2024年12月14日
八木一夫の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
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八木一夫が所属した走泥社は、用途を持たない“やきもの”を初めて作った前衛的な陶芸家集団です。八木一夫が用途を持つ器の制作からオブジェ制作に至りましたのは、敗戦直後の1940年代後半から1950年代半ば頃です。作陶を始めた当初は、八木一夫は古い中国陶磁器や朝鮮陶磁器の焼き物に関心がありましたが、絵付けの意匠にパウルクレーやパブロピカソらとの共通項を見出していました。
八木一夫の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.八木一夫の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.八木一夫の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.八木一夫の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.八木一夫の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
八木一夫は、大正7(1918)年京都市東山生まれます。父は陶芸家の八木一艸です。昭和6(1931)年に京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)へ入学します、昭和12(1937)年同校卒業後、商工省陶磁器試験場に伝修生として入ります。沼田一雄主催の日本陶彫協会に入会し、陶彫を学びました。昭和21(1946)年には青年作陶家集団結成に参加しましたが、昭和23(1948)年に同集団が解散し、昭和23年7月に山田光、鈴木治、松井美介、叶哲夫とともに走泥社を結成しました。
八木一夫 ザムザ氏の散歩 1954 年
轆轤で成形したものを輪切りにし、 縦に直立させたオブジェである。ろくろは器のかたちをもたらす道具だが、轆轤で成形したものを直立させることで、轆轤本来の役割を否定しました。
オブジェの記念碑的位置づけを与えられている八木一夫のザムザ氏の散歩についての解説をします。1917年にマルセル・デュシャンが《泉》という レディ・メイドのオブジェで行った、男性用便器を横に寝かせて自身のサインをしたものを美術館に展示するという方法論を、実は八木一夫も踏襲しているのではないかということである。つまり、 若干形態は異なるが、立った状態では用途性を排除したオブジェとなり、横に寝かされると用途性を持つ花器になるということである。 デュシャン以後の美術界では、様々にデュシャンを検証しつつ展開してきたという一面があり、 八木一夫は「それいただき」と常に新しいことに対するアンテナを張りめぐらせていた作家である。
八木一夫 黒陶 環
八木一夫は、用途を否定しました。八木一夫がまったく用途をもたない焼きものを制作するようになったのには、伝統陶芸への懐疑のほかに、陶彫からの影響もありました。八木一夫は、 彫刻も学んでいましたので、近代の陶彫について知っていました。 たしかに、八木一夫のオブジェは、用途をそなえた工芸よ りも、作家の自己表現としてのアートに近いものであります。
八木一夫は、釉薬の効果を排除するために、黒陶をもちいた無釉の焼き物を制作しました。黒陶は、古代に土器として存在したが、八木一夫の使用によって、現代陶芸で広くもちいられるようになりました。
八木一夫 二口壺 1950 年
1950 年製作の二口壺では、轆轤で成形したときに口となる部分が底となっている。すなわち、壺を逆さにすることで、壺の口を塞いでしまっています。たしかに、作品上部に二つ口のようなものがついているが、二つの口は向き合うように取り付けられていて実用には向きません。 八木一夫は、轆轤を否定しました。陶工にとって、轆轤はなくてはならない体の一部のようのものでありましたが、八 木一夫はそのことにも疑問を投げかけます。 八木一夫は、釉薬を否定しました。釉薬は、焼成によって予期しない微妙な変化をもたすものであり、古来それが魅力とされてきました。また、釉薬は焼きものに光沢をもたらすことで、焼き物の形よりも、焼き物の表面を引き立てるものでした。
八木一夫 略歴
1918年
7月4日、陶芸家八木一艸(栄二)の長男として、京都市東山区に生まれます。
1925年
京都市立六原尋常小学校に入学します。
1931年
六原尋常小学校を卒業と同時に、京都市立美術工芸学校彫刻科に入学する。彫刻を石本暁海、松田尚之、矢野判三に、デッサンを太田喜二郎に、美術史を加藤一雄に学びます。
1937年
美術工芸学校彫刻科を卒業し、商工省陶磁器試験所の伝習生となる。また、この頃同試験所の指導にあたっていた沼田一雅の日本陶彫協会が結成され、これに入会して陶彫を学びます。
1939年
1月、三越(東京・日本橋)で日本陶彫協会第1回展が開かれ出品する。
5月、大阪歩兵第八聯隊に補充兵として入隊する。
8月、南支広東方面へ派遣されたが、9月に発病し、現地で入院ののち帰国します。
1940年
8月、補充兵免除となり、除隊する。
1943年
神戸市立中宮小学校の図工科教員となり、ついで、京都の立命館第二中学校助教諭となる。
1946年
立命館第二中学校を退職し、陶芸に専念する。
9月、中島清を中心とし、若い陶芸家による「青年作陶家集団」が結成され、伊東奎、大森淳一、田中一郎、山田光、山本茂兵衛、松井美介、斉藤三郎らとともに、その創立に加わる。
11月には鈴木治も参加する。
1947年
2月、「青年作陶家集団」の趣意書を発表する。
5月、青年作陶家集団第1回展(京都・朝日画廊)に«掻落向日葵図壺»を出品する。
10月、第3回日展に「白瓷三彩草花文釉瓶」で初入選する。青年作陶家集団第2回展(朝日画廊)に「春の海」を出品する。
1948年
5月、京展工芸部に«金環触»を出品し、京都市長賞を受賞する。第1回パンリアル展(丸善画廊)に出品する。
6月、前年、富本憲吉を中心に結成された、新匠工芸会の第1回展に出品する。
7月、青年作陶家集団は第3回展ののち、会員間の芸術上の見解の差異から解散し、八木は鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫とともに「走泥社」を結成する。
9月、第1回走泥社展を大阪・高島屋で開催。
1949年
この年、京都、七彩工芸の嘱託となり、マネキンを造る。八木一艸・一夫二人展を朝日画廊で開く。
1950年
3月、ニューヨーク近代美術館に«少女低唱»«飛翔するカマキリ»など4点が陳列される。
4月、京都市美術館事務所で第2回走泥社展を開く。
11月、パリのチェルヌスキー美術館で「現代日本陶芸展」が開かれ、出品する。
1951年
3月、イタリアのファエンツァ陶磁博物館で日本部が新設されることになり、楠部弥弌、近藤悠三、清水六兵衛、宇野三吾、石黒宗磨、鈴木治らとともに八木の作品が送られる。
走泥社展-京都市美術館、京都府ギャラリー、東京和光
1952年
染織作家高木敏子と結婚する。
須田剋太、津高和一、植木茂、中村真らを中心に非形象と抽象造形を目ざす、現代美術懇談会が結成され、これに参加する。他に吉原治良、森田子龍、早川良雄らが参加した。走泥社展-京都市美術館、毎日新聞社京都支局ホール、東京和光。
1953年
走泥社展-京都市美術館、東京和光。
1954年
8月、京都府ギャラリーで個展を開く。
11月、現代美術懇談会の展覧会ゲンビ展(京都市美術館)に出品する。同展は吉原治良、津高和一、須田剋太、宇野三吾、森田子龍らの作品百数十点を展示。
12月、フォルム画廊(東京)で個展を開き、この時«ザムザ氏の散歩»を出品する。走泥社展-京都市美術館、東京和光。
1955年
3月、長男 明誕生。
4月、個展。
この年から、無釉焼締のオブジェ作品を造る。走泥社展-京都市美術館、東京和光。
1956年
6月、タケミヤ画廊(東京)で個展。
7月、次男 正誕生。
11月、京都市美術館主催「新人グループ展」に出品する。走泥社京都展はこれをもって代行する。
1957年
京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)彫刻科非常勤講師となる。この年、初めて黒陶作品を造る。
走泥社展-京都市美術館、東京高島屋。
1958年
今東光が工房に来訪し、八木一夫の器に絵付をし梅田画廊(大阪)で二人展を開く。
走泥社展-京都市美術館、丸越デパート(金沢)。走泥社クラフト展-白木屋(東京)。
1959年
4月、国立近代美術館(東京)の「現代日本の陶芸」展に出品する。
10月、第2回国際陶芸展(ベルギー・オステンド)に出品の«鉄象嵌花壺»がグラン・プリを受賞する。
走泥社展-京都市美術館、西武百貨店(東京)。
1960年
走泥社展一京都市美術館、西部百貨店(東京)。
1961年
京都・パリ交歓陶芸展に選ばれる。同展は2月京都市美術館で披露され、5月、セーブル付属博物館で開かれる。
走泥社展-京都市美術館。
1962年
8月、第3回国際陶芸展(チェコスロヴァキア・プラハ)に«碑・妃»を出品しグラン・プリを受賞する。
走泥社展-京都市美術館、新宿画廊(東京)。
1963年
4月、国立近代美術館京都分館の開館展「現代日本陶芸の展望」展に«作品1»«作品2»を出品する。
10月、国立近代美術館京都分館の「工芸における手と機械」展に«花器»«鉢»を出品する。
フジカワ画廊(大阪)で個展。走泥社展-京都市美術館、新宿画廊(東京)
1964年
8月、国立近代美術館・朝日新聞社主催の「現代国際陶芸展」に実行委員を委嘱され、同展«黒陶»を出品する。同展は以後、京都、久留米、名古屋を巡回。
9月、国立近代美術館京都分館の「現代日本の工芸」展に«書簡»を出品する。紅画廊(京都)で個展を開き、黒陶オブジェ、クラフトなど20数点を出品します。
11月、銀座松屋で個展を開く。この頃から焼締とともに、黒陶による皺寄せのオブジェ作品が多く見られる。『信楽・伊賀』(日本のやきもの・淡交社、共著)が刊行される。
走泥社展-京都市美術館。
1965年
翌年にかけて、サン・フランシスコ、デンヴァー、ニューヨーク等、アメリカ8都市巡回、ニューヨーク近代美術館主催の「日本の新しい絵画と彫刻」展に招待出品する。«雲の記憶»がニューヨーク近代美術館に収蔵されます。
9月、丸善画廊(仙台)で「八木一夫・照倉順吉二人展」を開催する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹(東京)。
1966年
3月、ロサンジェルスでの個展を披露する展観を山田画廊(京都)で開く。
3・4月、ニューヨークで開催の「ジャパン・アート・フェスティバル」に招待出品する。
4月、フェイガン・パルマー画廊(ロサンジェルス)で個展。
5月、京都市美術館で「八木一夫作品展」(平常陳列として、「近代フランス・ポスター」展、宇野三吾作品展」と併陳)
11・12月、壱番館画廊(東京)で「八木一夫・壺展」を開き、信楽焼作品を中心に発表する。
走泥社展-京都市美術館、伊勢丹(東京)。
1967年
11月、京都市美術館での第30回走泥社展にガラス作品を発表します。
12月、壱番館画廊(東京)で「辻晋堂・八木一夫展」を開き«帽子»«環境の指»などを発表する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。
1968年
2・5月、京都・東京国立近代美術館の「現代陶芸の新世代」展に出品。
4月、京都教育大学非常勤講師となる(1971年4月まで)。
10月、伊勢丹(東京)での「陶」個展に«髪のデザイン»«頭は先に進む»を発表する。『風月』(日本の文様・淡交社、共著)が刊行される。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹(東京)。
1969年
1月、『「八木一夫作品集』(求龍堂)が出版されます。
2月、壱番館画廊で「八木一夫作品集刊行記念展」が開かれ、«碑・妃»(1962)から«みんなさかさま»(1968)まで10数点を出品。
11-12月、伊勢丹で八木一夫銅器展を開き«花の花生»«知恵の輪»«ニュートンの耳»など30数点を発表します。
走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。
1970年
10-11月、京都国立近代美術館開催の「現代の陶芸-ヨーロッパと日本」展に«投石»を出品する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。
1971年
3月、天満屋(岡山)で個展。
4月、京都市立芸術大学美術学部陶芸科教授となる。
10-12月、12-1972年1月、京都、東京国立近代美術館での「現代の陶芸-アメリカ・カナダ・メキシコと日本」展に«頁1、2、3»3点を出品。
11月、第34回走泥社展で「本のシリーズ」を発表する。田中一光とともに、札幌での第11回冬期オリンピック冬季大会の入賞メダルのデザインを担当します。
走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。
1972年
6月、伊勢丹で「八木一夫個展」を開き、本のシリーズ«頁1»«とり»«ブラック・メッセージ»などを発表する。
走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。
1973年
7月、京都市立芸術大学シルクロード調査隊隊長として、パキスタン・アフガニスタン、イランに赴く。
9月2日、父、一艸が死去し、帰国。日本陶磁協会金賞を受賞する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。
1974年
5月、立体ギャラリー・射手座(京都)で「八木一夫個展」を開き、黒陶による手のシリーズ«流離»«喝采のスペース»など約40点を発表。走泥社展-伊勢丹、天満屋(岡山)、京都市美術館。
1975年
5月、益田屋(東京・新宿)で「八木一夫花の器展」を開催。
平安画廊(京都)で「八木一夫版画展」を開き、エッチングなどを出品。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。
1976年
7月、宇治市炭山に開窯し、米★居、牙州窯と命名します。
8月、エッセイ集「懐中の風景」が講談社より刊行されます。
9月、翌年1月、東ドイツ・ロストック、ドレスデンで開かれました。
「日本陶磁名品展」(日本経済新聞社主催)に«信楽土管»(1966)«名月»(1969)«NO»(1972)を出品。
10月、益田屋開催の「茶陶五人展」に楽茶碗を出品。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。
1978年
10月、FIAC’78(パリ画商展)に陶板「俳句シリーズ」による個展(カサハラ画廊主催、グラン・パレ)
10月、益田屋で「八木一夫・鈴木治茶陶二人展」を開きます。
11月、伊勢丹で還暦記念の「八木一夫展」を開き、«ザムザ氏の散歩»«盲亀»«アリサの人形»など新旧作品を対比した展示を行う。
翌年にかけて、デュッセルドルフ、ベルリン、ストゥットゥガルト巡回の「日本陶芸展」(文化庁主催)に«花をもつ少女»を出品。
走泥社展-京都市美術館・伊勢丹。
1979年
2月28日、心不全のため急逝する。
3月2日、自宅で密葬、3月10日、天龍寺慈済院で告別式を行う。
(本年譜は「八木一夫展」-京都国立近代美術館、東京国立近代美術館編、1981年-収載の年譜を一部添削し掲載した。)
八木一夫の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
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4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
八木一夫 査定価格におけるポイント
八木一夫の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
八木一夫先生の作品は、オブジェの作品に高値の査定価格がつきます。
50万円から300万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
八木一夫の作品は黒陶の作品が評価されます。
盃の作品が多くに取引されております。
高額作品と価格が低くなってします作品の開きがあります。
八木一夫展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
八木一夫先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ八木一夫の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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