2025年2月13日
小野竹喬の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
御所蔵の小野竹喬の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
小野竹喬の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、小野竹喬の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
小野竹喬の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の小野竹喬のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた小野竹喬の作品を鑑定して買取りいたします。
絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の小野竹喬の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
小野竹喬 本人
小野竹喬は、1918年、大正7年に京都で設立された国画創作協会のメンバーの一員として、日本画の新しい表現を模索したことで知られます。
後年には、温雅な色彩と簡潔なかたちを特徴とする画風を確立して、「風景の中にある香りのようなもの」(竹喬の言葉)を画面にとらえようと、さりげない自然の表情に眼を向け続けました。
小野竹喬は国画創作協会の仲間である土田麦僊、野長瀬晩花、そして洋画家の黒田重太郎とともに、1921年にヨーロッパへと出発します。
小野竹喬は、色に重きをおく日本画へと転じた1939年、昭和14年頃を大きな転換期とみなし、それを境に小野竹喬の作品は、独自の世界に入りました
。新しい画風は、色の面によって対象を把握し、かつ日本画の素材を素直に活かそうとするものでした。この時期、小野竹喬は大和絵の表現を手本とし、線も色も古い大和絵に学ぼうとしたのです。
小野竹喬 波切村 重要文化財
この転換はその後の竹喬作品の方向性を決定づけました。それ以降、小野竹喬はおおらかで単純な形と温雅な色彩を特徴とする表現を深め、ゆるぎない独自の世界を確立してゆきます。
奥の細道句抄絵は小野竹喬晩年の代表作です。小野竹喬はこの作品で、江戸時代の俳人、松尾芭蕉の『おくのほそ道』をもとに、その句意を絵にしようと試みました。小野竹喬は昭和お代表する日本画家でした。
小野竹喬 奥の細道句抄絵 暑き日を海に入れたり最上川
小野竹喬 朝空 1975年
冒頭でも述べた、「風景の中にある香りのようなもの」を画面にとらえようと、さりげない自然の表情に眼を向け続けた小野竹喬は、茜雲の作品の評価が非常に高く、ピンクの雲は小野竹喬独自の絵画スタイルとも言えます。
小野竹喬の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.小野竹喬の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.小野竹喬の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.小野竹喬の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.小野竹喬の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります
小野竹喬の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.小野竹喬の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
小野竹喬 査定価格におけるポイント
小野竹喬の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
小野竹喬先生の作品は、風景画の作品に高値の査定価格がつきます。
50万円から300万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
小野竹喬の作品は、松尾芭蕉奥の細道シリーズの図柄の作品が評価されます。
ピンクの茜雲が描かれていると評価されます。
色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。
小野竹喬展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
小野竹喬の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。
※このように同じ小野竹喬の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
小野竹喬 略歴
1889年
明治22年、11月20日、岡山県笠岡市に父小野才次郎母ハナの四男として生まれ、英吉と命名される。生家は浜中屋を屋号とする文具商であったが、のち、ラムネ製造業を始めます。
1902年
笠岡小学校高等科を卒業し、家業を手伝います。
1903年
父の希望であった商人になることを嫌い、新劇俳優か、日本画家を志望する長兄益太郎(後に坪内逍遙の創立した文芸協会の第1回生として卒業)の勧めで画家になる決心をし、11月2日京都に出て、竹内栖鳳の門に入る。御幸町錦下ルの長兄の下宿に同居します。
1905年
竹内栖鳳から「竹橋」の雅号をもらう。油小路御池西入ルの寺で自炊生活を始めたが、許可を得て、竹内栖鳳宅寄宿生となる。間もなく土田麦僊も寄宿生となり、親交が始まる。日本美術協会展に「月宵」が入選します。
1906年
4月、第11回新古美術品展に「夏の夕」を出品します。
1907年
4月、第12回新古美術品展に「雨の木屋町」を出品、4等褒状を受ける。10月、第1回文部省主催美術展覧会(文展)に「山家の春」を出品し、入選します。
1908年
竹内栖鳳寄宿室を出て、下河原の益太郎宅に寄宿したのち、9月、富小路上ルに間借りします。4月、第13回新古美術品展に「春宵」を出品し、3等となります。10月、第2回文展に「落照」を出品します。
1909年
4月、土田麦僊とともに京都市立絵画専門学校別科に入学する。同科には他に野長瀬晩花がおり、本科2年には村上華岳、榊原紫峰、入江波光がいました。同月、第14回新古美術品展に「花の山」を出品し、5等となります。
1910年
4月、第15回新古美術品展に「暮るる冬の日」を出品し、3等となる。日の出新聞紙上で田中喜作に好評され、以後田中との親交が始まる。12月、田中喜作を中心とする懇談会「黒猫会(シャ・ノアール)」結成に参加。会員は津田青楓、黒田重太郎、田中善之助、新井謹也、泰輝男、土田麦僊らでした。
1911年
3月、京都市立絵画専門学校を卒業。卒業制作に「まつり」を出し、絵専美工校友会展で銀賞を得、学校の所蔵となったが、のちに仮面会展に出品した「南国」と取りかえます。4月、黒猫会は展覧会を開くことになったが、会員間の意見の相違のため解散し、5月、黒田、新井、田中(善)、土田と共に「黒猫会」の発展として「仮面会(ル・マスク)」を結成する。その第1回展を京都三条柳馬場京都青年基督教開館で開き、「南国」「朝」を出品する。10月、第5回文展に「港」を出品します。
1912年
5月、第2回仮面会展に「紺屋の裏」「学校」「棕梠」を出品する。この後、同会は会員の多くが京都を離れ、自然消滅する。同月、麦僊と共に知恩院山内崇泰院に移住します。
1913年
4月、第18回新古美術品展に「南島-春夏秋冬」を出品する。5月、岡山市郊外大供に移り、文展出品作を制作する。晩秋、再び上洛する。10月、第7回文展に「麦秋」を出品します。
1915年
10月、第2回院展に前年度文展の落選作「黍熟るゝ頃」を出品し、入選する。居を粟田口三条に移します。
1916年
10月、第10回文展に「島二作」を出品し、特選を受ける。居を室知恩院山内林下町に移します。
1917年
10月、第11回文展に「郷土風景」を出品したが鑑別される。居を室町出水上ルに移します。
1918年
1月20日、京都倶楽部で「国画創作協会」の結成を発表(この後1月21日、東京上野精養軒でも発表)。11月、第1回国画創作協会展(国展)を東京・白木屋で、引き続き京都・岡崎第一勧業館で開き、「波切村」を出品します。
1919年
11月、第2回国展に「夏の五箇山」「風景」を出品します。
1920年
11月、第3回国展に「海島」を出品します。
1921年
10月4日、土田麦僊、黒田重太郎、野長瀬晩花らと共に神戸出航の賀茂丸にて渡欧の途につく。途中、香港、シンガポール、マラッカ、ボンベイ等を経て、11月16日、マルセーユに着き、アビニヨン、リヨンを見学し、同18日パリに到着、ノートルダム寺院に近いセーヌ河畔のオテル・ビッソンに投宿します。
1922年
1月~2月、イタリア、2月スペイン、3月イギリスを訪れ、4月5日帰国の途につき、5月20日に帰国する。帰国と同時に住居が、市電烏丸線の延長計画にかかり、立ち退きを迫られていることを知り、居を等持院南町に移し、アトリエを等持院北町に定める。雅号の「竹橋」を「竹喬」と改めます。
1923年
11月、大阪毎日新聞社主催 日本美術展覧会に「村道」を出品します。
1924年
11月、第4回国展に「春耕」を出品します。3月、第5回国展に「長門峡」を出品します。
1926年
5月、第1回聖徳太子奉讃展に「八瀬村頭」を出品します。
1927年
4月、第6回国展に「青海」「波涛」を出品します。
1928年
4月、第7回国展に「冬日帖」を出品します。7月28日、東京・帝国ホテルで国画創作協会第1部(日本画)の解散を発表。11月、国画創作協会第1部会員ら26名によって設立された、新樹社の賛助会員になります。
1929年
9月、帝国美術院推薦となります。10月、第10回帝展に「山」を出品します。
1930年
10月、第11回帝展に「風浪」を出品します。7月、翌年1月、ベルリンで開催される日本美術展の国内公開展に「冬の室戸岬」を出品します。
1931年
等持院北町に移転します。
1932年
10月、第13回帝展に「立獅子峡」を出品します。
1933年
10月、第14回帝展に「はざまの路」を出品します。11月、竹内栖鳳の主宰する竹杖会が解散します。
1934年
5月、大礼記念京都美術館美術展覧会に「出靄」を出品します。
1935年
4月、春虹会(京都の帝展系作家16名に院展の冨田溪仙を加えた17名を会員として組織される)第1回日本画展に「稲」を出品する。10月、帝展出品無鑑査の指定を受けます。
1936年
9月、新文展審査委員に任命されます。11月、新文展招待展に「室戸岬」を出品します。
1938年
4月、第3回京都市美術展覧会に「雪後」を出品します。
1939年
10月、第3回文展に「清輝」を出品する。同作品は京都市美術館に買上げられたが、終戦後の同館接収時に行方不明となります。
1940年
2月、大阪・高島屋にて個展を開催。「山峡の月」「溪潤」「帰樵」「洛北の春」「奈良早春」「喧春」「春霞」「深春」「富嶽」「松巒」「蔬菜」「石榴」「早晨」を出品します。7月、京都・佐藤梅軒画廊で入江波光・小野竹喬・榊原紫峰新作展が開かれ、「清宵」「層巒」「秋霽」「春暁」を出品します。9月、都市と芸術社主催、池田遙郎・小野竹喬山水画新作展が東京・銀座資生堂で開かれる。大阪毎日新聞社主催紀元2600年奉祝美術展覧会の審査員になる。
1941年
5月、第6回京都市展に「晴日」を出品します。9月、第4会文展審査員を委嘱される。
1942年
5月、岡山県の依頼で同県護国神社本殿用四季山水屏風を完成奉納する。11月、第1回十宜会展を東京・日本橋三越で開催(同会は京都作家10氏の会)
1943年
10月、第6回文展に「冬」を出品する。同作品を政府に買上げられ、ラウレル・フィリピン大統領に贈られます。
1944年
7月、平安神宮御鎮座50年、平安遷都1150年奉祝京都市美術展覧会に「月」を出品します。11月、文部省戦時特別美術展に「太平洋」を出品し、京都市に買い上げられます。
1945年
11月、第1回京都市主催美術展覧会(京展)に「新冬」を出品します。
1946年
9月、第2回日展の審査員を委嘱されます。
1947年
3月、京都市美術専門学校教授となります。4月、帝国芸術院会員となる。6月、第3回京都市美術展覧会に「麓」10月、第三回日展に「仲秋の月」を出品します。
1948年
9月、第4回日展の審査員を委嘱される。10月、第4回日展に「新秋」を出品します。
1950年
4月、京都市美術専門学校が新制大学の京都市立美術大学として新発足し、その教授となります。
1951年
6月、第7回日展の審査員を委嘱される。10月、第7回日展に「奥入瀬の渓流」を出品します。
1952年
10月、第8回日展に「雨の海」を出品し、国立近代美術館に買い上げられます。
1953年
6月、第9回日展の審査員を委嘱されます。10月、第9回日展に「夕空」を出品する。11月、京都市立美術大学教授を依願退職し、以後非常勤講師となります。
1954年
1月、第5回秀作美術展に「雨の海」が出品されます。2月、東京・上野松坂屋にて「契月、翠嶂、竹喬」日本画展を開催される。7月、国立近代美術館で「大正期の画家」展が開催され、「島二作」が出品されます。
1955年
1月、第6回秀作美術展に「夕空」が出品される。6月、第11回日展の審査員を委嘱されます。日展参事となる。10月、第11回日展に「深雪」を出品します。
1956年
5月、第8回京展に「残照」を出品します。6月、第12回日展の審査委員を委嘱されます。10月、第12回日展に「高原」を出品します。
1957年
1月、第8回秀作美術展に「深雪」が出品されます。7月、東京・銀座松屋にて「小野竹喬写生展」(朝日新聞社主催“スケッチ展シリーズ”第11輯)を開催、「高原」など30点を出品します。9月、京都府ギャラリーにてスケッチ展を開催。
1958年
3月、社団法人日展の発足にあたりその常務理事となります。5月、第10回京展に「木」(スケッチ)を出品します。11月、第1回日展に「山月」を出品します。
1959年
11月、第2回日展に「曇り日の海」を出品します。
1960年
4月、東京・日本橋三越にて「小野竹喬日本画展」を開催。6月、日本中国文化交流協会・朝日新聞社共催の「日本現代画展」が中国各地で開催され、「高原」が展示されます。9月、文部省、毎日新聞社主催明治・大正・昭和美術秀作展に「高原」が選ばれます。11月、第3回日展に「夕映」を出品する。
1961年
11月、第4回日展に「樹」を出品します。
1962年
1月、現代画壇の20人展に「深雪」を出品します。4月、現代美術京都秀作展に「夕映」が選ばれます。5月、第5回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「ヨウシュヤマゴボウ」を出品します。5月、第14回京展に「冬樹」を出品します。11月、第5回日展に「残照」を出品します。
1963年
9月、国立近代美術館の「近代日本美術における1914年」展に「島二作」が出品されます。11月、京都市美術館の国画創作協会回顧展に「波切村」「海島」「冬日帖」が出品されます。
1964年
1月、郷土出身芸術院4人展が岡山県総合文化センターで開催され、「雨の海」「深雪」「山月」「黎明」「彩秋」「夕映」「樹」「雲」「ヨウシュヤマゴボウ」「比叡」が出品される。1月、第15回記念秀作美術展に「残照」が選ばれる。4月、現代美術京都秀作展に「残照」が出品されます。7月、昭和31年より38年まで続けられた朝日新聞主催の「スケッチ展シリーズ」完結記念の「50人画家展」が東京・銀座松屋で開かれ、「茜」を出品します。7月、国立近代美術館の「京都の日本画-円山応挙から現代まで-」展に「波切村」が出品される。11月、第7回日展に「洩れ日」を出品します。
1965年
11月、第8回日展に「夕雲」を出品します。京都の日本画展に「洩れ日」を出品します。
1966年
1月、現代美術京都秀作展に「洩れ日」が出品されます。2月、毎日新聞に随想「絵画十話」を20回にわたり、連載する。6月、東京・高島屋にて「喜寿記念小野竹喬展」(毎日新聞社主催)が開催され、自選38点(大正2~昭和41年)が展示される。9月、三彩社より『小野竹喬作品集』が刊行されます。11月、第9回日展に「宿雪」を出品する。11月、岡山県笠岡市の名誉市民章を受けます。
1967年
6月、京都国立近代美術館の「近代日本画の名作」展に「冬日帖」「残照」が出品されます。11月、第10回日展に「池」を出品します。
1968年
5月、第8回現代日本美術展に「夕茜」を出品します。11月、文化功労者の表彰を受けます。
1969年
5月、京都市美術館において京都市主催「小野竹喬回顧展」が開催され、自選53点(大正2~昭和44年)、スケッチ50点(うち、滞欧作5点)が展示されます。11月、勲二等に叙せられます。
1970年
4月、大阪・大丸の「日本巨匠20人展」(毎日新聞社主催)に「池」「宿雪」「夕茜」が出品されます。11月、第2回日展に「沼」を出品し、京都市に買い上げられます。
1971年
9月、「天皇の世紀」原画展が東京・銀座吉井画廊新館で開催され、80点を出品する(朝日新聞連載、大佛次郎原作「天皇の世紀」の原画)。11月、兼素洞主催小野竹喬画展が開催され、8点を出品します。日本橋三越主催の彩交会展は6名の会員中2名死去したため、24会は新作展ではなく会員自選による回顧展となり、第17回出品の「湖山早春」と第22回出品の「晨」を出品する。この年、中央公論美術出版より『竹喬挿画』を刊行します。
1972年
4月、第24回京展に「交叉」(のち「樹」と改題)を出品します。11月、第4回日展に「1一本の木」を出品します。
1973年
9月、東京国立近代美術館の「開館20年記年現代の眼-近代日本の美術から」展に「雨の海」「山月」が出品されます。10月、京都市名誉市民の称号を受けます。10月、岡山・高島屋で「小野竹喬展」(山陽新聞社主催)が開催される。10月、笠岡市市民会館の緞帳の原画「朝の海」完成。11月、東京・銀座松屋にて「竹喬素描展」が開催されます。11月、京都市美術館の「開館40年記念昭和期における京都の日本画と洋画」展に「冬日帖」「夕映」「沼」が出品されます。
1974年
4月、日本の四季・山本丘人との2人展(“日本の四季シリーズ”第1回)が北辰画廊にて開催されます。5月、26回京展に「阿蘇火口」(スケッチ)を出品します。11月、第6回日展に「樹間の茜」を出品します。昭和19年、戦時特別展に出品し、京都市に買い上げられた「太平洋」を改作し、「海」として京都市美術館に納めます。
1975年
2~3月、東京、大阪の三越で「画業60年記念小野竹喬展」(読売新聞社主催)が開催され、大正初期より昭和49年にいたる53点の主要作品と34点のスケッチを出品します。3月、京都・朝日画廊の開廊記念展として「小野竹喬墨彩画・スケッチ展」が開催されます。4月、東京・銀座資生堂ギャラリーで「小野竹喬の画室展」(「作家のアトリエ」シリーズ)が開催されます。5月、「奥の細道句抄絵」制作のため、山形県にスケッチ旅行し、最上川上流の隼、碁点にまで足をのばします。9月、2度目の「奥の細道」取材のため、単身、山形県及び秋田、新潟へ旅行します。
1976年
4月、山種美術館開催の「第2回現代日本画の10人展」に「春の湖面」「川の辺り」「京の灯」「樹間の茜」を出品します。山種美術館10周年記念展に「冬樹」を制作します。6月~7月にかけて、朝日新聞社主催「奥の細道句抄絵展」を東京・大阪・京都・岡山の高島屋で開催する。11月、文化勲章を受章します。12月、心筋梗塞のため京大病院に入院します。
1977年
3月末、退院。6月、奥の細道ゆかりの酒田市本間美術館で「奥の細道句抄絵展」が開催されます。10月、米寿記念『小野竹喬画集』が朝日新聞社より刊行される。第9回日展に「沖の灯」を出品すします。
1978年
3月、京都・朝日画廊で「小野竹喬墨彩展」を開きます。4月、山種美術館開催の「第3回現代日本画10人展」に「奥の細道句抄絵」より「田1枚」「笠嶋は」「涼しさや」「象潟や」「あかあかと」「暑き日を」が出品される。9月、白浜に転地療養する。10月、京大病院に入院、11月に退院します。
1979年
1月、冨田病院に入院する。4月、求龍堂より随筆集『冬日帖』が刊行されます。5月10日胃癌のため、冨田病院で死去。12日、自宅で密葬が行われ、5月22日北区の上品蓮台寺で告別式が行われ、同寺に葬る。法名・実相院殿覚法竹喬大居士。
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