2025年2月4日
斎藤義重の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
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斎藤義重 本人
斎藤義重は、昭和期の戦前、戦後を中心に日本の前衛芸術を牽引した芸術家です。学生時代には、構成主義やダダイスムの影響を受けて以降、楕円や矩形の合板を用いた平面の作品から、晩年はインスタレーションの立体作品を発表します。
一貫して抽象表現の可能性を探究し、独自の表現を確立しました。20世紀後半の日本の現代美術を代表する作家の1人で、国際的にも高く評価されています。
また、1964年には多摩美術大学の教授に就任し、後に「もの派」を代表する芸術家となる関根伸夫や菅木志雄らを育成するなど、後世の芸術家に多大な影響を与えました。
1904年、斎藤義重は青森県弘前市に生まれる。幼少期に、陸軍の軍人であった父親の赴任に伴い、栃木県や東京と移り住み、1917年に日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)に入学します。幼い頃から父親の書斎でヨーロッパの建築や絵画、彫刻が写った絵葉書を見るなど美術に関心を寄せていた斎藤義重は、中学時代にはセザンヌやゴッホの作品などを手掛かりに、油彩で風景画や人物画を描いています。
しかし1920年、斎藤義重は在学中に見たダヴィド・ブルリューク(1882-1967)をはじめとするロシア未来派の展覧会で、その作風に衝撃を受けます。ロシア未来派は1910年代に隆盛したアヴァンギャルド芸術の潮流で、ブルリュークは「ロシア未来派の父」とも呼ばれ、当時日本に亡命していました。
斎藤義重 あほんだらめ 1948 昭和23油彩 キャンバス
その際、様々な新しい傾向の作品を数百点ほど持ち込んだため、それらをまとめて展示するなど、日本の前衛芸術の発展に寄与しました。 それまで絵画とは見たものをそのまま描くものと思っていた斎藤義重にとって、そうした「絵画のイリュージョンの否定」は衝撃的で、以降の作品制作の根幹となりました。
20歳を過ぎた頃、斎藤義重は絵画を非力なものと考え絶望し、また当時ドイツ留学から帰国していた村山知義(1901-1977)の作品に触れる機会もあったことから、文学へ傾倒するようになります。しかし1929年、斎藤義重が25歳の頃に、ヨーロッパの前衛芸術を扱った雑誌でロシア構成主義やダダイスムの作品に触れ、再び美術の世界に戻ります。
1931年の第18回二科展にレリーフ状の「トロウッド」を出品しようとしますが、絵画部門と彫刻部門のどちらにも受け入れられず持ち帰りました。このエピソードは、既存のジャンルに当てはめることのできない斎藤義重の芸術を象徴するようです。
1933年〜1935年までは、古賀春江・東郷青児らによるアヴァンギャルド洋画研究所に在籍し、構成主義やダダイスムなどから刺激を受けます。1939年には第1回九室会展に出品、美術文化協会に参加します。しかし1953年には美術文化協会を退会し、以降はどの団体にも所属しませんでした。
戦時中、斎藤義重は軍用石鹸工場で働いていたため徴兵は免れましたが、残念なことに空襲でそれまでに制作した作品と小説の草稿やノートなどが全て焼失してしまいました。戦後、再出発を図ろうとした斎藤義重ですが、1954年に病を患い、千葉県浦安市に移り療養生活を送ります。
そして病気が回復した後、1957年の第4回日本国際美術展では「鬼」の作品を出品して、K氏賞を受賞しました。また、同年の「今日の新人 1957年」展では、「作品1」で新人賞を受賞し、「53歳の新人あらわる」と喧伝されました。戦後しばらくは世間から忘れさられた斎藤義重でしたが、再び注目を集めるようになりました。
また1958年には、瀧口修造の知己を得て、日本で初めての個展「斎藤義重展」を東京画廊で開催しました。1960年代には、斎藤義重は国際的な美術展に度々作品を出品し、受賞を重ねます。
1960年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した際は、自身初となる渡欧もしました。1960年の第3回グッゲンハイム国際美術賞展で優秀賞を受賞、1961年の第6回サンパウロ・ビエンナーレ展に「作品7」を含む13点を出品し国際絵画賞を受賞するなど、高い評価を得ます。
斎藤義重 トロウッド 1938年制作 1973年再制作
斎藤義重は空襲でほとんどの作品を焼失しましたが、1973年の「連続回顧展」を機に、多くのものを再制作しています。この作品もその一つで、もとは「作品」と題して、1938年の展覧会で連作として発表されました。白の地に黒く塗った合板を並べた、きわめてシンプルな構成は、戦前に制作されたことを考えれば、数少ない抽象表現の作例として重要だと言えるでしょう。「トロウッド」は、「さしみのとろみたい」と評されたことに由来するこの連作の通称で、回顧展の際に正式名となりました。 作品が燃えるなか、斎藤義重は「これ以上のことをやるんだ、過去よさようなら」といった心境だったといいます。それから35年が経ち、写真は残っていたものの、もはや存在しない作品を敢えて再制作した心持ちは、いかなるものだったのでしょうか。
代表作 斎藤義重 電気ドリルと合板
電気ドリルと合板を使う試みで何を表現したのでしょうか。「実在を見せたかったのだろう。板の上にもう一枚板を貼り合わせて、そこに切り込みを入れることで、現実の奥行きができる。絵画の上ではイリュージョンでしかないものが、現実の奥行きになります。
そういう一種の遊び。別の言い方をすると、絵画、平面ではもの足りない。でも平面的に描いて、可能性を探したときにレリーフ形態を思いついた。レリーフの厚みの空間の中で絵画を重層化させた。つまりイリュージョンの奥行きではなく、現実の奥行きなのだが、まだ立体にはならない。あくまでも平面上の奥行き、でも現実の奥行きの中で絵画を重層化させていく。簡単に言うと、絵画空間に厚みを与えたいということです。
それから個性をストレートに出すことは一度止めてみたいと考えた。これは斎藤義重だけでなくて、抽象を目指した作家の多くにある考え。個性を超えたもののところへ一度行かないと、具象となんら変わらない。
それで斎藤義重は絵筆の代わりにドリル、キャンバスの代わりに板を使った。画面を切り刻む人は珍しいと語った。 画家の浜田浄(きよし, 1937-)は「斎藤は新しい展開にとって、何よりも表現することの『方法』を問題にし、『システムを作ること、システムを創造する』ことが重要な課題だったのである。(略)(浜田浄「私の好きな一点 斎藤義重と“ドリル作品”」『現代の眼』No.426, pp.7-8より)と、絵を描くという従来の方法を覆し、新たな絵の制作方法を生み出した功績を挙げている。
斎藤義重の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.斎藤義重の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.斎藤義重の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.斎藤義重の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.斎藤義重の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。
斎藤義重 略歴
1904年
明治37年5月4日に生まれます。本籍は、東京市四谷区左門町。
1920年
大正9年、京橋の星製薬会社で開かれたロシア未来派の亡命画家ダヴィード・ブルリューク、ヴィクトル・パリモフの展覧会を見て、衝撃を受ける。以後、築地小劇場における村山知義の舞台美術に感動するなど、大正期の新興芸術に関心をよせるようになります。
1933年
昭和8年、東郷青児、阿部金剛、古賀春江が主宰する「アヴァンガルド洋画研究所」に入り、桂ユキ子を知る。
1936年
第23回二科展に初入選する、同年、第14回黒色洋画展にも出品します。
1938年
解散した黒色洋画展の山本敬輔、高橋迪章らと絶対象派協会を結成、また同年には、二科会内の前衛的な傾向の作家によって結成された九室会に会員として参加。翌年、美術文化協会が結成され、参加することになり、九室会を退く。
1953年
美術文化協会を退き、以後、団体に属することはなかった。
1957年
第4回日本国際美術展で「鬼」がK氏賞を受賞、翌年、瀧口修造の紹介により東京画廊での最初の個展を開催。
1959年
第5回日本国際美術展に出品した「青の跡」によって、国立近代美術館賞を受賞。同年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。
1960年、第4回現代日本美術展に出品した「作品R」によって最優秀賞を受賞。同年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。61年には第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品、国際絵画賞を受賞。
1960年
ドリルを使って、画面を掘り込む平面作品を制作するようになり、さらに「クレーン」、「ペンチ」シリーズなど、合板にラッカーを塗った明快な作品へと展開していきまた。
1964年
多摩美術大学の教授になります。在職中は、その後現代美術の分野で活躍することになる多くの学生を指導したことで知られる(1973年に退職)。1978年には、東京国立近代美術館において「斎藤義重展」(出品作品・資料点数108点)が開催されました。
1980年
立体と平面にわたる「反対称」、「反比例」のシリーズが始まります。
1984年
東京都美術館、栃木県立美術館、兵庫県立近代美術館、大原美術館、福井県立美術館を巡回した「斎藤義重展」(出品点数98点)が開催された。
1985年
1月、実験的制作活動による現代美術への貢献を評価され、昭和59年度朝日賞を受賞します。
1980年
黒い木を連結したインスタレーションである「複合体」シリーズがはじまり、平面、立体の区別なく、空間を構成した作品を発表しました。
1993年
平成5年、77点の作品によって構成された「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木―Time・Space・Wood」が、横浜美術館と徳島県立近代美術館において開催されました。
1999年
神奈川県立近代美術館において「斎藤義重展」(出品点数53点ほか)が開催されました。
2003年
没後1月から翌年3月まで、岩手県立美術館、千葉市美術館、島根県立美術館、富山県立近代美術館、熊本市現代美術館の全国5館を巡回する回顧展が開催され、戦前の作品から遺作まで158点によって構成された内容によって、その弛むことのなかった「前衛」の軌跡が回顧されました。日本の戦後から現代美術を顧みるとき、欠くことのできない多くの作品の残し、また「もの派」をはじめ、多くの作家に影響を与えたことも忘れられないです。
2001年
現代美術家の斎藤義重は、6月13日、心不全のため横浜市内の病院で死去しました。享年97。
斎藤義重 作品7 合板 油彩
斎藤義重の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.斎藤義重の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
斎藤義重 査定価格におけるポイント
斎藤義重の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
斎藤義重先生の作品は、赤い作品、青い作品に高値の査定価格がつきます。
100万円から500万円ぐらいの買取相場です。版画は3万から8万が相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
斎藤義重の作品は、ベニヤ板にドリルの作品が評価されます。
版画の作品もあります。
斎藤義重展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
東京画廊などのシールがあると安心して査定できます。
制作年代
斎藤義重先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ李禹煥の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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