2024年10月7日
イサム・ノグチの作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取ブログ
イサム・ノグチの立体彫刻をお持ちの方へ — 買取強化中
イサム・ノグチは、20世紀を代表する彫刻家として、その名を世界中に知らしめました。彼の作品は、日本と西洋の美意識を見事に融合させ、シンプルでありながら深い哲学を感じます、イサム・ノグチの彫刻作品は、時代を超えた美しさと独自の存在感を放ち、多くのコレクターや美術愛好家から高い評価を受け続けています。
現在、当店ではイサム・ノグチの立体彫刻の買取を強化しております。
もし、イサム・ノグチの彫刻作品をお持ちでしたら、一度ご相談ください。高価買取致します。
専門スタッフが丁寧に査定し、作品の価値を正しく評価いたします。
イサムノグチ(発見の道)安山岩 鹿児島県霧島アートの森藏
イサム・ノグチの作品を買取する理由
時代を超えた造形力のあるイサム・ノグチの作品は、その時代の潮流に留まらず、現代まで新鮮な魅力を保っています。彫刻作品はもちろん、彼の照明や家具も空間を豊かに彩り、日常に芸術を取り入れることができます。 世界的に人気のイサム・ノグチの作品は日本国内のみならず、海外でも多くのコレクターから熱望されています。そのため、当店では国内の市場を見極めた適正な価格で買取を行っております。
イサムノグチの買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.イサムノグチの作品は、当店が真贋を拝見させていただき、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。
Q.イサムノグチの作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。
Q.箱や証明書が無いのですが買取りしてもらえますか?
A.箱や証明書が無くても買取りは可能ですが買取りのお時間をいただく事もあります。
Q.イサムノグチの作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。
Q.イサムノグチの作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.立体作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
思い出と価値を次世代へ
イサム・ノグチの作品には、造形感覚から背景のある物語や時代の空気が込められています。
イサム・ノグチは、20世紀を代表する彫刻家、デザイナー、舞台芸術家として世界的に知られています。 彫刻だけでなく、庭園、家具、照明など、多岐にわたるジャンルで活動しました。
生い立ち 誕生
1904年、日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれます。
1907年、イサム・ノグチが3歳の時に母レオニーと来日し、野口米次郎と同居する。そして米次郎は武田まつ子と結婚し、イサム・ノグチは野口勇として森村学園付属幼稚園に通園します。1年後に神奈川県茅ヶ崎市に転居して地元の小学校へ転入し、その年に母レオニーがイサム・ノグチにとっては異父妹となるアイリスを出産する。
1913年からは母の姓であるイサム・ギルモアを名乗り、横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ転入し、茅ヶ崎の自宅の新築設計を手伝うなど数々の建築作品に携わりました。学校へ通う中、イサム・ノグチは1915年に1学期間休学し、母親の個人教授を受けながら茅ヶ崎の指物師の見習い修行をしていく。学校を卒業した後、1918年6月には母の意思で単身でアメリカへ送られ、7月にインディアナ州ローリング・プレーリーのインターラーケン校に入学するが、8月に同校は閉鎖する。エドワード・ラムリーが父親代わりとなり、C・マック宅に寄宿し、ラ・ポート高校に通学しトップの成績で卒業する。卒業写真に残したノグチの言葉は、「大統領になるよりも、僕は、真実こそを追求する。」であった。
イサム・ノグチの若い頃
イサム・ノグチの胸に母が植えつけた願望、「アーティストになりたい」というイサム。ノグチのために、ラムリーはスタンフォード在住の彫刻家ガットスン・ボーグラムに助手としてノグチを預けました。
1923年に、ボーグラムとノグチとは馬が合わず、イサム・ノグチはニューヨークへ移りコロンビア大学(医学部準備過程)に入学し、日本から帰米してきた母と暮らすようになります。そこでイサム・ノグチは医学部に在籍しつつ、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間の彫刻クラスに通い、入学してすぐに初の個展を開催した。 イサム・ノグチはナショナル・スカルプチャー協会の会員に選ばれ、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに出品します。美術学校の校長オノリオ・ルオットロからは彫刻に専念することを勧められる。
彫刻家としてのスタート
1925年、イサム・ノグチはニューヨークで活躍していた日本人の舞踏家伊藤道郎の仮面を制作しました。これがイサム。ノグチにとって初めての演劇関連のデザインでした。2年後にグッゲンハイム奨学金を獲得し、パリに留学します。6ヶ月間、彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事してアシスタントを務めます。夜間の美術学校に通いますが、1年後に奨学金の延長が認められずニューヨークに戻りアトリエを構えます。翌年、個展を開きました。
イサム・ ノグチは1930年から1931年にかけて、パリを経由して日本に渡航、京都・奈良などを周遊し、窯元で陶芸を学ぶなどして、約8ヶ月程度滞在しました。この日本滞在の折、長野県軽井沢の新渡戸稲造の別荘で、同じく偶然滞在していたチャールズ・リンドバーグと言葉を交わしています。
1935年に在米日本人芸術家の国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫らと共にニューヨークの「邦人美術展」に出展します。 第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際には自らアリゾナ州のポストン戦争強制収容センターに志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち、他の収容者達から冷遇されてしまいます。その事から、自ら収容所からの出所を希望するも、今度は日本人であるとして、出所できませんでした。後に、芸術家仲間フランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所します。その後は、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えました。
ブランクーシ ポガニー嬢Ⅱ 1925(2006年鋳造) 磨かれたブロンズ 石橋財団アーティゾン美術館蔵
キャリアの飛躍
終戦後、イサム・ノグチは1947年にジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作するなど、インテリア・デザインの作品に手を染める。 1950年5月2日に再来日します。同年8月18日から8月27日にかけて銀座三越で個展を開きます。その時に日本では著名な建築家である丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になります。1年後にまた来日し、リーダーズダイジェスト東京支社の庭園の仕事の依頼を受けます。また当時の岐阜市長の依頼で岐阜提灯をモチーフにした「あかり (Akari)」シリーズのデザインを開始します。
日本での結婚と活動
1950年に山口淑子(李香蘭)と結婚のします。(1956年に離婚)。鎌倉の北大路魯山人に陶芸を学び、素焼き作品制作に没頭します。この頃に北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエ兼住まいも構えました。
イサムノグチと山口淑子
豊富な活動と庭園と空間デザイン
1950年の同年、広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)にノグチのデザインが選ばれましたが、原爆を投下したアメリカの人間であるとの理由で選考から外れました。しかしイサム・ノグチのデザインの一部は、平和公園にある丹下健三設計の「原爆慰霊碑」に生かされています。(丹下健三はこのプロジェクトにイサム・ノグチの起用を推挙しました)。また、戦災復興都市計画に伴い計画され、平和公園の東西両端に位置する平和大橋・西平和大橋のデザインはイサム・ノグチの手によるものであります。
イサムノグチによる平和大橋 平和公園の手前にある、平和大通りに架かる橋です。建設省からデザインの相談を受けた丹下健三は、イサム・ノグチに依頼。
( 大谷幸夫がノグチのスケッチから施工図を起こした。)
イサム・ノグチは1964年「ケネディ大統領墓所」のデザインを設計したこともあるが、こちらは日系であるとの理由で却下されました。 1961年からはアメリカに戻り、ニューヨーク州のロングアイランドシティにアトリエを構え、精力的な活動をし始めます。まずはアメリカの企業IBM本部に2つの庭園を設計し、幼少の頃住んでいた神奈川県にある横浜のこどもの国で遊園地の設計が実際の計画に移されました。
イサム・ノグチ回顧展
そして1968年にホイットニー美術館において大々的な回顧展が開催されます。
イサム・ノグチ『黒い太陽(ブラック・サン)』
1年後の1969年にシアトル美術館にて彫刻作品『黒い太陽(ブラック・サン)』を設置します。また、東京国立近代美術館のために『門』を設置します。この年、ユネスコ庭園への作品素材に香川県の庵治町(現・高松市)牟礼町で産出される花崗岩の庵治石を使ったことをきっかけに牟礼町にアトリエを構え、「あかり (Akari)」シリーズを発表します。ここを日本での制作本拠とし、アメリカでの本拠・ニューヨークとの往来をしながら作品制作を行います。
大阪万博と受賞
1970年には大阪で行われた日本万国博覧会の依頼で噴水作品を設計し、4芸術協会主催によるパーム・ビーチ彫刻競技会にて作品『インテトラ』が2等受賞しました。同時期に、東京の最高裁判所の噴水を設計して設置します。 Zwillingsplastik 1972 ミュンヘン 1984年からロング・アイランド・シティにあるイサム・ノグチ ガーデンミュージアムが一般公開されます。
1970年の大阪万国博覧会で製作された、日系アメリカ人彫刻家・イサム・ノグチ氏の彫刻作品。 現在は噴水の機能を果たしていないが、12基中6基が残されたオブジェが白鳥ボートとともに夢の池のアクセントとなる。
同年、コロンビア大学より名誉博士号を授与され、ニューヨーク州知事賞を受賞します。1年後の1986年開催のヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)のアメリカ代表に選出され、同年日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞、1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲します。
イサム・ノグチの没年
1988年に勲三等瑞宝章を受勲し、北海道札幌市のモエレ沼公園の計画に取り組みました。これは公園全体を一つの彫刻に見立てた「最大」の作品でありましたが、イサム・ノグチはその完成を見ることなく同年12月30日、心不全によりニューヨーク大学病院で84歳の生涯を閉じました。
イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモア (1873〜1933)がとても素敵な眼鏡美人
母の死
母レオニーの命日に1日だけ先んじ、イサム・ノグチもその天命をまっとうしました。 1年後にはイサム・ノグチの遺志を継いだ和泉正敏が制作した遺作『タイム・アンド・スペース』が完成し、香川県の新高松空港に設置されました。
1999年には制作の本拠地であった高松市牟礼町にイサム・ノグチ庭園美術館が開館しました。イサム・ノグチがマスタープランを手がけてから16年後の2004年にモエレ沼公園は完成し、翌2005年にグランドオープンしました。モエレ山、プレイマウンテン、テトラマウンド、ノグチデザインの遊具のエリア、さくらの森、テニスコートや野球場などを含む188ヘクタールの広大な公園であリります。
2010年11月20日に松井久子監督によるノグチの母を題材とした日米合作映画『レオニー』が公開されました。
2013年8月、宮本亜門原案・演出による舞台『iSAMU〜20世紀を生きた芸術家 イサム・ノグチをめぐる3つの物語〜』が3年の創作期間を経て上演されました。
(PARCO劇場他)
イサム・ノグチ/サイクロンテーブルCycloneTableФ120【イタリアスティールライン製】
家具デザイン
イサム・ノグチは家具デザインにも情熱を注ぎ、特に「ノグチ・テーブル」は現代のデザインアイコンとして広く知られています。 彼の家具作品は、シンプルでありながら有機的なフォルムを持ち、彫刻的な美しさが特徴です。
イサムノグチ発案
照明デザイン
さらに、日本の伝統的な紙灯籠からインスパイアを受け、1950年代には「AKARI(あかり)」シリーズを発表。このランプは、軽やかでありながら温かみのある光を放ち、世界中で人気を博しています。
晩年と遺産
1980年代晩年も精力的に活動し、日本の高松市にある「イサム・ノグチ庭園美術館」を拠点に、彫刻やデザイン活動を続けました。この美術館は、彼の作品や制作過程を間近に見ることができる場所として、今も多くの人々に愛されています。
イサム・ノグチの影響
イサム・ノグチの作品は、芸術的なオブジェクトを超えて、空間全体や人間と自然との関係を探求するものでした。彼の作品は世界中の美術館や公共の場に展示されており、彼の遺産は今もなお多くの人々にインスピレーションを与え続けています。
イサム・ノグチの鑑定と買取
イサムノグチの作品の売却を検討されております方は、お気軽にご相談ください。イサム・ノグチの彫刻作品の買取にご興味のある方は、ぜひお気軽に当店までお問い合わせください。オンライン査定も承っておりますので、遠方の方でもスムーズにご相談いただけます。査定についての詳細は、当店のウェブサイトをご覧いただくか、お電話やメールでお問い合わせください。 イサムノグチ作品を買取強化中!あなたの大切な作品を、次のコレクターまでつなぐお手伝いをさせて頂きます。
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