2025年9月15日
李朝陶磁の作品を買取致します。 北岡技芳堂の骨董品買取ブログ
李朝陶磁の魅力
李朝陶磁の世界はきわめて幅が広く、多彩な要素と性格を併せ持っています。その理由のひとつは、李朝という王朝の長さにあります。1392年に建国され、1910年まで約五百年余り続いた李朝は、その間に大きな政治的・社会的変化を経験し、それに応じて陶磁器も姿を変えていきました。李朝陶磁史の時代区分については、浅川伯教や奥平武彦らの説、戦後の鄭良謨の説など複数ありますが、決定的な統一見解は存在せず、ここでは便宜的に世紀ごとに三期に分けて考えてみましょう。
15世紀から16世紀にかけては、日本で「三島」と呼ばれた粉青沙器が全盛を誇り、同時に白磁が完成し、白磁青花が誕生した時期でした。17世紀になると、やや粗質な白磁である「堅手」と、そこに鉄砂で加飾した器が盛んに作られるようになります。さらに18世紀から19世紀には、広州の金沙里や分院里に官窯が定着し、大規模かつ安定した生産が行われるようになりました。こうした流れは、李朝陶磁が単なる継承ではなく、時代ごとに大きな変化を遂げてきたことを物語っています。
李朝陶磁はまた、中国陶磁からの影響を色濃く受けながらも、やがてそこから脱却し独自の様式を確立しました。高麗青磁を受け継いだ粉青沙器は、技法的には似ていても造形や意匠においてまったく新しいものへと展開しました。白化粧による装飾が生まれ、器形は流麗な瓶子形から安定感のある壺形へと変化。文様も、繊細で情緒的な雲鶴文や蒲柳水禽文から、現世的で実用的な十長生文や「寿福康寧」といった文字文様へと移り変わります。高麗陶磁の「優美・精緻・繊細」という特質から、李朝陶磁は「頑健・素朴・大らか」な美へと転じていったのです。
李朝鉄砂虎鷺文壺 17世紀後半
その作風の変化を見ていくと、李朝陶磁には常に相反する性格が現れてきたことがわかります。精細と粗放、整斉と歪、平滑と荒削り、均整とまだら、規則的と不規則的、純と不純。これらの対立する特徴が時代ごとに交互に現れるのです。磁器の歴史を例にとれば、15〜16世紀が「正」、17世紀が「反」、18〜19世紀が「合」といった弁証法的な展開を見せています。
多様性を形づくる要因は、時代だけではありません。李朝時代には多くの地方窯があり、やがて広州の官窯へ統合されましたが、地方窯と中央官窯の違いが作品の幅を生み出しました。さらに用途も大きな要因です。李朝陶磁はもともと国王への貢物を中心とする官需用が主であり、その頂点には御器がありました。祭器も多く作られましたが、17世紀以降は民需用が増え、18世紀後半にはむしろ民需用の方が質的に優れた作品を生み出すようになります。官需と民需の力関係の変化は、そのまま造形や質の変化として表れました。
このような多様性の中にあっても、李朝陶磁には共通する美意識があります。それは「非完成主義」とでも言うべき態度です。材質は純度の高い精選されたものではなく、不純な土を用いながらも、それを生かしきる技術がありました。成形も最後の削りをあえて粗く残し、釉薬も均一にはかけず、釉だまりや不規則な表情を残しました。その結果、自然で素朴な味わいが生まれ、完璧さを避けることに美の理想を見出したのです。この傾向は特に17世紀の作品に典型的に見られます。
欠点が欠点とされず、むしろ魅力として受け入れられるのも李朝陶磁の大きな特徴です。石はぜ、釉はげ、しみ、ゆがみ、へたり、窯変、生やけなど、通常であれば瑕疵とされるものが、李朝陶磁では自然な表情として美を深めています。中国の青磁や日本の柿右衛門、鍋島焼といった完成度を追求したやきものであれば許されない欠陥が、李朝ではむしろ「味わい」として評価されるのです。
この独自の美意識を理解するために、多くの研究者や思想家が言葉を残しています。高裕燮は「無技巧の技巧」「無計画の計画」と評し、金元竜は「徹底した平凡さこそ李朝陶磁の特色であり、それは自然らしさにほかならない」と述べました。英国の学者ゴンパーツは「形を越えた形」「均整を越えた均整」と形容しました。そして、李朝陶磁の美を日本に紹介した柳宗悦は「李朝の器というものは生まれ出たものである。作られたものではない」という名言を残しています。これらの言葉はいずれも、李朝陶磁が意図して完璧に作り込まれたものではなく、自然に生まれたかのような魅力を備えていることを示しています。
李朝陶磁の魅力を総じて言えば、それは「清貧の美」と表現できるでしょう。儒教的な精神を背景に、制作する側も受容する側も、飾らず、求めすぎず、自然な姿を尊んだのです。そこには文人画に通じる精神も感じられます。技巧を誇示せず、装飾を避け、むしろ素朴な中に美を見出す態度。高度な技術を持ちながらも、心は常にアマチュア的で新鮮であること。まさに「偉大なアマチュアリズム」が李朝陶磁を支えていたのです。
こうして見ると、李朝陶磁は多様でありながら一貫した精神を宿し、完成と非完成、精緻と素朴、官需と民需といった矛盾をすべて抱え込みながらも、そこに独自の美を生み出しました。その魅力は今なお色あせることなく、東アジア陶磁史の中でも特別な位置を占め続けています。
サザビーズのオークションで、360万ドル(約5億3000万円)の値が付いた朝鮮王朝時代の月壺
李朝白磁・月壺(満月壷)の魅力
李氏朝鮮時代の中期に生み出された名品「月壺(満月壷/タルハンアリ)」は、提灯壺とも呼ばれ、その独特な姿と美意識によって韓国陶磁の象徴とも言える存在です。李朝時代は儒教思想が社会の根幹をなしており、工芸においてもその精神は色濃く反映されました。豪華な装飾を排し、清らかな白磁の美そのものを際立たせるところに、儒教的な質素と節度の美意識があらわれています。
月壺の最大の特徴は、その柔らかな丸みと大らかな存在感にあります。大きな胴部が満月のように膨らみ、静けさと迫力を同時に感じさせます。その形は単なる実用の器を超え、自然や宇宙の象徴を思わせるものです。名称の「月壺」は、20世紀の韓国を代表する抽象画家・金煥基(キム・ファンキ)が、その形を満月に見立てて呼んだことから広まりました。こうした大壺は17世紀に多く作られたとされ、李朝陶磁の成熟を示す代表的な作例です。
その白の色調もまた、月壺を特別なものにしています。純白一色ではなく、乳白色・雪白色・灰白色・青白色と多彩で、同じ白磁であっても一つとして同じ色合いは存在しません。ひとつの壺の中にすら複数の白のグラデーションが宿り、光や時間の経過によってその表情を変え続けます。時には酸化や不完全燃焼による黄斑、あるいは使用による染みや変色が見られますが、それもまた月壺独自の趣として受け入れられています。
装飾のない大壺というものは、世界の陶磁史においてもきわめて稀です。白一色の大きな球体は、ある種の「空白」とも言うべき存在であり、そこに人間の根源的な欲求を呼び起こします。もし表面に絵付けや文様が加えられれば、それはもはや「月壺」とは呼べません。無装飾のままに成立するこの大壺は、節制と匿名性の極致であり、欲望や自己主張を超えた無作為の説得力を湛えているのです。
李朝白磁の月壺が放つ静謐な美は、人々の内面に思索を促し、時代を超えてインスピレーションを与えてきました。厳粛でありながらも柔和、質素でありながらも雄大。この相反する性格を一つの器の中に宿した存在は、まさに李朝人の美意識を体現しています。
その姿を評して、日本の思想家・柳宗悦は「李朝の器は作られたものではなく、生まれ出たものである」と述べました。人の意図や技巧を超えて、自然そのものが形をとったかのように見える。月壺は、まさにその言葉にふさわしい存在といえるでしょう。
記事監修:北岡淳(北岡技芳堂 代表)
初代である祖父が掛け軸の表具師を生業としており、幼い頃から美術品や骨董品に親しむ。その後京都での修行を経て、3代目として北岡技芳堂を継承。2006年に名古屋大須にギャラリーを構え、幅広い骨董品や美術品を取り扱いながらその鑑定眼を磨いてきた。
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