2025年9月23日
英一蝶は画家なのに松尾芭蕉に弟子入り?英一蝶の波乱の生涯 骨董品買取ブログ
江戸時代の型破りな画家といえば、浮世絵の葛飾北斎(1760〜1849年)が有名ですね。しかし北斎が生まれる前に、彼に勝るとも劣らぬ破天荒な生き様で知られた画家がいます。それが英一蝶(はなぶさいっちょう/1652〜1724年)です。その波乱万丈さは、庶民の日常を描いた軽妙洒脱な作品からは想像がつかないほど。伊藤若冲、尾形光琳など江戸時代の日本画の再評価の機運が高まる中、2024年に過去最大規模の大回顧展が開催されるなど、近年は一蝶の作品にも注目が集まっています。今回はそんな一蝶の生涯と作品についてご紹介していきます。
■遊び好きがたたり島流しに
英一蝶は京都生まれ。15歳の頃に一家で江戸に引っ越すと、伊勢亀山藩主からの推挙を受けて狩野宗派の狩野安信に入門します。この時まだ17歳。若くして絵に才を発揮し、江戸狩野派の高い絵画技術と教養を身に付けていった一蝶でしたが、わずか数ヶ月で破門の憂き目にあいます。破門の理由については諸説ありますが、当時の狩野派は幕府お抱えの御用絵師で、格式ある宗教画などを請け負っていました。しかし一蝶はそうした絵にはあまり興味を示さず、町人の日常を描く風俗画に熱中していたそう。その姿勢が「堕落している」「規範からの逸脱だ」と非難された説が有力です。そのほかにも時の幕府に対する歯に衣着せぬ物言いが災いしたとの説もありますが、およそ伝統的な日本画の枠に収まるような人物ではなかったようです。
破門はされたものの、狩野派の繊細な筆使いで描き出す風俗画は、当時の町人から大名・旗本にいたるまでその名が知れ渡るほどの人気を博したといいます。俳諧の才もあり、当時すでに俳壇の中心人物だった松尾芭蕉(1644〜1694年)に師事。「暁雲」という俳号で芭蕉および宝井其角(1661〜1707年)をはじめとした門人らとの交流を持ち、俳句や狂歌を書きつけた作品を残しました。
大名や豪商、芸術家など多方面に多くの友人を持つ一蝶は、彼らとともに毎晩遊郭遊びに興じます。吉原遊郭ではその場を盛り上げる太鼓持ちとして大活躍したようですが、なぜか今度はお縄となり、2ヶ月間の入牢を課せられてしまいます。はっきりとした記録は残されていないようですが、幕府のお金を湯水のごとく使う一蝶に、連れ回された旗本のほうが音を上げて「牢屋にでも入れておけ!」となったのではないかといわれています。一蝶の巧みな話芸に気を良くし、散財を許してしまった旗本らにも原因はあったように思えますが・・。
さらに元禄11年(1698年)、一蝶が47歳の時、今度は島流しの刑を受けてしまいます。表向きの罪状は「生類憐れみの令に背いたから」とされていますが、どうやら当時の5代将軍・徳川綱吉の親類をそそのかし、吉原へ連れて行ったことが将軍の逆鱗に触れたことが真の原因のようです(諸説あり)。島流し当日の港にはたくさんの人が見送りに訪れ、一蝶との別れを惜しんだという記録も残っています。
流刑先の三宅島でも変わらず絵を描き続け、江戸にいた頃と変わらぬ人気を誇りました。10年後、将軍の代替わりのタイミングで大赦令が出て江戸に戻った一蝶。72歳でその生涯を閉じるまで、多くの時間を創作に捧げたとのことです。
英一蝶 猿猴捉月(えんこうそくげつ)
「猿猴」とは猿のことを指し、水面に映った月を捕まえようとして、枝が折れて溺れ死んでしまうという故事が伝わっています。これは「猿猴捉月(えんこうそくげつ)」と呼ばれ、自分の身のほどをわきまえず無理なことに手を出して失敗すること、また取れないものを取ろうとして身を滅ぼすことのたとえとされています。
この由来は仏典『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』に見え、欲に駆られて無謀な行為に及ぶ愚かさを戒める教訓として用いられてきました。
英一蝶は、この寓意を重く描くのではなく、手長猿を愛らしく、どこかユーモラスな姿として表現しており、鑑賞する者に微笑みを誘うような趣を添えています。
■見ているだけで楽しくなる、高い画力とユーモア
実際に彼の作品を見ると、人気の理由がよくわかります。狩野派で身につけた線描は柔らかく、彩色は華やか。江戸町人の日常、遊郭や芝居町の賑やかな風景を題材にした作品からは、パッと見ただけで楽しげな人々の様子が伝わっています。見る者をクスリとさせるユーモアや、時の権力をチクリと刺す社会風刺なども人気の要因で「浮世絵への橋渡し役」と評されることもあります。
町民の日常を描くだけでなく、丸まった猫の柔らかな毛並みの表現が見事な「睡猫図」や、自らの袋の中に布袋さま自身が入ってしまうユーモラスな「布袋図」など多彩な作品があり、当時の評判記で「何を描いても上手い」と認められた画力がどの作品でも楽しめます。当ギャラリーにも猿の親子を描いた掛け軸があり、そのほのぼのとした可愛らしさについつい頬が緩んでしまいます。
また、俳諧にも非凡な才能を見せた一蝶は、自作の絵に自作の俳句や狂歌を添えた画讃を複数残しました。例えば「しばしとていざ蕣(あさがお)に日からかさ」の句には、朝顔に傘をかけるほっこりする絵が添えられています。その他、敬愛する芭蕉の句も題材にしており、「朝顔に 我は飯くふ 男哉」の句に素朴な朝顔の絵を添えた画讃も制作しています(朝顔や傘は彼が好んだモチーフだったようです)。このように一蝶は当時の日本画の枠を超えた試みにいくつもチャレンジし、独自の作品世界をつくりあげた作家といえます。
■評価が高まる江戸時代の日本画
近年、江戸時代の日本画が再評価される動きがあります。これには「俳諧文化や絵画との関係性」や「庶民・町人文化と絵画・風俗画の相互作用」といった、これまでになかった新しい切り口で江戸文化を研究する動きが高まっていることが一つの要因とされています。例えば浮世絵においても、これまで単に「奇想」としか捉えられなかった歌川国芳が、現代のマンガ・アニメカルチャーに続く源流として語られ、世界的な再ブレイクを果たす例なども見られるなど、これまでになかった視点で見直す動きが始まっているようです。
英一蝶の作品も同様です。没後300年にあたる昨年には東京のサントリー美術館で大規模な回顧展が開催されて多くの人が足を運びました。近年の再評価を受け、取引金額も高まっているようです。もし作品の処分や査定を希望される方がいらっしゃいましたら、ぜひ当ギャラリーにお持ちください。経験豊かな鑑定人が責任を持って査定いたします。
英一蝶 猿猴捉月
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記事監修:北岡淳(北岡技芳堂 代表)
初代である祖父が掛け軸の表具師を生業としており、幼い頃から美術品や骨董品に親しむ。その後京都での修行を経て、3代目として北岡技芳堂を継承。2006年に名古屋大須にギャラリーを構え、幅広い骨董品や美術品を取り扱いながらその鑑定眼を磨いてきた。
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