2025年2月2日

赤瀬川原平の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の赤瀬川原平の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

赤瀬川原平の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、赤瀬川原平の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

赤瀬川原平の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の赤瀬川原平のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた赤瀬川原平の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の赤瀬川原平の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

赤瀬川原平 本人

赤瀬川原平 本人

 

赤瀬川原平は、1937年の昭和12年に横浜で生まれます。戦中と戦後の混乱の中で育ち経済的には辛い時期もありましたが、ユニークな事が好きな明るい少年だったようです。高校生までは大分県で11年間過ごしました。そこで建築家の磯崎新や現代美術家の吉村益信との出会いがありました。それから、名古屋に移り住み、旭丘高等学校美術科に入学します。そこで、現代美術家である荒川修作や画家、演出家となる岩田信市らと学校生活を共にします。高校卒業後は、武蔵野美術学校油画科に入学します。しかし、金銭的な理由から退学する事になりますが、退学後も精力的に創作活動を続けました。

 

多ジャンルで活躍した芸術家の赤瀬川原平は、日本アンデパンダン展や読売アンデパンダン展など自由出品ができる美術展に参加します。 創作活動を継続した事から、1958年には初個展を開催します。 その後、1960年になると現代美術家の吉村益信や篠原有司男とともに前衛芸術グループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(ネオナダ)」を結成します。 結成以降も精力的に芸術活動を続けながら、1970年頃になると漫画やイラストの制作も始めます。 さらに、1979年には「尾辻克彦」というペンネームで小説を書き始めるなど、多彩な芸術家として知られるようになりました。

 

千円札裁判

 

赤瀬川原平といえば「千円札裁判」を思い浮かべる方が多いと思います。 「千円札裁判」とは、赤瀬川原平が本物の千円札と見間違うほど精巧な作品を制作した事により、通貨及証券模造取締法違反で訴えられた事件です。 赤瀬川原平は、「観察」を大切にしており、千円札を模した作品もその精神が込められたものであり。 そもそも拡大模写した作品だったことに加えて、裏面は白紙であり、使用を目的としたものではなかったものの執行猶予付きの有罪判決となりました。

 

赤瀬川原平は、独創的な作品を多数生み出しています。 その作品の中から、3点を紹介します。

 

 

 

復讐の形態学 殺す前に相手をよく見る

復讐の形態学 殺す前に相手をよく見る

 

赤瀬川原平は、1963年頃から千円札を印刷発注し始めて、印刷千円札を用いたオブジェ作品や梱包作品を制作して読売アンデパンダンで発表しました。また1963年の個展「あいまいな海について」(新宿第一画廊、東京)の案内状の片面に千円札を原寸大で印刷して使ったり、テレビ番組出演では印刷千円札を燃やしたりしました。またハイレッド・センターの「第5次ミキサー計画」展でも、200倍に拡大した千円札を克明に自筆で模写した作品《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》などを発表しています。「千円札裁判」へと発展する事件の発端は、「赤い風船あるいは牝狼の夜」という小規模な反体制的な政治結社「犯罪者同盟」が1963年8月に出版した書籍をめぐる騒動にあります。これに掲載されていた図版が猥褻図書として取り調べられました。同書には赤瀬川原平の千円札の聖徳太子像拡大写真も掲載されていました。その捜査の際に、赤瀬川原平が制作した印刷千円札が司直の目にとまりました。

 

 

 

赤瀬川原平 宇宙の罐詰

赤瀬川原平 宇宙の罐詰

 

宇宙の罐詰(うちゅうのかんづめ)は、先ほども書いたように梱包芸術に分類される作品で、これはその名の通り、何か物を包み、包む行為そのものや包んだ後のものを作品とする芸術です。 有名な芸術家ではクリスト&ジャンヌ=クロードが挙げられます。 彼らは夫婦で作品を制作し、さまざまなものを包んで作品としています。赤瀬川原平はこの梱包芸術において、「蟹缶で宇宙を梱包する」ということを行い、作品としました。 これは発想の転換をうまく利用したもので、以下の手順によって行われます。 1.缶詰を買ってくる。2. 缶詰を開けて中身をいただく。3. 綺麗に洗い、ラベルを丁寧に剥がす。 4.剥がしたラベルに接着剤などをつけて、缶の内側に内向きに貼り付ける。 5.蓋を溶接して缶を閉める。これで完成します。このように生まれた缶詰は、いわゆる外側と内側が入れ替わった状態になります。 これは、かつて蟹の身が入っていた部分を外側に、私たちがいる部分は拡張すれば宇宙全体を内側に置き換えたことを示す作品という事である。

 

 

 

ヴァギナのシーツ 二番目のプレゼント

ヴァギナのシーツ (二番目のプレゼント)

 

赤瀬川原平が世に知られるきっかけとなった作品が、24才の時に制作した「ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)」です。生々しい肉体を表している赤いパーツはタイヤのゴムチューブで作られ、それに無機質な真空管が取付けられています。この作品が作成された時代、真空管は非常にハイテクなアイテムであり、こうした廃品を集めたアート自体も珍しいものでした。しかも、そもそも廃品を活用しているため、展示後には廃棄されていました。この作品は1994年に赤瀬川原平が再制作した作品です。

 

 

 

赤瀬川原平の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.赤瀬川原平の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.赤瀬川原平の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.赤瀬川原平の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.赤瀬川原平の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.現代アート作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

 

赤瀬川原平 略歴

1937年
昭和12年3月27日、倉庫会社に勤務する父・廣長の次男として横浜で生まれる。長男の隼彦は作家の赤瀬川隼、三女の晴子は帽子デザイナー。幼少期は、芦屋、門司、大分と転居を繰り返す。

 

1941年
から高校入学の1952年まで過ごした大分県では、画材店キムラヤのアトリエで活動していました。「新世紀群」に出入りする。そこには、磯崎新、吉村益信らがおり、赤瀬川原平の進路に決定的な影響を及ぼします。高校入学直後に、名古屋にある愛知県立旭丘高等学校美術科に転校します。同級には、荒川修作、岩田信市などがいました。

 

1955年
武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)油画科に進学。サンドイッチマンのアルバイトをしながら生活するものの、貧困のうちに大学を中退します。

 

1957年
日本アンデパンダン展に出品します。

 

1958年
読売アンデパンダン展に出品します。

 

1958年
道玄坂にある喫茶店コーヒーハウスで初の個展を開催。このころには、社会主義リアリズムの影響を脱し、アフリカ原始美術に触発された絵画を制作していました。

 

1959年
4月、十二指腸潰瘍のため名古屋へ帰り、手術を受けます。

 

1960年
吉村益信と篠原有司男を中心とした「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」結成の呼びかけに応じて東京に戻る。このグループには、大分出身の吉村益信、風倉匠、名古屋時代の級友・荒川修作らがいた。彼らは、磯崎新設計による吉村のアトリエ「ホワイトハウス」を根城として活動したが、同年末には事実上活動を停止。この時期の赤瀬川原平は、廃物を利用したオブジェを制作していました。

 

1962年
その後も、ネオ・ダダのメンバーと共に、8月15日、ヨシダ・ヨシエ発案による国立公民館での「敗戦記念晩餐会」などに参加。「敗戦記念晩餐会」の報告者として参加した雑誌『形象』の座談会で、「山手線事件」をおこなった高松次郎、中西夏之と知り合い、翌年、彼らと共にハイレッド・センターを結成します。三人の他に、第四の公式メンバーである和泉達、非公式メンバーとして、グループ音楽の刀根康尚、小杉武久、『形象』編集者の今泉省彦、川仁宏、映画作家の飯村隆彦なども参加し、グループの匿名性を高める。赤瀬川原平個人の作品としては、梱包作品や模型千円札があります。後者は、同時期に起きた偽札事件「チ―37号事件」との関連で警察の目に留まります。

 

1965年
11月に「通貨及証券模造取締法違反」で起訴される。このいわゆる「千円札裁判」は、芸術と法との関係を問う「芸術裁判」へと発展し、注目を集める。

 

1970年
4月、上告が棄却され、懲役3月執行猶予1年の有罪が確定します。この時期には、「模型千円札」を理論的に正当化することも含めて様々な文章を執筆しており、1970年に『オブジェを持った無産者』としてまとめられます。

 

1968年
燐寸ラベルを収集する「革命的燐寸主義者同盟」、宮武外骨の著作などの珍本を集める「革命的珍本主義者同盟」、翌年には「娑婆留闘社」を結成して「獄送激画通信」を発行するなどの活動を行います。

 

1970年
今泉が代表を務める美学校の講師となる。赤瀬川教場からは、南伸坊、久住昌之らを輩出します。同年、雑誌『ガロ』に初めての劇画「お座敷」を発表します。

 

1969年
『現代の眼』(現代評論社)で連載を開始しました。「現代野次馬考」シリーズや1970年から『朝日ジャーナル』に連載を開始しました。「野次馬画報」(のちに「櫻画報」と改題)など、いわゆるパロディ・ジャーナリズムに1970年代半ばまで取り組みます。

 

1978年
最初の小説「レンズの下の聖徳太子」を雑誌『海』に発表します。

 

1979年
尾辻克彦名義で執筆した「肌ざわり」が中央公論新人賞を受賞。同年に「肌ざわり」が、翌年に「闇のヘルペス」が芥川賞候補作品となります。

1981年
「父が消えた」で芥川賞受賞します。

 

1983年
『雪野』で野間文芸新人賞受賞。これら小説家尾辻克彦としての活動と並行して多くのグループを結成・活動しており、美学校の生徒たちとの「ロイヤル天文同好会」(1972年)や「超芸術探査本部トマソン観測センター」(1982年)、そこから発展した「路上観察学会」(1986年)のほか、「脳内リゾート開発事業団」(1992年)、「ライカ同盟」(同年)、「縄文建築団」(1997年)などがあります。

 

1998年
平成10年、『老人力』がベストセラーとなり、広く一般にその名を知られることとなります。
初期の絵画から、ネオ・ダダの廃品芸術、ハイレッド・センターでの模型千円札や梱包芸術という前衛的な美術作品だけではなく、パロディ漫画や小説、エッセイ、さらには路上観察学会のような非芸術にも目を向けるなど、その活動は多岐にわたり、いわゆる芸術家や画家といった枠組みに収まりきらない作家でした。これらの活動は、「赤瀬川原平の冒険――脳内リゾート開発大作戦――」(名古屋市美術館、1995年)、「赤瀬川原平の芸術原論展」(千葉市美術館他、2014年)といった展覧会でまとめられました。
赤瀬川原平自身の経歴については、松田哲夫とのインタビュー形式による自伝『全面自供!』(晶文社、2001年)があります。
また、読売アンデパンダン展周辺を描いた『いまやアクションあるのみ! 「読売アンデパンダン」という現象』(筑摩書房、1985年)、ハイレッド・センターの活動を描いた『東京ミキサー計画』(PARCO出版局、1984年)などは、戦後美術の状況を描写した資料として重要な役割を果たしています。

 

2014年
美術家で作家の赤瀬川原平(本名・克彦)は10月26日午前6時33分、敗血症のため都内の病院で死去した。享年77。

 

 

 

 

 

 

 

 

赤瀬川原平 本人 尾辻克彦

 

小説家として

 

1962年、25歳、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選します。

 

1070年、『朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。34歳、最終回(1971年3月19日号)が問題になり、自主回収されました。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動が行われ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊します。

 

1979年、42歳、編集者に勧められて純文学にの取り組み、尾辻克彦の名で身辺小説「肌ざわり」を執筆。中央公論新人賞を受賞します。

 

1981年、44歳短編「父が消えた」で第84回芥川賞を受賞します。

 

1983年、46歳、「雪野」で野間文芸新人賞を受賞します。

 

1986年、49斎マンホールの蓋、看板などを発見し考察する「路上観察学会」を創設しまます。

 

1987年、50歳、『東京路上探険記』は講談社エッセイ賞を受賞します。

 

1989年には、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で、日本アカデミー賞脚本賞を受賞します。

 

1993年、56歳、『仙人の桜、俗人の桜』で、JTB旅行文学大賞を受賞します。

 

1998年、61歳、『老人力』は筑摩書房はじまって以来最高のベストセラーとなり、「老人力」は同年の流行語大賞を受賞します。

 

1999年、62歳、毎日新聞出版文化賞特別賞。

 

2011年、74歳、『個人美術館の楽しみ』個人美術館とは、一人の作家だけの美術館と、一人のコレクターによる美術館と、二通りの意味を持つ。 秋野不矩、植田正治、小磯良平、ベルナール・ビュフェ、熊谷守一、香月泰男、河鍋暁斎、イサム・ノグチ、安野光雅、猪熊弦一郎、杉本健吉etc. 個人美術館の愉しみは、近現代を彩る芸術家たちの足跡を眺められること。もう一つの愉しみは、その作品の山を築くことになったコレクターの、熱情を見ること。大金を投げ出して手 に入れた人の熱情が並ぶと、その熱を通して見えてくるものがある。 日本にある、魅力ある個人美術館を厳選。赤瀬川さんが紡ぐ46の物語。

 

また、赤瀬川源平は、多くの「ナンセンス」で「ユーモラス」な組織の結成に関わっています。赤瀬川源平を巡る言葉、公序良俗をからかう危険な前衛主義者。あらゆる思想信条を笑いのめす得体の知れない不謹慎、反体制ではなく無体制。諧謔に満ちた言語ゲームの遊戯者

 

 

赤瀬川原平の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.赤瀬川原平の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

赤瀬川原平 査定価格におけるポイント

 

赤瀬川原平の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

赤瀬川原平先生の作品は、世界的な評価の作品に高値の査定価格がつきます。

 

10万円から100万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

赤瀬川原平の作品は、1060年代から1970年代の作品が評価されます。

 

版画の作品やポスターもあります。

 

赤瀬川原平展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

販売画廊などのシールがあると安心して査定できます。

 

 

制作年代

 

赤瀬川原平先生の作品は、初期の作品が高値で取引されております。

 

※このように同じ赤瀬川原平の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

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