2021年4月20日
唐俑 中国美術品の買取をいたしました。
中国では古い時代から、人が死ぬと死後の世界があり、そこでの生活があると考えてきました。
そのため権力者や貴族たちは、大きくて立派な墓を作り、死ぬと、召し使いたちや家来、馬や馬車などもいっしょに墓に埋めました。これを殉葬といいます。
しかし文明がすすむにしたがって、生きた人をいっしょに埋めるのは「かわいそうだ」というので、木や石、陶器などで作った人形に代え、また動物やいろいろな道具なども作って一緒に副葬しました。
この人の形を象ったものを俑といい、それを陶器で作ったものを陶俑といいます。
そして道具や動物類をいろいろな素材で作ったものを明器と呼んでいます。
俑や明器は、中国の漢時代(BC 2世紀~AD3世紀)から唐時代(7世紀~9世紀)にかけて作られました。
陶俑で作られた明器には、技術的に二つのちがったものがあります。一つは、釉とか上釉と呼ぶ一種のガラス質のもので表面を飾った緑釉や三彩であり、もう一つは釉をまったく用いず、鉱物質の絵の具(顔料)で彩色した加彩と呼ばれるものです。
この婦女立俑は、加彩のもので、よく見ると少しピンク色がかった土で形を作り、その上に白い泥をうすくぬって白くみせ、頭の毛には黒くちびるやほっぺたには赤い紅色の顔料をぬって彩色していた様子がうかがえます。
こうした陶涌は、短期間にたくさん作るため、型を使って基本的な部分を作り、手の動きや持ち物、顔の表情、髪の形など、細部は箆で削ったり、手ずくねで作り足したりして、それぞれ変化をつけています。しかも釉をかけて作るより自由に細部まで表現できるのが利点で、そのため加彩のものがたくさん作られました。
ところでこれらの陶俑はその時代の風俗や流行が分かり、どんなタイプの女性を美しいと考えていたかを具体的に教えてくれるものとして興味があります。
作られた時期がはっきりしている墓から発掘された女性の俑をみると、唐時代初期の8世紀前半にはすらりとした細身の女性が作られています。しかし8世紀の中頃からは太った女性が作りはじめられ、この俑のように太った体に高く髪を結い上げたものは、9世紀初頭の墓から出土しています。
これらの例から考えると、唐時代初期には細身の女性がよく、8世紀中頃から太った女性になり、9世紀にはいるとこれが定着していった様子がうかがえます。