2024年11月11日
国宝黄檗山万福寺について 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
黄檗山万福寺の隠元禅師が、インゲン豆を中国から渡来して持ち込んだお土産だったって知ってました?
隠元豆、煎茶、西瓜、蓮根、揚げ物さらにダイニングテーブルに椅子 「一家だんらん」は隠元禅師が持ちこんだらしい!
しかし調べると、インゲン豆を日本に伝えたという事には諸説あり、隠元禅師が伝えたのは別種の「藤豆」フジマメともいわれ、関西ではフジマメをインゲンといい,本種をサンドマメという。
隠元豆は年に3度収穫できることから「三度豆」とも呼ばれます。 隠元禅師が中国から持ち込んだとされる豆は「藤豆」ですが、隠元は二種の豆を持ち帰り、関東には「五月豇豆」ゴガツササゲ、関西にはフジマメを広めたという説もあります。
国宝に指定された黄檗山万福寺については、これからますます注目されると思っております。
骨董品も和の物よりも中国人が好む骨董品が高値で取引されております。
ですので、これから骨董品が好きな人も商う人から見ても、ますます黄檗山万福寺から眼が離せない!
【準公式】国宝 黄檗山萬福寺𝕏まんぷくじ
今回国宝に指定されて、Xのアカウントが盛り上がっているみたいですね。
隠元禅師は当初、渡来して三年で中国に帰国する予定でしたが、その人気ぶりが凄まじく、結局は日本に引き留められ、4代将軍徳川家綱に与えられた10万坪という広大な寺領に萬福寺を開創することになりました。「黄檗山 萬福寺」という名前は、隠元禅師が中国で住職を務めていたお寺と全く同じ名前です。そこには「旧を忘れない」という意味が込められており、伽藍も仏像も従来の日本式とは異なる明朝様式で整えられています。
本尊は「お釈迦さま」「萬福寺」の本堂にある本尊は釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)で、いわゆる仏教の開祖とされる「お釈迦さま」です。釈迦の十大弟子となる摩訶迦葉(まかかしょう)と阿難陀(あなんだ)が脇侍として安置されています。
宇治市にある禅宗の寺、黄檗山萬福寺の本堂などが、新たに国宝に指定されることになりました。
新たに国宝に指定されるのは、1661年創建の黄檗宗大本山の万福寺
大雄宝殿
(だいおうほうでん)本堂の事です。
法堂
(はっとう)説法を行う場所です。
天王殿
(てんのうでん)寺の玄関にあたります。
の三棟です。
大雄宝殿 国宝
寛文8年(1668年)建立
桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺、正面月台附属
チーク材が全面に使われている大雄宝殿は、正面の扉には魔よけとされる桃の実の彫刻が施され、左右に円い形をした窓が配置されるなど、中国仏教建築のデザインがうかがえます。
大雄宝殿には、十八羅漢像が安置されています。
「羅漢」とは?
羅漢は阿羅漢の略で、敬われるべき人の意です。 阿羅漢ですが、これはサンスクリット語(梵語)のアルハンを漢字で音写した言葉だそうです。
漢訳すると、<応供(おうぐ)>で、「尊敬・施しを受けるに値する聖者を意味します。
インドの宗教一般において、尊敬されるべき修行者をさしました。
釈尊は10の別称(十号)を持っておられて、その一つに応供があったそうです。 ところが、後になると、仏の別称であることとは区別して、仏の弟子に阿羅漢の称が当てられるように変化しました。
仏の十大弟子は勿論最高の阿羅漢ということになります。 原始仏教・部派仏教では修行者の到達し得る最高位を示すことになり、一方、大乗仏教では批判的に声聞を阿羅漢と呼び、仏と区別したという経緯があるそうです。
声聞はサンスクリット語では教えを聴聞する者を意味し、もともとは出家、在家を問わずに使われる言葉だったのですが、後に仏教では、出家の修行者だけを意味することになり、出家の修行者は阿羅漢を目指すということになります。
まず、十六羅漢ですが、これは中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を称する言葉だそうです。
法堂 国宝
寛文2年(1662年)建立
桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、こけら葺
法堂とは、仏教寺院において、僧侶が仏教を講義する建物のことです。主に禅宗寺院で用いられ、そのほかの宗派では講堂(こうどう)と呼ばれることが多いです。
法堂の成立はインドではなく、中国であり、仏教が貴族階級に浸透し始めた南北朝時代には既に成立していたものと思われます。
仏舎利を祀る塔、仏像を祀る仏殿(金堂)とともに、伽藍を構成する最重要の建物であり、日本においてのその位置関係は、時代によってそれぞれ異なりますが、仏殿の次の重要な建物として位置づけられるようになり、大抵は寺院の中心に設置されています。
住職や講義僧がここで経典の講読や説法を信者や他の僧侶に向けて行い、特に禅宗では、ここで法席に昇って説法することを「上堂説法」といい、そこで話された内容を上堂語といって、『臨済録』などの語録に収録されている。
天王殿 国宝
寬文8年(1668)に建立
天王殿は萬福寺の玄関にあたる位置づけで、中国では一般的な建て方です。
五間三面、単層、屋根は入母屋造り、本瓦葺きのお堂で、正面の石段を上り、右に右折して堂内に入ります。
萬福寺は、江戸時代初期に創建された寺で、三棟共に江戸時代初期の建築です。中国仏教建築と日本の寺院建築とが折衷した独自の様式が特徴で、いまも国内に420ほどある黄檗宗の寺院建築の規範として高い価値があると評価されています。
隠元隆琦禅師
いんげんりゅうき・1592-1673は、福州(福建省)に生まれました。29歳の時、福州黄檗山にて出家します。
隠元禅師は、1654年に中国から来た渡来僧です。臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継いだ高僧で、福建省にある「黄檗山萬福寺」の住職となり多くの弟子を育成していました。
43歳の頃、費隠通容(ひいんつうよう)の法嗣となる。承応3年(1654〉、先に来日した興福寺(長崎県)の僧逸然性融〈いつねんしょうゆう・1601-68〉より度重なる懇請を受け、弟子20余名を連れて、ついに長崎へ渡った。時に63歳。のち徳川家綱〈とくがわいえつな・1641-80〉から宇治の地を与えられ、黄檗山万福寺を創建しました。
日本黄檗宗の宗祖となる。かれは、宋の蔡襄(さいじょう)1012年〜1067年や明の董其昌(とうきしょう)1555年〜1636年の書を学んだといわれ、文人的書風から出発して、気品に加え、独自な力強さを持つ、いわゆる黄檗流という書風に至りました。
中国風精進料理である普茶料理を伝え、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷などの分野に貢献しました。
黄檗山萬福寺とは
1661年に中国僧の隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開創されました。
黄檗山萬福寺は黄檗宗です。中国から伝来したとされる伝統的な宗派で、臨済宗・曹洞宗と並び日本三禅宗の一つに数えられています。三つの禅宗のなかでも中国式の考えが強く残っているのが特徴で、葬儀の流れやマナーにも他の宗派との違いが見られます。
黄檗宗の教えや歴史、葬儀の流れ、葬儀のマナーを解説
中国式の考えが強く残っている宗派 黄檗宗は、江戸時代頃に中国から伝えられました。当初は臨済宗の一派とされていましたが、その後独立し黄檗宗と改宗しました。同じ禅宗でも、既に日本に伝来していた臨済宗や曹洞宗と比べると、中国式の考えが強く残っているのが特徴です。 例えば、黄檗宗のお寺は中国明朝形式で建てられたものが多く、日本の他のお寺と比べるとカラフルな外観をしています。仏具も中国式のものが多いです。
お経は般若心経が基本
「行」
行を重んじ、自分の心と向き合って悟りを開く 黄檗宗では、人は生まれつき悟りを持っているとする「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の考えが重んじられています。その悟りを開くためにも、自分自身の心と向き合うのが大事であるとされ、修行においては経典を数多く読むことより、座禅などの「行」が重視されています。 また、「己身の弥陀(己心の弥陀)・唯心の浄土(こしんのみだ・ゆいしんのじょうど)」という教えもあります。阿弥陀仏や極楽浄土は、自分自身の心の中にあるという意味です。 考えるほどに深みのある教えですが、平易にすれば、誰か他の人のことよりもまず自分のことを考え、自身の人生をどう生きるかを大切にしなさいということと受け取れます。
万福寺は煎茶のお寺
煎茶が有名になったのは、売茶翁が黄檗宗の僧だったからです。
売茶翁という呼び名はあくまでもニックネーム。彼の名は高遊外(こうゆうがい)と言います。
江戸時代前期の1675年佐賀県に生まれ、13歳の時に黄檗宗の総本山である宇治の黄檗山萬福寺で修行をしました。
日本で現在ポピュラーな仏教である鎌倉六宗(浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗)に比べて新しい宗派です。
中国の臨済宗をルーツとする禅宗の一つで、日本における他の禅宗(臨済宗・曹洞宗)と異なり、中国的な特色を多く残しています。
隠元禅師は来日する際、黄檗宗とともに多くの中国文化を持ち込みました。代表的なものが中国で一般的だった釜炒り茶だったのです。
釜炒り茶を始めとする中国文化を取り入れて、黄檗宗の僧になった高遊外(売茶翁)は、全国各地を周って修行を重ねる中、33歳の時に長崎で煎茶の知識を習得しました。
長崎には華僑たちが築いた「長崎三福寺」と呼ばれる唐寺があり、黄檗宗における中国と日本の橋渡し的な役割を果たす地でした。
煎茶を学んだ高遊外は、50歳後半になって煎茶を売り歩き始めます。
茶を売り歩く翁(おきな)ということから「売茶翁」と呼ばれるようになりました。
彼の売り方は独特で、価格は客の気持ち次第で無料でもOK」だったそうです。
このことが京の市中に煎茶を広めることになりました。 還暦を過ぎた高遊外は、京都東山に通仙亭(つうせんてい)という茶亭を開き、晩年は通仙亭で禅を説きつつ、人々に煎茶や茶器を売って過ごしました。
売茶翁がいたこともあり、煎茶のお寺としても有名です。隣接する煎茶道会館には全日本煎茶道連盟の本部があり、毎年5月に連盟主催で全国大会を開いています。
近年、中国人や香港人、台湾人などが日本の急須を求めて日本にお越しです。ですのでお抹茶を飲む茶道よりも、煎茶を飲む煎茶道の方が骨董品やお茶道具も高値になっております。
黄檗宗は、渡来僧が多く黄檗宗の僧の書かれた書も、昔より価格が上がっております。
初代隠元禅師の「穏健高尚な書」
二代木庵禅師の「雄健円成な書」
三代即非禅師の「奔放闊達な書」
隠、木、即と評され「唐風」あるいは「黄檗風の書」として珍重されています。
木庵性瑫(もくあんしょうとう)1611年〜1684年即非如一(そくひにょいち)・1616年〜1671年とともに「黄檗の三筆」と呼ばれ、江戸時代の唐様(からよう)書道勃興の起爆剤となった。
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