2023年3月30日
比田井南谷の書を買取り致します。
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比田井南谷の作品を買取致します。
- 比田井南谷の書は近年益々評価が上がってきております。
生活空間や趣味嗜好がここ10年ぐらいで変わりモダンな作品が今の若者の感性にピッタリあってきたのでしょう。
比田井南谷 横顔写真
今から70年前は何が何だか全く理解されず一部の知識人だけの評価だったのではないか、私も20年前ですら全く売れないだろうなと思っていたと思います。
やはり草間彌生を初めとする現代アートがVUITTONにも取り上げられ抽象画が良いと10年ぐらい前から取り上げられて来ましたので書の抽象も注目され始めてきたからだと思っております。
なんともカッコイイ比田井南谷の書をご紹介します。
比田井南谷の書
比田井南谷の書
- 心線作品第一・電のヴァリエーション
- 1945年、(昭和20年)、比田井南谷は長い書の歴史の中で初めて文字を書かない書作品を制作し、翌年、義兄角浩の勧めで洋画界の「現代美術作家協会展」に発表した。
- 「心線作品第一電のヴァリエーション」と名付けられた作品は、毀誉褒貶を招きながらも書道界に大きな反響を呼んだ。
- 父天来の高弟である手島右卿や大沢雅休の激励もあって、南谷は文字を離れた書芸術の成立を目指し実験の道を進み始めた。
- 比田井南谷の「心線の生れるまで」昭和30年(1955)の述懐。「あの終戦がやはりこの新らしい誕生に作用を及ばしたのかも知れない。
- しかし心の中のモチーフは容易に形にならない。
- 疎開先の炬燵の中で奇怪な線や点を書いては反古の山をつくり、人が来ると急いでしまい込むという自信のなさに私は悩んでいた。
- これがどの位続いたか、突然頭に浮ぶものがあった。それは父の「行き詰ったら古に還れ」という言葉である。古文だ。古文だ。
- 先ず古文に還ろう。そこで古籀篇を開いたとき「電」の字が異様に私の注意を惹き、これを夢中で展開させて心線第一「電のヴァリエーション」となったのである。」
書を披露する比田井南谷先生
- 比田井南谷の言葉
- 線表現の伝統は4000年の歴史をもち、それぞれの時代が、その時の人々の心について何事か―活力や衰退や優雅など―を露わにする。
- 東洋の書は、美しい筆跡以上のものである。
- それは文字の意味によってではなく、書かれた線の意味によって評価される。
- 抽象的書は、内的存在を線で表現しようとする東洋の欲求の拡大である。
- 主眼は外面よりむしろ内面にある。人が私の作品について「美しい」というとき、それは私には何の意味もない。
- 「これが比田井だ」というべきだ。
- 「ワシントン・ポスト紙での南谷のことば」1964年(昭和39年)
- 今までの私の作品は、いわば一連の実験報告にすぎません。
- 私の作品に、もし何らかの取柄があるとすれば、それは、ときどきの、ありのままの姿を正直に露呈しようとした点であろうと思います。
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「比田井南谷作品集 自序」1987(昭和62)年
タバコを吸う比田井南谷先生
比田井南谷(1912年~1999年)は、明治45年、父は「現代書道の父」とよばれる書家比田井天来。
現代書の祖と称される比田井天来の二男として神奈川県鎌倉に生まれました。比田井南谷は、父が死去した1939年に書道研究機関「書学院」を継承し、1945年から抽象的表現を探求する前衛書を制作し始めます。
その後も実験的な姿勢を強めた南谷は、1959年に渡米し、多くの現代美術の作家と交流を重ねます。ニューヨーク、サンフランシスコ、ワシントンにおける個展の開催、20校にも上る大学での書道史の講演、芸術家に対する書の指導など、書芸術の海外普及に全力を注ぎました。
母は仮名書家比田井小琴。 書学院(父、天来が創設した書の研究機関)が所蔵する碑法帖に囲まれて育ち、徹底して古典から書法を学んだ南谷ですが、模索するうちに到達したのは、文字性を放棄した心線の表現でした。
南谷の心線作品は当時の書壇に大きな衝撃を与え、賛同者を得て前衛書運動へと発展していきました。
アメリカ、ヨーロッパでも称賛され、世界的に認められるに至りましたが、書壇においては、文字を書かない作品を書と認めない批判の声もありました。否、今なお決着のつかない物議のさなかにあるのかもしれません。
「書とはなにか」。南谷の書は今もこう問いかけます。
書の古典的表現を打ち破り、雷鳴のごとき鮮烈さをもって生まれ出でた初の前衛書作品、比田井南谷の書は芸術の源泉が感じられます。これからよりもっと評価される日が来ると信じております。
けして忘れられる事はないでしょう。比田井南谷の作品を買取いたします。
お持ちの方はご連絡をお待ちいたしております。
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