2024年10月19日

金重陶陽の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

北岡技芳堂は、陶芸家 金重陶陽先生作品を鑑定・買取りを強化中です。 金重陶陽の作品に精通した専門の鑑定士が丁寧に査定致します。

 

もし金重陶陽の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談下さい。 先代様の金重陶陽のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた金重陶陽の作品、備前焼や伊部焼の陶芸作品を、遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、片付けなど、ご所蔵の金重陶陽の作品を正当な評価で売却したい方、後悔しないように、当店にご相談下さい。 誠意を持って、ご要望に沿うよう、高価買取をさせていだきます。 出張買取のご希望の方は事情をお聞かせいただきご訪問させていただきます。

 

金重陶陽は、明治29年(1896)1月3日、岡山県和気郡において備前焼窯元の名門“六姓”のひとつに生まれます。本名金重勇 15才の頃から父、金重楳陽に陶製法を学びます。以後、備前焼の制作に没頭し、一時期低俗な雑器焼となっていた備前焼を格調ある作風に復興させるべく室町・桃山期の古備前の作風復元に努力、窯変をもった芸術的作品の制作に成功し、備前焼中興の祖といわれました。昭和31年(60歳) – 備前焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

 

 

金重陶陽 伊部窯 花入

金重陶陽 伊部窯 花入

 

 

金重陶陽の陶印が2種類刻印された珍品の備前花入です。 昭和5年~10年頃までの分銅印から土彫に入れ替わる時期に制作されたと思われる作品です。中期の作品ながら細部まで卓越した陶技を垣間見る事が出来ます。 細工師としての陶技を超え、新たに桃山古備前の美を追求し、研究を重ねて作風が変化し出した頃の作品です。 強烈な降灰による多彩な窯変を見せる備前も魅力的ですが、古備前に見られるような、土の温もりが実感出来る素晴らしい花入です。

 

 

金重陶陽の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?

 

A.金重陶陽の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.金重陶陽の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.金重陶陽の作品は画像で査定していただけますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただけます。

 

Q.金重陶陽の作品ではありませんが買取りしていただけますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

 

金重陶陽 備前鶴首徳利

金重陶陽 備前鶴首徳利

 

陶印が比較的短めの「ト」になっていることから、 昭和30年代後半に制作された最晩年期の作品であると思われます。 酒を入れれば、濡れてより美しい色合いとなって見る者を楽しませてくれます。

 

 

金重陶陽 略歴

 

1896年に父金重慎三郎(号媒陽)、母竹能の元に長男として和気郡伊部町(現備前市伊部)に生まれます。金重家は備前六姓のひとつです。

 

1901年(5歳)焼物に興味を持ち土いじりを始めます。

 

1907年(11歳)カメ、カブトを博覧会に出品受賞します。

 

1909年(13歳)弟七郎左衛門(素山)生まれます。

 

1910年(14歳)伊部尋常小学校高等科を卒業。父について作陶をはじめます。

 

1911年(15歳)食塩青の技法で、煎茶器を造ります。

 

1912年(16歳)父不在のため、独力で窯焚、製品の販売をします。

 

1915年(19歳)岡山での書画、陶磁器の入札会に欠かさず出かけます。

 

1916年(20歳)耐火度の高い棚板を考案し、窯詰めの形式を改良をする。父媒陽死去。

 

1918年(22歳)大本教に入信。彩色備前を作り始める。「陶陽」の号を用います。

 

1919年(23歳)倉敷市酒津の西山窯にて1年間制作します。

 

1920年(24歳)岡山の富豪佐藤喜久治の依頼で、橋本関雪との合作を制作します。

 

1921年(25歳)ドイツ式マッフル窯を作り、窯変の焼成に工夫を加えます。

 

1922年(26歳) 備前で初めて宝瓶を制作、伊部中に流行。

 

1923年(27歳)橋本関雪来訪、岡山錦園に遊びます。

 

1924年(28歳)名古屋松坂屋にて十五代永楽善五郎と最初の展覧会を開催。

 

1925年(29歳)三村陶景、西村春湖と備前三名工として知られます。

 

1927年(31歳)ドイツ式の窯と備前式の窯を折衷し窯を改良、木炭をくべて棧切の焼成に成功。

 

1928年(32歳)母竹能死去。荻野綾子と結婚。大日本勧業博覧会に「彩色備前孔雀置物」出品。「備前飛獅子置物」「彩色備前鬼瓦に鳩置物」を昭和天皇に献上します。

 

1929年(33歳)長女常子生まれます。

 

1930年(34歳)古備前の土を研究し、桃山調備前の土味を出すことに成功。

 

1931年(35歳)次女幸恵生まれます。

 

1932年(36歳)官休庵来訪し、手造りの茶器等制作。本格的に轆轤を挽いて茶器を制作。「土」の窯印を用います。

 

1934年(38歳)長男道明生まれます。

 

1936年(40歳)川喜田半泥子が唐津行きの途中に来訪、これより交流が始まります。半泥子の千歳窯を訪れ作品制作。

 

1937年(41歳)三女美和子生まれる。「備前糸目水指」「備前糸目掛花入」を表千家家元惺斎宗左好みとして制作。

 

1938年(42歳)大阪阪急百貨店にて初個展開催。川喜田半泥子来訪制作。東京資生堂ギャラリーにて個展開催します。

 

1939年(43歳)川喜田半泥子と相互に行き来し互いに制作。

 

1940年(44歳)次男慎一生まれる。大阪阪急にて第二回作品展開催。半泥子と相互来訪。

 

1941年(45歳)素山出征のため、窯の構造をかえ、画期的な成功をおさめる。加藤唐九郎来訪。

 

1942年(46歳)川喜田半泥子、荒川豊蔵、十代三輪休雪と「からひね会」結成。四女達子生まれる。荒川豊蔵来訪制作。備前焼技術保存者に認定されます。

 

1943年(47歳)表千家家元千宗左即中斎来訪。三男晃介生まれる。

 

1944年(48歳)日本美術協会及工芸統制協会代議員となります。

 

1945年(49歳)四男元郎生まれる。素山と共に美濃大萓に荒川豊蔵を訪ね、制作をします。

 

1947年(51歳) 生活用品芸術陶磁器認定委員となります。

 

1949年(53歳)出口直日(大本教三代教主)来訪し茶碗・水指・徳利などに釘彫りの絵付けをする。川喜田半泥子の廣永窯を訪れる。北大路魯山人来訪し作陶する。藤原啓・山本陶秀・藤田龍峰・金重素山・浦上善次と備前窯芸会を結成。

 

1951年(55歳)京都府亀岡の大本教が花明窯を築窯、指導の為一ヶ月滞在し制作も行う。フランス・イラク・イランで開催された、「現代日本陶芸展」に「備前緋襷輪花花器」を出品します。

 

1952年(56歳)備前焼無形文化財記録保持者に認定される。朝日新聞社主催「第1回現代日本陶展」に「備前台鉢」「備前三角花入」を出品。窯印を「ト」と改める。イサム・ノグチ、北大路魯山人と共に来訪制作。北大路魯山人の依頼で北鎌倉山崎に備前窯を築窯、一月半滞在。魯山人窯で釉薬物を多数制作。石黒宗麿・荒川豊蔵・加藤唐九郎・宇野三吾ら在野の有志と共に「日本工芸会」の設立を協議。

 

1953年(57歳)加藤土師萌来訪し制作。伊部に来訪したバーナード・リーチを囲み、石井不老・三村陶景・山本陶秀と共に会談。田山方南来訪。

 

1954年(58歳)伊豆山「桃李郷」において、石黒宗麿・加藤土師萌・小山富士夫・荒川豊蔵・加藤唐九郎・小森小庵・黒田領治・佐藤進三・金重陶陽の九人で「桃李会」結成。岡山県無形文化財保持者に認定。萩の吉賀大眉の窯で制作。唐津、中里無庵の窯で制作します。

 

1955年(59歳)日本工芸会結成。日本橋壺中居で「第1回桃李会展」開催。

 

1956年(60歳)備前焼の重要無形文化財保持者に認定。シカゴ美術館主催「日本現代陶芸六人展(富本憲吉・石黒宗麿・加藤土師萌・荒川豊蔵・加藤唐九郎・金重陶陽)」に出品。日本橋三越で「作品展」開催。京都裏千家茶道会館で「新しい陶芸の茶会」を開催します。

 

1957年(61歳)広島天満屋で個展開催。石黒宗麿来訪。中村研一来訪制作。武者小路千家十三世家元有隣斎来訪制作。11月、欧米に旅行に出る、翌年2月帰国。アメリカ合衆国にて作品展開催します。

 

1959年(63歳)中国文化賞受賞。東京国立近代美術館開催の「現代日本陶芸展」に「備前水指」出品。上野松坂屋で加藤唐九郎と二人展開催します。

 

1960年(64歳) 山陽新聞賞受賞。岡山県文化賞受賞。岡山県文化財保護協会理事、備前町文化財保護委員長となります。

 

1961年(65歳) 富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチ来訪。

 

1962年(66歳) 名古屋丸栄にて個展開催。日本工芸会理事となります。

 

1963年(67歳) 奥村土牛・酒井三良来訪、釘彫り制作。小山富士夫来訪制作。立花大亀来訪、釘彫り制作。

 

1964年(68歳) ハワイ大学夏期講師に招待。滞在中ホノルルにて「金重陶陽・道明二人展」開催。「現代国際陶芸展」に「備前壺」出品。加藤土師萌来訪制作。井伏鱒二来訪。

 

1965年(69歳) 磯野風船子・吾妻徳穂・谷川徹三・菊地一雄がそれぞれ来訪。岡山県工業試験所陶磁器指導所の講師になります。

 

1966年(70歳) 「人間国宝五人展」出品。紫綬褒章受章。岡山天満屋にて「陶歴五十五年記念・金重陶陽回顧展」開催します。

 

1967年(71歳) 昭和天皇・香淳皇后備前来訪の際、御前制作。大阪髙島屋にて「金重陶陽・素山・道明三人展」開催。国立岡山病院にて死去。勲四等旭日小綬章受章。

 

 

 

金重陶陽 本人

 

金重陶陽 本人

 

「やきものは教えられるものではなく、自らが感じ とらねばならない。 作品は生れてくるものだから、 本人の人間性を高くしなければ良い作品は生まれてこない」

 

 

 

金重陶陽の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.金重陶陽の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせていただきます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

金重陶陽 査定価格におけるポイント

 

金重陶陽の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

金重陶陽先生の作品は窯で出来る景色が重要で景色によって、高値の査定価格がつきます。30万円から70万円ぐらいの買取相場です。ぐい呑みですと10万前後になります。壷心庵陶陽のサインの作品は高値が付くこともあり板皿などは500万円の高値が付いたこともあります。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

備前焼は窯の焼き上がりの景色を重要とします。上がりが良い作品と上がりが悪い作品があります。作品の査定価格が、緋襷(ひだすき)藁などを敷いて作る模様や胡麻模様が強く出ている作品が高値の傾向にあります。金重陶陽展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

制作年代

 

金重陶陽先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 


※このように同じ金重陶陽の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月18日

石黒宗麿の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

御所蔵の石黒宗麿の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

石黒宗麿の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、石黒宗麿作品の買取情報を確認してください。 簡単LINE査定も受付致しております。

 

鉄釉陶器の人間国宝石黒宗麿は、25歳のときに稲葉天目と称される中国宋代12世紀~13世紀の窯変天目茶碗(現在、静嘉堂文庫美術館蔵・国宝)に感銘を受けて作陶を志したと語っています。昭和3年に京都へ移り住んで以降、中国の唐・宋時代の古陶磁を研究し、幅広い陶芸技法を体得していきました。

 

昭和11年に京都市北部の八瀬やせに窯を移して以後はここを生涯の作陶の場とし、独創的な陶芸の世界を築き上げていきます。戦後はチョーク釉の新技法や、藍彩など低下度色釉を駆使した、従来どこにもなかった作品を創出し、自由な気分と近代感覚に溢れた、斬新で品格ある作品を生み出し続けました。

 

昭和30年に重要無形文化財保持者(人間国宝)の制度が誕生すると、富本憲吉、濱田庄司、荒川豊藏らと共に、陶芸界から最初の認定を受けています。 作家としての自分の表現を追求し続け、多彩な作品を生み出した石黒宗麿の芸術の魅力は今も人々から愛されています。

 

 

石黒宗麿 鉄釉 窯変油滴天目指掻茶碗

 

石黒宗麿 鉄釉 窯変油滴天目指掻茶碗

 

石黒宗麿は鉄釉陶器の重要無形文化財保持者、人間国宝に認定されました。

 

 

石黒宗麿の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?

 

A.石黒宗麿の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.石黒宗麿の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.石黒宗麿の作品は画像で査定して頂けますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.石黒宗麿の作品ではありませんが買取りしていただけますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

石黒宗麿 本人

石黒宗麿 本人

 

石黒宗麿 略歴

 

重要無形文化財保持者、日本工芸会理事

 

1983年明治26年4月14日、富山県新湊の医師石黒伯の長男に生まれました。

 

1898年明治31年7月11日富山県立富山中学校を中退しました。

 

1919年大正8年ころ東京美術クラブにおいて、世界の名器として定評のある稲葉家から岩崎家に移った曜変天目茶碗、「稲葉天目」をみて感激し、陶芸に志すにいたった。

 

1921年大正10年5月に上京して渋谷区富ヶ谷に築窯して製陶研究にはいります。

 

1923年大正12年8月埼玉県比企郡に築窯、同15年2月に金沢市に移ります。

 

1927年昭和2年1月京都市東山に転じ、このころから小山富士夫氏らと中国、日本の古陶磁の研究に着手し、その再現に努力した。石黒宗麿は、特定の師につかず、専ら古陶磁を師として独学研究をしました。

 

1934年昭和9年6月からは1年間、佐賀県唐津市に滞在して古唐津とお茶碗窯復興に尽力しました。

 

1935年昭和10年4月10日には京都市郊外八瀬に築窯しました。

 

1938年昭和13年5月、中国、満州、朝鮮各地の陶磁業を視察しました。

 

1941年昭和16年11月、柿天目、黒定窯、河南天目、木葉天目など曜変天目からの感動に発した宋窯の研究は一応その技法を解明して完成された。こうした鉄釉にかかわる宋磁研究をもとにして品格の高い作品を発表し、他の追従を許さない境地を開拓し、また唐三彩、均窯、絵高麗、三島、唐津などの作域においてもすぐれた技術を示し幅広い活動をおこなって、陶芸界に大きな影響を与えました。

 

1955年昭和30年2月、鉄釉陶器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。また同年設立された社団法人日本工芸会の理事に就任し、伝統工芸の振興に力を尽しました。

 

1956年昭和31年2月には富山県新湊市名誉市民に推され、同年6月には陶芸研究家のために居住していた住居、工房を提供して財団法人八瀬窯を設立し、後継者の養成にあたりました。

1963年(昭和38年11月、紫綬褒章を受章。なお、晩年には社会福祉法人愛隣会を通じて、身体障害者、精神薄弱児、母子家庭、保育園などの福祉活動にも献身的に協力しました。

 

1968年昭和43年、勲三等瑞宝章を受章し、同年6月3日、老衰のため死去。晩年には社会福祉法人愛隣会を通じて、身体障害者や精神薄弱児、母子家庭、保育園などの福祉活動にも献身的に協力しました。墓所は八瀬霊苑。

 

 

石黒宗麿 釉彩干柿文壺

 

石黒宗麿 釉彩干柿文壺

 

彩瓷というオリジナルの技法による優品です。

 

彩瓷は石黒宗麿流の呼び方で、低火度焼成の彩絵、軟彩の瓷器の意と考えられています。海老茶色の干柿と黒の線のリズムが絶妙で生き生きとしています。

 

石黒宗麿の独創的な図案で、口縁部の特徴ある形と相まって素晴らしい活筆で絵付けをしています。

 

1959年 昭和34年頃の作品。

 

 

石黒宗麿 査定価格におけるポイント

 

石黒宗麿の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

石黒宗麿先生は鉄釉の壺が一番高値の査定価格が出来ます。30万円から200万円ぐらいの買取相場です。

 

ぐい呑みですと10万前後になります。板皿などは大きい割に査定価格は高いです。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

上がりが良い作品と上がりが悪い作品があります。天目茶碗の作品の査定価格が上がる傾向にあります。

 

石黒宗麿展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

制作年代

 

石黒宗麿先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 


※このように同じ石黒宗麿の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月17日

加藤卓男の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品の買取りブログ

御所蔵の加藤卓男の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

加藤卓男の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、加藤卓男作品の買取情報を確認してください。 簡単LINE査定も受付致しております。

 

加藤卓男は、岐阜県多治見市にある幸兵衛窯の6代を襲名した陶芸家です。 ラスター彩の復元に成功するなどし、人間国宝に認定されるほど陶芸界で功績を残しております。

 

作品は高く評価され、ラスター彩の作品は特に高い評価をされております。 北岡技芳堂は、加藤卓男の作品に関して深い知識があり、買取実績も多くあるため、お客様にとって損のないお取引が可能です。

 

売却希望の方は、骨董品買取専門店の北岡技芳堂へぜひご連絡ください。 豊富な買取実績にもとづく無料査定で 少しでも高く、お客様の満足する価格で買取いたします。

 

 

加藤卓男 ラスター彩人物唐草文鉢

 

加藤卓男 ラスター彩人物唐草文鉢

 

 

 

加藤卓男の買取査定ポイント

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.作品が、本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?

 

A.加藤卓男の作品は、当店が真贋を拝見させていただき、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.加藤卓男の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.加藤卓男の作品は画像で査定して頂けますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.加藤卓男の作品ではありませんが買取りしていただけますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

加藤卓男 略歴

 

1917(大正6)年9月12日生まれ、江戸時代から続く美濃焼窯元五代目加藤幸兵衛の長男として、岐阜県土岐郡市之倉村(現、多治見市市之倉町)に生まれます。

 

1935(昭和10)年岐阜県立多治見工業学校(現、多治見工業高等学校)を卒業後、京都の商工省陶磁器試験所に入所します。

 

1937年同試験所終業後、帰郷し家業の福寿園丸幸製陶所(現、幸兵衛窯)に勤務します。

 

1938年より従軍。転属先の広島市で残留放射能により被爆。その後10年ほど入退院を繰り返す生活を余儀なくされました。

 

1954年第10回日展に「黒地緑彩草花文花瓶」を出品し初入選します。

 

1961年陶磁器意匠と技術の交換のため、フィンランド工芸美術学校に留学。この間、休暇を利用してはじめて中東各地の陶器の産地を訪れ、そこで古代ペルシア陶器の美に触れる。帰国後は本格的にペルシア陶、なかでもラスター彩の研究を志すようになりました。

 

1963年第6回新日展に出品した「花器 碧い山」が特選北斗賞を受賞します。

 

1964年には第3回日本現代工芸美術展で「流」が現代工芸賞を受賞します。

 

1965年第8回日展で「油滴花器 煌」が再び北斗賞を受賞。作家活動の一方で続けていたペルシア陶研究の成果は、昭和50年代に自身のラスター彩作品として結実。ラスター彩とともに同じペルシア系統の青釉にも取り組み、独創的なフォルムと鮮やかな青色が融合した作品を制作しました。

 

1980年には宮内庁正倉院事務所より正倉院三彩の「三彩鼓胴」と「二彩鉢」の復元制作を委嘱され、約7年間におよぶ研究と試作を経て復元に成功する。この経験と技術を生かし、自身の創意による三彩の仕事にも取り組みました。

 

1988年紫綬褒章受章。

 

1995(平成7)年重要無形文化財「三彩」の保持者に認定されました。ペルシア陶に魅せられ、研究のため訪れた中東の古窯址発掘現場で、織部に似た陶片を発見して以来、加藤は、ペルシアから日本へと広がる壮大なやきものの技術交流と発展史へと興味を広げました。しかし、古代のペルシア陶の技法を解明、再現することにとどまらず、作家として、古陶磁研究を自己の表現の手段として昇華させ、清新な現代の陶芸を創造した点で高く評価されます。朝日陶芸展をはじめとして国際的なコンペティションでたびたび審査員を務め、陶芸界のリーダー的存在として果たした役割も大きいです。トルコ、イスタンブールの国立トプカプ宮殿博物館(1986年)をはじめ国内外で開催した個展多数。

 

2002年4月1日から30日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載(『砂漠が誘う―ラスター彩遊記』日本経済新聞社、2002年加筆所収)、作品集に『ラスター彩陶 加藤卓男作品集』(小学館、1982年)がある。没後、岐阜県現代陶芸美術館で回顧展「加藤卓男の陶芸展―陶のシルクロード」(2006年)が開催されました。

 

2005年(平成17年)1月11日、87歳没。故人として第五回織部賞特別賞を受賞。卓男は、1月11日午前11時45分、肺炎のため岐阜県多治見市の病院で死去しました。享年87。

 

 

加藤卓男最 正倉院復元三彩貼花文花入 最晩年の作品

 

加藤卓男最 正倉院復元三彩貼花文花入 最晩年の作品

 

加藤卓男の中で最も代表的かつ重要無形文化財保持者にも認定された三彩の作品です。遥か遠くシルクロードに想いを馳せ異国を感じさせるような鮮やかな発色が抜群に美しく、花を入れる花瓶というよりもこれだけで芸術品として堂々とした作品といえます。

 

加藤卓男の買取り査定

 

加藤卓男の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

加藤卓男先生はラスター彩と三彩が査定価格が一番高いです。10万円から60万円ぐらいの買取相場です。ぐい呑みですと3万前後になります。板皿などは大きい割に査定価格は低いです。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

上がりが良い作品と上がりが悪い作品があります。釉薬の華やかな、色目の良い作品の査定価格が、上がる傾向にあります。加藤卓男展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

制作年代

 

加藤卓男先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ加藤卓男の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

 

2024年10月16日

鈴木蔵の作品を買取り致します。北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

北岡技芳堂は、陶芸家 鈴木蔵先生作品を鑑定・買取りを強化中です。
鈴木蔵の作品に精通した専門の鑑定士が丁寧に査定致します。もし鈴木蔵の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談下さい。

 

先代様の鈴木蔵のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた鈴木蔵の作品、志埜(志野)などの陶芸作品を、遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、片付けなど、ご所蔵の鈴木蔵の作品を正当な評価で売却したい方、後悔しないように、当店にご相談下さい。 誠意を持って、ご要望に沿うよう、高価買取をさせて頂きます。 出張買取のご希望の方は事情をお聞かせいただきご訪問させていただきます。

 

 

鈴木蔵 志野茶碗

 

鈴木蔵 志野茶碗

 

「志野には日本人の美意識の独自さと素晴らしさがある」と語る鈴木藏。作品を作るなら「新しくて、力強いもの」という姿勢を崩さず、古来の日本人の感性を現代の作品へと表現しています。

 

 

略歴 鈴木蔵(すずきおさむ)

 

1934年生まれ、美濃焼の産地として知られる岐阜県土岐市駄知町にて、釉薬の研究者であり岐阜県の陶磁器試験場の技師でもある鈴木通雄の長男として生まれます。

 

1953年(昭和28年)、岐阜県立多治見工業高等学校窯業科を卒業後、父・通雄が技術部長を任されていた丸幸陶苑試験室(幸兵衛窯関連会社の一般生活陶器製造会社)に入社します。窯業開発研究室の助手として働きながら陶土や釉薬などについて学び、陶芸の基礎的な知識を本格的に身につけます。さらに、五代目加藤幸兵衛(加藤卓男の父)から作陶の教え受け、荒川豊蔵や加藤土師萌などに師事するなど制作にも励みました。志野焼や織部焼への関心が高く、大平、大萱、九尻にある桃山時代の古窯跡を探索してその制作技法を研究しました。

 

1959年(昭和34年)に初出品した現代日本陶芸展にて佳作を受賞します。

 

1962年(昭和37)チェコ国際陶芸展でグランプリを受賞するなどの功績をあげます。

 

1968年(昭和43年)に独立。桃山時代の半地下式穴窯を研究した成果を取り入れた独自のガス窯を築いて焼成方法を研究するなど、現代的な技術を用いた新たな志野焼の開発に取り組みます。

 

1982年(昭和57年)には日本陶磁協会金賞を受賞します。

 

1987年(昭和62年)には芸術選奨文部大臣賞を獲得します。

 

1994年(平成6年)6月27日に重要無形文化財(人間国宝)「志野」保持者に認定されます。

 

1995年(平成7)に紫綬褒章を受章します。

 

2006年(平成18年)4月に旭日中綬章を受章します。

 

鈴木蔵の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?

 

A.鈴木蔵の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.鈴木蔵の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.鈴木蔵の作品は画像で査定していただけますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.鈴木蔵の作品ではありませんが買取りしていたかけますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

鈴木蔵 志野茶碗

 

鈴木蔵 志野茶碗

 

「志野は日本で生まれた独特の創作であり、日本人の感性、美意識といった最も基本的なすべてが凝縮されている」。鈴木蔵のこの言葉は、志野の本質を突くものであり、簡潔な表現の背景には、半世紀にわたる伝統との対峙があり、積み重ねた思いを凝縮した深みがあります。

 

 

 

鈴木蔵の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させいただいてております。

 

3.鈴木蔵作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせていただきます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

鈴木蔵 査定価格におけるポイント

 

鈴木蔵の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

鈴木蔵先生はお抹茶茶碗が一番高値の査定価格が出来ます。30万円から70万円ぐらいの買取相場です。

 

ぐい呑みですと10万前後になります。板皿などは大きい割に査定価格は低いです。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

上がりが良い作品と上がりが悪い作品があります。釉薬の赤が華やかな作品の査定価格が、上がる傾向にあります。鈴木蔵展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

制作年代

鈴木蔵先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 


※このように同じ鈴木蔵の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月15日

中里太郎右衛門の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

中里太郎右衛門の陶芸作品を鑑定させて頂き、高価買取致します。

 

ご所蔵の中里太郎右衛門の売却を検討されておりましたら鑑定させて頂き、査定を致しまして、高価買取致します。 特に12代 中里太郎右衛門(無庵)13代中里太郎右衛門(逢庵)の陶芸作品を買取り致します。その中でも川喜田半泥子と交流のあった中里無庵の茶碗は特別に高価買取が可能となります。

 

中里太郎右衛門の歴史

 

現代に古唐津を蘇らせた伝統ある窯元 中里家の始まりは今から約400年前、江戸時代初期に遡ります。 当時陶工をしていた中里又七(のちの初代・中里太郎右衛門)が窯を開き、作陶に従事したことから始まりました。 しばらくは藩からの保護を受けていた唐津焼ですが、1734年から幕末にかけて、将軍家および高家への献上品としてのみ焼くことが許されるようになります。 この「献上唐津」により、多くの窯が閉鎖します。中里家のみが古唐津を伝承する形になりました。 このような経緯によって一時は途絶えてしまった古唐津ですが、1927年に12代目・中里太郎右衛門を襲名した中里無庵の働きにより、再び息を吹き返すことになります。 中里無庵は佐賀県や長崎県の唐津窯跡を調査することで、古唐津の技法を研究し、復興させました。また、唐津焼特有の「叩き技法」を用いて、従来と異なる新たな作風も生み出しています。 こうして現代に蘇った古唐津の技法は、13代目太朗右衛門、14代目太朗右衛門へと代々受け継がれ、現在に至ります。

 

中里無庵 茶碗 

 

中里無庵 茶碗

 

箱書きは太郎右衛門と書いてあるより無庵の箱書きのが高値で買取りできます。

 

 

中里太郎右衛門の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?

 

A.中里太郎右衛門の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.中里太郎右衛門の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが査定は低くなります。

 

Q.中里太郎右衛門の作品は画像で査定して頂けますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.陶芸作品ではありませんが買取りしていただけますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

中里太郎右衛門の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営にコストを削減しておりますので高価買取させていただいております。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させいただいてております。

 

3.独自販売戦略があり、専門知識とデータにて適正価格にて買取りさせていただきます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

10年前に中里太朗右衛門窯に行った時の写真です。

 

10年前に中里太朗右衛門窯に行った時の写真です。

 

 

初代 中里又七 生没年不詳初代中里又七は肥前国唐津藩の御用焼物師の陶家です。

 

1720年(享保5)に5代中里喜平次が記した古文書(中里家蔵)によれば、 同じ高麗人の矢作や彦右衛門達と文禄年間1592年~1596年に伊万里市に「田代窯」を開窯した後、 大川原窯に移って岸岳直系の古唐津を焼成しました。 又七達が唐津藩主・寺沢志摩守広高の御用窯に任ぜられたのは1615年(元和元)とされ、 椎ノ峰窯へ移って寺澤氏の御用焼物師を務めました。

 

2代 中里太郎右衛門 生没年不詳

 

3代 中里甚右衛門 生年不詳~1703年(元禄16)

 

4代 中里太郎右衛門 生年不詳~1744年(延享元)

 

5代 中里喜平次 1691年(元禄4)~1757年(宝暦7)

 

6代 中里太郎右衛門 生年不詳~1786年(天明6)

 

7代 中里陶司 生年不詳~1823年(文政6)

 

8代 中里尚徳 生年不詳~1827年(文政10)

 

9代 中里太郎右衛門 生年不詳~1872年(明治5)

 

10代 中里一陶 生年不詳~1879年(明治12)

 

11代 中里太郎右衛門 1854年(安政元)~1924年(大正13)

 

11代中里太郎右衛門は捻り細工を専門としており、 猿、虎、牛、達磨、柿本人麻呂等の陶彫が残されています。 「からつ天祐作」の銘が多いです。

 

 

中里太朗右衛門窯

 

中里太朗右衛門窯

 

中里太郎右衛門窯の工房敷地内には、五代中里喜平次が築窯した「国指定史跡 唐人町御茶盌窯」があり、見学することができます。

 

12代 中里太郎右衛門(無庵) 1895年(明治28)~1985年(昭和60)

 

本名を中里重雄といいます。 代々当主が受け継ぐ名称が 中里太郎右衛門です。 そのため、中里無庵は隠居してから名乗るようになった名称です。 11代の次男として生まれた中里無庵は有田工業学校を卒業すると唐津窯業株式会社や唐津煉瓦株式会社で技師として勤務しながら基本的な陶技を習得していきました。 長男が家督を継がずに別の道へと進んだため、家を継承する事になり、材木商・無津呂家の養嗣子となっていましたが、父親が亡くなると12代を継承しました。 12代となってからは藩政の時代から使用してきた御茶碗窯を再建して新しく倒焔式石炭窯を築き、古唐津窯跡の発掘調査を行い、長らく途絶えていた古唐津の叩きの技法を完成させるなど功績を残しています。 こうして桃山時代の素朴で力強い作風に魅了された中里無庵は、日本陶磁上の歴史にも名を残した唐津焼の第一人者として知られるようになり、今日における唐津焼の隆盛の功績によって唐津無形文化財や重要無形文化財「唐津焼」保持者の認定を受けるまでになります。 主に茶陶を中心に制作を行っており、叩きの技法を駆使した壷や大花瓶などは高く評価され、彫塑的な表現に優れた獅子置物などにも秀作を残しています。 1959年には京都大徳寺にて得度して号「無庵」を拝領すると長男・忠夫に家督を譲り、以後は独自の作陶に没頭しました。

 

 

中里無庵 朝鮮唐津一重口水指

 

中里無庵 朝鮮唐津一重口水指

 

昭和2年に十二代太郎右衛門を継ぎ、昭和44年には大徳寺で得度し無庵の号を受け、太郎右衛門を息子に譲った後に「無庵」を隠居名とした。

 

13代 中里太郎右衛門(逢庵)1923年(大正12年)5月31日〜2009年(平成21年)

 

日本芸術院会員。本名中里忠夫。日本工匠会会長。国際陶芸アカデミー会員。中里無庵の長男であり、弟の中里重利、中里隆も陶芸家、自身の長男忠寛もまた14代中里太郎右衛門です。 進学に際しては後の作陶力向上のため絵画能力を重視した父無庵の意見により佐賀県立唐津中学校を経て美術学校である官立東京高等工芸学校工芸図案科に入学した経緯があります。 戦時中の1943年(昭和18年)には宮崎県の航空教育隊に入営、所属部隊が1945年5月に台湾の台北空港に展開、そのまま現地で終戦し1946年(昭和21年)まで台中で捕虜生活を経験しました。 古唐津再興を成した実父中里無庵の跡を継ぎ古唐津焼を研究し、その中でも「叩き」の技法を基本として独自の作風を築きました。しかしながら父より受け継いだ古唐津スタイルの伝統を堅持しつつも芸術性の高いモダンな唐津焼を求めました。 また作陶の傍らで唐津焼の起源を精力的に研究したことでも知られており、東南アジアなどを踏査した研究成果を多くの著作論文にまとめ積極的に発表し、2004年には提出した博士論文「唐津焼の研究」が京都造形芸術大学に認められ博士号を取得しました。

 

 

 

中里逢庵 唐津三島掻落し辰砂魚文偏壺

 

中里太朗右衛門の鑑定買取り評価

 

中里太朗右衛門の概要 日本の陶芸家で、特に美しい茶碗や器などの陶芸作品で知られています。また、彼の作品は茶道に関連するものが多く、その美術的価値は高く評価されています。 中里太朗右衛門の作品は、その独自のスタイルと希少性から、美術市場でも人気があり、コレクターの間で高い評価を受けています。

 

中里太朗右衛門の買取の査定プロセス

 

買取の際は、まず専門の鑑定士が作品の状態、年代、(落款)の有無、来歴などを評価します。特に有名な茶碗や、展覧会で展示されたことのあるもの作品などは、より高い査定額が期待できます。 市場価値 中里太朗右衛門の作品は、美術オークションや個人コレクター間での取引が盛んです。市場の動向や、最近の取引例を参考にしつつ、適正な価格を提案することができます。

 

作品の状態

 

陶芸作品は保存が価値に大きく影響します。欠損やひび割れの状態、修復の跡などにも価格に影響しますので、状態が良好な作品である事は、より高額での取引が可能です。

 

買取の流れ

 

まずは作品の写真や詳細を送って頂くか、直接査定をさせていただきます。作品の箱や付属品の写真もありますと詳しくご説明できます。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月14日

三輪休雪の作品を買取りいたします。北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

お持ちの三輪休雪の陶芸作品を、大切にしてくださる次のお客様へ橋渡し致します。高価買取りさせて頂きます。

 

三輪休雪は、近代陶芸の重要な人物であり高い人気があります。北岡技芳堂では三輪休雪の作品を高く評価して買い取りしています。 特に三輪休雪を代表する作品は高価買取いたします。 三輪休雪は萩焼独特の品格をもつ優れた作品を制作しております。

 

萩焼の代表的な作家で、しかも歴史も古く、茶碗を中心に水差や茶入などの作陶作品があります。

 

三輪休雪(みわ きゅうせつ)とは、山口県萩市の萩焼窯元・三輪窯の当主が代々襲名している名跡です。三輪窯は、江戸時代寛文年間に起こったと言われ、代々坂高麗左衛門の坂窯と共に萩藩の御用窯を務めていた由緒ある窯元です。 10代、11代の三輪休雪は、重要無形文化財「萩焼」の保持者です。

 

 

10代三輪休雪の茶碗

 

10代三輪休雪の茶碗

 

10代休雪の功績として「休雪白」と呼ばれる白萩釉を生み出した事にあります。休雪白は通常の白萩釉に比べ、焼き上がり時に降り積もる雪のようなふくよかな仕上がりになります。

 

 

三輪休雪の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?

 

A.三輪休雪の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.三輪休雪の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.三輪休雪の作品は画像で査定していただけますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.三輪休雪の作品ではありませんが買取りしていただけますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

初代舜陶軒休雪

 

1630(寛永7)年~1705(宝永2)年 初代舜陶軒休雪は赤穴内蔵之助の子として生まれました。 本名を忠兵衛利定、号を休雪・普入といいます。 祖父は文禄・慶長の役の際に毛利一門の宍戸元続によって召致されてきた渡来陶工で、 石見国(島根県西部)で陶業を営んでいましたが、 毛利輝元の萩入封に際して蔵之助は萩に移住して小丸山に築窯したとされています。

 

1663(寛文3)年に佐伯家と共に萩藩の御雇細工人として召し抱えられました。

 

1682(天和2)年に初代佐伯半六が死去して2代となる子が幼少の為、 藩命により無田ヶ原の佐伯窯を継承して現在に至るまで陶業を続けています。 三輪家が佐伯窯を継承した事で2代佐伯半六は松本御用窯(松本萩)に従事しましたが、 3代佐伯半六の時に大釜という地に築窯して独立しました。 3代佐伯半六は赤川助右衛門の孫・赤川四郎右衛門の次男として生まれます。坂家の養子から佐伯家の養子となりましたが、

 

1700(元禄13)年、3代藩主・毛利綱広の命で京都に赴いて樂家の樂吉左衛門で技法を伝習しました。 李朝陶技に樂焼を導入するという萩焼技術史上において画期的な事項となりました。 以後、三輪家では代々藩主の求めに応じて樂焼も制作されました。

 

2代 弥兵衛利成 生年不詳~1728(享保13)年 2代弥兵衛利成は初代三輪休雪の三男として生まれました。

 

1745(延享2)年に佐伯家の先祖である「林姓」に改姓して「林半六」と名乗りました。

 

3代 忠兵衛利以 生年不詳~1729(享保14)年 3代忠兵衛利以は初代三輪休雪の長男として生まれました。

 

4代 休雪利之 生年不詳~1764(明和元)年 4代休雪利之は3代忠兵衛利以の養子となりました。 1744(延享元)年、藩命で初代三輪休雪に続いて京都の樂家で技法を伝習しました。

 

5代 勘七利近 生年不詳~1803(享和3)年

 

1817(文化14)年の6代林半六の時に子息出奔の咎によって林家は断絶しました。

 

6代 両蔵利武 生年不詳~1845(弘化2)年

 

7代源太左衛門利興 生年不詳~1865(慶応元)年

 

8代 雪山泥介 1840(天保11)年~1921(大正10)年 8代雪山泥介は本名を陶蔵、泥介とも名乗りました。 1865(慶応元)年、三輪家8代を襲名しました。 青年時代は高杉晋作の率いた奇兵隊に身を投じた程の客気でしたが、 健康上から国事を諦めて家業に復帰しました。 磁器製造の技術もあったとされ、東光寺焼等の他窯指導も行っています。 幕末から明治にかけての激動期に活躍した名工として知られており、 10代三輪休雪の指導も行いました。

 

9代三輪雪堂(雪山の子 ?~1927年)

 

10代三輪休和(本名邦廣、第9代雪堂の次男、人間国宝 1927年~1967年)

 

11代三輪壽雪(本名節夫、第9代雪堂の三男、人間国宝 1967年~2003年)

 

 

11代三輪休雪の茶碗

 

 

11代三輪休雪の茶碗

 

10代休和、11代寿雪共に川喜田半泥子と親しく共に三重県津市の千歳山まで何度も訪れたみたいです。

 

12代三輪龍氣生(本名龍作、第11代壽雪の長男 2003年~2019年)

 

13代三輪休雪(当代、本名和彦、第11代壽雪の三男 2019年~)

 

現在も続き当代も現在もご活躍されております。

 

12代 三輪休雪は、11代 三輪壽雪の長男として生まれました。本名は龍作。号は休雪といいます。 「萩焼」の人間国宝となった伯父の休和(10代休雪)と父の作陶姿を小さい頃から見て萩焼固有の技法に親しんでいました。 1967年、東京藝術大学大学院修了展に処女作であるオブジェ陶のハイヒールを「花子の優雅な生活」と題して発表しました。 1974年、山口県萩市椿東上野に築窯しました。 1980年茶陶制作を開始し、1992年に黒陶に色彩を加えた技法「黒陶彩」を発表。 2003年に12代三輪休雪を襲名します。 休雪は、萩焼の伝統的要素を取り入れつつ、自己の感覚を交え制作活動を繰り広げました。

 

 

12代 三輪休雪の水差

 

12代 三輪休雪の水差

 

13代三輪休雪は、1951年、山口県萩市に十一代三輪休雪(壽雪)の三男として生まれる。1975年に米サンフランシスコ・アート・インスティテュートに留学。1981年に帰国後、「不走庵 三輪窯」において作陶に入る。萩焼の概念を打ち破る独創的な表現が常に注目を集めてきた。2019年、十三代三輪休雪を襲名します。

 

 

13代 三輪休雪《エル キャピタン 茶碗》2020年

 

13代 三輪休雪《エル キャピタン 茶碗》2020年

 

13代三輪休雪になるとどうやってお茶を飲むのだろうと考えてしまいますが・・・・

 

先代、先先代の真似をしても仕方がありません。

 

しかし、迫力がありますね!

 

北岡技芳堂では、三輪休雪の作品の鑑定、査定、買取りを行っております。

 

当店では、歴代の三輪休雪の萩焼作品を、確かな鑑定と丁寧な査定を行い、お客様にご満足いただける高価買取をさせて頂いております。

 

以下に、買取の流れと査定・査定についてご説明させていただきます。

 

1. 無料査定・鑑定のご依頼 

 

三輪休雪の作品の査定・鑑定を無料で承ります。お電話での簡易査定、写真で詳細情報をメールで送信していただくか、直接店舗にお持ちください。場合によって出張査定をさせて頂きます。

 

2. 専門家による評価と査定

 

専門家が、作品の状態や制作された時代、箱書きの署名、真贋を確認させて頂きます。その上で現金で買取りを行います。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただく。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月13日

三重県に出張買取り 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

先日、三重県に出張買取り致しました。

北岡技芳堂は、骨董品、絵画、掛軸、茶道具、日本刀などを鑑定、買取り致しております。

お客様に満足していただける買取価格になるよう力を入れて頑張らせていただいております。四日市市内、県庁所在地の津市、をはじめ各市町村すべて買取対応可能地域ですので、まずは査定からでもお気軽にご相談・お問い合わせください。

三重県は北岡技芳堂四日市店があり三重県のお客様には時々鑑定、査定、買取りでお問い合わせいただいております。

今回は、菰野町のお客様のお宅へご訪問させていただきましたが、まだまだ古い旧家が多く、何が出てくるか分からないと思っております。

三重県菰野町
三重県菰野町

菰野町といえば戦国時代

初代藩主は土方雄氏(ひじかたかつうじ)。豊臣秀吉に仕えて伊勢国に3,000石を与えられると、1596年(慶長元年)には1万石の大名として諸侯に列することとなりました。 しかし豊臣秀吉の死後、土方雄氏の父「土方雄久」(ひじかたかつひさ)が「家康暗殺事件」の容疑をかけられると、これに連座して土方雄氏も領知没収の上で常陸国に追放され、佐竹義宣の預かりの身となりました。 なおこの一件は、豊臣一派の弱体化を狙う徳川家康と、その軍師である本多正信がでっち上げた事件だったと言われています。 しかし、関ヶ原の戦いの直前になって雄氏は許され、伊勢国から近江国にまたがり所領を与えられると、菰野に陣屋を構えて、これが菰野藩の始まりとなりました。 以降、土方雄氏は徳川家康に従い、関ヶ原の戦いにおいて東軍に従軍し、1614年(慶長19年)からの「大坂冬の陣・夏の陣」でも徳川方の先陣を務めて武功を挙げています。

そして、菰野藩を支えた女性、八重姫の存在を知っていますか。八重姫は織田信長の次男織田信雄の娘であり、織田信長の孫にあたる女性です。初代菰野藩主、土方雄氏の妻となり、3代にわたって菰野藩を支えたと言われています。

何かと織田家と縁があり菰野町

菰野町千草街道(ちぐさかいどう)とは近江(滋賀県)と伊勢(三重県)を結ぶ間道で、永源寺町甲津畑より鈴鹿山脈の杉峠を経て三重県菰野町千草に通じる道です。

多くの商人が行き来し栄えた道ですが、今は雨乞岳への登山道として利用されてます。 ところで、この道には日本の歴史を書き換えたかもしれない「事件」がありました。

それは元亀元年(1570)5月19日上洛帰途の織田信長は、東海道や八風街道まで佐々木氏や浅井氏、それに一揆勢に道をふさがれ、やむなくこの道を通ったところ六角承禎の密命を受けた杉谷善住坊が鉄砲で織田信長を狙撃、玉は信長の身体をかすめたものの、命に別状は無く無事岐阜に辿りつきました。

もし、この玉が命中していたら天下統一はもちろんのこと、歴史は大きく変わって いたでしょう。

~信長公記抜粋~

千種峠にて鉄砲打ち申すの事 五月十九日御下りのところ、浅井備前、鯰江の城へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止むべき行てだて仕り 候。然れども、日野蒲生右兵衛大輔(氏郷の父・蒲生賢秀)、布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走(奔走)申し、 千種越えにて御下りなされ候。左候のところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑たのまれ、千種山中道筋に鉄砲を相構へ、情つれなく、十二、三間隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道昭覧にて、 御身に少しづつ打ちかすり、鰐の口を御遁のがれ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。

信長公記にも出てくる有名な場面です。

杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう) とは誰だ?ここでご紹介いたします。

生年不詳 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。 鉄砲の名手であったという以外の人物像は不明であり、出身については織田家に滅ぼされた武家、甲賀五十三家の一つである杉谷家の忍者、雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。 織田信長を狙った理由も、近江を追われた六角氏からの依頼された、信長への個人的な恨み、鉄砲名人としての腕試しなど諸説あります。

あまり誰か詳しくわかりませんね!

その後は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した織田信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われました。 その結果、近江高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、近江高島郡の領主である磯野員昌に捕縛されます。 織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処されました。

昔の人は残酷ですね。想像するだけでビビってしまします!!

三重県菰野町 彼岸花が咲いてました。
三重県菰野町 彼岸花が咲いてました。

菰野藩や織田信長の事い思いを馳せながら車で出張買取りをするのも私の楽しみとなっております。

今回は、伊万里焼、漆のお椀、茶道具、掛軸などを鑑定、買取させていただきました。

出張買取サービスの魅力

出張買取はわざわざお越しいただかなくてもお邪魔させて頂きますので、骨董品を運ばなくても良いので便利にご利用いただけます。

出張買取は無料査定で行っておりますのでお安心ください。

経験豊富なプロの査定員が鑑定、買取りの対応させて頂きます。実際に骨董品を売却されたい場合はお問い合わせください。

電話やウェブでご連絡いただきましたら、お客様のお宅に訪問させて頂き、買取り査定額を提示いたします。ご承諾いただきましたらお支払いは現金でお支払い致します。

骨董品にはさまざまな種類があるため、具体的にどのような骨董品があるかおらかじめ教えてください。

例 茶道具、絵画、日本刀、陶芸品など

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

愛知県名古屋市中区門前町2-10

電話052(251)5515

営業10:00-18:00

 

 

 

2024年10月12日

加藤唐九郎の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の買取りブログ

お持ちの加藤唐九郎の陶芸作品を、大切にしてくださる次のお客様へ橋渡し致します。高価買取りさせて頂きます。

 

加藤唐九郎は、近代陶芸の重要な人物であり高い人気があります。北岡技芳堂では加藤唐九郎の作品を高く評価して買い取りしています。

 

特に加藤唐九郎を代表する作品は高価買取いたします。

 

加藤唐九郎の評価の高いの陶芸作品

 

茶道具の中でも茶碗を主に作陶し、独特の品格をもつ作品を制作しております。

 

志野焼を中心に瀬戸黒、黄瀬戸、織部、粉引、刷毛目、唐津、伊賀、など、幅広い作陶作品があります。

 

加藤 唐九郎(かとう とうくろう)

 

1897年(明治30年)7月19日(戸籍上は1898年(明治31年)1月17日)〜 1985年(昭和60年)12月24日)は、日本の陶芸家、陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村(現・瀬戸市水北町)出身。


桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、1960年に永仁の壺事件で古瀬戸の大規模な贋作を行っていたことが発覚し、批判を受けます。事件後は公職を辞任し、作陶に専念しました。


建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出し、陶壁は唐九郎による造語である。


一ム斎、一ム、野陶、ヤト、陶玄、玄などの号も用います。 子息の岡部嶺男(長男)、加藤重高(三男)と孫の加藤高宏も同じく陶芸家です。

 

 

加藤唐九郎 鑑定 買取り 茶碗 査定

 

加藤唐九郎 本人

 

加藤唐九郎の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りして頂けますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りして頂けますか?

 

A.加藤唐九郎の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.加藤唐九郎の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りして頂けますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせて頂きます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.加藤唐九郎の作品は画像で査定して頂けますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させて頂きます。

 

Q.加藤唐九郎の作品ではありませんが買取りして頂けますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

経歴

 

1897年(明治30年)半農半陶で窯業を営む加納桑次郎・みと夫妻の長男・庄九郎として生まれます。幼少時より窯場になじみました。

 

1908年(明治41年)父・桑二郎が製陶業に専念し、瀬戸町乗越(のっこし、現瀬戸市窯神町)に転居する。

 

1911年(明治44年)中根塾に入門し、南画・漢籍を学びます。

 

1914年(大正3年)父の製陶工場の一部の使用権を譲り受け、本格的な作陶生活に入ります。また、この頃より父方の祖母の家系である加藤家に一家が復籍します。(祖父は当初婿養子だったが、その後元の加納姓を名乗っていました。

 

1918年(大正7年) 幼馴染であった5歳年下の妻・きぬと結婚します。「加藤庄九郎」が同業に多いことから「加藤唐九郎」と改名します。(戸籍上の改名は1927年)。この年から本格的な瀬戸系古窯の調査に入ります。

 

1929年(昭和4年)1月、瀬戸古窯調査保存会が発足し、常任理事となります。同年11月、瀬戸市祖母懐町に製作拠点を移し、本格的に志野焼や織部焼に挑戦します。

 

1933年(昭和8年) 宝雲社より出版した著書『黄瀬戸』の中で、瀬戸焼が瀬戸ではなく美濃で古くから焼かれたことを主張し、瀬戸焼の祖とされてきた加藤四郎景正の実在を疑い、少なくとも開祖ではないと結論づけます。これにより、瀬戸市民の反感を買い、自宅が焼き討ちに遭うなど大きな非難を受けました。この件を受けて瀬戸を離れます。

 

1934年(昭和9年)港区青山の私邸に「陶壁」を試行する。

 

 

陶壁 加藤唐九郎 茶碗 鑑定 買取り

 

加藤唐九郎の陶壁

 

1943年(昭和18年) 愛知県西加茂郡に築窯します。

 

1952年(昭和27年) 織部焼の技術で国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に認定されます。しかし、1954年の文化財保護法改正施行で制度自体が廃止されるとともに白紙となり、新設された重要無形文化財(人間国宝)には認定されませんでした。

 

1956年(昭和31年) 中日文化賞。

 

1959年(昭和34年)永仁の壷事件「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定されました。しかしその直後からその瓶子は贋作ではないかという疑惑がもたれていました。この瓶子は結局、2年後に重要文化財の指定を解除されることとなります。重文指定を推薦していた文部技官が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなりました。永仁の瓶子は実は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であったということで決着したが、事件の真相についてはなお謎の部分が残されていると言われています。

 

永仁の壷事件の壷 加藤唐九郎作といわれている

 

1960年(昭和35年)永仁の壺事件が発生し、重要文化財に指定されていた「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」が自らの模作であると表明します。この事件を機に、日本陶磁協会や日本工芸会理事、日本伝統工芸展審査委員などの一切の公職を辞任し、作陶一本の生活に入ります。

 

1961年(昭和36年)漢学者服部担風より「一無斎」の号を贈られます。

 

 

服部担風の書 鑑定 買取り 加藤唐九郎

 

服部担風の書

 

1965年(昭和40年) 毎日芸術賞を受賞します。

 

1976年(昭和51年)財団法人翠松園陶芸記念館設立。

 

加藤唐九郎記念館(翠松園陶芸記念館) 茶碗 鑑定 買取り 査定

 

唐九郎記念館(翠松園陶芸記念館)

 

翠松園陶芸記念館(唐九郎記念館)は愛知県名古屋市守山区にあります。加藤唐九郎という陶芸家の作品が展示されている施設になります。加藤唐九郎の最高傑作といわれている紫匂い・氷柱などが所蔵されており、焼き物に関心のある方には穴場のスポットになります。こちらへは最寄り駅である名鉄瀬戸線の喜多山駅から徒歩で20分、大森金城学院前からはタクシーで3分、JR中央線の新守山駅からはタクシーで10分かかる位置にあります。

 

休館日をあらかじめ調べる事をオススメします。

 

1985年(昭和60年)12月24日、心筋梗塞のため没。享年88。戸籍上は87歳。墓所は守山区大森寺

 

 

加藤唐九郎 志野茶碗 鑑定 買取り 査定

 

加藤唐九郎 絵志野茶碗   残月

 

H9.3×D15.0cm 高台脇に掻き銘「玄」 共箱

 

1984年作 「生誕百年記念 加藤唐九郎展」出品 日本橋髙島屋他/1997年 『加藤唐九郎作品集』掲載 №38(日本経済新聞社)

 

加藤唐九郎は「一にも土、二にも土、三にも土、陶工の生活は土にあけ土にくれる土の生活だ」と桃山陶再現のために土探しにのりだし、志野、織部を中心とした茶陶を目指して“野の陶人” “炎の唐九郎”などと、言わずと知れた名匠である。

 

加藤唐九郎は明治31年1月、自称「瀬戸の水呑み百姓兼貧乏窯屋」に生まれます。幼い頃の遊びはガラガラといわれる陶片拾いで臆面もなく窯場に入り込んで土いじりに慣れ親しんだ。「学校教育は人間を駄目にする」という祖母の考えのもと、学校にはあまり行かず、陶片を集めながら加藤家再興のために陶技を徹底的に仕込まれていきます。窯のなかに組む「エブタ」(棚板のこと)を耐火粘土で造って生計を立てていました。 70年に及ぶ作陶生活を送り、多くの古窯址の発掘調査に明け暮れた加藤唐九郎は、「土を食べて」制作に励みました。

 

製陶技術は優れ、土や釉薬に関する豊富な知識、穴窯・登窯での焼成の研究成果を基に桃山期の黄瀬戸・志野・織部・瀬戸黒を現代に甦らせました。また医者のカルテからヒント得て、カード化して整理されたおびただしい研究メモを『 陶器大辞典 』に生かすなど陶磁器の研究者としてもその名を後世に残しました。

 

 

原色陶器大辞典 加藤唐九郎 淡交社 茶碗 買取り

 

原色陶器大辞典 加藤唐九郎 淡交社

 

日本陶芸界の重鎮として活躍、昭和を代表する陶芸家の一人として知られる加藤唐九郎が精魂を込めてまとめ上げた辞典です。

 

総項目数は約1万にのぼり、技術・史実・鑑賞の各分野にわたって「やきもの」のすべてを収録しています。写真、イラストをふんだんに配し、視覚的にも理解しやすい内容となっています。とても、楽しい本です。 陶芸を志している人だけでなく、器が好きな人、茶道や華道をたしなんでもいる人にもお勧めいたします 。

 

加藤唐九郎の代表するエピソードとして山田風太郎が「この事件の後、重要文化財級の作品を作れる男として加藤の名声はかえって高くなった」と自著で述べているように、批判のみならず高い技量を評価する意見も見られました。

 

岡部嶺男は、父の加藤唐九郎とは不和で、永仁の壺事件を機に決裂し、のちに妻の実家の岡部姓を名乗るようになりました。

 

孫の加藤高宏 1972年名古屋市生まれの陶芸家です。 父は唐九郎の三男で陶芸家 加藤重髙 (1927年~2013年)、 そして叔父に唐九郎の長男で孤高の陶芸家と言われた 岡部嶺男 (1919年~1990年)を持つ、 現代陶芸界のサラブレットです。

 

加藤唐九郎の鑑定:買取りについて

 

加藤唐九郎の作品は、日本の陶芸界で非常に高い評価を受けており、買取市場でも人気が高い作家の一人です。そのため、作品の鑑定や買取については、特別に高額買取りが期待できます。

 

当店では、鑑定や買取りについて詳しく説明させて頂きます。長年見てきた評価判断がありますので、納得のいく査定を提供する事が出来ます。

 

加藤唐九郎の作品は、陶芸技法や焼成の微妙な違いにより、1点1点が個性的で、同じ種類の器でも価値に大きな差が出ることがあります。

 

加藤唐九郎の作風や技術の見極め

 

加藤唐九郎は、志野焼、黄瀬戸、織部焼、瀬戸黒の復興に尽力し、彼自身の独自の芸術に到達しました。

 

彼の作品の制作した時期、焼き上がり加減、釉薬の使い方や出方、轆轤の形状や模様などを詳しく鑑定することが価値を決定するポイントとなります。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
 
 
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
 
 
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
 
 
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
 
 
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
 
 
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
 
 
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
 
 
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
 
 
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2024年10月11日

荒川豊蔵の作品を高価格で買取ります。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

お持ちの荒川豊蔵の陶芸作品を、大切にしてくださる次のお客様へ橋渡し致します。高価買取りさせていただきます。

 

荒川豊蔵は、近代陶芸の重要な人物であり高い人気があります。北岡技芳堂では荒川豊蔵の作品を高く評価して買い取りしています。

 

特に荒川豊蔵を代表する作品は高価買取いたします。

 

荒川豊蔵の評価の高いの陶芸作品

 

茶道具の中でも茶碗を主に作陶し、独特の品格をもつ作品を制作しております。

 

主に大萱窯、水月窯で焼かれております。

 

志野を中心に瀬戸黒、黄瀬戸、粉引、唐津、伊賀、信楽、色絵など、幅広い作陶作品があります。

 

荒川 豊藏(あらかわ とよぞう)

 

1894年3月21日 – 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家

 

岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見しました。

 

可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指し作陶を重ねました。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立しました。

 

号は、「斗出庵」「無田陶人」

 

 

荒川豊蔵 買取り 鑑定 買取り

荒川豊蔵 本人

 

荒川豊蔵の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?

 

A.荒川豊蔵の作品は、当店が真贋を拝見させていただき、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.荒川豊蔵の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.荒川豊蔵の作品は画像で査定していただけますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.荒川豊蔵の作品ではありませんが買取りしていただけますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

出生から修業時代

 

 

1894年(明治27年)(0歳)3月17日 – 岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれます。

 

荒川豊蔵の母方は多治見市高田で製陶業を営む 陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、荒川豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれました。

 

1906年(明治39年)(12歳)多治見尋常高等小学校高等科卒業。神戸の貿易商能勢商店で働きます。

 

1907年(明治40年)(13歳)多治見に戻り、地元の陶磁器貿易商木塚商店で働きます。

 

1911年(明治44年)(17歳) 従妹(父の弟の次女)の志づ(14歳)と結婚します。

 

1912年(明治45年)(18歳)神戸の親戚のもとで陶器商を手伝います。

 

1913年(大正2年)(19歳)長男武夫が生まれます。

 

1915年(大正4年)(21歳)以前多治見で小僧として働いた木塚商店が名古屋で商売を始めたことを聞き、名古屋に移り住んで働きます。

 

 

荒川豊蔵 茶碗 鑑定 買取り

荒川豊蔵 志野茶碗

荒川豊蔵は、桃山時代に焼造された「志野」について、「白い釉といっても朝鮮や中国の白さでなく、やわらかい感じの釉が、厚くたっぷりとかかっておりあたたか味を感じるものである。

 

志野焼の肌のところどころに、緋色(ひいろ)という志野独特の調子の高い薄紅色が、柚子のようなぽつぽつアバタのある膚に、自然ににじみ出ている美しさは他の国にも類がない」と、その見どころを荒川豊蔵自身が解説しています。

 

鑑賞者である荒川豊蔵が「志野」というやきものを読みとき、そして創造者として自身の志野を生み出そうとした手がかりを見つけることができます。

 

志野焼をつくる材料として、ボディには山から掘ってきた白い「モグサ土」、白い釉薬には水車でついた「長石」と呼ばれる鉱物が用いられました。

 

作陶のプロセスとしては、手回しの「轆轤」で成形し、「木箆」で削って形を整え、乾燥させた後に施釉し、半地下式の「薪窯」に松の割り木をくべて焼成を行います。

 

 

 

荒川豊蔵資料館所蔵

 

荒川豊蔵資料館は、志野焼と瀬戸黒焼の2つの工芸技術で国の重要無形文化財保持者(通称「人間国宝」)に認定された荒川豊蔵が昭和59年4月に創設されました。

 

その後、平成25年4月に、財団法人豊蔵資料館から可児市に寄贈されました。また、平成29年4月からは、敷地内にある居宅(旧荒川豊蔵邸)や陶房など改修し、公開しております。荒川豊蔵資料館内では、荒川豊蔵の自作・自筆による作品や出土陶片などを中心に、年4回ほどの展示替えをしております。

 

豊かな自然に囲まれた「美濃桃山陶の聖地」をご覧いただけます。

 

 

 

荒川豊蔵資料館

 

※お車でお越しの方

 

東海環状自動車道『可児御嵩IC』から県道84号線を土岐方面へ約8km ・東海環状自動車道『五斗蒔スマートIC』から県道84号線を可児方面へ約3km ・中央自動車道『土岐IC』から国道19号線経由で県道84号線を可児方面へ約20分

 

※電車でお越しの方

 

JR中央本線『多治見駅』下車 → JR太多線『可児駅』下車 → タクシーで約15分 ・名鉄広見線『新可児駅』下車 → タクシーで約15分

 

宮永東山と東山窯時代

 

 

1919年(大正8年)(25歳) 名古屋の教育者鈴木勲太郎と知り合い、彼の研究による特殊絵の具で手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュースします。生地は瀬戸の菱松から購入し、絵付けは名古屋出身の日本画家近藤紫雲に依頼しました。このコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛に持ち込んだところ高価で買い取ってくれ、更に「この品をもっと作ってみなさい。引き受けます。」と言われたため、独立して上絵磁器製作の事業を起こすことを決意します。この時錦光山の顧問をしていた宮永東山に引き合わされます。 

 

1922年(大正11年)(28歳)上絵磁器の事業に失敗し、心機一転、子供のころから得意であった絵描きを志します。宮永東山を頼って手紙を出すと「すぐこい」との返事をもらって京都に行くと、いきなり東山窯の工場長を任されます。京都では旧大名家や名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得ます。

 

 

 

荒川豊蔵 瀬戸黒茶碗 鑑定 買取り 

 

荒川豊蔵 瀬戸黒茶碗

 

 

北大路魯山人と星岡窯時代

 

1925年(大正14年)(31歳)東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と出逢います。北大路魯山人は約1年間逗留し、その間親交を深めます。

 

1926年(大正15年)(32歳)次男達生まれます。

 

1927年(昭和2年)(33歳)北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。北大路魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かしました。(星岡窯では自分専用の轆轤を持ったが、東山窯、星岡窯時代の荒川豊蔵は陶工というよりはプロデューサー兼マネージャーで、本格的に作陶を始めるのは大萱に窯を築いてから後のことです。

 

 

古志野との出会い

 

1930年(昭和5年)(36歳)4月6日~10日 北大路魯山人が名古屋の松坂屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、北大路魯山人と荒川豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらいます。志野茶碗の高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持ちます。その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った可児市久々利の大平、大萱の古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野焼が美濃で焼かれたことを確信します。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の全貌を明らかにし、いつかは志野焼を自分の手で作陶することを決意します。

 

 

大萱窯

 

1933年(昭和8年)(39歳)星岡窯をやめての可児市久々利の大萱古窯跡近くに穴窯をつくります。作陶は荒川豊蔵と長男の武夫、弟子の吉村義雄の三人で行りました。最初の窯は初窯で荒川豊蔵自身意識を失って倒れるまで三晩四日かけて焚き続けましたが温度が上がらず、瀬戸黒が一碗焼けただけで失敗に終わります。

 

1934年(昭和9年)(40歳)最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作します。

 

1935年(昭和10年)(41歳)ようやく満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、荒川豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶します。

 

 

戦中・戦後

 

1941年(昭和16年)(47歳)大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催します。

 

1946年(昭和21年)(52歳)多治見市にある虎渓山永保寺所有の山を借り受け水月窯を作る。水月窯は大萱窯とは異なる連房式登り窯で、染付、色絵、粉引や、生活のための日用食器の量産を行いました。

 

 

荒川豊蔵 水月窯 鑑定 買取り 査定

 

荒川豊蔵 水月窯

 

1955年(昭和30年)(61歳)志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される。日本橋三越百貨店で戦後初の個展を開催。大成します。

 

1960年(昭和35年)(66歳)俵屋宗達画・本阿弥光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手します。

 

1968年(昭和43年)(74歳)妻志づ死去。 1971年(昭和46年)(77歳) – 文化勲章受章。

 

1975年(昭和50年)(81歳)唐津の西岡小十窯、有田の今泉今右衛門窯で作陶し絵付けします。

 

1976年(昭和51年)(82歳)萩の三輪休和窯他で作陶します。

 

1977年(昭和52年)(83歳)信楽、備前、丹波の各窯で作陶します。

 

1978年(昭和53年)(84歳) 萩、唐津、備前の各窯で作陶します。

 

1984年(昭和59年)(90歳) 可児市にある大萱窯の地に豊蔵資料館(現・荒川豊蔵資料館)が開館します。

 

1985年(昭和60年)(91歳)8月11日 死去。

 

 

古窯発見端緒図  荒川豊蔵筆 鑑定 買取り 査定

 

古窯発見端緒図 荒川豊蔵 昭和55年 荒川豊蔵筆

 

関戸家所蔵の志野秋艸絵の香炉ともう一碗を北大路魯山人と眺める。

 

昭和5年の美濃における志野発見は、日本陶磁史を塗り替えるほどの大発見で、数寄者や陶磁器関係者に大きな衝撃を与えました。

 

また、発見した当事者である荒川豊蔵にとっては、それまでの人生を覆すものであり、その衝撃は計り知れません。この発見を契機に志野再現の決意を抱き、窯跡を探査する傍ら陶土や釉薬の探索を始めていきました。

 

荒川豊蔵は、日本の陶芸界において重要な存在であり、特に美濃焼の復興に大きく貢献したことでも知られています。

 

荒川豊蔵の陶芸作品は、日本の伝統的な美意識と技術が結集した芸術品です。

 

現在、荒川豊蔵の作品をお持ちの方や、その価値を知りたい方のために、当店では鑑定と買取を行っております。

 

荒川豊蔵の陶芸作品の特徴は、桃山時代の古美濃陶器の復元に成功し、その技術を彼の作品にも反映させた所にあります。

 

作品からは力強さを感じさせる轆轤、自然の風合いを活かした釉薬の美しさが特徴です。

 

特に、志野茶碗や瀬戸黒茶碗などの伝統的な技法を現代に蘇らせた作品は非常に高く評価されています。

 

また、彼は人間国宝(重要無形文化財保持者)に指定されており、その作品は国内で人気が高く、コレクターからも非常に必要とされています。

 

荒川豊蔵の作品をお持ちの方へ

 

ご自宅に荒川豊蔵の陶芸作品をお持ちであれば、北岡技芳堂にご連絡ください。荒川豊蔵が生きた時代の歴史的背景や技術的な価値からも、評価がされております。

 

作品の出来や保存状況、制作時期などに基づいて、丁寧に評価させていただきます。

 

荒川豊蔵作品の査定・買取の流れ

 

お電話、メール、Lineにて受け付けております。

 

査定のご依頼をお待ち致しております。

 

荒川豊蔵作品の写真や詳細情報をお送りいただき、簡易査定を行います。

 

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
 
 
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
 
 
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
 
 
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
 
 
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
 
 
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
 
 
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
 
 
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
 
 
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2024年10月10日

川喜田半泥子の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

お持ちの川喜田半泥子陶芸作品を、大切にしてくださる次のお客様へ橋渡し買取りさせていただきます。

 

川喜田半泥子は、近代陶芸の重要な人物であり高い人気があります。北岡技芳堂では川喜田半泥子の作品を高く評価した価格で買い取りしています。

 

特に川喜田半泥子を代表する作品は高価買取いたします。

 

川喜田半泥子の評価の高いの陶芸作品

 

茶道具の中でも茶碗を主に作陶し、独特の品格をもつ作品を制作しております。

 

主に千歳窯と広永窯で焼かれております。

 

井戸、粉引、刷毛目、志野、瀬戸黒、唐津、伊賀、信楽、色絵など、幅広い作陶作品があります。

 

独自の世界観があり、箱書きの銘にも独自のものがあり川喜田半泥子の魅力を感じる事が出来ます。

 

買取価格は、年代や作陶した窯・土などから、希少性が高いと評価したお品は高価買取させていただきます。

 

そのほかに俳句や書画も創作し、掛け軸・絵画、竹製の茶杓や花入れなども高く評価しています。

 

 

川喜田半泥子の陶芸作品を買取りします。

川喜田半泥子 本人

千歳山の泥仏堂にて、昭和15年頃の撮影

 

 

川喜田半泥子の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?

 

A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?

 

A.川喜田半泥子の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.川喜田半泥子の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?

 

A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?

 

A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.川喜田半泥子の作品は画像で査定していただけますか?

 

A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させて頂きます。

 

Q.川喜田半泥子の作品ではありませんが買取りしていただけますか?

 

A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

川喜田 半泥子(かわきた はんでいし)

 

1878年(明治11年)11月6日 〜1963年(昭和38年)10月26日)

 

日本の陶芸家・実業家・政治家「東の北大路魯山人、西の川喜田半泥子」、「昭和の光悦」などと称されています。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯」等。実業家としては、河芸銀行、一志銀行、三重共同貯蓄銀行、百五銀行各頭取等を務めました。

 

川喜田半泥子の前半生・財界人として

 

大阪市東区本町で生まれます。三重県津市の川喜田家の本宅で育ち、15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は川喜田半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となり、久太夫(政令)を襲名します。母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、川喜田半泥子は祖母「政」の手によって育てられました。

 

 

川喜田半泥子 買取り 鑑定 査定

 

川喜田家の家族写真 左から3人目が政、その横が半泥子 石水博物館

 

 

また筆頭分家の川喜田四郎兵衛からも教育を受け、三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)に入学します。1900年(明治33年)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学します。1901年(明治34年)23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚しています。1903年(明治36年)に百五銀行の取締役に就任します。1919年(大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めました。頭取としては、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で地元の中小銀行を買収・合併していきます。1922年には吉田銀行、1925年には河芸銀行、1929年には一志銀行を買収します。1943年には勢南銀行を合併して規模を拡大していきました。1924年には津市中心部の丸之内に新本店を建設します。1931年の金融恐慌においては自らの個人株を担保として日本銀行より現金を借り入れ、窓口に積み上げて現金が豊富にあることをアピールし、取り付け騒ぎを乗り切りました。こうして、彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長しました。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めています。また、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めました。

 

 

 

 

川喜田半泥子 波和遊 ハワユー(How are you)石水会館

 

 

川喜田半泥子の芸術・文化活動

 

半泥子の陶芸は趣味で、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するようになりました。1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始しました。主に抹茶茶碗を製作しました。作風は自由奔放で破格と評されます。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯にほとんど売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えました。 豊富な財力で、1930年(昭和5年)に「財団法人石水会館」を設立し、同名の文化施設を津市中心部の丸の内に建設して文化事業を支援しました。文化施設は1945年に戦災により焼失しましたが、財団法人はその後も文化活動を行いましした。同年、自宅のある津市南部の千歳山に川喜田家の所蔵品収蔵庫として千歳文庫を建設しました。

 

 

川喜田半泥子 買取り 茶碗 査定 鑑定

 

からひね会のメンバー(前)金重陶陽(後方左から)川喜田半泥子・三輪休和・荒川豊蔵 昭和17(1942)年2月

 

1942年(昭和17年)「からひね会」をつくり、後に人間国宝となる陶芸家、荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪を支援しました。戦後、千歳山の自宅が進駐軍に接収されたため郊外の広永へと移転します。自宅にあった窯もこの地に移しました。1945年に百五銀行の頭取から会長に退き、1950年には相談役となりました。1955年には再び千歳山に住まいを移しました。 死後、「石水会館」を母体として1980年「石水博物館」が設立し、川喜田家に所蔵されていた川喜田半泥子の作品を公開していました。石水博物館はその後、2011年に千歳山に新築移転しています。 川喜田半泥子の墓(津市玉保院納所道場) 専修寺玉保院納所道場には地理学者の稲垣定穀の墓碑や陶芸家・川喜田半泥子の墓があります。川喜田家の墓所の右側2つ目が川喜田半泥子の墓で、仙鶴院と刻まれています。川喜田半泥子の遺志で祖母と妻と供に1つの墓に入っている。

 

 

川喜田半泥子 鑑定 買取りします。

 

半泥子の墓(津市玉保院納所道場)

 

 

 

 

川喜田半泥子 高麗手茶碗 銘「雅茶子(がちゃこ)」

 

廣永窯 昭和20年代 昭和24(1949)年9月、タイから東京の上野動物園に送られたゾウ「ガチャ」にちなんで命名されたという。

 

高台(茶碗の底の足に当たる部分)がゾウの足を思わせる面白いお茶碗です。

 

 

 

 

川喜田半泥子 粉引茶碗 銘「雪の曙(あけぼの)」 

 

千歳山窯 昭和10年代 石水博物館蔵

 

全体に白い粉が吹き出しているように見えるところから粉引茶碗と呼ばれる。

 

ピンク色に染まった部分があり半泥子の茶碗の中でも名品といわれております。

 

 

 

川喜田半泥子が贔屓にしていた料理屋

 

料亭はま作

 

昭和2年の創業。 川喜田半泥子の贔屓の店として、半泥子の書いた看板が今もなおこの店の顔として掲げられています。

 

川喜田半泥子の作品を買取り

 

画像は川喜田半泥子の愛した料亭はま作の一寸亭

 

「忘蛙亭」(ぼうけいてい)

 

「又来亭」(ゆうらいてい)

 

「一寸亭」(いっすんてい)

 

それぞれ、「帰ることを忘れる」「また来る」「ちょっと来る」という願いが込められ、 半泥子のユーモアが効いています。 また、屋敷には茶室の水屋が取り入れられ、茶も愛した川喜田半泥子の息遣いが感じられます。

 

お部屋は五室あり離れもございます。 お茶会に利用される方もいらっしゃいます。

 

 

東洋軒

 

「東の魯山人、西の半泥子」と称された陶芸家で、百五銀行頭取も務めた津の名士・川喜田半泥子は言いました。 「黒いカレーができないか?」 津の東洋軒初代料理長 猪俣重勝はその提案を受け長い間研究を重ね苦労の末出来上がったのが東洋軒伝統の味「ブラックカレー」です。

 

 

川喜田半泥子の陶芸を買取り致します。

 

川喜田半泥子が愛した東洋軒のブラックカレー

黒さの秘密は!

 

ブラックカレーが昔も現在も愛されている理由は、上質な松阪牛脂と小麦粉、秘伝のスパイスを手間暇かけてじっくり炒めた香ばしさと旨みのある“ブラック・ルゥ”にあります。 真っ黒になったルゥは、松阪牛本来の甘みや旨みを強調し、口に入れたとたん、その見た目からは想像できないまろやかな味わいを奏でます。手間ひまかけた比類なき一品です。

 

 

川喜田半泥子の鑑定買取り評価

 

川喜田半泥の概要

 

日本の陶芸家で、特に美しい茶碗や器などの陶芸作品で知られています。また、彼の作品は茶道に関連するものが多く、その美術的価値は高く評価されています。

 

川喜田半泥の作品は、その独自のスタイルと希少性から、美術市場でも人気があり、コレクターの間で高い評価を受けています。

 

買取の査定プロセス

 

買取の際は、まず専門の鑑定士が作品の状態、年代、(落款)の有無、来歴などを評価します。特に有名な茶碗や、展覧会で展示されたことのあるもの作品などは、より高い査定額が期待できます。

 

市場価値

 

川喜田半泥の作品は、美術オークションや個人コレクター間での取引が盛んです。市場の動向や、最近の取引例を参考にしつつ、適正な価格を提案することができます。

作品の状態

 

陶芸作品は保存が価値に大きく影響します。欠損やひび割れの状態、修復の跡などにも価格に影響しますので、状態が良好な作品である事は、より高額での取引が可能です。

 

買取の流れ

 

まずは作品の写真や詳細を送って頂くか、直接査定をさせていただきます。作品の箱や付属品の写真もありますと詳しくご説明できます。

 

 

川喜田半泥子の略歴

 

1878年 明治11年、大阪市東区本町の仮寓で、伊勢商人の長男として生れる

 

1894年 16歳 三重県尋常中学校(現・三重県立津高等学校)で当時同校で教えていた藤島武二に洋画を学びます

 

1900年 22歳 東京専門学校(現・早稲田大学商学部)に入学します(翌年退学)

 

1901年 23歳 川喜田四郎兵衛の長女・為賀と結婚する

 

1912年 34歳 津市南郊外にある千歳山を購入する

 

1913年 35歳 中国・朝鮮半島を旅行し、各地の陶土を持ち帰ります

 

1915年 37歳 父の命日に千歳山に邸宅を建築し移住する

 

1923年 45歳 長男、壮太郎と欧米旅行に出かけ、マチス、ボナールらの名画を入手。この頃「無茶法師」と号す

 

1925年 47歳 楽焼師、長江寿泉の設計による両口の倒炎式石炭窯を千歳山に築窯、初窯を焚く

 

1930年 52歳 私財を投じて財団法人石水会館を設立します、千歳山に「千歳文庫」を建てます

 

1932年 54歳 自己流で本窯を炊き上げます。茶の湯の師匠、久田宗也に茶碗を所蔵される

 

1933年 55歳 小山富士夫に築窯を依頼、二袋の煙突式薪窯を焚くが失敗に終わる

 

1934年 56歳 朝鮮、鶏龍山の古窯跡をヒントに自ら三袋の登窯を築窯、成功します

 

1935年 57歳 伊賀上野城内の古窯跡を発掘。「やきもの趣味」に泥仏堂日録を寄稿します

 

1936年 58歳 加藤唐九郎と共同で翠松園に天狗窯築窯。金重陶陽、北大路魯山人との交流が始まる

 

1937年 59歳 加藤唐九郎と決別。赤絵を始めて試みて、赤坂山王下の茶屋で「無茶法師作陶展」開催。荒川豊蔵との交流始まる 1938年 60歳 還暦記念に「赤絵梅文茶碗」を61碗制作する。金重陶陽窯を訪ねる

 

1940年 62歳 荒川豊蔵と鳴滝の乾山窯を調査します。古伊賀水指の名品「破袋」に倣って伊賀水指「破袋」を制作。陶陽窯訪問 1941年 63歳 仁和寺で「仁和寺御記」を拝見。池田家所有の「陶工必要」を筆写します

 

1942年 64歳 荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪を千歳山に招来し「からひね会」結成。「乾山異考」刊行する

 

1943年 65歳 作品集「千歳山半泥子六十六碗鑒」を便利堂から刊行する

 

1947年 69歳 千歳山より戦中疎開した広永に築窯「広永窯」にて初窯を焚く

 

1949年 71歳 金重陶陽、広永窯来訪。「大吹雪」制作する

 

1954年 75歳 喜寿を記念して、喜寿祝賀77碗をつくる

 

1956年 78歳 藍寿褒章受章

 

1957年 79歳 八十寿祝賀会開催。参加者100人に記念の茶碗と図録「半泥子八十賀百碗鑑」を贈ります

 

1963年 昭和38年、86歳で逝去

 

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