2025年2月4日

斎藤義重の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

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斎藤義重 本人 

斎藤義重 本人 

 

 

斎藤義重は、昭和期の戦前、戦後を中心に日本の前衛芸術を牽引した芸術家です。学生時代には、構成主義やダダイスムの影響を受けて以降、楕円や矩形の合板を用いた平面の作品から、晩年はインスタレーションの立体作品を発表します。

 

一貫して抽象表現の可能性を探究し、独自の表現を確立しました。20世紀後半の日本の現代美術を代表する作家の1人で、国際的にも高く評価されています。

 

また、1964年には多摩美術大学の教授に就任し、後に「もの派」を代表する芸術家となる関根伸夫や菅木志雄らを育成するなど、後世の芸術家に多大な影響を与えました。

 

 

1904年、斎藤義重は青森県弘前市に生まれる。幼少期に、陸軍の軍人であった父親の赴任に伴い、栃木県や東京と移り住み、1917年に日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)に入学します。幼い頃から父親の書斎でヨーロッパの建築や絵画、彫刻が写った絵葉書を見るなど美術に関心を寄せていた斎藤義重は、中学時代にはセザンヌやゴッホの作品などを手掛かりに、油彩で風景画や人物画を描いています。

 

しかし1920年、斎藤義重は在学中に見たダヴィド・ブルリューク(1882-1967)をはじめとするロシア未来派の展覧会で、その作風に衝撃を受けます。ロシア未来派は1910年代に隆盛したアヴァンギャルド芸術の潮流で、ブルリュークは「ロシア未来派の父」とも呼ばれ、当時日本に亡命していました。

 

斎藤義重 あほんだらめ 1948 昭和23油彩 キャンバス

斎藤義重 あほんだらめ 1948 昭和23油彩 キャンバス

 

 

その際、様々な新しい傾向の作品を数百点ほど持ち込んだため、それらをまとめて展示するなど、日本の前衛芸術の発展に寄与しました。 それまで絵画とは見たものをそのまま描くものと思っていた斎藤義重にとって、そうした「絵画のイリュージョンの否定」は衝撃的で、以降の作品制作の根幹となりました。

 

20歳を過ぎた頃、斎藤義重は絵画を非力なものと考え絶望し、また当時ドイツ留学から帰国していた村山知義(1901-1977)の作品に触れる機会もあったことから、文学へ傾倒するようになります。しかし1929年、斎藤義重が25歳の頃に、ヨーロッパの前衛芸術を扱った雑誌でロシア構成主義やダダイスムの作品に触れ、再び美術の世界に戻ります。

 

1931年の第18回二科展にレリーフ状の「トロウッド」を出品しようとしますが、絵画部門と彫刻部門のどちらにも受け入れられず持ち帰りました。このエピソードは、既存のジャンルに当てはめることのできない斎藤義重の芸術を象徴するようです。

 

1933年〜1935年までは、古賀春江・東郷青児らによるアヴァンギャルド洋画研究所に在籍し、構成主義やダダイスムなどから刺激を受けます。1939年には第1回九室会展に出品、美術文化協会に参加します。しかし1953年には美術文化協会を退会し、以降はどの団体にも所属しませんでした。

 

戦時中、斎藤義重は軍用石鹸工場で働いていたため徴兵は免れましたが、残念なことに空襲でそれまでに制作した作品と小説の草稿やノートなどが全て焼失してしまいました。戦後、再出発を図ろうとした斎藤義重ですが、1954年に病を患い、千葉県浦安市に移り療養生活を送ります。

 

そして病気が回復した後、1957年の第4回日本国際美術展では「鬼」の作品を出品して、K氏賞を受賞しました。また、同年の「今日の新人 1957年」展では、「作品1」で新人賞を受賞し、「53歳の新人あらわる」と喧伝されました。戦後しばらくは世間から忘れさられた斎藤義重でしたが、再び注目を集めるようになりました。

 

また1958年には、瀧口修造の知己を得て、日本で初めての個展「斎藤義重展」を東京画廊で開催しました。1960年代には、斎藤義重は国際的な美術展に度々作品を出品し、受賞を重ねます。

 

1960年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した際は、自身初となる渡欧もしました。1960年の第3回グッゲンハイム国際美術賞展で優秀賞を受賞、1961年の第6回サンパウロ・ビエンナーレ展に「作品7」を含む13点を出品し国際絵画賞を受賞するなど、高い評価を得ます。

 

 

斎藤義重 トロウッド 1938年制作 1973年再制作

斎藤義重 トロウッド 1938年制作 1973年再制作

 

斎藤義重は空襲でほとんどの作品を焼失しましたが、1973年の「連続回顧展」を機に、多くのものを再制作しています。この作品もその一つで、もとは「作品」と題して、1938年の展覧会で連作として発表されました。白の地に黒く塗った合板を並べた、きわめてシンプルな構成は、戦前に制作されたことを考えれば、数少ない抽象表現の作例として重要だと言えるでしょう。「トロウッド」は、「さしみのとろみたい」と評されたことに由来するこの連作の通称で、回顧展の際に正式名となりました。 作品が燃えるなか、斎藤義重は「これ以上のことをやるんだ、過去よさようなら」といった心境だったといいます。それから35年が経ち、写真は残っていたものの、もはや存在しない作品を敢えて再制作した心持ちは、いかなるものだったのでしょうか。

 

 

斎藤義重 電気ドリルと合板

代表作 斎藤義重 電気ドリルと合板

 

電気ドリルと合板を使う試みで何を表現したのでしょうか。「実在を見せたかったのだろう。板の上にもう一枚板を貼り合わせて、そこに切り込みを入れることで、現実の奥行きができる。絵画の上ではイリュージョンでしかないものが、現実の奥行きになります。

 

そういう一種の遊び。別の言い方をすると、絵画、平面ではもの足りない。でも平面的に描いて、可能性を探したときにレリーフ形態を思いついた。レリーフの厚みの空間の中で絵画を重層化させた。つまりイリュージョンの奥行きではなく、現実の奥行きなのだが、まだ立体にはならない。あくまでも平面上の奥行き、でも現実の奥行きの中で絵画を重層化させていく。簡単に言うと、絵画空間に厚みを与えたいということです。

 

それから個性をストレートに出すことは一度止めてみたいと考えた。これは斎藤義重だけでなくて、抽象を目指した作家の多くにある考え。個性を超えたもののところへ一度行かないと、具象となんら変わらない。

 

それで斎藤義重は絵筆の代わりにドリル、キャンバスの代わりに板を使った。画面を切り刻む人は珍しいと語った。 画家の浜田浄(きよし, 1937-)は「斎藤は新しい展開にとって、何よりも表現することの『方法』を問題にし、『システムを作ること、システムを創造する』ことが重要な課題だったのである。(略)(浜田浄「私の好きな一点 斎藤義重と“ドリル作品”」『現代の眼』No.426, pp.7-8より)と、絵を描くという従来の方法を覆し、新たな絵の制作方法を生み出した功績を挙げている。

 

 

 

斎藤義重の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.斎藤義重の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.斎藤義重の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.サインが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.サインが無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.斎藤義重の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.斎藤義重の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.抽象作品でなくても、他の絵画作品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

斎藤義重 略歴 

 

1904年
明治37年5月4日に生まれます。本籍は、東京市四谷区左門町。

 

1920年

大正9年、京橋の星製薬会社で開かれたロシア未来派の亡命画家ダヴィード・ブルリューク、ヴィクトル・パリモフの展覧会を見て、衝撃を受ける。以後、築地小劇場における村山知義の舞台美術に感動するなど、大正期の新興芸術に関心をよせるようになります。

 

1933年
昭和8年、東郷青児、阿部金剛、古賀春江が主宰する「アヴァンガルド洋画研究所」に入り、桂ユキ子を知る。

 

1936年
第23回二科展に初入選する、同年、第14回黒色洋画展にも出品します。

 

1938年
解散した黒色洋画展の山本敬輔、高橋迪章らと絶対象派協会を結成、また同年には、二科会内の前衛的な傾向の作家によって結成された九室会に会員として参加。翌年、美術文化協会が結成され、参加することになり、九室会を退く。

 

1953年
美術文化協会を退き、以後、団体に属することはなかった。

 

1957年
第4回日本国際美術展で「鬼」がK氏賞を受賞、翌年、瀧口修造の紹介により東京画廊での最初の個展を開催。

 

1959年
第5回日本国際美術展に出品した「青の跡」によって、国立近代美術館賞を受賞。同年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。

 

1960年、第4回現代日本美術展に出品した「作品R」によって最優秀賞を受賞。同年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。61年には第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品、国際絵画賞を受賞。

 

1960年
ドリルを使って、画面を掘り込む平面作品を制作するようになり、さらに「クレーン」、「ペンチ」シリーズなど、合板にラッカーを塗った明快な作品へと展開していきまた。

 

1964年
多摩美術大学の教授になります。在職中は、その後現代美術の分野で活躍することになる多くの学生を指導したことで知られる(1973年に退職)。1978年には、東京国立近代美術館において「斎藤義重展」(出品作品・資料点数108点)が開催されました。

 

1980年
立体と平面にわたる「反対称」、「反比例」のシリーズが始まります。

 

1984年
東京都美術館、栃木県立美術館、兵庫県立近代美術館、大原美術館、福井県立美術館を巡回した「斎藤義重展」(出品点数98点)が開催された。

 

1985年
1月、実験的制作活動による現代美術への貢献を評価され、昭和59年度朝日賞を受賞します。

 

1980年
黒い木を連結したインスタレーションである「複合体」シリーズがはじまり、平面、立体の区別なく、空間を構成した作品を発表しました。

 

1993年
平成5年、77点の作品によって構成された「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木―Time・Space・Wood」が、横浜美術館と徳島県立近代美術館において開催されました。

 

1999年
神奈川県立近代美術館において「斎藤義重展」(出品点数53点ほか)が開催されました。

 

2003年
没後1月から翌年3月まで、岩手県立美術館、千葉市美術館、島根県立美術館、富山県立近代美術館、熊本市現代美術館の全国5館を巡回する回顧展が開催され、戦前の作品から遺作まで158点によって構成された内容によって、その弛むことのなかった「前衛」の軌跡が回顧されました。日本の戦後から現代美術を顧みるとき、欠くことのできない多くの作品の残し、また「もの派」をはじめ、多くの作家に影響を与えたことも忘れられないです。

 

2001年
現代美術家の斎藤義重は、6月13日、心不全のため横浜市内の病院で死去しました。享年97。

 

 

 

斎藤義重 作品7 合板 油彩

斎藤義重 作品7 合板 油彩

 

1960年代前半に、斎藤義重はキャンバスではなく合板を、絵筆ではなく電動ドリルを用いて画面作りを行い、「ドリル絵画」とも呼ばれる独自の作品シリーズを生み出します。回転する電動ドリルの刃先の気ままな動きと、それをゆるやかに制御しようとする斎藤義重の意志との微妙な兼ね合いが、リズミカルで実に味わい深い点や線を画面にもたらしています。その凹凸ができた表面にローラーやナイフで壁塗りをするように絵具を摺り込んでいくことで、画面に色彩の陰影やぼかしなど独特の奥行や広がりを生じさせました。 日本の現代美術のパイオニア的存在である斎藤義重は、従来の絵画や彫刻といった枠組みを超えて、たえず新しい表現を考えた姿勢は、戦後日本の作家たちに大きな影響をあたえております。

 

 

 

 

斎藤義重の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.斎藤義重の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

斎藤義重 査定価格におけるポイント

 

斎藤義重の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

斎藤義重先生の作品は、赤い作品、青い作品に高値の査定価格がつきます。

 

100万円から500万円ぐらいの買取相場です。版画は3万から8万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

斎藤義重の作品は、ベニヤ板にドリルの作品が評価されます。

 

版画の作品もあります。

 

斎藤義重展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

東京画廊などのシールがあると安心して査定できます。

 

 

制作年代

 

斎藤義重先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ李禹煥の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月3日

李禹煥の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の李禹煥の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

李禹煥の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、李禹煥の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

李禹煥の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の李禹煥のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた李禹煥の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の李禹煥の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

李禹煥は1936年、韓半島東南部の慶尚南道の山奥で漢方薬を扱うこともあった旧家に生まれている。儒教的な制度やシャーマニズム、仏教が浸透した山間の僻地ながら、彼の祖父は、田舎から出て、どんどん広い世界に行かなくてはいけないと常々言っていたという。

 

新聞記者として各地を飛び回る父親の背中を見ながら、古典文学に造詣の深い母親が日々歌うように本を読む声を聴いて育った李禹煥少年は、やがて彼の家を頻繁に訪れていた文人から、詩や漢文、書などを習うようになります。

 

 

李禹煥 本人

李禹煥 本人

 

李禹煥も「歩みを振り返ってみると、幼い頃の体験が尾を引いていて、それを煮たり焼いたり煎じたりして飲んでいる感じ」と話すように、こうした家庭環境や文人教育を通して筆の使い方を習い、森羅万象の基本として点を打ち、線を繰り返し引く訓練を受けたことが李禹煥の創造行為の核となっています。

 

その後進んだ街の小学校では、日本統治下で日本語教育が行われていました。学校では日本語、家では朝鮮語を使わなければならず、頭が混乱するような状態を経験するが、1945年、入学してから1年半ほどで第二次世界大戦が終わり、日本は敗戦します。

 

その後、都会の釜山の中学に入ると、今度は半年も経たないうちに朝鮮戦争が勃発します。戦争により南部に避難してきた共学のソウル大学付属高校の仮校舎を、山に植物採集に行った帰りに偶然見かけ興味を持った李禹煥は、同校に進学します。ところが、高校1年のときに戦線が変わり、学校が釜山からソウルに戻るのにあわせて自身もソウルへと移ることになりました。

 

こうして、戦争の影響や教育熱心な祖父、父の教え、母親譲りの文学への関心から生まれた外への憧れに数々の偶然が重なり、李は山奥の小さな集落から街、そして首都ソウルへと移動していきました。

 

 

李禹煥 自作と

李禹煥 自作と

 

高校時代は特に文学にのめり込んでいた李禹煥は美術に興味があるわけではありませんでした。教師に「美術なら文学と関係があるから」と説得され、ソウル大学校美術大学に入学します。しかし、入学して間もなく、日本に住む叔父の体調が悪いので漢方薬を届けるように父親に頼まれ、当時は国交がなかったため密航船に乗って日本行きます。ところが、来てみると叔父に帰国を引き止められ、そのまま日本に居続けることになります。

 

日本語が出来なかった李禹煥は、外国人への日本語教育を行う拓殖大学で日本語を学び、開設されたばかりの日本大学文学部哲学科へ編入し。その際も、積極的に美術をやろうと思ったわけではなく、美学を身に付け、社会思想に触れておけば文学の方向に進むのに役立つと思っただけのようでした。

 

しかし、リルケやハイデガーについて研究し、ニーチェや現象学、構造主義に興味を持つようになったことは、彼の思考に大きな影響を与えました。さて、それほど拘りのあった文学の道だが、外国語で文章を書くことに限界を感じ、諦めて大学院に進もうとした矢先、韓国に一時帰国中の1961年5月にクーデターが起こり、すぐに日本に戻れなかったため大学院進学の道を閉ざされてしまいます。

 

また、南北統一運動や軍事政権反対運動にも参加していたが(その関係で70年代の韓国帰国中に拷問も経験している)、自身には向いていないと感じ、徐々に距離を取るようになっていきました。そんな中、仕方なくアルバイトをしていたときに、現代アートとの出会いが訪れました。

 

李禹煥がアルバイトをしていた日本在留の韓国、朝鮮人留学生を支援する朝鮮奨学会のビル内に「ギャラリー新宿」がオープンし、そこで石子順造、中原佑介、赤瀬川原平、中西夏之といった評論家や作家たちに出会う。

 

李禹煥は学生時代にも折に触れて絵は描いており、それを売って学費や生活費を稼いだりしていました。大学時代に、アメリカのジャクソン・ポロックやマーク・トビーなどの作品を本で知り、面白そうだと思い1958~1959年頃に描いてみたりはしたそうだが、ギャラリー新宿での様々な人との出会いや、この頃観た展覧会でオプティカルな錯覚等を通して現実を捉え直した事と、既存の概念に対する批判の可能性を感じた事が、作品制作の直接的な契機となりました。

 

李禹煥いわく、1967年のサトウ画廊での展覧会が、何か考えを打ち出すという形でやった最初の展覧会で、「この時に(美術を)本格的に出来るかな」と感じ、1968年の東京国立近代美術館での「韓国現代絵画展」にピンクの蛍光塗料を用いた作品を展示した際に、「この道でなんとかやっていけるかもしれない」と思ったという。

 

 

李禹煥 ピンクの蛍光塗料を用いた作品

李禹煥 ピンクの蛍光塗料を用いた作品

 

後に「もの派」と呼ばれるようになる関根伸夫らと知り合い、密な関係性を持つことになった李禹煥は、美術評論「事物から存在へ」を執筆します。また、トリックを超える必要も感じていた李禹煥は、関根伸夫が「第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展」に出展した《位相―大地》という、地面に円筒形の穴を掘り、その横に掘り出した土を同じ形で置いた作品に衝撃を受けます。

 

西欧モダニズム的な人間主体で対象化する態度ではなく、ありのままの世界を見るべく、作らないことの意味を感じ、関根伸夫論を発表するとともに、この頃に視覚的矛盾や暴力性を感じさせる、自然石とガラス等を組み合わせた、「関係項」シリーズの最初期の彫刻も生み出している。

 

 

李禹煥関係項(石・鉄・ガラスその他の関係)

李禹煥関係項(石・鉄・ガラスその他の関係)

 

以降、李禹煥はもの派の理論的支柱と捉えられるようになっていくわけだが、決して評論家になりたかったわけではなく、作品について理解してちゃんと書いてくれる人がいなかったため仕方なく書いていただけだといいます。

理論と実践の間を行き交うことは、文学的かつ哲学的な資質があって初めて可能であり、作品におけるアート以外の要素の在りようや両義性を考える等、創作にとって大きな意味を持つだけでなく、作家として独自の立ち位置の確立に繋がっていることも事実でしょう。

 

 

 

李禹煥 点より 1980年

李禹煥 点より 1980年

 

アイボリーの淡い平面の上に、特徴的な丸四角の青いかたちが、左上から右方向に薄れながら痕跡をつなげ、消えようとする瞬間また鮮やかな色がよみがえります。そして何度も「改行」しながら同じことが繰り返され、ついには右下隅に到達して全画面を被いつくします。リズミカルに点滅する光源の連続写真のようでもあり、また一時代前のブラウン管テレビの走査線を想い起こさせます。しかし眼をこらすと、これは画家が群青色の岩絵具をたっぷり含ませた「たんぽ」を画面に押しつけ、右に移動させてまた押しつける動作を反復し、絵具がかすれて見えなくなると再び「たんぽ」に絵具を含ませて、同じ動作を上から下へ画面が尽きるまで行った結果とわかります。

 

 

 

李禹煥の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.李禹煥の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.李禹煥の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.李禹煥の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.李禹煥の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

 

 

李禹煥 略歴

 

1956年
ソウル大学校美術大学を中退、来日

 

1961年 
日本大学文理学部哲学科卒業

 

1973年
多摩美術大学着任(~2007年教授職歴任)

 

1990年
韓国文化省より文化勲章花冠受章

 

1991年
フランス文化省より芸術文化勲章シュヴァリエ受章

 

1997年
フランス国立高等美術学校の招聘教授就任

 

2002年
紫綬褒章受章

 

2005年
第1回世界アーティストサミット(京都)

 

2007年
フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章

 

2009年
旭日小綬章受章

 

2010年
香川県直島に李禹煥美術館開館

 

2015年
釜山市立美術館敷地に李禹煥ギャラリーを開館

 

 

李禹煥 個展

 

1973年
東京画廊(東京)

 

1974年
田村画廊(東京)

 

1975年
エリックファーブル(パリ・フランス)

 

1976年
ギャラリーm(ボーフム・ドイツ)
スペクトラム・ギャラリー(アントワープ・ベルギー)

 

1977年
東京画廊(東京)
エリックファーブル(パリ・フランス)

 

1978年
ギャラリーm(ボーフム・ドイツ)
デュッセルドルフ美術館(デュッセルドルフ・ドイツ)
ルイジアナ美術館(フムレベック・デンマーク)
現代画廊(ソウル・韓国)
アントワープ・ギャラリー(アントワープ・ベルギー)
シロタ画廊(東京)

 

1979年
ギャラリーたかぎ(名古屋・愛知)
村松画廊(東京)
ジン画廊(ソウル・韓国)

 

1980年
東京画廊(東京)
エリックファーブル(パリ・フランス)
ギャラリー上田(東京)

 

1981年
シロタ画廊(東京)

 

1982年
スタジオ・マルコリーニ(ミラノ・イタリア)

 

1983年
東京画廊(東京)
ギャラリー上田(東京)

 

1984年
現代画廊(ソウル・韓国)
ギャラリー・ド・パリ(パリ・フランス)
シロタ画廊(東京)

 

1985年
鎌倉画廊(東京)

1986年
東京画廊(東京)
ギャラリー上田(東京)
シロタ画廊(東京)
ギャラリー・ド・パリ(パリ・フランス)

 

1987年
現代画廊(ソウル・韓国)

 

1988年
「李禹煥展 −感性と論理の軌跡」岐阜県美術館(岐阜)
ミラノ市立現代美術館(ミラノ・イタリア)
ギャラリー・アンゼルム・ドレアー(ベルリン・ドイツ)

 

1989年
ギャラリーm(ボーフム・ドイツ)
ギャラリー・ド・パリ(パリ・フランス)
ギャラリー上田(東京)
東京画廊(東京)
シロタ画廊(東京)

 

1990年
現代画廊(ソウル・韓国)
鎌倉画廊(東京)
インコン画廊(ソウル・韓国)

 

1991年
東京画廊(東京)
「LEE UFAN 李禹煥」ハラミュージアムアーク(渋川・群馬)
インコン画廊(ソウル・韓国)
ギャラリー上田(東京)
ロレンツェリ・アルテ(ミラノ・イタリア)

 

1992年
ギャラリー・ド・パリ(パリ・フランス)
コンガン画廊(釜山・韓国)

 

1993年
東京画廊(東京)
「李禹煥」神奈川県立現代美術館(鎌倉・神奈川)
シロタ画廊(東京)

 

1994年
「李禹煥」国立現代美術館ソウル館(ソウル・韓国)
インコン画廊(ソウル・韓国)
ムディマ財団(ミラノ・イタリア)

 

1995年
ギャラリーm(ボーフム・ドイツ)
ギャラリー・ド・パリ(パリ・フランス)
「Lee Ufan」レバークーゼン市立美術館(レバークーゼン・ドイツ)
東京画廊(東京)

 

1996年
東京画廊(東京)
リッソン・ギャラリー(ロンドン・イギリス)
コンガン画廊(釜山・韓国)
ギャルリー・J・ムーション(パリ・フランス)

 

1997年
現代画廊(ソウル・韓国)
「Lee Ufan」ジュ・ド・ポム国立美術館(パリ・フランス)
バク画廊(ソウル・韓国)
ロレンツェリ・アルテ(ミラノ・イタリア)
スペース下田(東京)

 

1998年
「Lee Ufan」フランクフルト市立シュテーデル美術館(フランクフルト・ドイツ)
シロタ画廊(東京)
シゴン画廊(大邱・韓国)
新潟市美術館(新潟)
三鷹市美術ギャラリー(三鷹・東京)

 

1999年
東京画廊(東京)
リリアン&ミシェル・デュラン=デッセール画廊(パリ・フランス)
鎌倉画廊(東京)

 

2000年
ギャラリーm(ボーフム・ドイツ)
コンガン画廊(釜山・韓国)

 

2001年
ボン市立美術館(ボン・ドイツ)
シゴン画廊(大邱・韓国)
コンガン画廊(釜山・韓国)
シロタ画廊(東京)

 

2002年
SCAI THE BATHHOUSE(東京)

 

2003年
現代画廊(ソウル・韓国)
サムスン美術館LEEUM(ソウル・韓国)

 

2004 年
「Lee Ufan」フェルネ・ブランカ現代美術館(サン=ルイ・フランス)
リッソン・ギャラリー(ロンドン・イギリス)

 

2005 年
「李禹煥:余白の芸術」横浜美術館(横浜・神奈川)
サン=テティエンヌ近現代美術館(サン=テティエンヌ・フランス)

 

2006年
IBUギャラリー(パリ・フランス)
ギャラリーm(ボーフム・ドイツ)
コンガン画廊(釜山・韓国)
シロタ画廊(東京)
村松画廊(東京)
ギャルリー・ミシュリン・ズワッシャー(アントワープ・ベルギー)

 

2007年
第52回ヴェネツィアビエンナーレ、パルンボ・フォッサーティ宮殿(ヴェネツィア・イタリア)
SCAI THE BATHHOUSE(東京)
ギャラリー・ネイスト・セント・ステファン(ウィーン・オーストリア)

 

2008年
ベルギー王立美術館(ブリュッセル・ベルギー)
ベルリン国立アジア美術館(ベルリン・ドイツ)
ペース・ヴィルデンシュタイン(ニューヨーク・ニューヨーク・アメリカ)
東京画廊(東京)
リッソン・ギャラリー(ロンドン・イギリス)

 

2009年
クッチェギャラリー(ソウル・韓国)
ギャルリー・タドー・ロパック(パリ・フランス)

 

2010年
ブルム&ポー(ロサンゼルス・カリフォルニア・アメリカ)
ガレリア・エルヴィラ・ゴンザレス(マドリード・スペイン)

 

2011年
「李禹煥:Making Infinity」グッゲンハイム美術館(ニューヨーク・ニューヨーク・アメリカ)
ギャルリー・タドー・ロパック(ザルツブルク・オーストリア)
SCAI THE BATHHOUSE(東京)
現代画廊(ソウル・韓国)

 

2012年
アジアソサエティー・テキサスセンター(ヒューストン・テキサス・アメリカ)

 

2013年
狩猟自然博物館(パリ・フランス)
ギャルリー・カメル・メヌール(パリ・フランス)

 

2014年
ヴェルサイユ宮殿(ヴェルサイユ・フランス)
 Kaikai Kiki Gallery(東京)
タティントシャン・ギャラリー(モスクワ・ロシア)

 

2015年
ペース・ギャラリー(香港)
ペース・ギャラリー(ロンドン・イギリス)
ペース・ギャラリー(ニューヨーク・ニューヨーク・アメリカ)
コンタリーニ・ポリニャック宮殿(ヴェネツィア・イタリア)
リッソン・ギャラリー(ロンドン・イギリス)

 

2016年
「李禹煥」シャトー・ラ・コスト(ル・ピュイ=セント=レパラード・フランス)
「Lee Ufan: Les Fragments et la Fenêtre」ギャラリー・ド・セーブル(パリ・フランス)
アマ城(シエナ・イタリア)
エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク・ロシア)

 

2017 年
「Lee Ufan Chez le Corbusier」ラ・トゥーレット修道院(エヴー・フランス)
「Lee Ufan: Ceramics」ペース・ギャラリー(ニューヨーク・ニューヨーク・アメリカ)
オリヴィエ・ドゥブレ現代創造センター(トゥール・フランス)

2018年
「Lee Ufan: Relatum – Stage」サーペンタイン・サックラー・ギャラリー(ロンドン・イギリス)
現代美術 艸居(京都)

2019年
ポンピドゥー・センター・メス(メス・フランス)カイエ・ダール(パリ・フランス)
ハーシュホーン博物館と彫刻の庭(ワシントンD.C.・アメリカ)

 

 

 

 

 

李禹煥 線より

李禹煥 線より

 

油彩、岩絵具、カンヴァス

まっすぐ筆で引かれた線は、上から下へ向かうにつれて絵具がかすれ、最後は見えなくなります。

それを数回ほど繰り返すことで出来あがる画面からは、李禹煥の身振りや息遣いを見て取ることができる。それはまるで緊張みなぎる書道の修練のようです。韓国で生まれ育った李禹煥は、幼いころから書や水墨画、老荘思想といった東洋の文化を身に着け、留学先の日本大学では西洋の哲学を学びました。

その後美術作家としての活動を始めると「アルガママの世界との出会い」を唱え、1970年頃の日本美術の動向である「もの派」を牽引していきました。李禹煥が一筆ごとに画面に線を引いているところを想像してみてください。

そこには、絵画と書、西洋と東洋、面と線といった、対立するようで関わりあう、容易には分かちがたい関係が現れています。

 

 

 

李禹煥の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.李禹煥の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

李禹煥 査定価格におけるポイント

 

李禹煥の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

李禹煥先生の作品は、フロムポイント、フロムラインに高値の査定価格がつきます。

 

500万円から5,000万円ぐらいの買取相場です。版画は30万から100万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

李禹煥の作品は、キャンバスに岩絵具の作品が評価されます。

 

版画の作品もあります。

 

李禹煥展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

東京画廊、シロタ画廊などのシールがあると安心して査定できます。

 

 

制作年代

 

李禹煥先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ李禹煥の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月2日

赤瀬川原平の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の赤瀬川原平の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

赤瀬川原平の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、赤瀬川原平の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

赤瀬川原平の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の赤瀬川原平のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた赤瀬川原平の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の赤瀬川原平の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

赤瀬川原平 本人

赤瀬川原平 本人

 

赤瀬川原平は、1937年の昭和12年に横浜で生まれます。戦中と戦後の混乱の中で育ち経済的には辛い時期もありましたが、ユニークな事が好きな明るい少年だったようです。高校生までは大分県で11年間過ごしました。そこで建築家の磯崎新や現代美術家の吉村益信との出会いがありました。それから、名古屋に移り住み、旭丘高等学校美術科に入学します。そこで、現代美術家である荒川修作や画家、演出家となる岩田信市らと学校生活を共にします。高校卒業後は、武蔵野美術学校油画科に入学します。しかし、金銭的な理由から退学する事になりますが、退学後も精力的に創作活動を続けました。

 

多ジャンルで活躍した芸術家の赤瀬川原平は、日本アンデパンダン展や読売アンデパンダン展など自由出品ができる美術展に参加します。 創作活動を継続した事から、1958年には初個展を開催します。 その後、1960年になると現代美術家の吉村益信や篠原有司男とともに前衛芸術グループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(ネオナダ)」を結成します。 結成以降も精力的に芸術活動を続けながら、1970年頃になると漫画やイラストの制作も始めます。 さらに、1979年には「尾辻克彦」というペンネームで小説を書き始めるなど、多彩な芸術家として知られるようになりました。

 

千円札裁判

 

赤瀬川原平といえば「千円札裁判」を思い浮かべる方が多いと思います。 「千円札裁判」とは、赤瀬川原平が本物の千円札と見間違うほど精巧な作品を制作した事により、通貨及証券模造取締法違反で訴えられた事件です。 赤瀬川原平は、「観察」を大切にしており、千円札を模した作品もその精神が込められたものであり。 そもそも拡大模写した作品だったことに加えて、裏面は白紙であり、使用を目的としたものではなかったものの執行猶予付きの有罪判決となりました。

 

赤瀬川原平は、独創的な作品を多数生み出しています。 その作品の中から、3点を紹介します。

 

 

 

復讐の形態学 殺す前に相手をよく見る

復讐の形態学 殺す前に相手をよく見る

 

赤瀬川原平は、1963年頃から千円札を印刷発注し始めて、印刷千円札を用いたオブジェ作品や梱包作品を制作して読売アンデパンダンで発表しました。また1963年の個展「あいまいな海について」(新宿第一画廊、東京)の案内状の片面に千円札を原寸大で印刷して使ったり、テレビ番組出演では印刷千円札を燃やしたりしました。またハイレッド・センターの「第5次ミキサー計画」展でも、200倍に拡大した千円札を克明に自筆で模写した作品《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》などを発表しています。「千円札裁判」へと発展する事件の発端は、「赤い風船あるいは牝狼の夜」という小規模な反体制的な政治結社「犯罪者同盟」が1963年8月に出版した書籍をめぐる騒動にあります。これに掲載されていた図版が猥褻図書として取り調べられました。同書には赤瀬川原平の千円札の聖徳太子像拡大写真も掲載されていました。その捜査の際に、赤瀬川原平が制作した印刷千円札が司直の目にとまりました。

 

 

 

赤瀬川原平 宇宙の罐詰

赤瀬川原平 宇宙の罐詰

 

宇宙の罐詰(うちゅうのかんづめ)は、先ほども書いたように梱包芸術に分類される作品で、これはその名の通り、何か物を包み、包む行為そのものや包んだ後のものを作品とする芸術です。 有名な芸術家ではクリスト&ジャンヌ=クロードが挙げられます。 彼らは夫婦で作品を制作し、さまざまなものを包んで作品としています。赤瀬川原平はこの梱包芸術において、「蟹缶で宇宙を梱包する」ということを行い、作品としました。 これは発想の転換をうまく利用したもので、以下の手順によって行われます。 1.缶詰を買ってくる。2. 缶詰を開けて中身をいただく。3. 綺麗に洗い、ラベルを丁寧に剥がす。 4.剥がしたラベルに接着剤などをつけて、缶の内側に内向きに貼り付ける。 5.蓋を溶接して缶を閉める。これで完成します。このように生まれた缶詰は、いわゆる外側と内側が入れ替わった状態になります。 これは、かつて蟹の身が入っていた部分を外側に、私たちがいる部分は拡張すれば宇宙全体を内側に置き換えたことを示す作品という事である。

 

 

 

ヴァギナのシーツ 二番目のプレゼント

ヴァギナのシーツ (二番目のプレゼント)

 

赤瀬川原平が世に知られるきっかけとなった作品が、24才の時に制作した「ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)」です。生々しい肉体を表している赤いパーツはタイヤのゴムチューブで作られ、それに無機質な真空管が取付けられています。この作品が作成された時代、真空管は非常にハイテクなアイテムであり、こうした廃品を集めたアート自体も珍しいものでした。しかも、そもそも廃品を活用しているため、展示後には廃棄されていました。この作品は1994年に赤瀬川原平が再制作した作品です。

 

 

 

赤瀬川原平の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.赤瀬川原平の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.赤瀬川原平の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.赤瀬川原平の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.赤瀬川原平の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.現代アート作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

 

赤瀬川原平 略歴

1937年
昭和12年3月27日、倉庫会社に勤務する父・廣長の次男として横浜で生まれる。長男の隼彦は作家の赤瀬川隼、三女の晴子は帽子デザイナー。幼少期は、芦屋、門司、大分と転居を繰り返す。

 

1941年
から高校入学の1952年まで過ごした大分県では、画材店キムラヤのアトリエで活動していました。「新世紀群」に出入りする。そこには、磯崎新、吉村益信らがおり、赤瀬川原平の進路に決定的な影響を及ぼします。高校入学直後に、名古屋にある愛知県立旭丘高等学校美術科に転校します。同級には、荒川修作、岩田信市などがいました。

 

1955年
武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)油画科に進学。サンドイッチマンのアルバイトをしながら生活するものの、貧困のうちに大学を中退します。

 

1957年
日本アンデパンダン展に出品します。

 

1958年
読売アンデパンダン展に出品します。

 

1958年
道玄坂にある喫茶店コーヒーハウスで初の個展を開催。このころには、社会主義リアリズムの影響を脱し、アフリカ原始美術に触発された絵画を制作していました。

 

1959年
4月、十二指腸潰瘍のため名古屋へ帰り、手術を受けます。

 

1960年
吉村益信と篠原有司男を中心とした「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」結成の呼びかけに応じて東京に戻る。このグループには、大分出身の吉村益信、風倉匠、名古屋時代の級友・荒川修作らがいた。彼らは、磯崎新設計による吉村のアトリエ「ホワイトハウス」を根城として活動したが、同年末には事実上活動を停止。この時期の赤瀬川原平は、廃物を利用したオブジェを制作していました。

 

1962年
その後も、ネオ・ダダのメンバーと共に、8月15日、ヨシダ・ヨシエ発案による国立公民館での「敗戦記念晩餐会」などに参加。「敗戦記念晩餐会」の報告者として参加した雑誌『形象』の座談会で、「山手線事件」をおこなった高松次郎、中西夏之と知り合い、翌年、彼らと共にハイレッド・センターを結成します。三人の他に、第四の公式メンバーである和泉達、非公式メンバーとして、グループ音楽の刀根康尚、小杉武久、『形象』編集者の今泉省彦、川仁宏、映画作家の飯村隆彦なども参加し、グループの匿名性を高める。赤瀬川原平個人の作品としては、梱包作品や模型千円札があります。後者は、同時期に起きた偽札事件「チ―37号事件」との関連で警察の目に留まります。

 

1965年
11月に「通貨及証券模造取締法違反」で起訴される。このいわゆる「千円札裁判」は、芸術と法との関係を問う「芸術裁判」へと発展し、注目を集める。

 

1970年
4月、上告が棄却され、懲役3月執行猶予1年の有罪が確定します。この時期には、「模型千円札」を理論的に正当化することも含めて様々な文章を執筆しており、1970年に『オブジェを持った無産者』としてまとめられます。

 

1968年
燐寸ラベルを収集する「革命的燐寸主義者同盟」、宮武外骨の著作などの珍本を集める「革命的珍本主義者同盟」、翌年には「娑婆留闘社」を結成して「獄送激画通信」を発行するなどの活動を行います。

 

1970年
今泉が代表を務める美学校の講師となる。赤瀬川教場からは、南伸坊、久住昌之らを輩出します。同年、雑誌『ガロ』に初めての劇画「お座敷」を発表します。

 

1969年
『現代の眼』(現代評論社)で連載を開始しました。「現代野次馬考」シリーズや1970年から『朝日ジャーナル』に連載を開始しました。「野次馬画報」(のちに「櫻画報」と改題)など、いわゆるパロディ・ジャーナリズムに1970年代半ばまで取り組みます。

 

1978年
最初の小説「レンズの下の聖徳太子」を雑誌『海』に発表します。

 

1979年
尾辻克彦名義で執筆した「肌ざわり」が中央公論新人賞を受賞。同年に「肌ざわり」が、翌年に「闇のヘルペス」が芥川賞候補作品となります。

1981年
「父が消えた」で芥川賞受賞します。

 

1983年
『雪野』で野間文芸新人賞受賞。これら小説家尾辻克彦としての活動と並行して多くのグループを結成・活動しており、美学校の生徒たちとの「ロイヤル天文同好会」(1972年)や「超芸術探査本部トマソン観測センター」(1982年)、そこから発展した「路上観察学会」(1986年)のほか、「脳内リゾート開発事業団」(1992年)、「ライカ同盟」(同年)、「縄文建築団」(1997年)などがあります。

 

1998年
平成10年、『老人力』がベストセラーとなり、広く一般にその名を知られることとなります。
初期の絵画から、ネオ・ダダの廃品芸術、ハイレッド・センターでの模型千円札や梱包芸術という前衛的な美術作品だけではなく、パロディ漫画や小説、エッセイ、さらには路上観察学会のような非芸術にも目を向けるなど、その活動は多岐にわたり、いわゆる芸術家や画家といった枠組みに収まりきらない作家でした。これらの活動は、「赤瀬川原平の冒険――脳内リゾート開発大作戦――」(名古屋市美術館、1995年)、「赤瀬川原平の芸術原論展」(千葉市美術館他、2014年)といった展覧会でまとめられました。
赤瀬川原平自身の経歴については、松田哲夫とのインタビュー形式による自伝『全面自供!』(晶文社、2001年)があります。
また、読売アンデパンダン展周辺を描いた『いまやアクションあるのみ! 「読売アンデパンダン」という現象』(筑摩書房、1985年)、ハイレッド・センターの活動を描いた『東京ミキサー計画』(PARCO出版局、1984年)などは、戦後美術の状況を描写した資料として重要な役割を果たしています。

 

2014年
美術家で作家の赤瀬川原平(本名・克彦)は10月26日午前6時33分、敗血症のため都内の病院で死去した。享年77。

 

 

 

 

 

 

 

 

赤瀬川原平 本人 尾辻克彦

 

小説家として

 

1962年、25歳、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選します。

 

1070年、『朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。34歳、最終回(1971年3月19日号)が問題になり、自主回収されました。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動が行われ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊します。

 

1979年、42歳、編集者に勧められて純文学にの取り組み、尾辻克彦の名で身辺小説「肌ざわり」を執筆。中央公論新人賞を受賞します。

 

1981年、44歳短編「父が消えた」で第84回芥川賞を受賞します。

 

1983年、46歳、「雪野」で野間文芸新人賞を受賞します。

 

1986年、49斎マンホールの蓋、看板などを発見し考察する「路上観察学会」を創設しまます。

 

1987年、50歳、『東京路上探険記』は講談社エッセイ賞を受賞します。

 

1989年には、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で、日本アカデミー賞脚本賞を受賞します。

 

1993年、56歳、『仙人の桜、俗人の桜』で、JTB旅行文学大賞を受賞します。

 

1998年、61歳、『老人力』は筑摩書房はじまって以来最高のベストセラーとなり、「老人力」は同年の流行語大賞を受賞します。

 

1999年、62歳、毎日新聞出版文化賞特別賞。

 

2011年、74歳、『個人美術館の楽しみ』個人美術館とは、一人の作家だけの美術館と、一人のコレクターによる美術館と、二通りの意味を持つ。 秋野不矩、植田正治、小磯良平、ベルナール・ビュフェ、熊谷守一、香月泰男、河鍋暁斎、イサム・ノグチ、安野光雅、猪熊弦一郎、杉本健吉etc. 個人美術館の愉しみは、近現代を彩る芸術家たちの足跡を眺められること。もう一つの愉しみは、その作品の山を築くことになったコレクターの、熱情を見ること。大金を投げ出して手 に入れた人の熱情が並ぶと、その熱を通して見えてくるものがある。 日本にある、魅力ある個人美術館を厳選。赤瀬川さんが紡ぐ46の物語。

 

また、赤瀬川源平は、多くの「ナンセンス」で「ユーモラス」な組織の結成に関わっています。赤瀬川源平を巡る言葉、公序良俗をからかう危険な前衛主義者。あらゆる思想信条を笑いのめす得体の知れない不謹慎、反体制ではなく無体制。諧謔に満ちた言語ゲームの遊戯者

 

 

赤瀬川原平の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.赤瀬川原平の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

赤瀬川原平 査定価格におけるポイント

 

赤瀬川原平の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

赤瀬川原平先生の作品は、世界的な評価の作品に高値の査定価格がつきます。

 

10万円から100万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

赤瀬川原平の作品は、1060年代から1970年代の作品が評価されます。

 

版画の作品やポスターもあります。

 

赤瀬川原平展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

販売画廊などのシールがあると安心して査定できます。

 

 

制作年代

 

赤瀬川原平先生の作品は、初期の作品が高値で取引されております。

 

※このように同じ赤瀬川原平の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年1月31日

中西夏之の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の中西夏之の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

中西夏之の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、中西夏之の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

中西夏之の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の中西夏之のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた中西夏之の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の中西夏之の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

 

中西夏之 本人

中西夏之 本人

 

「人は最初どのように絵をかくだろうか。最初の人はどのように絵をかいただろうか。」

 

中西夏之は1935年東京都に生まれます。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業して、1959年に砂を混ぜた塗料を用いた《韻》の制作を開始します。1962年、高松次郎、川仁宏らと《山手線事件》と称したパフォーマンスを決行します。

 

1963年の「第15回読売アンデパンダン展」に、キャンバスから出た紙紐にアルミ製の洗濯バサミを大量につける《洗濯バサミは撹拌行動を主張する》を出品し、代表作となります。

 

同年に赤瀬川原平、高松次郎とハイレッド・センターを結成してパフォーマンスを行うほか、1965年には舞踏家である大野一雄、土方巽らと交流します。おなじく瀧口修造や澁澤龍彦らとも知り合い、土方率いる暗黒舞踏の公演の舞台美術や舞台装置、オペラの舞台装置などに活動の幅を広げます。

 

1996年、東京藝術大学美術学部絵画科教授に就任して、1997年、東京都現代美術館にて「中西夏之展 白く、強い、目前、へ」が開催されました。晩年まで精力的に新作を発表し続け、国内外で展覧会が多数開催。オブジェやインスタレーションも発表しましたが、とくに平面作品に向き合い、絵画という概念自体について根源的な思索を深めながら制作を重ね、空間への緊張を表現しました。

 

 

 

中西夏之 油彩作品  2002年

中西夏之 『R・R・W-4ツの始まりⅢ』 2002年

 

 

 

 

中西夏之の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.中西夏之の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.中西夏之の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.中西夏之の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.中西夏之の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.現代アート作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

 

中西夏之  中央の速い白Ⅸ 1990年 カンヴァス・油彩、木炭

中西夏之  中央の速い白Ⅸ 1990年 カンヴァス・油彩、木炭

 

 

 

 

中西 夏之 略歴

 

 

1935年
東京市品川区大井町生まれます

 

1954年
東京都立日比谷高等学校卒業。同窓に作家の坂上弘・文芸評論の権田萬治などがいます。

 

1958年
東京藝術大学絵画科(油画専攻)を卒業。大学時代の同窓に高松次郎・工藤哲巳・磯辺行久などがいます。

 

1959年
シェル美術賞で佳作を受賞しました。

 

1962年
高松次郎・川仁宏らと共に、山手線のホームや車内で卵型のコンパクトオブジェを用いた「山手線事件」のハプニングを行います。

 

1963年
第15回読売アンデパンダン展に《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》を出品、自身の代表作となる。同年、高松次郎・赤瀬川原平らと「ハイレッド・センター」(高・赤・中)を結成し、銀座の街頭や画廊などで日常に懐疑を突きつける多くのイベントを実践します。

 

1960年
舞踏家の土方巽と交流をもち、周辺の瀧口修造や澁澤龍彦、シュルレアリスム系の画家や詩人たちと親交します。

 

1965年
暗黒舞踏派公演 バラ色ダンス〜澁澤さんの家の方へ

 

1968年
『土方巽と日本人—肉体の叛乱』で主要な舞台美術・装置を手がけ、笠井叡や山海塾らとも協働を重ねる。フランス・リヨン国立歌劇場でのペーター・エトヴェシュ作曲、天児牛大演出によるオペラ作品(『三人姉妹』(1998年)、『更級夫人』(2008年))などでも舞台美術を担当しました。

 

1964
絵画を手がけ、1969年から1971年にかけて《山頂の石蹴り》を制作

 

1978年
《弓形が触れて》では弧線のモティーフを扱います。

 

1980年
白い筆触の集積と紫の色面へと移行していきました。

 

1990年
画面を覆っていた筆触が色面へと変化しました。

 

1996年
2003年まで東京藝術大学にて美術学部絵画科油画専攻教授を務めます。

 

2004年
2007年までは倉敷芸術科学大学で教授を務めました。

 

2016年
10月23日、脳梗塞のため死去しました。。81歳没。

 

 

 

中西夏之  例えば波打ち際にて1

中西夏之  例えば波打ち際にて1

 

 

 

中西夏之の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.中西夏之の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

中西夏之 査定価格におけるポイント

 

中西夏之の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

中西夏之先生の作品は、キャンバスに油彩に高値の査定価格がつきます。

 

100万円から500万円ぐらいの買取相場です。版画は30万から100万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

中西夏之の作品は、キャンバスに岩絵具の作品が評価されます。

 

版画の作品もあります。

 

中西夏之展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

画廊などのシールがあると安心して査定できます。

 

 

制作年代

 

中西夏之先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。

 

※このように同じ中西夏之の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年1月29日

高松次郎の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の高松次郎の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

高松次郎の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、高松次郎の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

高松次郎の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の高松次郎のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた高松次郎の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の高松次郎の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

東京都に生まれ、1954年に東京藝術大学絵画科に入学します。在学中は小磯良平に師事しました。卒業後の1958年より第10回読売アンデパンダン展へ作品の出品を開始します。以後1959年、1961年、1962年、1963年に出品しています。

 

 

高松次郎 本人

高松次郎 本人

 

はじめ前衛芸術に傾倒し、中西夏之、川仁宏らと共に、有名な「山手線事件」というハプニングを行いました。また中西夏之、赤瀬川原平らと芸術集団ハイレッド・センターを結成して、数多くのパフォーマンスを実践しました。1968年より多摩美術大学専任講師を務め、1972年から1974年まで東京藝術大学にて美術学部油画科非常勤講師を務めました。1981年「十代の会」の発起人の一人として同会創立に参加します。

 

高松次郎は、インスタレーションから絵画、彫刻、壁画、写真、映画にまで様々なスタイルに至り、多くの作品が抽象的かつ、反芸術的な色合いが濃いもので、実体の無い影のみを描いた作品「影」シリーズが脚光を浴び、石や木などの自然物に僅かに手を加えただけの作品、遠近法を完全に逆にした作品など、あえて「思考させる」「思考する」ことにより、作品と世界との間に新しい関係を作りだすことに成功しました。1960年代以降の日本におけるコンセプチュアル・アートに大きな影響を与えました。

 

 

 

シリーズ

高松次郎 影シリーズ

 

しかし1980年代に登場する「形」シリーズからは作品に飛躍的な展開が見られ、平面空間に線、面、色彩が溢れるようになります。高松次郎は62歳で亡くなるまで20年間以上三鷹にアトリエを構え、病に倒れた後も亡くなる直前まで、このシリーズを追求し続けました。

 

 

 

高松次郎の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.高松次郎の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.高松次郎の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.高松次郎の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.高松次郎の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

高松次郎 略歴

 

1936年
昭和11年2月20日東京に生まれる。

 

1934年
東京芸術大学美術学部絵画科油絵専攻を卒業します。

 

1934年
3月に第10回読売アンデパンダン展に出品します。

 

1938年
赤瀬川原平、中西夏之とグループ「ハイレッド・センター」を結成します。1938年、「ミキサー計画」(新宿第一画廊、宮田内科診療所)で、「紐」シリーズの作品を発表、さらに街頭ハプニングなど反芸術的な運動をはじまた。また、同年の第15回読売アンデパンダン展に「カーテンに関する反実在性について」と題する作品を発表、これは上野駅から会場の東京都美術館までを紐でつづけるというもので、はやくも観念性のつよい傾向をしめしていました。このように点、線(紐)といった、最小限の表現の単位を最小限の素材(針金)から自身の表現を開始しました。

 

1939年
画面に人間の影だけを描き、実在物と虚像の在り方を問いかける「影」のシリーズをはじめ、この年の第8回シェル美術賞展に「影A」を出品、佳作となり、さらに翌年の第9回シェル美術賞展に「影の圧搾」、「影の祭壇」を出品、1等賞となりました。

 

1940年
第2回長岡現代美術館賞展に「カーテンをあけた女の影」を出品、優秀賞をうけました。

 

1942年
「遠近法」のシリーズをはじめ、立体作品によって視覚として感じられる遠近感と遠近法との差異を提示しようとした。

 

1947年、第8回東京国際版画ビエンナーレに、「The Story」を出品、国際大賞を受賞した。これは、文字や記号をつかった作品で、あらたなシリーズとなった。その後も、同48年に第12回サンパウロ・ビエンナーレ、同52年にはドクメンタ6(ドイツ、カッセル市)に出品するなど、国内外において作品を発表しつづけた。

 

1970年
立体を中心にがあいついで開催された。木、鉄、布、紐など、さまざまな物質を組み合わせ、構成する「複合体」のシリーズは、立体作品というよりも、空間をつかいながら、物質とそこにはたらく重力の関係を注視することが意図され、今日でいうインスタレーションに近い作品となっている。

 

 

1980年
身体的なストロークを残す、平面作品を制作した。日本の現代美術界にあって、終始一貫して、観念性の深い、知的な視覚表現をもとめつづけた作家であったといえる。

 

1998年
6月25日、芸術表現に一貫して根源的な問いとかけと視点をもちつづけながら、作品と言説においてつねに現代美術をリードしていた美術家高松次郎(本名、高松新八郎)は、直腸ガンのため東京都三鷹市の病院で死去。享年62。

 

1999年
平成11年没後の10月に、国立国際美術館において「高松次郎―『影』の絵画とドローイング」展

 

2000年
平成12年5月には、千葉市美術館において高松次郎展、60年代から今日まで

 

 

 

 

 

高松次郎 この7つの文字

 

これは、ただ『この七つの文字』という文字が刷られているだけの、 一見変りばえのしない作品なのだが、よく見ていると迷路への深い通底口をもっていることがわかるのだ。つまり、この七つの文字というのは、文字通り、 七つの文字から成っている。 そして、それ以外の事物の代替として存在しているのではないのである。

 

高松次郎の、この版画の場合、文字はそれ自体で一つの宇宙として 完成しており、事物の介在する余地は全くないというところが面白いのである。 (寺山修司『さかさま博物誌青蛾館』より)

 

 

 

 

高松次郎の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.高松次郎の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

高松次郎 査定価格におけるポイント

 

高松次郎の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

高松次郎先生の作品は、フロムポイント、フロムラインに高値の査定価格がつきます。

 

500万円から5,000万円ぐらいの買取相場です。版画は30万から100万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

高松次郎の作品は、キャンバスに岩絵具の作品が評価されます。

 

版画の作品もあります。

 

高松次郎展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

東京画廊、シロタ画廊などのシールがあると安心して査定できます。

 

 

制作年代

 

高松次郎先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ高松次郎の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

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まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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