2025年9月30日

画壇と決別し、離島に渡った孤高の天才・田中一村 〜北岡技芳堂の骨董品買取りブログ〜

生前は見向きもされず、死後に評価された芸術家――。そう聞いて真っ先に思い浮かぶのはやはりゴッホでしょうか。小説家では「モルグ街の殺人」のエドガー・アラン・ポーや、科学者で遺伝学の祖とされるメンデルなども、存命中にその仕事が評価されることなく不遇な人生を送りました。そして日本にも彼らと同じような画家がいます。少年時代に神童と呼ばれて将来を嘱望されたものの、その後はまったく評価されず、離島で孤独に創作活動を続けた孤高の画家、田中一村(1908〜1977)です。今回は彼の生涯と作品の特徴、死後の再評価に至るまでの流れをご紹介します。

 

 

田中一村 本人 写真

田中一村 本人 写真

 

■かつての神童が過ごした孤独な晩年

田中一村は栃木県生まれ。幼い頃から画才を示し、7歳の時に制作した「紅葉にるりかけす/雀」を見れば、人並外れたその画力を知ることができます。周囲の大人たちが神童扱いしたのも納得です。南画と呼ばれる水墨画の一種を描く彼は、10代に入ると次々と賞に輝き、東京美術学校(現・東京芸術大学)の日本画科に入学。順風満帆な画家人生かと思いきや、わずか2ヶ月で中退してしまいます。教師とソリが合わなかったためだとか、病気のためだとか、家庭の都合だとか色々いわれているようですが、詳細は今もって不明。しかし、このあたりから歯車が狂い始めたのは間違いないようです。

中退後も制作を続けましたが、日展や院展に何度出しても落選する日々が続き、やがて後援者からの支援も打ち切りに。日本画壇に絶望した一村は南画と決別。自分の画風を追い求める試行錯誤の日々がスタートします。この時期に描かれた「蕗の薹とめだかの図」などの作品はどれも見事な出来なのですが、残念なことに新しい作風が画壇から受け入れられることはありませんでした。

思い悩んだ37歳の一村は、近畿地方、四国、九州をめぐるスケッチ旅行に出かけます。途中、宮崎県に立ち寄った際にその南国情緒あふれる風景にすっかり魅了され、50歳の時に思い切って奄美大島に単身移住。収入に乏しく、島の工場で染色工として働きながら、後に代表作となる数々の作品の制作に取り組みます。一村は「日本のゴーギャン」と呼ばれることがありますが、確かに楽園を求めてタヒチに渡ったゴーギャンとよく似ています。想像でしかありませんが、自らが描きたいものを見つけた奄美の一村は、ゴーギャン同様に生活は苦しくとも充実した日々を送ったのではないでしょうか。

画壇を離れて以降、絵が売れることはほとんどなく、展覧会に作品を出すこともなかった一村。生涯独身を貫き1977年に没するまで、どこに出すでも誰に見せるでもなく、自らが理想とする絵をひたすら描き続けたそうです。

 

■類似作家がいない異端の画家

亜熱帯の花鳥や風土をモチーフにした奄美時代の代表作に「不喰芋(くわずいも)と蘇鐵(ソテツ)」があります。鮮やかなグリーンやイエローで彩られた植物たちが共演するこの作品は、一見すると日本画とは思えず、カンバスにアクリルで描かれた現代アートにも見えてきます。知人へ宛てた手紙には「この絵は百万円でも売れません。これは私の命を削って描いた絵です。閻魔大王への土産品ですから」と記してありました。奄美での生活は極貧で、工場で得た賃金をすべて画材に投じていたようです。俗世から離れ、自らが追い求める芸術のためにひたむきに生きる姿を想像すると、やはり畏敬の念と感動を覚えます。

 

「アダンの海辺」1969年 個人蔵(千葉市美術館寄託)

「アダンの海辺」1969年 個人蔵(千葉市美術館寄託)

 

「アダンの海辺」という作品では、奄美の熱帯植物であるアダンと、その先に広がる砂の一粒一粒や浜に寄せる波が精緻に描かれています。西洋画の写実性と、余白やグラデーションが美しい日本画のエッセンスとを併せ持ち、配色や構図は時に繊細、時に大胆。生命力に満ち満ちたこれらの作品を言葉で説明するのは難しいですが、一村の「自然の事物は必然性をもって存在し、必然の中に生命を保つ」という言葉を聞くと、とてもしっくりくるから不思議です。

奄美大島にある「田中一村記念美術館」では、掛け軸に描かれた初期の南画から、奄美時代の大作に至るまでの変遷が見られます。私も奄美に行ったらぜひ訪問したいと思います。

 

■一村フィーバーはどのようにして起こったか

1977年に没した一村。三回忌に奄美の人たちが彼を偲んで展覧会を開催しました。その様子を地元の南日本新聞が報じたことでその名が知られるようになり、4年後の1984年にNHK「日曜美術館」で取り上げられ全国的な話題となります。その独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催されるなど、再評価の動きが加速します。その後も伝記映画の制作や書籍の出版など人気は続き、2001年には田中一村記念美術館がオープン。2024年に東京都美術館で開催された大回顧展では、入場に長蛇の列ができるほどだったそうです。天国の一村は、これらの出来事を一体どのような気持ちで眺めてきたのでしょうか。

評価が高止まりしているにも関わらず、残っている作品数がそもそも少ないため、高額で取引されている作家の一人です。サイズや内容によりますが、数十万円から数百万円、大作であれば一千万円以上の価格が付いていてもおかしくはありません。もし一村の作品をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひ当ギャラリーにご相談ください。もちろん「価値が知りたい」方であれば、査定だけでも構いません。

 

 

奄美の海に蘇鐵とアダン 昭和36年(1961)1月 絹本墨画着色 田中一村記念美術館蔵

奄美の海に蘇鐵とアダン 昭和36年(1961)1月 絹本墨画着色 田中一村記念美術館蔵

 

■田中一村の作品もそれ以外も 骨董・アートの高価買取は北岡技芳堂へ

北岡技芳堂では骨董品の他にも絵画や茶道具、貴金属、趣味のコレクションなど、さまざまなジャンルの品物を買受しております。ここ名古屋の地で長年にわたり取引を重ねてきた実績をベースに、多種多様なニーズに対応できる販売チャネルをもつため、あらゆる骨董品の高価買取を実現しています。

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記事監修:北岡淳(北岡技芳堂 代表)

初代である祖父が掛け軸の表具師を生業としており、幼い頃から美術品や骨董品に親しむ。その後京都での修行を経て、3代目として北岡技芳堂を継承。2006年に名古屋大須にギャラリーを構え、幅広い骨董品や美術品を取り扱いながらその鑑定眼を磨いてきた。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

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北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

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まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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