2025年9月14日

川喜田半泥子の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

御所蔵の川喜田半泥子の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

川喜田半泥子の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、川喜田半泥子の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

 

川喜田半泥子の茶碗をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の川喜田半泥子のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた川喜田半泥子の作品を鑑定して買取りいたします。

 

美術品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の川喜田半泥子の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

川喜田半泥子の陶芸作品は、茶道具の中でも特に茶碗において高い評価を受けています。その作品は独自の品格をもち、使うほどに味わいを深める美しさが宿っています。

 

半泥子が作陶を行ったのは、主に千歳窯と広永窯であり、それぞれの窯により異なる風合いや質感を楽しむことができます。制作された作品は、井戸、粉引、刷毛目、志野、瀬戸黒、唐津、伊賀、信楽、さらには色絵に至るまで幅広く、多彩な表現を見せています。その多様性の中には、半泥子ならではの独自の世界観が反映されており、箱書きに記された銘にも個性が表れ、作品の魅力をさらに引き立てています。

 

買取においては、制作年代や使用された窯・土などが重要な評価基準となります。特に希少性が高いと認められる品については、高価買取の対象となります。また、陶芸作品にとどまらず、半泥子は俳句や書画にも優れ、掛け軸や絵画、さらには竹製の茶杓や花入れなども制作しました。こうした幅広い創作活動から生まれた品々もまた高く評価されており、取引市場において大きな注目を集めています。

 

川喜田半泥子の作品は、茶陶としての実用性と芸術的価値を兼ね備えた稀有な存在であり、近代陶芸史の中でも特別な位置を占めています。

 

 

川喜田半泥子 本人

川喜田半泥子 本人

千歳山の泥仏堂にて、昭和15年頃の撮影

 

 

川喜田半泥子の買取でよくあるご質問

 

Q. 1点だけでも買取していただけますか?

A. はい、1点からでも買取可能です。ただし品物によっては出張買取が難しい場合もございますので、まずはお気軽にご相談ください。

 

Q. 本物か偽物か分かりませんが、買取できますか?

A. 当店にて真贋を拝見し、判断いたします。まずはLINEやメールで画像をお送りいただければ、確認させていただきます。

 

Q. 川喜田半泥子の作品以外に陶器などもあり、持ち運びできません。出張で対応していただけますか?

A. はい、もちろん出張鑑定にお伺いし、その場で買取も対応させていただきます。

 

Q. 箱や箱書きが無いのですが、買取してもらえますか?

A. 共箱がなくても買取可能です。ただしその場合、査定額は共箱付きに比べて低くなることがございます。

 

Q. 川喜田半泥子の作品を画像だけで査定していただけますか?

A. 画像で判断できるものについては簡易査定が可能です。ただし詳細な鑑定が必要な場合は、実際に作品を拝見させていただくことになります。

 

Q. 川喜田半泥子の作品ではありませんが、買取対象になりますか?

A. はい、陶芸作品以外にも、絵画や骨董品など幅広いジャンルを買取対象としております。

 

 

川喜田半泥子

(かわきた はんでいし、1878年11月6日-1963年10月26日)は、日本の陶芸家であり、同時に実業家・政治家としても活躍した人物です。「東の北大路魯山人、西の川喜田半泥子」、「昭和の光悦」と称されるほどの存在感を持ち、本名は久太夫政令(きゅうだゆう まさのり)、幼名は善太郎。号は「半泥子」のほか「無茶法師」「其飯」などを用いました。実業界では、河芸銀行、一志銀行、三重共同貯蓄銀行、百五銀行の頭取を歴任し、財界人としても大きな影響力を持ちました。

 

前半生と財界での活躍

川喜田半泥子は大阪市東区本町に生まれ、三重県津市の川喜田家本宅で育ちました。川喜田家は15代続く伊勢の豪商であり、裕福な家柄でしたが、父や祖父は彼が幼少のころに相次いで他界。わずか1歳で川喜田家16代当主となり、「久太夫(政令)」を襲名しました。母は当時まだ18歳と若く、未亡人となるのは不憫とされて実家へ戻り、以後は祖母・政(まさ)の手で育てられることとなります。

このような生い立ちから、幼少期より一家の重責を担う環境に置かれ、やがて実業界で手腕を発揮し、地域経済や金融界に大きく貢献しました。その一方で、芸術的感性にあふれ、後年には陶芸家として独自の境地を切り開いていきました。

 

 

 

川喜田家の家族写真 左から3人目が政、その横が半泥子

川喜田家の家族写真 左から3人目が政、その横が半泥子

 

川喜田半泥子は、筆頭分家である川喜田四郎兵衛のもとでも教育を受け、三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)へ進学しました。1900年(明治33年)には東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、学業を修めています。翌1901年(明治34年)、23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚し、家庭を築きました。

 

1903年(明治36年)には百五銀行の取締役に就任し、1919年(大正8年)には第6代頭取に就任。1945年(昭和20年)2月までの長きにわたり頭取を務めました。経営方針は「安全第一」を掲げ、堅実な運営を行う一方で、地元中小銀行の買収や合併を積極的に推し進めました。1922年には吉田銀行、1925年には河芸銀行、1929年には一志銀行を傘下に収め、さらに1943年には勢南銀行を合併。これにより百五銀行は三重県有数の大きさを誇る金融機関へと成長していきます。

 

1924年には津市丸之内に新本店を建設し、地域の金融拠点としての存在感を高めました。1931年の金融恐慌の際には、自身の個人株を担保に日本銀行から資金を借り入れ、窓口に現金を積み上げて「資金は潤沢である」と示すことで取り付け騒ぎを沈静化させた逸話も残っています。

 

また頭取としての役職だけでなく、三重県財界の重鎮として、三重合同電気の社長や明治生命の監査役など、数多くの企業で要職を務めました。加えて、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を歴任するなど、政治の分野でも地域社会に尽力しました。

 

川喜田半泥子 波和遊 ハワユー(How are you)

川喜田半泥子 波和遊 ハワユー(How are you)

 

 

陶芸家としての活動

 

川喜田半泥子が本格的に陶芸を始めたのは50歳を過ぎてからで、1933年には津市南部・千歳山の自宅に窯を築き、作陶に打ち込みました。とりわけ抹茶茶碗の制作に力を注ぎ、その作風は「自由奔放」「破格」と評されています。型にとらわれない独自の感性が息づいており、趣味として始めた陶芸ながら高い芸術的評価を受けました。

半泥子はまた、書や絵画にも秀でていましたが、それらもあくまでも趣味の領域を貫き、作品を売ることはほとんどありませんでした。完成した作品は友人や知人に惜しみなく贈り、芸術を「生きる喜び」として共有したのです。

 

 

文化事業への尽力

豊かな財力を背景に、1930年(昭和5年)には「財団法人石水会館」を設立し、津市丸の内に文化施設を建設しました。石水会館は地域の文化拠点として多くの活動を支えましたが、1945年の戦災により建物は焼失。しかし、財団はその後も存続し、文化振興を続けました。

同じ1945年、半泥子は自宅のある千歳山に「千歳文庫」を建設し、川喜田家に伝わる所蔵品を収めました。この千歳文庫は、地域の文化資産を保存・継承する拠点としても重要な役割を果たしました。

 

 

からひね会のメンバー

(前)金重陶陽(後方左から)川喜田半泥子・三輪休和・荒川豊蔵

1942年2月(昭和17)

 

晩年の活動と陶芸家への支援

1942年(昭和17年)、川喜田半泥子は「からひね会」を結成し、後に人間国宝となる陶芸家・荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪といった優れた作家たちを支援しました。彼の芸術家への惜しみない援助は、後の日本陶芸界の発展にも大きな役割を果たしています。

 

戦後の暮らしと銀行業界からの引退

終戦後、千歳山の自宅は進駐軍に接収され、半泥子は広永へ移転。自宅とともに窯もこの地へ移しました。1945年には百五銀行の頭取を退き会長に、さらに1950年には相談役へと立場を移し、経営の第一線からは身を引きました。その後、1955年には再び千歳山に戻り、晩年を過ごしています。

 

没後の顕彰と石水博物館

1963年に没した後、彼の功績を顕彰するため、「石水会館」を母体として1980年に「石水博物館」が設立されました。ここでは川喜田半泥子の作品や川喜田家に伝わる所蔵品が一般公開され、地域の文化発信拠点として多くの人々に親しまれました。石水博物館は2011年に千歳山へ新築移転し、現在も半泥子の芸術と精神を伝え続けています。

 

墓所について

川喜田半泥子の墓は、津市の専修寺玉保院納所道場にあります。そこには地理学者・稲垣定穀の墓碑も並び、川喜田家の墓所の右側2つ目が半泥子の墓とされています。「仙鶴院」と刻まれたその墓には、彼の遺志により祖母と妻とともに合葬されており、生涯にわたる家族への思いが形となっています。

 

 

半泥子の墓(津市玉保院納所道場)

半泥子の墓(津市玉保院納所道場)

 

 

川喜田半泥子 高麗手茶碗 銘「雅茶子(がちゃこ)」

川喜田半泥子 高麗手茶碗 銘「雅茶子(がちゃこ)」

 

廣永窯 昭和20年代 昭和24(1949)年9月、タイから東京の上野動物園に送られたゾウ「ガチャ」にちなんで命名されたという。

 

高台(茶碗の底の足に当たる部分)がゾウの足を思わせる面白いお茶碗です。

 

 

 

 

川喜田半泥子 粉引茶碗 銘「雪の曙(あけぼの)」 

川喜田半泥子 粉引茶碗 銘「雪の曙(あけぼの)」 

 

千歳山窯 昭和10年代 石水博物館蔵

 

全体に白い粉が吹き出しているように見えるところから粉引茶碗と呼ばれる。

 

ピンク色に染まった部分があり半泥子の茶碗の中でも名品といわれております。

 

 

 

川喜田半泥子 略歴

 

1878年(明治11年)

大阪市東区本町の仮寓にて、伊勢商人の長男として誕生。

 

1894年(16歳)

三重県尋常中学校(現・三重県立津高等学校)に進学。在学中に藤島武二から洋画を学ぶ。

 

1900年(22歳)

東京専門学校(現・早稲田大学商学部)に入学(翌年退学)。

 

1901年(23歳)

川喜田四郎兵衛の長女・為賀と結婚。

 

1912年(34歳)

津市南郊外の千歳山を購入。

 

1913年(35歳)

中国・朝鮮半島を旅行し、各地の陶土を持ち帰る。

 

1915年(37歳)

父の命日に千歳山に邸宅を建て移住。

 

1923年(45歳)

長男・壮太郎と欧米旅行に出かけ、マチスやボナールらの名画を入手。この頃「無茶法師」と号す。

 

1925年(47歳)

楽焼師・長江寿泉の設計による両口倒炎式石炭窯を千歳山に築き、初窯を焚く。

 

1930年(52歳)

私財を投じて財団法人石水会館を設立。同年、千歳山に「千歳文庫」を建てる。

 

1932年(54歳)

自己流で本窯を焚き上げる。茶の湯の師・久田宗也が茶碗を所蔵。

 

1933年(55歳)

小山富士夫に築窯を依頼。二袋の煙突式薪窯を焚くも失敗に終わる。

 

1934年(56歳)

朝鮮・鶏龍山の古窯跡を参考に三袋の登窯を築窯し、成功を収める。

 

1935年(57歳)

伊賀上野城内の古窯跡を発掘。「やきもの趣味」に『泥仏堂日録』を寄稿。

 

1936年(58歳)

加藤唐九郎と共同で翠松園に天狗窯を築窯。金重陶陽、北大路魯山人との交流が始まる。

 

1937年(59歳)

加藤唐九郎と決別。赤絵に挑戦し、赤坂山王下の茶屋で「無茶法師作陶展」を開催。荒川豊蔵との交流が始まる。

 

1938年(60歳)

還暦を記念し「赤絵梅文茶碗」を61碗制作。金重陶陽の窯を訪問。

 

1940年(62歳)

荒川豊蔵とともに鳴滝の乾山窯を調査。古伊賀水指「破袋」に倣い伊賀水指「破袋」を制作。

 

1941年(63歳)

仁和寺で「仁和寺御記」を拝見。池田家所蔵「陶工必要」を筆写。

 

1942年(64歳)

荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪を千歳山に招き「からひね会」を結成。「乾山異考」を刊行。

 

1943年(65歳)

作品集『千歳山半泥子六十六碗鑒』を便利堂より刊行。

 

1947年(69歳)

戦時中に疎開した広永に築いた「広永窯」で初窯を焚く。

 

1949年(71歳)

金重陶陽が広永窯を訪問。「大吹雪」を制作。

 

1954年(75歳)

喜寿を記念して「喜寿祝賀77碗」を制作。

 

1956年(78歳)

藍綬褒章を受章。

 

1957年(79歳)

八十寿祝賀会を開催。参加者100名に記念茶碗と図録『半泥子八十賀百碗鑑』を贈呈。

 

1963年(昭和38年)

86歳で逝去。

 

**************************************

 
 
弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
 
 
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
 
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
 
 
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
 
 
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
 
 
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
 
 
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
 
 
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
 
 
愛知県名古屋市中区門前町2-10
 
電話052(251)5515
 
営業10:00-18:00

最近のブログ

月別アーカイブ

ツイッター facebook インスタグラム

電話でお問い合わせ

0120-853-860

フリーダイヤル受付時間

月曜日〜土曜日
10:00〜18:00

電話でお問い合わせ 0120-853-860

受付時間
月〜土曜日 10:00〜18:00
(受付時間 10:00〜18:00)

無料LINE査定 無料Web査定