磁器の他にも骨董品や絵画、茶道具、貴金属、趣味のコレクションなど、さまざまなジャンルの品物を買受しております。ここ名古屋の地で長年にわたり取引を重ねてきた実績をベースに、多種多様なニーズに対応できる販売チャネルをもつため、あらゆる骨董品の高価買取を実現しています。

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記事監修:北岡淳(北岡技芳堂 代表)

初代である祖父が掛け軸の表具師を生業としており、幼い頃から美術品や骨董品に親しむ。その後京都での修行を経て、3代目として北岡技芳堂を継承。2006年に名古屋大須にギャラリーを構え、幅広い骨董品や美術品を取り扱いながらその鑑定眼を磨いてきた。

 

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