2025年1月27日

ハンス・コパーの作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

御所蔵のハンス・コパーの陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

ハンス・コパーの作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、ハンス・コパーの作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

ハンス・コパーの作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様のハンス・コパーのコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けたハンス・コパードの作品を鑑定して買取りいたします。

 

陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵のハンス・コパーの作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

ハンス・コパー 本人

ハンス・コパー 本人

 

ハンス・コパーの遺言の1つが「自分の生の痕跡を遺さないで欲しい」と言うことだったというので驚きだ。したがって自著も無く、ルーシー・リーのように生前のアトリエでの作陶に励む姿を遺した映像などもありません、全ては作品にのみ語らせているということになります。

ルーシー・リーのように生前において既に高い評価を受け、様々な角度から取り上げられてきた陶芸家とは異なり、あらかじめ付与された作家性などは背景に追いやり、ただ展示された陶と純粋に向き合うことができるという意味では、鑑賞者の方が試されているようだ。

これは造形の特徴からも同じような事が言えるように、例えば器としての機能をあえて重視せず、若い頃にめざしたという彫刻的なアプローチとしか形容しがたい造形の数々の陶芸作品、しかしよく見ればそれらも、やはり陶の技法と陶のテキストに則った造形であることに気尽かされる。

 

 

 

ハンス・コパー 壺 ティッスルフォーム

 

「私の関心は、実験や探検にあるのではなく本質を引き出すことにある。ろくろは簡潔さを要求し限界を決定づけ、勢いと連続性を与える。単純なテーマで連続したヴァリエーションを作ることに集中する時、私はその工程の一部になっていく。私は今ーこのすばらしい世紀にー存在するという体験に共鳴しうる感度を持った道具を学び始める。」

 

 

 

ハンス・コパーの買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.ハンス・コパーの作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.ハンス・コパーの作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.ハンス・コパーの作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.ハンス・コパーの作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

ハンス・コパー 略歴

 

1920年
4月8日生まれ、20世紀後期のイギリスを拠点に活動した、ドイツ出身の陶芸家。同時代の主流である、東西の伝統的要素を重視する重厚な作風に対して、コパーは都会的で、彫刻や建築との関係の深い作品を手掛けた。轆轤で成形した複数のパーツを繋ぎ合わせる手法を特徴とする。

 

第二次世界大戦

 

1920年
ドイツ・ザクセン州ケムニッツに生まれる。裕福な家庭に育ったが、父はユダヤ人。

 

1933年
ナチスの迫害が始まると、一家はドレスデン、ついでライプチヒへと転居を迫られた。迫害下で、妻がユダヤ人でない場合、ユダヤ人の夫は家族の暮らしを思って自ら命を断つことが少なくなかったという。

 

1936年
コパーの父も自殺

1939年
ハンス・コパーは単身ドイツを脱出し、着の身着のままでロンドンに到着した。まもなく敵国人として逮捕され、カナダの捕虜収容所へ入れられたが、約1年後、パイオニア兵団入隊を志願することでイギリスへ戻ることができました。膝まで水につかって塹壕を掘り続ける労働によって身体を痛めて入院し、退院後は除隊。その後もドイツ人として差別を受けながら、職業を転々とする

 
 

活動初期戦後

 
1946年
アルビオン・ミューズにあるルーシー・リーの工房にボタンづくりのアシスタントとして入る。ルーシー・リーはウィーン工業美術学校で陶芸を学んだ陶芸家であったが、戦中は生活のためにボタン製作を手掛けており、戦後も需要があってしばらく続けていました。それまでハンス・コパーには作陶の経験はなく、陶芸を作ろうと考えたこともなかったものの、工房で働くようになるとたちまち大きな興味を示し、轆轤に取り組んで短期間で急速に上達した。やがて、ルーシー・リーがデザインしたカップや受け皿などの家庭用陶器を、ハンス・コパーが轆轤を挽いてつくるようになり、また、ハンス・コパーが成形したカップなどに、ルーシー・リーが釉薬を掛けたり模様をつけたりするようになりました。このようなルーシー・リーとの共同制作を経て、ハンス・コパーも独自の作品を作るようになる

 

1950年
ルーシー・リーとの合同展(バークレイ・ギャラリー)から、ハンス・コパーは自身の名前で作品の発表を始めます。

 

1951年
英国祭へ作品を出品します。

 

1952年
ダーティントン国際工芸家会議における展覧会への出品で、ルーシー・リーとともに一定の評価を得ます。

 
 

建築時代

 

コヴェントリー大聖堂内部。左奥が正面祭壇。

コヴェントリー大聖堂内部。左奥が正面祭壇

コヴェントリー大聖堂の正面祭壇脇に設置された燭台

コヴェントリー大聖堂の正面祭壇脇に設置された燭台

1959年
若い芸術家を社会に関わらせてサポートする目的で開設された「ディグズウェル・ハウス」に移住。コパーは建築グループに協力し、学校や会社の建物の壁面を、大小いくつかの円盤で飾ったり、凹凸のあるさまざまなパターンの外装タイルを製作したりした。また、音響用の内装タイルや煉瓦、洗面器や便器などの衛生用品も依頼を受けてデザインしている

 

1962年
コヴェントリーの大聖堂を再建した建築家バジル・スペンスから委託され、2メートルを超える巨大な6本の燭台を制作し、コヴェントリー大聖堂の正面祭壇に設置したディグズウェルに滞在した1959年から1963年までのこの時期を、コパーは自ら「建築時代」と呼んでいる。また、この頃から、轆轤で挽いた2、3のパーツを合接して作品を制作することが多くなる

 
 

最盛期〜晩年

 

1963年
ロンドンに戻り精力的に制作活動を行います。

 

1964年
東京オリンピック開催記念として開催された、東京国立近代美術館の「現代国際陶芸展」に出品

 

1967年
ルシー・リーとの大規模共同展がオランダ・ボイマンス美術館で開催され、国際的にその名が知られるようになります。

 

1967年
イングランド南西部の小さな町フルームに移り、以後14年間住む。

 

1969年
ヴィクトリア&アルバート博物館におけるピーター・コリングウッドとの共同展では、ハンス・コパーの作品をさらに洗練させた《キクラデスポット》シリーズを出品。これは、初期青銅器時代(紀元前3千年後半)にエーゲ海のキクラデス諸島で作られた石偶から触発されたと思われる、逆三角形と細長い筒状のフォルムを組み合わせた作品郡である。ヨーロッパのみならず、アメリカや日本など各地の展覧会に出品し、高い評価を得ました。

 

1975年
筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断される。この時期にはすでに、話したり歩いたり、左手を使うことが困難になっていた

 

1980年
60歳記念「ハンス・コパー」展をヘチェンス美術館(ドイツ・デュッセルドルフ)で開催。この年、最後の作品の焼成を行う

 

1981年
6月16日61歳で死去

 

 

 

 

ハンス・コパー 円盤のついた卵型のフォルム

 

炻器に化粧掛け, 釉薬 高さ 25 cm 1965年頃 

 

「王朝誕生以前のエジプトの器、私の手の大きさでやや卵形の何千年も前に、おそらく奴隷の手によって作られ、色々な意味で生き抜いてきた。つつましく無抵抗で、どことなく滑稽な、しかし力強く神秘的で官能的だ。 何かを伝えるのではなく、自己表現をするわけでもないが、しかし作り手とその生きた時代の人間世界を内包し映し出しているように見える。微かな力で、そして敬意を込めて。「人間」によって作られた完璧に無駄のない物体。ジャコメッティの人物像。バックミンスター・フラーの人間。普遍のもの。 私を真に魅了したのはこの器だけだ。それは私が器を作る理由ではないが、しかしそれは人とは何かをかいま見せてくれる」

 

 

 

 

ハンス・コパー買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.ハンス・コパーの作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます

 

 

 

ハンス・コパー 査定価格におけるポイント

 

ハンス・コパーの作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

ハンス・コパー先生の作品はオブジェの作品に高値の査定価格がつきます。

 

ハンス・コパーの作品は、立体作品が評価されます。

 

100万円から200万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

傷や痛みは、査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

ハンス・コパーの作品は、花瓶の作品が多く高評価できます。

 

ハンス・コパー展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

ハンス・コパー先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じハンス・コパーの作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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