2025年2月12日

池田遥邨の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の池田遥邨の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

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池田遥邨の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の池田遥邨のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた池田遥邨の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の池田遥邨の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

池田遥邨 本人

池田遥邨 本人

 

池田遙邨は、1895年の明治28年岡山県に生まれました。幼少期から絵を描くのが好きな少年で、15歳の時に大阪に出て洋画を学びます。19歳となった1914年、大正3年には水彩画『みなとの曇り日』で第8回文展に初入選します。

 

しかし、その後は、同郷の小野竹喬との出会いなどから次第に日本画に接近します。1919年、大正8年には京都の竹内栖鳳の画塾、竹杖会で本格的な日本画の修行に入ります。そして、この年の第1回帝展に「南郷の八月』が入選し、日本画壇にデビューしている。

 

さらに1928年、昭和3年の第9回帝展で「雪の大阪」が、1930年、昭和5年の第11回帝展では『烏城』が特選となり、大和絵を新解釈したその清新な作風は高く評価されました。

 

 

池田遙邨 朧夜

池田遙邨 朧夜

 

一時の成功に安住せず、時代とともに作風を変化させながら新たな展開を見せていく池田遙邨の芸術は、晩年には漂泊の俳人、種田山頭火に心を寄せ、その句境の絵画表現に挑見ました。「山頭火シリーズ」に情熱を傾けました。

 

1976年、昭和51年に日本芸術院会員に選晴れます。それから1984年、昭和59年に文化功労者として表彰されました。

 

1986年、昭和61年には倉敷市名誉市民となるなど日本面壇の内外で愛される存在であったが、1988年、昭和63年9月26日、93歳の誕生日を目前に急性心不全のため他界しました。

 

 

池田遥邨 うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火

池田遥邨 うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火

 

晩年には漂泊の俳人種田山頭火に心を寄せ、その句境を絵画表現に挑見ました。いわゆる山頭火シリーズに制作の情熱を傾け、その画境に新たな展開を見せたのは、近代日本画の可能性を探る上でも特筆すべきことでした。

 

 

 

 

池田遙邨の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.池田遙邨の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.池田遙邨の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.池田遙邨の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.池田遙邨の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

 

池田遥邨 略歴

明治28年
11月1日、鐘ケ淵紡績工務係技手をつとめる池田文四郎と鹿代の長男として岡山県に生まれる。本名、曻一。生まれて間もなく、父の転勤で大阪府北河内郡に一家は移住します。

明治31年
父の転勤に伴い大阪市の天満橋筋あたりに移住します。

 

明治33年
父の転勤に伴い、福岡県大牟田に移住します。

 

明治35年
4月、大牟田尋常小学校に入学します。

 

明治36年
父の転勤に伴い、一家で上海に渡り、本願寺経営の開導小学校2年生に転校します。

 

明治37年
父が鐘ケ淵紡績から福島紡績大阪本社に転じたため日本に帰り、父の姉がいた大阪・堺市に移住、南旅篭尋常小学校3年生に転校します。

 

明治39年
4月、堺市宿院尋常高等小学校に入学します。

 

明治42年
父が福島紡績福山工場長として転勤したため、一家で広島県福山町に移り、福山尋常高等小学校4年生に転校します。

 

明治43年
3月、福山尋常高等小学校を卒業します。4月、広島の中学校を受験の日、スケッチに出かけて試験を放棄します。初夏、忠田嘉一の紹介で、単身大阪に出て松屋町にあった松原三五郎の天彩画塾に入り、洋画の勉強を始めます。

 

大正2年
福山で、水彩画約30点による初めての個展を開催します。小野竹喬と出会います。

 

大正3年 10月、第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が初入選します。

 

大正5年 10月、兵役中、第10回文展に水彩画「衛戌病院」を出品したが落選します。

 

大正7年 10月、日本画に興味を持って独学で制作した、六曲一双屏風「草取り」を第12回文展に出品したが落選します。

 

大正8年 4月、小野竹喬をたよって京都に出て竹内栖鳳の画塾<竹杖会>に入り、知恩院崇泰院に仮寓する。遥村と号します。10月、第1回帝展に日本画「南郷の八月」を出品し入選します。

 

大正9年
10月、第2回帝展に「湖畔残春」が入選します。

 

大正10年
1月、小野竹喬の仲人で真塚品子と結婚します。4月、京都市立絵画専門学校別科に入学し、あわせて京都市立外国語学校仏文科(夜間)にも通います。この頃から、ムンクやゴヤの影響を受けます。10月、第3回帝展に「枯れつつ夏は逝く」を出品したが落選します。この年、第1回芸術院展に「颱風来」が入選します。京都で初めての個展(京都府図書館)を開催します。

 

大正11年
3月、朝鮮・慶州、満州・ハルビンに旅行する。10月、第4回帝展に「風景」が入選。この年、京都市立外国語学校を中退します。

 

大正12年
9月、鹿子木孟郎とともに関東大震災後の東京をスケッチしてまわり、約400枚を描く。この年、四国を旅行します。

 

大正13年
3月、京都市立絵画専門学校を卒業し、さらに研究科へ進見ます。10月、第5回帝展に大震災跡に取材した「災禍の跡」を出品したが落選します。

 

大正14年
10月、第6回帝展に「貧しき漁夫」を出品したが落選します。

大正15年
昭和元年 3月、京都在住の岡山県出身の画家、小野竹喬、鹿子木孟郎らと<烏城会>を結成、発会式を挙げる。京都市立絵画専門学校研究科を修了します。5月、第1回聖徳太子奉讃美術展に「林丘寺」が入選。この頃から画号を<遥村>から<遥邨>に改める。10月、第7回帝展に「南禅寺」が入選します。

 

昭和2年
10月、第8回帝展に「華厳」が入選します。

 

昭和3年
4月、東海道写生旅行を決行します。10月、第9回帝展に「雪の大阪」が入選、特選となります。

 

昭和4年
6月、パリ(6/1~7/25)及びブリュッセルで開催の日本美術展に「雪の日」を出品。10月、第10回帝展に「京の春宵」を無鑑査出品します。

 

昭和5年
3月、2回目の東海道写生旅行をする。第2回聖徳太子奉讃美術展に「錦小路」を出品します。7月、翌年1月からベルリンで開催予定の日本美術展国内展に「鴨川春宵」を出品します。10月、第11回帝展に「烏城」が入選し、特選となります。

 

昭和6年
3月、帝展推薦となります。8月、10月から11月にかけてアメリカ・オハイオ州トレドで開催予定の日本画展国内展に「閑居」を出品。10月、第12回帝展に「祇園御社」を出品。この年、「東海道五十三次図絵」を完成します。

 

昭和7年
10月、第13回帝展に「大漁」を出品します。

 

昭和8年
5月、竹杖会ただ一度の塾展となった竹杖会大研究会が開催され、「鴨川」を出品します。10月、第14回帝展に「巨椋沼」を出品します。

 

昭和9年
10月、第15回帝展「浜名湖今切」を出品。この年、「日本六十余州名所」の大半が完成。竹杖会の解散に伴い、葱青社を結成します。

 

昭和10年
10月、帝国美術院の松田改組により、無鑑査に指定されます。

 

昭和11年
5月、京都市立絵画専門学校助教授となる。11月、文展招待展に「日光山」を出品。<水明会>を結成、日本画壇の革新を目指します。

 

昭和12年
10月、徳岡神泉らと六人会を組織。第1回文展に「江州日吉神社」を出展します。

 

昭和13年
3回目の東海道写生旅行する。7月、京都で<池田遥邨・上村松篁新作祇園会展>が開催されます。10月、第2回文展に「日吉三橋」を出品。『東海道五十三次図絵』を芸艸堂から出版します。

 

昭和14年
4月、ニューヨーク万国博覧会に「拾翠池」を出品。7月、朝鮮において<池田遥邨東海道五十三次展>を開催。10月、中国に渡り、杭州、揚州、蘇州などをスケッチ旅行します。

 

昭和15年
11月、紀元二千六百年奉祝展に「肇国之宮居」を出品し、宮内省買い上げとなる。秋、目黒雅叙園襖絵揮毫のため竹杖会会員とともに東上、1カ月にわたって制作、遥邨は「東海総行脚」を描きます。

 

昭和16年
1月、伊勢神宮から熊野三山を巡拝する。12月、葱青社解散します。

 

昭和17年
1月、九州の諸神社を巡拝し、出雲大社に参詣します。10月、第5回文展に審査員として「三尾四季之図」を出品、政府買い上げとなります。

 

昭和18年
9月、神社を描いた作品を集めた『池田遥邨作品集』を刊行。10月、第6回文展に「吉野拾遺」を出品します。

 

昭和19年
11月、戦時特別文展に「伊勢神宮」を出品します。

 

昭和20年
11月、第1回京展に「金閣・銀閣」を無鑑査出品します。

 

昭和22年
10月、第3回日展に審査員として「雪の神戸港」を出品します。

 

昭和23年
10月、第4回日展に「白鷺城を想う」を出品します。

 

昭和24年
7月、京都市立美術専門学校助教授を退職する。10月、第5回日展に「鳴門」を出品します。

 

昭和25年
第6回日展に「金閣追想」を出品します。

 

昭和26年
10月、第7回日展に審査員として「戦後の大阪」を出品します。

 

昭和27年
10月、日展参事となり、第8回日展に「幻想の明神礁」を出します。

 

昭和28年
3月、画塾<青塔社>を結成、主宰する。10月、日展評議員となり、第9回日展に「灯台」を出品。この年、岡山大学教育学部講師となります。

 

昭和29年
10月、第10回日展に審査員として「瀧」を出品します。

 

昭和30年
10月、第11回日展に「銀砂灘」を出品。文部省買い上げとなります。

 

昭和31年
10月、第12回日展に「溪」を出品します。

 

昭和32年
11月、第13回日展に審査員として「石」を出品します。

 

昭和33年
6月、岡山後楽園延養亭の能舞台鏡板に「松竹」を描く。11月、社団法人となった第1回新日展に審査員として「灯台」を出品します。

 

昭和34年
11月、第2回新日展に「波」を出品します。

 

昭和35年
3月、前年の日展出品作「波」で昭和34年度日本芸術院賞を受賞。11月、第3回新日展に審査員として「沼」を出品します。

 

昭和36年
11月、第4回新日展に「大王崎」を出品します。

 

昭和37年
11月、第5回新日展に「古刹庭上」を出品します。

 

昭和38年
11月、第6回新日展に審査員として「雪庭」を出品。この年、紺綬褒章を受章します。

 

昭和39年
11月、第7回新日展に「雪の神戸」を出品します。

 

昭和40年
11月、第8回新日展に「飛石」を出品します。

 

昭和41年
5月、岡山で小林和作と二人展(金剛荘)を開催し、日本画のほか模写を出品する。11月、第9回新日展に「叢」を出品します。

 

昭和42年
11月、第10回新日展に「明星」を出品。この年、大阪市立美術館運営委員となります。

 

昭和43年
11月、第11回新日展に「海底」を出品します。

 

昭和44年
11月、日展が改組され、第1回展に審査員として「堤」を出品します。

 

昭和45年
11月、第2回改組日展に「寥」を出品します。

 

昭和46年
10月、京都市主催<京都日本画の精華展>に10点が出品される。11月、第3回改組日展に「閑」を出品します。

 

昭和47年
3月、この年制定された京都府美術工芸功労者の表彰を受けます。10月、『池田遥邨画集』をマリア書房から刊行する。11月、第4回改組日展に「囁」を出品。この年、岡山大学構師を退職します。

 

昭和48年
6月、紺綬褒章を受章。11月、第5回改組日展に「谿」を出品。京都市文化功労者に選ばれます。

 

昭和49年
7月、『池田遥邨集』(現代作家デッサンシリーズ<1>)が中外書房から出版。11月、日展参与となり、第6回改組日展に「礎石幻想」を出品します。

 

昭和50年
11月、第7回改組日展に「群」を出品します。

 

昭和51年
10月、第8回改組日展に「影」を出品。12月、日本芸術院会員に選ばれます。

 

昭和52年
10月、日展顧問となり、第9回改組日展に「海鳴り」を出品。11月、勲三等瑞宝章を受章します。

 

昭和53年
7月、紺綬褒章を受章。11月、第10回改組日展に「川」を出品します。

 

昭和54年
10月、第11回改組日展に「堰」を出品します。

 

昭和55年
9月、岡山県の文化発展に尽くした功績により、第13回岡山県三木記念賞を受賞。10月、郷里倉敷市に作品、スケッチ489点を寄贈します。これを記念して、岡山で<倉敷市へ寄贈記念-池田遥邨作品展>開催します。11月、第12回改組日展に「錦帯橋」を出品します。

 

昭和56年
10月、第13回改組日展に「稲掛け」を出品します。

 

昭和57年
3月から5月、京都、岡山、大阪、東京で<池田遥邨回顧展>開催します。10月、第14回改組日展に「朧夜」を出品します。11月、『池田遥邨の履歴書、聞き書き・エッセイ』出版(京都書院)。

昭和58年
3月、新しく制定された京都府文化賞特別功労賞を受賞します。10月、第15回改組日展に「芒原」を出品。紺綬褒章を受章。11月、倉敷市立展示美術館が開館し、遥邨常設展示室で寄贈作品による池田遥邨展開催します。

 

昭和59年
4月から5月、東京、大阪、京都、岡山(高島屋)において新作個展<池田遥邨展>開催します。『池田遥邨画集』が京都書院から出版されます。11月、文化功労者の表彰を受けます。第16回改組日展に「うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火」を出品します。

 

昭和60年
11月、第17回改組日展に「鉄鉢の中へも霰山頭火」を出品します。

 

昭和61年
1月、<池田遥邨展>(愛媛県立美術館)開催。5月、東京で<池田遥邨展>(渋谷東急)開催。11月、京都、神戸、岡山で<池田遥邨展>が開催 第18回改組日展に「雪へ雪ふるしづけさにをる 山頭火」を出品します。12月、倉敷市名誉市民となります。不整脈を訴え入院、翌年4月まで病床によこたわる。

 

昭和62年
11月、第19回改組日展に「あすもあたたかう歩かせる星が出ている 山頭火」を出品します。姫路で<池田遥邨展-城と月のある風景->(姫路市立美術館)開催。文化勲章を受章します。受章後体調を崩し、心臓疾患のため上京区の京都府立医科大学附属病院に再度入院、翌年5月中旬まで病床に臥す。

 

昭和63年
 4月、高島屋美術部創設80年記念<放浪と行乞の旅に魅せられて-池田遥邨展>が京都、東京、岡山で開催されます。8月、風邪のため制作を中断する。倉敷市に作品、スケッチ211点を寄贈します。9月24日みたび入院するが、9月26日午前0時55分、急性心不全のため、京都市上京区の相馬病院で死去する。(『池田遥邨遺作展』1989年京都国立近代美術館図録より抜粋)

 

 

 

池田遙邨 薩埵峠の富士

池田遙邨 薩埵峠の富士

 

遙邨は、このような富士の絵を沢山残しています。当時、注文が殺到したのか、やはり日本画は、富士、梅、桜、菖蒲、滝、紅葉、桔梗、雪は多いですね。しかし、池田遙邨の画集を拝見していると、モダンな図やマンガチックな可愛らしい図柄などがあり、当時としては感覚の良い画を残してましから、今後もっと評価されてほしいですね。

 

 

 

 

池田遙邨の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.池田遙邨の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

池田遙邨 査定価格におけるポイント

 

池田遙邨の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

池田遙邨先生の作品は、富士や嵐山の作品に高値の査定価格がつきます。

 

10万円から30万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

池田遙邨の作品は、山頭火シリーズや替わり図柄の作品が評価されます。

 

祇園の夜桜の風景が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

池田遙邨展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

池田遙邨先生の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ池田遙邨の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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