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2020年8月31日

加納夏雄の兎香合を買取いたしました。

加納夏雄
 
兎香合
 
帯留にも併用
銀製
裏に短冊銘
安政三年初冬日夏雄
大正八年望月
加納秋雄箱書
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

加納 夏雄(かのう なつお

1828年5月27日(文政11年4月14日) – 1898年(明治31年)2月3日[1])は、幕末から明治期に活動した金工師。京都出身。

京都柳馬場御池の米屋に生まれる。

本姓は伏見。7歳で刀剣商の加納治助の養子となると、ごく自然に鍔や柄の美しさに魅せられると見よう見まねで鏨を握るようになった。その才能を認めた養父母の勧めで12歳の頃から彫金師奥村庄八の元で修行し、線彫り、象嵌などの技法を身に着けた。14歳で円山四条派の絵師・中島来章に師事し写実を極める。1846年19歳で金工師として独立。安政元年(1854年)に江戸へ移り、神田に店を構え小柄や鐔などに生命を宿すことに心血を注ぐ。

鏨を斜めに方向け片側で彫ってゆく片切彫を得意とした。明治維新を迎えた後、明治2年(1869年)4月に皇室御用を命じられ、刀剣愛好家でもあった明治天皇の太刀飾りを担当した。 さらに同年7月、新政府から新貨幣の原型作成を依頼され、門下生と共に試鋳貨幣の作成を担当した。当初はそれを元にイギリスに極印の作成を依頼する予定だったが、見本を見たイギリス人技師ウォートルスがその完成度の高さから「これほどの名工が居るのにわざわざイギリスに依頼する必要はあるまい」と驚嘆させ、そのため新貨幣はデザインから型の制作まで全て加納および門下生に一任された。

明治5年(1872年)に行われた正倉院宝物修理の際、明治天皇が宝物の一つの聖武天皇が佩剣したとされる8世紀の直刀を気に入り手元に収めた。加納は明治天皇からこの直刀に合う拵えの作成を命じられ、翌明治6年(1873年)に完成させ、明治天皇はこれを「水龍剣」と号して佩用した。なお、昭和32年(1957年)に「直刀 無銘(号 水龍剣) 附 梨地水龍瑞雲文宝剣」として重要文化財に指定されている。 1876年廃刀令が交付されると多くの同業者は廃業に追い込まれるが、加納は注文が引きも切らず煙草入れや根付の名品を作り続ける。またその気品ある作品は海外でも人気を博し、その名は世界中に知れ渡った。 1890年第三回内国勧業博覧会で百鶴図花瓶が一等妙技賞を受賞し、その後宮内省買い上げとなり、明治宮殿桐の間に飾られたと伝えられる。またこの年東京美術学校の教授に就任し、さらに第1回帝室技芸員に選ばれる。

 
 
 
 
 
 
 
 

2020年8月31日

雲居希膺の掛け軸を買取いたしました。

雲居希膺 (うんごきよう)
 
「初祖菩提達磨大師」と一気呵成に書き下した八字一行書。禅宗初祖の名号であることから「初祖号」とも呼ばれる。
1582-1659
 
 
 
 
 
 
 
 
桃山時代から江戸時代前期の臨済宗の禅僧。
土佐小方出身 天正10年生まれ。
京都妙心寺の蟠桃院の一宙東黙の法をつぐ。
19歳から34歳まで一宙のもとで修行をつんだ。
雲居が26歳の時、妙心寺山内の若手、愚堂、大愚、了堂、洛浦など、6、7人の仲間で名師のもとに参じようと諸国遊歴の旅に出ている。
慶長12年、まず奥州の仙台覚範寺の虎裁宗乙和尚を訪ね、平泉の館で詩を唱和している。
33歳で一宙より印可を受け一層の修業に励むが、34歳の時、人生の一大転機が訪れる。数年前にさかのぼりここで塙直之の話に触れたい、塙直之は加藤嘉明の家臣として関ヶ原の戦いで嘉明の軍令に背いたとして嘉明に追われることになり、一時期妙心寺の僧となり身を潜めていた。雲居はこの頃親交を結んでおり、その後、諸国遊歴で奥州から駿府の臨済寺を訪れた雲居は、その近くで偶然塙直之に再開する。旧交をあたため、将来雲居の外護者となる約束をした塙直之は、自分の甲冑を雲居に預けて別れる。それから7年後の元和元年、大坂夏の陣で塙直之が大坂城にいることを知った雲居は、彼と死を共にしようと預かった甲冑を身につけて大坂城に入り込もうとしたが、敵方に見つかってしまい幕府の咎めを受ける。しかし、この時尋問を行なった京都所司代板倉勝重は、雲居の塙直之に対する義侠心に心を打たれ、雲居を許すように計らった。
これによって、無事に妙心寺に帰れた雲居は、それまでの宗佐という名前を改め雲居希膺の諱号を名乗り、妙心寺の首座となりました。
その後、各地を遊歴し名利栄達を避けるように隠棲する雲居であったが、寛永11年、その名は学徳兼備の名僧として御水尾法皇の耳に届くことになる。
法皇の招請に雲居の固い辞退も叶わず、宮中に呼び出され法皇に御前講和を講じている。
その後も召されるが、今度は仮病を理由に断りなんとか切り抜けるが、これがきっかけで雲居の声望はいやが上にも広がり、寛永13年には仙台の伊達政宗が、雲居を松島の瑞巌寺の住持に招請する。
伊達政宗は奥州仙台藩六二万石の基礎を築いた武将で、当時衰退していた松島の瑞巌寺を再興しようと名僧を捜し求めていた。政宗の招きを固辞したものの政宗は5月に逝去し、同門の単伝士印の熱心な説得によってようやく承諾し8月21日に瑞巌寺に入寺する。
その後の雲居は、寺内の規約を制定して綱紀を粛清し自ら大衆と共に作務、看経、座禅に励み贅沢を嫌い清貧を身を以て示した。
そんな雲居を慕って全国から大勢の雲水が瑞巌寺に訪れ、瑞巌寺は奥州最大の禅道場として隆盛していくのである。
雲居は、慶安2年68歳で弟子に瑞巌寺に住持を法嗣の洞水東初に譲って引退し、仙台郊外江六村綱木山の大梅寺を賜って移り住んでいる。
万治2年8月8日「水鳥樹林、全てが私の偈である」と弟子に言い残し、78歳で遷化する。
諡号(しごう)は慈光不昧禅師、大悲円満国師。別号に把不住軒。
著作に「般若心経大意」。
 
 
 
 

2020年8月12日

元永定正の絵画を買取いたしました。

元永定正

無題

 

 

1974年
0号(14センチ×8センチ)
モトナガ資料研究室鑑定済

 

 

 

 

 

 

 

書籍:「天風浪々 絵と書の対話」

 

 

榊莫山 元永定正 
美術公論社

元永定正は絵本以外の著述は少なく、唯一元永さんの言葉が莫山さんとの対談形式により収録されている本書では、
三重県伊賀上野出身であるお二方が歩まれてきた人生と芸術感を語っていらっしゃいます。

私の先祖も伊賀上野ということもあり、親しみを感じつつ、
尊敬するお二方のお話を拝読させていただきました。

面白いなと思った箇所をそれぞれ抜粋すると、

榊莫山「おれは昔本書いてるとき、元永定正の字のこと書きたいから書いてくれちゅうて頼んだら、「無」という字の点が7つか8つついとってんな、あれええなちゅうて言うとったんやけど、あれ7つあったかて10あったかて、誰が見たってこれは「無」やろなと思うわな。草書にしたら、最後にぽんと点一つしか打たんでも草書として通用するわけやからな。」

元永定正「創作ちゅうのは一つの宗教やと思うのやな。ある世界を作るのやから。僕が信者で、僕が教祖で……。一人でええのやけども、やってると榊莫山教いうのがでけてくるわけや。僕の元永教というのも信者がでけるけど・・・。」

−−−−(絵画について)理解できないことは……。
元永定正「それは、形だけを見て精神を見ないからですね。りんごを描いてあったらわかる、線を引っ張っただけやったらわからん、というのはわかったことにはならへん。絵描きだけや。心がわからないというのは、そういう意味やね。じっと長いこと見とったらわかってくるものやね。」

1984年発行のこちらの本ですが、やっと時代が追いついてきたように感じます。
現代アートは昔よりも少しずつ身近になってきましたから、お二方はずっと先を行ってみえましたね。
莫山さんと元永さんの芸術感がわかる色褪せることのない内容でした。

 

 

2020年8月12日

天啓赤絵羅漢図皿を買取いたしました。

天啓赤絵羅漢図皿

 

裏書き成化年製

羅漢さんが、ピョーンと脚を出してくつろいでます。

絵付けが、軽妙洒脱で古さを感じないです。

 

北岡技芳堂では、中国陶器の買取を積極的に行なっております。

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