2025年5月2日

茶杓は茶人の刀である。 茶道具買取ブログ

茶人の「刀」としての歩み

 

利休茶杓 涙

利休茶杓 涙

天正19年(1591)2月、豊臣秀吉の命により切腹を遂げた千利休が、自ら削り、最後の茶会で用いたと伝わる茶杓です。茶会の後、この茶杓は古田織部に与えられ、織部は長方形の窓を設けた筒を作り、その窓越しにこの茶杓を位牌の代わりとして拝んだと伝えられています。

 

 

茶杓の歴史 

 

茶杓の歴史は、茶の湯の伝来とほぼ時を同じくして始まります。その起源は遡れば平安時代。中国より帰朝した遣唐使や入宋僧らによって茶が日本にもたらされ、当初は薬として貴族層に服用されていました。

貴重な輸入品であった茶葉と共に、当然ながら、それを点てたり服用したりするための器具、匙(さじ)や薬研(やけん)のような道具類も共に伝来していたと考えられます。

 

薬研

薬研

 

 

中国からの茶文化と匙の伝播

鎌倉時代に入り、臨済宗の開祖・栄西が『喫茶養生記』を著し、喫茶の効用と作法を説いたことで、茶文化はさらに根づいていきます。その中に「方寸匙二三匙。多少随意。」という記述があり、茶葉の計量には一寸四方の匙を用いて二、三杯ほど入れるとされます。この匙は現在でいう煎茶用の茶匙のようなものでしょう。

さらに南宋より帰朝した南浦紹明が、教典や茶道具一式を持ち帰ったことで、禅寺の中に喫茶の風習が定着。喫茶と仏道修行が結びつき、茶道の精神的基盤が築かれます。

中国では茶が粉末状で飲まれていたため、茶を掬う(すくう)「匙」が必要不可欠でした。材質は金・銀・象牙・鼈甲・竹など多様で、「薬匙(やくさじ)」とも呼ばれ、茶葉を計る道具として機能していました。唐代の『茶経』では、茶匙に「測」という文字をあて、計量器の役割を果たしていたことがわかります。

 

古代の匙と日本における出土例

中国では約7500年前の黄河流域から骨製スプーンが出土しており、春秋戦国期には陶製スプーン、すなわち現在の「蓮華(レンゲ)」が登場。日本にもこうした匙文化が影響を与えました。

神奈川県茅ヶ崎市・下寺尾の七堂伽藍跡では、1200年前の寺院跡から現在のスプーンに酷似した銅の匙が出土しており、日本における匙の使用の早さを物語っています。こうした実用的な匙の形状が、後の茶杓の原型となっていったと考えられます。

 

 

佐波理 匙

佐波理匙 奈良・平安時代 山王A遺跡第4地点1号掘立柱建物跡出土埋納資料

 

 

象牙の「いも茶杓」と珠光・珠徳の革新

やがて室町時代になると、茶の湯における茶匙は「いも茶杓」と呼ばれる象牙製の特殊な形状の匙が登場します。この「いも茶杓」は、やや膨らんだ珠状の持ち手を持ち、唐物の薬匙の変形と考えられます。

この象牙の「いも茶杓」をもとに、「真茶杓」が登場したとされ、珠光や珠徳といった初期の茶人によって改良が加えられていきます。とりわけ珠徳は、いも茶杓の珠の部分を削ぎ落として新たな形「珠徳形」の象牙茶杓を創作し、さらに竹を用いた試みへとつながっていきます。

当時の象牙製茶杓は高価で庶民には手の届かないものであり、珠光は唐物を避けて竹による新たな道具創作に踏み切ったとされています。

 

象牙 いも茶杓

象牙 いも茶杓

 


象牙茶杓 伝村田珠光 室町時代

象牙茶杓 伝村田珠光 室町時代

 

 

茶杓の竹化と東山文化における発展

足利義政の庇護のもと、東山文化が花開くと、能阿弥らによって台子飾りや唐物重視の「真台子の茶」が発展します。その道具の中に、象牙製の茶杓と並んで、竹製の「茶瓢(さひょう)」や「笹葉」と呼ばれる茶匙も登場します。

 

銘茶瓢 村田珠光 室町時代

千宗旦 追筒 最も初期に作られた竹茶杓として貴重。しかも、侘び茶の創始者、村田珠光の作であることを、千宗旦が極めている。中間の節で括れ、その上下が膨らんでいる姿から、宗旦は「茶瓢」と命銘し、容れ筒を作ってその表に墨書した。

これらの道具は、単に茶を掬うための機能的な器具にとどまらず、禅僧の精神や風格、さらには東洋的美意識を反映するものへと変貌していきました。「茶杓」という言葉もこの頃から定着し、「庭訓往来」には「象牙之茶杓」「竹茶杓」などの語が併記されており、竹茶杓の存在が確立していたことが窺えます。

 

 

珠徳形から「浅茅」へ  拭き漆と機能性の融合

『分類艸人木』には、象牙の茶杓は茶碗や茶入にぶつかると音がするため、竹で削らせたのが「浅茅(あさぢ)」という茶杓であったと記録されています。これは本能寺の変で失われたとされますが、象牙から竹へと素材の主流が移行する象徴的な事例でもあります。

こうして誕生した竹茶杓は、珠光によって機能性と簡素な美の融合として完成され、象牙に代わる実用的かつ精神的象徴となっていきました。

当時の茶杓はあくまで実用品であり、美術性や装飾性は重視されておらず、使い捨てされることも多かったため、現存する数が少ないのも特徴です。素材は真筒、仕上げは拭き漆が一般的で、形は珠徳形・羽淵形・窓栖形などに分類されますが、いずれも定型をもたない素朴な風貌が特徴です。

 

 

昨夢軒

「武野紹鴎」の茶室は、現存していないが、京都洛北紫野の「大徳寺紅梅院」に紹鴎好みと言われる茶室がある。北側中央に位置する四畳半下座床の茶室で、西と南は襖4枚で隣室と、北は腰高障子2枚で縁側へ、そして東は北寄りに襖2枚で隣室と繋がる構成で、各方向に行き来が出来ますが、北の障子は貴人口となり、そして東の襖は茶道口となります。出入り口を北側におくのは「武野紹鴎」の手法でもある。江戸時代に作られたようである。

 

 

 

茶杓の完成 ― 武野紹鷗の創意

珠光の系譜を継ぐ武野紹鷗は、茶の形式を真・行・草の三様に分け、「行の茶」にふさわしい中庸な姿として、元節や留節のある独特な茶杓を考案しました。これは、台子の堅さと草庵茶の柔らかさの中間にあるべき姿としての創意でした。

この頃の茶杓は、拭き漆による仕上げが一般的で、西山松之介が「百万回磨いてようやく古色が出る」として命銘した「百万遍」の逸話に象徴されるように、見た目の深みにも強い意識が払われていました。拭き漆の茶杓は、単なる道具から、使い込むことで精神と風合いが融合する象徴的存在へと昇華していったのです。

 

 

利休以降の茶杓史 ― 侘びの極致から美意識の多様化へ

 

千利休は、それまでの会所の茶や台子飾りに象徴される「真の茶」の様式を打ち破り、徹底した簡素と精神性の茶「侘び茶」を完成させました。そしてこの思想を体現する象徴的な道具こそが、彼自身が手ずから削った竹茶杓でした。

 

 

 

虫喰 千利休作

虫喰 千利休作

千利休の作と伝わる茶杓で、付属の筒には、栓との接合部に利休の法号「宗易」と花押が黒漆で記されています。茶杓の中節下方と切止に空いた穴が虫食い穴に見立てられ、後に「虫喰」と称されるようになりました。実際にはこれらの穴は、竹が朽ちる過程で生じたものであり、全体の独特な形態は、真竹の突然変異によるものと考えられています。茶の湯の文化においては、このような傷みや歪みをもつ竹にも、かえって趣があるものとして美が見出されてきたのです。

 

 

利休の茶杓観

利休の茶杓は、それまでの技巧的・対称的な造形から一線を画し、「自然な節」「手斧痕(ちょうなが)」を残すなど、素材の持つ個性や不完全性を積極的に取り入れたものでした。利休は「茶は服のよきように」と語り、道具は用の美と精神性の融合でなければならないと考えていました。

利休の手による茶杓は、一本一本が銘を与えられ、「泪(なみだ)」「夢(ゆめ)」「すすき」など詩的な名称が付されていました。それはまさに茶人の精神を映し出す「言葉の彫刻」でもあったのです。茶杓は単なる道具ではなく、一期一会の場における言葉を超えた対話の媒体となりました。

 

 

裏千家今日庵の兜門

裏千家今日庵の兜門

 

 

三千家と「流派による茶杓の形式化」

 

利休の死後、その遺風は三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)によって受け継がれ、各家元によって茶杓の形式も徐々に整えられていきます。

 

  • 表千家では、細身で直線的な美しさを重視した茶杓を好む傾向があり、「削り跡を残す」「節はやや上部に置く」などの特徴がある。

  • 裏千家では、やや撓み(たわみ)を強調した、抒情的で柔らかい印象のものが多く、「鶴首」「山路」などの名品が現れます。

  • 武者小路千家では、実用と精神のバランスを重視し、特に銘に意味を込める精神性が強く意識されます。

 

※この時代以降、茶杓は「削る者=削り手」の存在が明確になり、「家元削」「宗匠削」「自作削」などの階層が生まれました。

 

江戸時代 ― 書家・画家・文人の参与

 

江戸期には本阿弥光悦、松花堂昭乗、片桐石州、近衛信尹ら、茶の湯の外部からの参与者が茶杓制作に関わるようになり、美意識は多様化します。

光悦の茶杓は書と陶の精神を融合させた「美術工芸としての茶杓」の先駆であり、手斧の痕を大胆に残しながら、雅と風格を併せ持つ作品が知られています。

 

 

結び

茶杓は、単なる匙ではなく、茶人の美意識・精神性・創造性の象徴として発展してきました。まさに「茶人の刀」とも呼ぶべき存在であり、その素材・形状・仕上げひとつひとつに、茶の湯という日本文化の深層が刻まれています。

 

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