2025年1月3日

石本正の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の石本正の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

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石本正の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の石本正のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた石本正の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の石本正の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

石本正 本人

石本正 本人

 

 石本正は、(1920年)大正9年7月3日に島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町岡見)に生まれました。田舎町でしたが、実業家の叔父の影響もありまして、当時としては珍しいレコードや様々な種類の本にも親しみ、また子供らしく蛇、昆虫、魚を相手に豊かな自然の中で活発に遊びまわりました。

 

生涯自由で独創的な創作姿勢を貫いた石本正は、この故郷における幼少期の経験や記憶が、自らの日本画家としての原点だと語っています。旧制浜田中学校を卒業したのち、1940年、昭和15年に京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)日本画科に入学します。

 

入学はしたものの、次第に伝統的な日本画の様式を重んじる授業に息苦しさを感じるようになってしまい、学校とは別に洋画の研究所に通うようになります。そこでその後につながるデッサンの基礎を身に付けていきました。

 

美術画学生としての自由な時間は、激しさを増す戦中の1943年、昭和18年、学徒動員によって一転します。翌年9月には繰上げ卒業となり、部隊の小隊長として中国に渡り気象観測にあたりました。

 

 

石本正 舞妓

石本正 舞妓

 

そ終戦の翌年に復員した石本正は、日本画家として本格的に歩むべく再び京都へ行きます。高等学校の美術教員で生計を立てながら描いた「三人の少女」が第3回日本美術展覧会(日展)に初入選したのに続いて京都市美術展でも受賞します。

 

終戦直後の不安定な社会情勢のなか、京都を拠点に画業を歩み始めたばかりの石本正にとって、願ってもない順調なスタートとなりました。

 

新世代として一躍脚光を浴びる画家となった石本正は、1971年、昭和46年に日本芸術大賞、芸術選奨文部大臣賞を立て続けに受賞しましたが、以降はすべての賞を辞退します。

 

生涯、地位や名誉を求めることなく、伝統に縛られない独自の日本画を追求しました。対象が語りかけてくるものを素直に描くという姿勢を貫き、最期まで現代日本画壇の第一線であり続けました。

 

 

 

石本正の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.石本正の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.石本正の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.石本正の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.石本正の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

石本正 略歴

 

1920年
大正9年7月3日、島根県那賀郡岡見村(現、浜田市三隅町岡見)に生まれる。本名正(ただし)。幼少期には豊かな自然の中で小さな生き物と触れあい、素直な感性を培いました。

 

1927年
昭和2年岡見尋常小学校へ入学します。2年生のときにおじから油絵の具を贈られ、担任の先生と使い方を試行錯誤します。

 

1933年

島根県立浜田中学校(現、島根県立浜田高等学校)入学。この頃映画や音楽、文学に興味を持ち、独自に油絵も描いていたが、画家になろうとは考えていませんでした。

 

1938年
同校を卒業。

 

1940年
京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科予科へ入学するが、伝統的な円山四條派の形式に則った授業に馴染めなかった石本はあまり授業に出席せず、関西美術院や華畝会の研究所などへ通い、石膏や人物のデッサンを学んだ。2回生への進級制作の折には、伊藤若冲の絵に触発され軍鶏を描いたといいます。

 

1944年
同校を繰り上げ卒業し、学徒動員で気象第一連隊に配属、翌年復員。

1947年
大阪の高校で美術教師を務めながら作品を制作し、ボッティチェリの「春」をイメージした「三人の少女」で第3回日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。このときの作品は福田平八郎に激賞され、以後第5回展まで入選を重ねました。

 

1949年
9月には京都市立美術専門学校助手となります。
 

 

1950年
京都市立美術大学の先輩画家・秋野不矩の勧めで発表の場を創造美術展へ移し、同年「五条坂」「踊子」が入選。翌1951年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、その第15回展へ「影」「旅へのいざない」を出品して新作家賞受賞、同会の会友に推挙され、以後第37回展(1973年)まで出品した。「踊子」「旅へのいざない」はいずれも女性群像で、石本が1950年にパブロ・ピカソの「青の時代」に出てくる女性によく似たモデルと出会ったことから生まれた作品であるという。しかしこの時代の作品は当時、古くさいとして画壇に受け入れられず、石本正は次第に自らの愛するロマネスク美術の壁画に見られる太い線を用いた作品を描くようになる。

 

1953年
第17回新制作展へ、いずれも太い線を用いて描いた「高原」と「女」を出品、新作家賞を受賞する。作品は高く評価され、1955年頃までこうした作品を描き続けるが、迎合的な制作に納得のいかない思いを抱いていた石本正は、1956年以降従来の花鳥画とはまったく異なる、擦り付けるような強い筆触を感じさせる鳥の絵を次々に発表する。同年の第20回展へは、木下順二脚本の舞台「夕鶴」を見て描いた「双鶴」、さらに「野鳥」の2点を出品し、同会日本画部の会員に推挙され、翌年の第21回展へは自ら編み出したペインティングナイフを用いる技法で描いた「樹根と鳥」を出品。いっときその技法が若い画家たちの間で流行したという。またこの頃より、石本正は舞妓や芸妓を描こうと思い、祇園に通い始めた。

 

1958年
京都の土井画廊で初の個展を開催します。

 

1959年
12月、加山又造・横山操らと轟会(村越画廊)を発足させ、「横臥舞妓」「鶏」「丘の木」を出品、以降も第15回展まで出品しました。

 

1960年
10月、村越画廊・彌生画廊主催「石本正個展」(文藝春秋画廊)開催、出品作の「桃花鳥」が翌年1月、文部省買上となる。また1960年には京都市立美術大学講師となった。
 

 

1964年
はじめての渡欧を果たし、憧れつづけたヨーロッパの中世美術に触れ、規範にとらわれない自由な美的感覚に共感。同年の新制作展から舞妓を題材とした作品を毎回発表する。石本正は田舎出の娘が煌びやかに着飾った、華やかな中に孤独な翳りを見せる舞妓を描きたいとし、顔や手の黒い舞妓を発表、きれいごとではないリアリティがあるなどと評されました。

 

1967年
第31回展へは、横たわる三人の裸の舞妓を描いた「横臥舞妓」を出品します。

 

1968年
5月「石本正風景展」(彩壺堂)を開催。

1970年
舞妓の作品ばかりを並べた「石本正人物画展」(彩壺堂)を開催しました。このときの「横臥舞妓」などが「日本画における裸婦表現に一エポックを画した」として、翌1971年第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞。同年3月舞妓をテーマとしたシリーズで第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以後はすべての賞を辞退した。この間、65年に京都市立美術大学助教授(70年教授)となります。

 

1969年
11月には学生等とともにイタリアへ研修旅行に出かける。以後この旅行は慣例となり、ヨーロッパや中国、インドなどを訪れました。
 

1974年
新制作協会日本画部会員全員が同会を退会し、新たに創画会を結成。9月の第1回展へ石本は「鶏頭」を出品、以後毎回出品する。この頃から石本の女性像は舞妓ではない裸婦が中心となり、アンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」に触発されて描いた1983年の「夢」(個展、東京セントラル絵画館)頃から背景に絨毯を描きこむようになった。

 

1986年
3月京都市立芸術大学教授を退任し、同大学名誉教授となります。

 

1989年
平成元年11月兼素洞にて花の作品ばかりを集めた「石本正「花」展」を開催。この頃から石本は物語性のある作品を描くようになり、映画の舞踏会シーンを思い浮かべて描いたという「牡丹」(1989年、第16回創画展)や、花火をイメージしたという「菊」(1994年)、また平泉・中尊寺の古面を思い出して描いたという「空蝉」(1994年)など、対象を通して得たイメージを画面に表現するようになります。

 

1996年
初の本格的な展覧会となる「石本正展―聖なる視線のかなたに―」を開催。

 

1992年
以降の近作37点と素描50点が展観されました。

 

2001年
故郷である島根県那賀郡三隅町(現、島根県浜田市三隅町)に石正美術館が開館し、名誉館長となる。この開館を機に、石本正はふるさとを意識した作品を描くようになり、創画展へも「幡竜湖のおとめ」(2002年、第29回展)などを出品。

 

2003年
10月には画一的な表現しか認めない当時の画壇に新風を吹かせたいという思いから、石本正がはっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来」展を開催。

 

2009年
石正美術館の塔に長年の念願だった天井画を老若男女592人とともに制作する。また2006年以降、創画展へは牡丹や薊などの花を描いた作品を中心に発表していたが、2014年の第41回展へは薄物をまとい横たわるふたりの裸婦を描いた「裸婦姉妹」を出品、翌2015年10月の第42回展へは舞妓を描いた「舞妓座像」が未完のまま出品されました。

 

2015年
伝統や規範にとらわれず、自らの心を通して作品を描き続けた日本画家、石本正は9月26日、不整脈による心停止のため死去した。享年95。

 

 

 

石本正の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.石本正の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

石本正 査定価格におけるポイント

 

石本正の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

石本正先生の作品は、舞妓の作品は小さくても高値の査定価格がつきます。

 

50万円から90万円ぐらいの買取相場です。版画は2万から5万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

石本正の作品は晩年の作品が評価されます。

 

初期の作品は比較的安値の傾向です。

 

石本正展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

石本正先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ石本正の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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