2019年8月22日
烏丸光廣の短冊軸装を買取りました。
烏丸光廣
短冊軸装です。
佐夜中山
あやしなと、かくはながめの、とまからん、花も紅葉も佐夜の中山
あやしなと
は、
「あやしげな」神秘的な
かくはながめの
は、
「かく」は「このように」なので「このような眺めの」になります
とまからん
は、
「止ま」「か」「らん」と解釈して、「立ち止まったんだなぁ」
花も紅葉も
は、
そのまま
佐夜の中山
は、
小夜の中山(さよのなかやま)または佐夜の中山(読みは同じ)は、静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)に位置する峠。最高点の標高は252m。古くは遠江国の東部に属し、宿場では金谷宿と日坂宿の間に当たる。頂上には真言宗の久延寺、西側の麓の日坂宿の入口には事任八幡宮があり、多くの人々が旅の安全を願って立ち寄ったと伝わるほか、遠州七不思議の一つで、赤ん坊の泣き声を発したとの伝説を持つ夜泣き石がある。
夜泣き石の伝説
小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所である。曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年)(1805年)によれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。
そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれた。
生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。
音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。
そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである。
その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号をきざんでいったという。 なお、ほぼ同様な伝説は安永2年(1773年)刊行の随筆「煙霞綺談」(遠州の人・西村白鳥 著)にも記載されている。
生涯
天正7年(1579年)に准大臣・烏丸光宣の長男として誕生。母は不詳。経済的に恵まれた環境のもと、
天正9年(1581年)わずか3歳で従五位下に叙された。弁官や蔵人頭を経て、
慶長11年(1606年)1月参議に任じられて公卿に列した。
慶長14年(1609年)7月に起きた猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた。
慶長16年(1611年)4月に勅免されて還任。
元和2年(1616年)2月権大納言に進む。
元和6年(1620年)1月正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られず。
寛永15年(1638年)7月13日に薨去。享年60。初め西賀茂霊源寺に葬られた。
寛文3年(1663年)7月洛西太秦の法雲院に移された。
法名は法雲院泰翁宗山。伝記に孫・資慶による『烏丸光広卿行状』がある。後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。
慶長8年(1603年)に細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。
書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される。
本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守に帰依して禅をも修めた。