2014年9月20日
富本憲吉 白磁壷 1933年
富本憲吉 白磁壷 1933年
大正2年、バーナード・リーチとの出会いによって陶芸家への道を歩み始めた富本憲吉は、郷里大和川河畔で写生中、農家の軒下で犬の餌入れに使われていた白磁鉢に強い影響を受ける。それがきっかけで、李朝白磁への関心が高まり、朝鮮行きを決意する。
柳宗悦から浅川伯教・巧兄弟を紹介され、李王家博物館や各地の窯場を見学して廻る。数々の名品や名工との貴重な出会いから多くを学び、かつ模倣に沈むことなく自分の方向を探ってゆく。帰国して幾度も試作を重ねた末、彼独自の白磁が姿を現わしてくる。
「形は身体骨組であり、模様はその衣服である。模様や色で飾られた衣服を脱ぎすて、裸形になった人体の美しさは人皆知るところであろう。」
下図なしで思うがままに壺を轆轤成形したあと、青空の下に一列に並べ、最も形の整った3分の1を白磁に、それに次ぐ3分の1には呉須や彫線を施し、残りを色絵の素地とするとも述べています。
「未だ白定に遠い私の白磁を その同一位置に迄漕ぎつけるのは モウ永くはない私の死に至る迄の望みであり 又責任であろふと考へる」との言葉からも、白磁への強いこだわりが感じられます。白定は宋代定窯白磁を意味します。
艶やかな器面を白光が流れ落ちる。磨きぬかれた肌に冷ややかさは微塵もなく、生命のぬくもりと高い品格を漂わせている。