2025年1月4日

杉山寧の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の杉山寧の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

杉山寧の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、杉山寧の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

杉山寧の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の杉山寧のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた杉山寧の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の杉山寧の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

杉山寧 本人

杉山寧 本人

 

杉山寧は、明治・大正・昭和を生きた著名な日本画家でした。杉山寧は東京美術学校在学中 から頭角を表し、画家としての輝かしい一歩を 踏み出したが、30歳代の約10年間は結核闘病に 潰え、終戦を迎えています。

 

さらに娘婿が三島由紀夫であったため、三島の自決はその後の杉山寧の生き方に少なからず影響を及ぼしたと考えられます。杉山寧の作品には生涯を通じて永遠なるも のへの希求が見られますが、同時に彼には「乾いたものへの希求」が併存していました。

 

芸術家が永遠なるものへの希求に自分の生涯を捧げることは、決して珍しいことではないが、「乾いたもの、 乾いた大地」への希求は杉山寧独特の精神構造が影響していると考えられます。

 

「永遠 なるもの」と「乾き」への希求の両側面が感じられます。

 

杉山寧は、日本画を通して探求し続けたのは、敗戦、結核闘病、三島由紀夫の自決による影響が考えられます。

 

1958年に杉山寧の長女、瑤子は、日本女子大英文科在学中に三島由紀夫と結婚しました。1960 年代前半から杉山寧は『林』『灼』『絡』などの抽象画を描き、1960 年代中盤から エジプト、ギリシャ、エトルリアを旅し、古代美への憧憬を『悠 』『穹  』『水』『羊 』などに表 現しました。

 

 

杉山寧 灼 抽象画

杉山寧 灼 抽象画

 

1966年に母のみちが亡くなり、1970年の三島自決前後から、杉山寧は『響』『生』『曈 』『季』 などの裸婦像や『気』『曜』などの鳥をモチー フとした日本画を描き、生命への賛歌を主題としました。 それは女手 1 つで育ててくれた母、三島由紀夫の荒ぶ る魂に対する鎮魂と若くして寡婦になった娘に対する憐憫と慈愛が込められていたのかも知れません。

 

1974年を最後に、杉山寧は作品を出品することはなくなり、主要な作品群でさえ 1987 年に回顧展が開催されるまで人目に触れることはありませんでした。

 

1980 年以降、カッパドキアを舞台に幻想的で深い静寂感に満ちた、時が止まっ たかのような作品群を生み出しました。抜群の描写力と緊密な構成力によって、洞窟に隠れ住み、 厳しい自然の中で信仰の証を刻み続けてきた古代キリスト教徒に対する共感の念を描出してい ます。

 

1980年代後半は敦煌や雲崗の石窟彫刻を描き、1986 年の中国旅行をもとに『歴』を描 いています。石仏の背景に描かれた紺碧の空は若 き日に『穹 』で描いたスフィンクスの背景の空と繋がっているのかも知れません。

 

 

杉山寧 穹

杉山寧 穹

 

1993 年 10 月 20 日、杉山寧は誕生日の朝に 84 歳の生涯を閉じました。 杉山寧は日展評議員、日本芸術院会員とな り、1974 年には文化功労者となり、文化勲章を叙勲されましたが、芸術家としての栄達を極めた 1974 年以降、表舞台から再び身を引き、出展期日の時間枠に縛られることのない、杉山寧自身の時間枠の中で創作活動を意欲的に続ける晩年を過ごしたことは非常に興味深いです。

 

 

 

杉山寧の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.杉山寧の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.杉山寧の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.杉山寧の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.杉山寧の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

杉山寧 略歴

 

明治42(1909)年10月20日、紙や文具類を売る店を営んでいた杉山卯吉、みちの長男として東京浅草に生まれる。東京府立第三中学校を卒業しました。

 

昭和3年
1928年に東京美術学校日本画科に入学します。

 

昭和6年
第12回帝展に「水辺」を初出品して入選する。翌年の第13回帝展にも「磯」が入選し、特選となります。

 

昭和8年
同校を首席で卒業、在学中に師事した松岡映丘が主宰する研究会「木之華社」の例会に時折出席するようになる。翌年、第14回帝展に出品した「海女」が再び特選となります。この作品は、卓抜した描写力と構成力とともに、清新な感覚で描かれた作品であり、戦前期の画風の特色をよくつたえています。またこの年、松岡映丘門下の有志とともに「瑠爽画社」を結成、翌年同人とともに銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回展を開催します。

 

昭和13年
第3回展までつづく。同17年、中国大陸を旅行、ことに雲岡石窟寺院では、約半月にわたり石仏の写生に励みました。

 

昭和21年
文部省主催日本美術展覧会(日展)が発足し、出品を委嘱されたが応じませんでした。

 

昭和26年
第7回日展に戦後初めての大作であり、ギリシャ神話に取材した「エウロペ」を出品します。以後、日展には、同組織が社団法人となった昭和33年から会員として、昭和49年まで出品をつづけ、その間評議員、常務理事、また審査員などをつとめました。

 

昭和51年
日展を退会、しかし請われて顧問に就任しました。

 

昭和26年
東京美術学校出身の橋本明治、山本丘人、東山魁夷等とともに、画会「未更会」(兼素洞主催)の発足にあたり、会員として加わったのをはじめ、多くの画会に参加、そのつど新作を発表した。また、雑誌「文藝春秋」の表紙絵原画を昭和31年4月から昭和57年6月号まで毎号制作します。

 

昭和32年
第12回日展出品の「孔雀」(東京国立近代美術館蔵)に対して、第13回日本芸術院賞を送られます。この作品は、緊張感のある画面構成ながら、新鮮な華やかさをもった作品で、中期の代表作となりました。

 

昭和36年
沖縄旅行、翌年のエジプト、ヨーロッパ旅行を契機に、それまでの平明な自然描写にかわって、重厚なマチエールによって自然を抽象化する傾向を強め、また「穹」(昭和39年、東京国立近代美術館蔵)に代表されるように、エジプトの古代遺跡を題材に象徴的な画面づくりに向かっていきました。

 

昭和48年
夢幻的な空間の中に裸婦、鳥、動物を配した作品へと展開していきました。

 

昭和53年、昭和56年に中近東に旅行し、トルコのカッパドキアの遺跡や風物など、その折の取材をもとにした作品が生まれました。

 

昭和49年
文化勲章を受け、また文化功労者として顕彰されました。

 

昭和57年
11月から昭和61年6月まで、日本芸術院の第一部長をつとめました。

 

昭和62年
8月には、東京国立近代美術館において、本画、素描等総点数123点からなる本格的な回顧展として「杉山寧展」が開催され、同年10月にも富山県近代美術館において回顧展が開催されました。

 

平成4年
1993年には、東京美術倶楽部において「杉山寧の世界」展が開催された。(同氏の年譜及び出品歴については、上記の展覧会図録に詳しい。

 

平成5年
1993年、日本芸術院会員で、文化勲章受章者の日本画家杉山寧は10月20日午前0時5分、心不全のため東京都文京区の東京日立病院で死去した。享年84。

 

 

 

杉山寧 水

杉山寧 水

 

杉山寧は1962年(昭和37年)にエジプトを旅行し、翌年の日展にはエジプトをモティーフとした作品を多く出品しました。

 

こちらの作品、「水」は、その旅行から3年後に制作さレました。第8回日展に出品作品。

 

横2メートルにもおよぶ画面は、全体が砂漠の国エジプトを思わせるザラザラとした絵肌で仕上げられており、杉山寧はこの特殊な質感を実現するために、伝統的な日本画で用いる絹本や紙ではなく、洋画に用いるカンヴァスを支持体に選択しました。水瓶を頭にのせた黒衣の女性の後ろを流れる青い背景はナイル川でしょう。エジプトの取材の中で見出したものは、巨大なピラミッドやスフィンクスだけではなく、日常を生きる人間の姿も描きました。

 

 

 

杉山寧の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.杉山寧の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

杉山寧 査定価格におけるポイント

 

杉山寧の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

杉山寧先生の作品は、晩年の富士、鶴、鯉、薔薇、白鳥に高値の査定価格がつきます。

 

300万円から500万円ぐらいの買取相場です。版画は3万から6万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

杉山寧の作品は晩年の作品が評価されます。

 

初期の作品は掛軸の事もあります、比較的安値の傾向です。

 

杉山寧展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

杉山寧先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ杉山寧の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年1月3日

石本正の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の石本正の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

石本正の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、石本正の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

石本正の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の石本正のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた石本正の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の石本正の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

石本正 本人

石本正 本人

 

 石本正は、(1920年)大正9年7月3日に島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町岡見)に生まれました。田舎町でしたが、実業家の叔父の影響もありまして、当時としては珍しいレコードや様々な種類の本にも親しみ、また子供らしく蛇、昆虫、魚を相手に豊かな自然の中で活発に遊びまわりました。

 

生涯自由で独創的な創作姿勢を貫いた石本正は、この故郷における幼少期の経験や記憶が、自らの日本画家としての原点だと語っています。旧制浜田中学校を卒業したのち、1940年、昭和15年に京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)日本画科に入学します。

 

入学はしたものの、次第に伝統的な日本画の様式を重んじる授業に息苦しさを感じるようになってしまい、学校とは別に洋画の研究所に通うようになります。そこでその後につながるデッサンの基礎を身に付けていきました。

 

美術画学生としての自由な時間は、激しさを増す戦中の1943年、昭和18年、学徒動員によって一転します。翌年9月には繰上げ卒業となり、部隊の小隊長として中国に渡り気象観測にあたりました。

 

 

石本正 舞妓

石本正 舞妓

 

そ終戦の翌年に復員した石本正は、日本画家として本格的に歩むべく再び京都へ行きます。高等学校の美術教員で生計を立てながら描いた「三人の少女」が第3回日本美術展覧会(日展)に初入選したのに続いて京都市美術展でも受賞します。

 

終戦直後の不安定な社会情勢のなか、京都を拠点に画業を歩み始めたばかりの石本正にとって、願ってもない順調なスタートとなりました。

 

新世代として一躍脚光を浴びる画家となった石本正は、1971年、昭和46年に日本芸術大賞、芸術選奨文部大臣賞を立て続けに受賞しましたが、以降はすべての賞を辞退します。

 

生涯、地位や名誉を求めることなく、伝統に縛られない独自の日本画を追求しました。対象が語りかけてくるものを素直に描くという姿勢を貫き、最期まで現代日本画壇の第一線であり続けました。

 

 

 

石本正の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.石本正の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.石本正の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.石本正の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.石本正の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

石本正 略歴

 

1920年
大正9年7月3日、島根県那賀郡岡見村(現、浜田市三隅町岡見)に生まれる。本名正(ただし)。幼少期には豊かな自然の中で小さな生き物と触れあい、素直な感性を培いました。

 

1927年
昭和2年岡見尋常小学校へ入学します。2年生のときにおじから油絵の具を贈られ、担任の先生と使い方を試行錯誤します。

 

1933年

島根県立浜田中学校(現、島根県立浜田高等学校)入学。この頃映画や音楽、文学に興味を持ち、独自に油絵も描いていたが、画家になろうとは考えていませんでした。

 

1938年
同校を卒業。

 

1940年
京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科予科へ入学するが、伝統的な円山四條派の形式に則った授業に馴染めなかった石本はあまり授業に出席せず、関西美術院や華畝会の研究所などへ通い、石膏や人物のデッサンを学んだ。2回生への進級制作の折には、伊藤若冲の絵に触発され軍鶏を描いたといいます。

 

1944年
同校を繰り上げ卒業し、学徒動員で気象第一連隊に配属、翌年復員。

1947年
大阪の高校で美術教師を務めながら作品を制作し、ボッティチェリの「春」をイメージした「三人の少女」で第3回日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。このときの作品は福田平八郎に激賞され、以後第5回展まで入選を重ねました。

 

1949年
9月には京都市立美術専門学校助手となります。
 

 

1950年
京都市立美術大学の先輩画家・秋野不矩の勧めで発表の場を創造美術展へ移し、同年「五条坂」「踊子」が入選。翌1951年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、その第15回展へ「影」「旅へのいざない」を出品して新作家賞受賞、同会の会友に推挙され、以後第37回展(1973年)まで出品した。「踊子」「旅へのいざない」はいずれも女性群像で、石本が1950年にパブロ・ピカソの「青の時代」に出てくる女性によく似たモデルと出会ったことから生まれた作品であるという。しかしこの時代の作品は当時、古くさいとして画壇に受け入れられず、石本正は次第に自らの愛するロマネスク美術の壁画に見られる太い線を用いた作品を描くようになる。

 

1953年
第17回新制作展へ、いずれも太い線を用いて描いた「高原」と「女」を出品、新作家賞を受賞する。作品は高く評価され、1955年頃までこうした作品を描き続けるが、迎合的な制作に納得のいかない思いを抱いていた石本正は、1956年以降従来の花鳥画とはまったく異なる、擦り付けるような強い筆触を感じさせる鳥の絵を次々に発表する。同年の第20回展へは、木下順二脚本の舞台「夕鶴」を見て描いた「双鶴」、さらに「野鳥」の2点を出品し、同会日本画部の会員に推挙され、翌年の第21回展へは自ら編み出したペインティングナイフを用いる技法で描いた「樹根と鳥」を出品。いっときその技法が若い画家たちの間で流行したという。またこの頃より、石本正は舞妓や芸妓を描こうと思い、祇園に通い始めた。

 

1958年
京都の土井画廊で初の個展を開催します。

 

1959年
12月、加山又造・横山操らと轟会(村越画廊)を発足させ、「横臥舞妓」「鶏」「丘の木」を出品、以降も第15回展まで出品しました。

 

1960年
10月、村越画廊・彌生画廊主催「石本正個展」(文藝春秋画廊)開催、出品作の「桃花鳥」が翌年1月、文部省買上となる。また1960年には京都市立美術大学講師となった。
 

 

1964年
はじめての渡欧を果たし、憧れつづけたヨーロッパの中世美術に触れ、規範にとらわれない自由な美的感覚に共感。同年の新制作展から舞妓を題材とした作品を毎回発表する。石本正は田舎出の娘が煌びやかに着飾った、華やかな中に孤独な翳りを見せる舞妓を描きたいとし、顔や手の黒い舞妓を発表、きれいごとではないリアリティがあるなどと評されました。

 

1967年
第31回展へは、横たわる三人の裸の舞妓を描いた「横臥舞妓」を出品します。

 

1968年
5月「石本正風景展」(彩壺堂)を開催。

1970年
舞妓の作品ばかりを並べた「石本正人物画展」(彩壺堂)を開催しました。このときの「横臥舞妓」などが「日本画における裸婦表現に一エポックを画した」として、翌1971年第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞。同年3月舞妓をテーマとしたシリーズで第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以後はすべての賞を辞退した。この間、65年に京都市立美術大学助教授(70年教授)となります。

 

1969年
11月には学生等とともにイタリアへ研修旅行に出かける。以後この旅行は慣例となり、ヨーロッパや中国、インドなどを訪れました。
 

1974年
新制作協会日本画部会員全員が同会を退会し、新たに創画会を結成。9月の第1回展へ石本は「鶏頭」を出品、以後毎回出品する。この頃から石本の女性像は舞妓ではない裸婦が中心となり、アンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」に触発されて描いた1983年の「夢」(個展、東京セントラル絵画館)頃から背景に絨毯を描きこむようになった。

 

1986年
3月京都市立芸術大学教授を退任し、同大学名誉教授となります。

 

1989年
平成元年11月兼素洞にて花の作品ばかりを集めた「石本正「花」展」を開催。この頃から石本は物語性のある作品を描くようになり、映画の舞踏会シーンを思い浮かべて描いたという「牡丹」(1989年、第16回創画展)や、花火をイメージしたという「菊」(1994年)、また平泉・中尊寺の古面を思い出して描いたという「空蝉」(1994年)など、対象を通して得たイメージを画面に表現するようになります。

 

1996年
初の本格的な展覧会となる「石本正展―聖なる視線のかなたに―」を開催。

 

1992年
以降の近作37点と素描50点が展観されました。

 

2001年
故郷である島根県那賀郡三隅町(現、島根県浜田市三隅町)に石正美術館が開館し、名誉館長となる。この開館を機に、石本正はふるさとを意識した作品を描くようになり、創画展へも「幡竜湖のおとめ」(2002年、第29回展)などを出品。

 

2003年
10月には画一的な表現しか認めない当時の画壇に新風を吹かせたいという思いから、石本正がはっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来」展を開催。

 

2009年
石正美術館の塔に長年の念願だった天井画を老若男女592人とともに制作する。また2006年以降、創画展へは牡丹や薊などの花を描いた作品を中心に発表していたが、2014年の第41回展へは薄物をまとい横たわるふたりの裸婦を描いた「裸婦姉妹」を出品、翌2015年10月の第42回展へは舞妓を描いた「舞妓座像」が未完のまま出品されました。

 

2015年
伝統や規範にとらわれず、自らの心を通して作品を描き続けた日本画家、石本正は9月26日、不整脈による心停止のため死去した。享年95。

 

 

 

石本正の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.石本正の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

石本正 査定価格におけるポイント

 

石本正の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

石本正先生の作品は、舞妓の作品は小さくても高値の査定価格がつきます。

 

50万円から90万円ぐらいの買取相場です。版画は2万から5万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

石本正の作品は晩年の作品が評価されます。

 

初期の作品は比較的安値の傾向です。

 

石本正展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

石本正先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ石本正の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

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2025年1月2日

明けましておめでとうございます。  

明けましておめでとうございます。

1月6日から営業いたします。

 

北岡技芳堂 店舗

北岡技芳堂の商談室

 

謹賀新年

新春の候、皆様におかれましてはご健勝にて穏やかな新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
旧年中は格別のご愛顧を賜り、心より御礼申し上げます。

北岡技芳堂では、これまで美術品を通じて、時代や文化を超えた感動をお届けすることを使命としてまいりました。絵画、骨董品、彫刻、陶芸品といった様々な分野の作品が持つ力は、鑑賞される方々の心に深い印象を残して喜びをもたらします。

 

 

2025年は、これまでの活動をさらに深めるとともに、新たな挑戦に取り組む年としたいと考えております。

 

今年は「繫がり」をキーワードに、古典から現代アートに至るまで、多彩な作品を皆様にご紹介する予定です。また、若手アーティストの育成や、アートを通じた地域貢献活動にも一層力を入れてまいります。

 

 

当店の一画が皆様にとって心安らぐ場所となり、アートが日常の中で一層身近に感じられる存在となることを願い、一つ一つの出会いを大切にしてまいります。

 

どうぞ、お気軽にお立ち寄りいただき、作品に触れていただければ幸いです。

 

本年も、皆様とともに歩む一年にできるよう、スタッフ一同、真摯に努めてまいります。

 

どうぞ変わらぬご支援を賜りますようお願い申し上げます。

 

最後になりましたが、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げ、新年のご挨拶とさせていただきます。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

北岡技芳堂

代表 北岡淳

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