2025年2月9日

秋野不矩の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の秋野不矩の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

秋野不矩の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、秋野不矩の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

秋野不矩の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の秋野不矩のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた秋野不矩の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の秋野不矩の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

秋野不矩 紅裳 1938年

秋野不矩 紅裳 1938年

 

秋野不矩は、静岡県天竜市に生まれます。本名ふく。大正15年静岡県女子師範学校を卒業して、天竜市横山高等小学校の教師となります。翌年、教師を辞めて、千葉県大網町の石井林響、次いで京都の西山翠嶂のもとで日本画を学びました。

 

昭和13年、第2回新文展に《紅裳》を出品、特選を受賞します。昭和23年、上村松篁、広田多津らと創造美術を結成します。翌年京都市立美術専門学校の助教授に就任します。昭和26年2月、第1回上村松園賞受賞。8月、創造美術が新制作派協会と合流し、新制作協会日本画部会員となります。

 

 

秋野不矩 村落 カジュラボ 1994年

秋野不矩 村落 カジュラボ 1994年

 

インドのビスババラティー大学に客員教授として招かれたのを契機に、昭和37年より、10回にわたり渡印し、インドの風土や風俗に取材した作品を多数制作します。昭和61年、毎日芸術賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、日本芸術大賞受賞。平成11年には、故郷天竜市に市立秋野不矩美術館が開館します。

 

平成12年、女性画家として4人目となる文化勲章を受章します。翌年には新たな題材を求めてアフリカを初訪問するなど、一貫して絵画制作に情熱的に取り組んだ。 平成13年、心不全のため自宅アトリエで逝去。享年93才。最後まで絵筆を持ち続け、画家としての生涯をまっとうしました。

 

 

秋野不矩 猫

秋野不矩 猫

 
秋野不矩は1960年代、親交の深かった加山又造からシャム猫2匹(名前はピートとヤン)をプレゼントさされている。秋野不矩の猫好きは有名で、多い時は3匹ほど飼っていました。
 
 
猫を描いた日本画作品は1960年から2000年までに数点も制作しています。アトリエでの猫たちは自由気ままに振る舞ていた。描いている時、画面の上を猫が歩く事があったが、秋野不矩は叱らなかったといいます。猫の足跡が残っている素描や下図も多く残されています。
 
本作は背景に金箔を大胆に使って描き、瞳の下にも箔を使って美し青を際立たせています。

 

 

 

秋野不矩の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.秋野不矩の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.秋野不矩の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.秋野不矩の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.秋野不矩の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

秋野不矩 舞妓 1984年

秋野不矩 舞妓 1984年

 

色とりどりの華やかな衣装とともに描き出される舞妓は、日本画における主な画題のひとつとしての人々に親しまれてきました。

 

特に、京都では、古くから優美な染織産業が発達し、花街の文化が息づいている事など他にはない独自の美意識が育まれてきたといえます。京都で活躍した秋野不矩は、少なからずそのような空気にふれ、豊かな感性を発揮して、多くの魅力的な女性像を描きました。

 

秋野不矩によって描かれた愛らしく麗しい、優美な京の舞技、その端正な姿態や表情による女性美はもちろん、花鳥や流水、縞や絣などの伝統的な文様をモダンな色彩で彩られた衣装デザインもこの作品の見どころです。

 

 

 

秋野不矩 略歴

 

1908年
明治41年7月25日、静岡県磐田郡二俣町(現天竜市二俣町)の神主の家に生まれます。本名ふく。静岡県女子師範学校卒業後小学校の教師していた。

 

1927年
昭和2年19歳で画家を志し、父親の知人の紹介により帝展の日本画家で、千葉県大網町に住む石井林響に入門、住み込みの弟子となる。

 

1929年
石井林響が脳溢血症で倒れると京都に移り、西山翠嶂の画塾青甲社に入る。

 

1930年
第11回帝展に「野を帰る」が初入選、その翌年は落選します。

 

1932年
から1934年まで連続入選を果たします。

 

1932年
塾の先輩である沢宏靭と結婚します、その後もうけた六人の子供を育てる傍ら身辺のモティーフを題材に制作を続け、そこで育まれたヒューマニズムは生涯貫かれることになります。

 

1936年
新文展鑑査展で天竜川岸の白砂に寝そべる女と子供を描いた「砂上」が選奨。

 

1938年
第2回新文展では紅の着物をまとう五人の女性を円形に構成した「紅裳」が特選を受賞し、無鑑査となるなど官展で着実に地歩を築いていく。

 

1940年
大毎東日奉祝(大阪毎日・東京日日新聞主催)日本画展覧会で夫をモデルにした「陽」が特選一席となります。

 

1943年
京都市展では「兄弟」が京都市展賞を受賞。

 

1948年
戦後、日展を離脱します、日本画の革新を目指して創造美術の結成に参加します。

 

1951年
同第3回展に自分の子供をモデルとした「少年群像」を出品、同作により第1回上村松園賞を受賞します。

 

1951年
創造美術は新制作派協会と合併、新制作協会日本画部となり、同会会員として同展に出品します。

 

1949年
京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)助教授となります。

 

1962年
ビスババーラティ大学(現タゴール国際大学)の客員教授として一年間インドに滞在。これを契機にそれまでの人物画からインドの自然風物、宗教に主題を求めた浄福感あふれる作品へと移行する。その後も度々インドに渡り、中近東へも足を伸ばした。

 

1974年
京都市立芸術大学を退官し、同大学名誉教授となります。また同年新制作協会より独立結成された創画会の会員となります。この時期二度にわたり火災によりアトリエを失います。

 

1980年
京都市内から同府北部の山間にある美山町に画室を移し、制作を続けます。

 

1978年
京都市文化功労者。

 

1981年
京都府美術工芸功労者。

 

1983年
天竜市名誉市民。

 

1985年
「秋野不矩自選展」(京都ほか)を開催します。

 

1986年
には毎日芸術賞を受賞します。

 

1988年
第1回京都美術文化賞を受賞します。

 

1991年
(平成3)年に文化功労者となります。

 

1992年
には画文集『バウルの歌』(筑摩書房)を出版。

 

1993年
第25回日本芸術大賞受賞。

 

1998年
生地である天竜市二俣町に天竜市立秋野不矩美術館が開館します。

 

1999年
文化勲章を受章。

 

2000年
アフリカ行きが最後の海外旅行、翌年の第28回創画会出品作「アフリカの民家」が最後の出品となったが、個展準備のためインドへの取材旅行を計画していた矢先の逝去であり、最晩年に至るまでその創作意欲は衰えることがなかった。

 

2001年
インドの大地と人物を描き続けた日本画家で文化勲章受章者の秋野不矩は10月11日午前11時27分、心不全のため京都府美山町の自宅で死去。享年93。

 

2003年
没後、兵庫県立美術館ほかで大規模な回顧展「秋野不矩展―創造の軌跡」が開催されます。

 

 

 

秋野不矩 朴の花 8号

秋野不矩 朴の花 8号

 

 

秋野不矩は、その「不矩」という雅号を体現するように、型に収まることを良しとせず、大らかな心で自由奔放に創作活動を続けました。そして、溢れる生命力をモチーフに宿しての日本画を描き上げてました。

 

人間や風景、そして草花などの自然から発せられる本質的な「力」と「美」とが、今も秋野不矩の画の世界で輝き続けています。

 

 

 

秋野不矩の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.秋野不矩の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

秋野不矩 査定価格におけるポイント

 

秋野不矩の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

秋野不矩先生の作品は、花や猫の作品に高値の査定価格がつきます。

 

20万円から150万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

秋野不矩の作品は、瓶花の作品や舞妓の作品が評価されます。

 

インドの風景が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

秋野不矩展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

秋野不矩先生の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ秋野不矩の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月8日

荻須高徳の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の荻須高徳の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

荻須高徳の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、荻須高徳の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

荻須高徳の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の荻須高徳のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた荻須高徳の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の荻須高徳の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

荻須高徳 アンジュ河岸・パリ 1936年

荻須高徳 アンジュ河岸・パリ 1936年

 

フランスのパリを訪れたことのある人なら誰でも、この風景を思い出すことがあるでしょう。サンルイ島のアンジュ河岸です。荻須高徳がパリを訪 れたのは、当時 26歳の年、1927年の昭和2年の秋です。彼はまず、すでにパリで制作を続けていた佐伯祐三を訪れ、ルーブル美術館などを見 学しています。

 

荻須高徳が佐伯祐三の死を知るのは、彼がブルターニュを旅行していた時でした。荻須高徳は遺骨を抱きながら帰国の途につく夫人をマルセイユ港に見送っています。 荻須高徳の風景画は、佐伯祐三の愛したパリの街路をモチーフにしながらも、荻須高徳の独特の端正な筆致 で描かれ、画面は明るく風通しのよい作品に仕上げられています。

 

荻須高徳は、藤田嗣治に次ぐ国際的画家です。戦前、戦後を通じ、フランスを中心とするヨーロッパで支持され、人生のほとんどをパリで過ごしました。戦後はじめて日本人画家としてフランス滞在を許されました。モナコ大賞受賞。フランス国立造幣局は荻須高徳画伯の肖像を浮き彫りにしたメダイユを発行しました。フランス、レジオン・ドヌール勲章受章。文化勲章受章しています。

 

荻須高徳 ガルロン通り

荻須高徳 ガルロン通り

 

 「荻須さんというと、私はいつも穏やかな中にもキッとして姿勢正しい作者のすがたを思い浮かべる。荻須さんが愛知県稲沢市井堀高見町の出身であることは知られているが、幼児病身だったのが旧制中学時代には8粁の道を自転車で通い、5年間を無欠席で通すほど健康になったという。しかも在学中に剣道も強くなり、対抗試合にも出たそうで、この方は美術学校に進んでからも続けていた。同期の山口長男氏の思い出によると、美校時代には几帳面な絵をかいて、いかにも学生らしい学生だったといわれている。「田舎の模範青年団員」という愛称さえもあったというから、若き日の作者のほほえましい風格が忍ばれよう。」(河北倫明)

 

 

荻須高徳 本人

荻須高徳 本人

「芸術は生活と離れちゃいけない」という言葉を残しています。

 

住んでいるところ

自分の生きているところ

住んでいる周りで受ける

いろんなヒントが非常に大事

 

 

荻須高徳の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.荻須高徳の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.荻須高徳の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱が無いのですが買取りしてもらえますか?
A.箱が無くても買取りは可能ですが、額が痛みますので丁寧に扱ってください。

 

Q.荻須高徳の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.荻須高徳の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.洋画家の作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

荻須高徳 略歴

 

戦前、戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人です。

 

明治34年
1901年11月30日愛知県中島郡に生まれた。愛知県第三中学校を卒業します。

 

大正9年画家を志して上京、川端画学校で藤島武二の指導を受けます。

 

大正10年
東京美術学校西洋画科に入学します。同期に小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らがいました。

 

大正15年
東京美術学校卒業します。フランスから帰国中の佐伯祐三を山口長男と訪ね、佐伯祐三に鼓舞されてフランス留学を決意し、同年山口長男とともに渡仏します。パリでは佐伯祐三の側で制作を進め、当初は画風の上で佐伯祐三の強い影響を受けて出発しました。

 

昭和2年
佐伯祐三没後は、ユトリロの作品に強くひかれていきます。

 

昭和3年
サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品を続けます。

 

昭和11年
サロン・ドートンヌ会員となります。

 

昭和6年
パリのカティア・グラノワ画廊で個展を開催したのをはじめ、以後ジュネーヴ、ミラノなどでも個展を開きました。

 

昭和11年
「プラス・サンタンドレ」がフランス政府買上げとなります。

 

昭和12年
サロン・ドートンヌ出品作「街角」がパリ市買上げとなります。

 

昭和14年
第2次世界大戦勃発にともない翌年帰国し、新制作派協会会員に迎えられ、同年の第5回同協会展に滞欧作が特別陳列されます。

 

昭和17年
陸軍省嘱託として仏領インドシナなどに派遣されます。

 

昭和23年
日本人画家としては戦後はじめてフランスへ渡り、以後パリを中心に制作活動を展開、

 

昭和26年
サロン・ド・メに招待出品したのをはじめ、サロン・ド・テュイルリやヨーロッパ各地での個展で制作発表を行う。パリの街角を独自の明快で骨太な筆触で描き続けた作品は、広くパリ市民にも愛されます。

 

昭和31年
フランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章を受章します。

 

昭和49年
パリ市からメダイユ・ド・ヴェルメイユを受けます。

 

昭和54年
パリ市主催でパリ在住50年記念回顧展が開催される。また、松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力するなど、日仏文化交流にも尽しました。

 

昭和29年
第5回毎日美術賞特別賞を受賞。

 

昭和30年
神奈川県立近代美術館、翌年ブリヂストン美術館でそれぞれ回顧展が開催されます。

 

昭和37年
国際形象派結成に同人として参加しました。

 

昭和40年
17年ぶりに一時帰国します。

 

昭和55年
東京新聞紙上に連載したパリ生活の回想をもとに『私のパリ、パリの私』を刊行、中日文化賞を受賞。

 

昭和56年
文化功労者に選任されます。

 

昭和58年
郷里の稲沢市に稲沢市荻須記念美術館が開館します。

 

1986年
パリ在住の洋画家荻須高徳は、10月14日午前2時(日本時間同10時)パリ市18区の自宅近くのアトリアで制作中死去した。享年84。

 

戦後の作品に「サン・マルタンの裏町、パリ」(昭和25年)、「路に面した家・パリ」(昭和30年)などがある。葬儀は10月17日モンマルトル墓地で執行され、画家のジャン・カルズー、アイスビリー、カシニョル、ワイスバッシュ、シャプランミディをはじめ、本野盛幸駐仏大使ら在パリ日本人会など三百人余が参列した。また、没後日本政府から文化勲章が追贈された。

 

 

 

荻須高徳 オレンジ色の日除よけ 1984年 リトグラフ

荻須高徳 オレンジ色の日除よけ 1984年 リトグラフ

 

荻須高徳の作品は、上記のような、版画も多数残っております。当時人気がすごくあり、お客様のご自宅に飾ってある事が結構あり時々見受けます。

 

 

 

荻須高徳の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.荻須高徳の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

荻須高徳 査定価格におけるポイント

 

荻須高徳の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

荻須高徳先生の作品は、パリの街並みの作品に高値の査定価格がつきます。

 

200万円から800万円ぐらいの買取相場です。版画は3万から8万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

荻須高徳の作品は、キャンバスの作品が評価されます。

 

パリやイタリアの風景が描かれていると評価されます。

 

リトグラフ、版画の作品もあります。水彩画の残されています。

 

荻須高徳展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

荻須高徳先生の作品は、初期の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ荻須高徳の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月7日

織田廣喜の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の織田廣喜の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

織田廣喜の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、織田廣喜の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

織田廣喜の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の織田廣喜のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた東郷青児の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の織田廣喜の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

織田廣喜 本人

織田廣喜 本人

 

福岡県嘉穂郡(現・嘉麻市)に生まれます。昭和6年、町内に住む帝展入選画家の犬丸琴堂に油絵を学びます。翌年上京して学費を稼ぎ、昭和9年から昭和14年まで日本美術学校に在学します。

 

この時に、藤田嗣治や岡田謙三らの指導を受けます。昭和15年第25回二科展に《未完成》が初入選し、以後同展に出品を続けます。昭和21年第31回展に《黒装》で二科賞、昭和43年第53回展に《小川の女たち》《サンドニの少女》で総理大臣賞、昭和46年第56回展に《水浴》で東郷青児賞を受賞します。

 

平成7年、画業50年に対して日本芸術院賞・恩賜賞を受賞します。平成18年には二科会理事長に就任します。少女像や女性たちが行き交う街頭風景などをモティーフに、哀愁とロマンティックな詩情を感じさせる作品を数多く描きました。

 

 

織田廣喜 田園の裸婦 1997年

織田廣喜 田園の裸婦 1997年

 

いい意味で、うそをついた絵のほうがいい。

キャンパスの上では自由。

楽しんで描こう。自分が楽しければ人も楽しいのです。

~「絵筆とリラ」より~

 

 

織田廣喜独自の造形や色使い、女性のやさしい体つぎが独特の表現でなされています。なんとなく胸を締めつけるような儚げな雰囲気が表現されていて、絵を見るものを虜にしていくのではないでしょうか。

 

 

 

織田廣喜の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.織田廣喜の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.織田廣喜の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.裏書やサインがわからないですが買取りしてもらえますか?
A.一度拝見してください。当店で分かる事をご説明いたします。

 

Q.織田廣喜の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.織田廣喜の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.洋画家の作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

織田廣喜 少女 

 

上記の画像ような作品がポピュラーであり、よく見かけます。

人気の図柄で注文が殺到したのでしょう。

弊社もたくさん購入履歴があります。

 

 

 

織田廣喜 略歴

 

1914年
大正3年4月19日、福岡県嘉穂郡千手村(現、嘉麻市)に生まれ、17年に隣村の碓井村に転居します。

 

1929年
昭和4年、碓井尋常高等小学校高等科を卒業。麻生鉱業に勤務していた父が病気になったため、家計を助けるため陶器の絵付けなどをして働き、福岡市の菓子店に勤めたのち、碓井村に戻り郵便局員として勤務します。

 

1931年
同村に住む帝展作家犬丸琴堂(慶輔)に油彩画の指導を受け、同年の福岡県美術展にゴッホの影響を示す「ひまわり」という作品で入選します。

 

1932年
上京し1934年に日本美術学校絵画科に入学します。当時は大久保作次郎が指導しており、後に藤田嗣治、林武らにも師事する。在学中、3年ほど美術雑誌『みづゑ』の編集発行を行っていた大下正男のもとで発送作業などを行います。

 

1939年
日本美術学校西洋画科を卒業します。

 

1940年
第27回二科展に「未完成(室内)」で初入選します。

 

1943年
徴用により横川電機製図部に入ります。

 

1945年
終戦後、進駐軍に雇われ兵舎のホール等に壁画を描きます。

 

1946年
100号のカンヴァスに3人の着衣の女性の立像を白と黒のペンキで描いた「黒装」を第31回二科展に出品して二科賞受賞。47年第1回美術団体連合展に「憩ひ」を出品。以後、同展には第5回まで出品を続けます。

 

1949年
第34回二科展に「楽」「立像」「群像」「黄」「静物」が入選し、二科会準会員となります。

 

1950年
第35回同展に「讃歌」「曲」「女」を出品して同会会員に推挙される。「讃歌」は800号の大作で、当時、画力向上のために大画面制作を奨励していた二科会で高い評価を得ました。

 

1951年
二科会の画家萬宮(まみや)リラと結婚します。

 

1952年
第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「無題」「女」「静物」を出品し、以後も同展に出品を続ける。同年、第37回二科展に「酒場」「風景」「女」を出品して会員努力賞受賞します。

 

1954年
第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「群像」「風景」を出品し、以後も出品を続けます。

 

1960年
初めて渡仏し、それまで夢見ていたフランスを実見して、現実と想像の差異を認識するとともに、その認識を踏まえた上で想像力をもって描くことの重要性に思い至る。対仏中にサロンドートンヌに出品して翌年帰国します。

 

1962年
渡仏し、スペイン、イタリアを訪れて翌年4月に帰国。

 

1962年
第1回国際形象展に「パリ祭」「モンマルトル」を招待出品し、以後、同展に出品を続けます。

 

1972年
同展同人となります。

 

1966年
4月から9月まで渡欧し、スペイン各地を旅行して制作します。

 

1968年
第53回二科展で「小川の女たち」「サンドニーの少女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。71年第56回同展に「水浴」を出品して青児賞受賞。同年、パリのエルヴェ画廊で初めての個展を開催。

 

1970年
1973年にも渡仏します。

 

1980年
11月、「パリの女を描いて20年、織田広喜展」が日本橋三越で開催されます。

 

1982年
3月、福岡市美術館で「憂愁の詩人画家 織田広喜」展が開催されます。

 

1995年
平成7年3月に前年の二科展出品作「夕やけ空の風景」によって日本芸術院恩賜賞・日本芸術院賞を受賞、同年11月に日本芸術院会員(洋画)に選ばれました。

 

1996年
碓井町立織田廣喜美術館が開館します。

 

2003年
フランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章します。

 

2006年
二科会理事長となり、12年には名誉理事長に就任します。現実そのままを描くのではなく、「想像し嘘をつく」ことが絵の制作には必要であると語り、初期から晩年まで、デフォルメされ浮遊するような女性像を特色とする幻想的な作品を描き、人気を博した。主な画集に『織田広喜画集-作品1940-1980』(講談社、1981年)、『織田広喜』(田中穣著、芸術新聞社、1993年)などがあります。

 

2012年
日本芸術院会員で二科会名誉理事長の洋画家織田廣喜は5月30日、心不全のため八王子市の病院で死去。享年98。

 

 

 

 

織田広喜 シャンゼリゼ 6号

織田広喜 シャンゼリゼ 6号

 

1960年に初めてパリを訪れた織田廣喜は、この町のあらゆるところで出くわす「人間の表情が、気が狂うくらいにきれいに見えた」と述べ、以後20年以上、パリジェンヌの姿をカンヴァスに描き続けました。

 

 

 

 

織田廣喜の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.織田廣喜の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

織田廣喜 査定価格におけるポイント

 

織田廣喜の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

織田廣喜先生の作品は、赤い帽子を被った少女の作品に高値の査定価格がつきます。

 

3万円から15万円ぐらいの買取相場です。版画は1万から2万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

織田廣喜の作品は、キャンバスの作品が評価されます。

 

女性が描かれていると評価されます。版画の作品もあります。

 

織田廣喜展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

織田廣喜先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。

 

※このように同じ織田廣喜の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

**************************************

 

弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月6日

小林和作の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の小林和作の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

小林和作の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、小林和作の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

小林和作の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の小林和作のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた東郷青児の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の小林和作の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

小林和作 本人

小林和作 本人

 

明治21年8月14日、父・和市、母・ヨネとの間の13人兄弟の次男として、山口県吉敷郡秋穂村東本郷第341番屋敷(現在の吉敷郡秋穂町東1901番地)に生まれました。代々、田畑塩浜などを持つ富裕な地主で、小林和作より6代前から、毛利藩主から苗字帯刀を許された家柄であった。小林和作は生来、どもりであった。明治26年 4月秋穂村立大海尋常小学校に入学します。

 

この前後、父母に連れられてどもりを治すために上京するが、効果はなかったみたです。学校の成績は卒業まで主席で、勉強より昼寝、魚釣り、「三国志」を始めとする読書が好きでした。

 

明治30年3月同小学校を卒業、4月秋穂村立本郷尋常高等小学校高等科に入学します。ここでも主席を通しました。明治33年に病気のため同校を一年間休学します。この頃から読書を覚え、三国志の直訳本(評伝31)などを読みあさりました。明治35年3月同校卒業します。

 

 

小林和作 秋山

小林和作 秋山

 

絵の道を志すが、後継ぎとして商業学校進学をすすめる父と衝突し、一年間浪人します。明治36年 やっと画家志望を認めた父に伴われて上京し、父の知人の友人である山口県出身の日本画家・田中頼璋の門に入門するが、入門翌日風邪をひいて医師の忠告で直ちに帰郷しました。

 

明治37年4月京都市立美術工芸学校絵画科に入学します。同級生にのちの美術評論家の田中喜作のほか、川路柳虹、高畠華宵がおり、一級上には村上華岳、榊原紫峰がいました。絵画科の教授陣は竹内栖鳳、山元春挙、菊池芳文たちでした。米屋の二階に下宿し、郷里から月十円の仕送りを受けた。一年後、下級生として森谷南人子、人見少華が入学してきました。

 

明治39年 父親にすすめられて一ヶ月間休学し、どもり矯正のため上京します。明治の教育者井沢修二が創設した楽石社に入寮して矯正を受けるが、あまり効果もなく帰洛します。あまり効果がなく一ヶ月が終わろうとしていたときに、井沢修二が小林和作に言いました。

「きみは絵描き志望の由だが、絵にはドモリであっても差し支えないはずだ。ドモリを直すのは消極的な方法だから、ドモリであることを恥ずかしがらぬ度胸を養うことがなお大切だよ。」その言葉が、身体的ハンディーを精神的な鍛錬で克服しようとする小林和作の大きな支えとなました。

 

 

小林和作 春雪の山

小林和作 春雪の山

 

明治41年3月、同校絵画科を卒業します。学科の成績は主席で、実技は下位の成績でした。卒業と同時に、前同校助教授の川北霞峰の画熟に入り、号を「霞村」と称しました。明治42年4月京都市立絵画専門学校(予科2年、本科3年)日本画科に入学します。

 

実技の上位合格者は二年に編入されたが、和作は一年、同年4月に本科には森谷南人子が入学します。やがて学校がつまらなくなり、竹内栖鳳の授業以外は出席しませんでした。出欠自由な別科に転科します。

 

別科では一級上に小野竹喬、土田麦僊がいました。転科の甲斐なく出席日数不足で落第、原級に留まります。4月上京し、第三回文展を見に行きます。同展出品の菱田春草「落葉」にいたく感激し、以後菱田春草に心酔します。明治43年4月京都市岡崎勧業館で開催の第15回新古美術品展に出品した「鳩」が高島屋役員の飯田藤二郎に買い取られ、三十円の金をはじめて手にします。

 

 

 

小林和作の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.小林和作の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.小林和作の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.サインが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.サインが無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.小林和作の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.小林和作の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.洋画家の作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

小林和作 バラ花

小林和作 バラ花

 

 

「天地豊麗」の言葉をよく用いた小林和作は「天地豊麗」と言う言葉を、口癖のように使っていたと言います。 豊麗とは豊潤で美麗な様子を表現したもので 「天地豊麗」は小林和作が作品で目指していたものだと考えられます。

 

「天地豊麗」は 小林和作の画集のタイトルにもなっています。 日本画に挫折したから洋画家となったようですが 日本画を学んだ経験も、活かされて、自身の作品に対する信念として形作られました。

 

小林和作は、日本的な風景や花を描こうとしたのではないでしょうか。洋画家が描くヨーロッパの風景などはあまり見た事がないです。太い線でキャンバスに塗り付けるタッチが独特で、そこに小林和作の魅力があるのでしょう。きっと大枠で色や形がつかめるのでしょう。少し離れて作品を眺めると、また違った風に作品が見えてきます。

 

最近、作品が下落傾向にあり残念です。また強く応援する画商やコレクターがいたら作品は再評価されると思います。私は額縁を変えたりして、また違ったように作品を提案させていただくと再評価されると思っております。

 

 

 

 

小林和作 略歴

 

明治21年
1888年8月16日、山口県吉敷郡に生まれ。父は和市、田畑、塩浜などを所有する富裕な地主で、小林和作は7人兄弟の長男でした。小学校を了えると画家になることを希望し、廃嫡を父に申し出で、なかなか許されなかったが、遂に父親もおれて、明治36年小林和作をつれて上京します。日本画家の田中頼璋の門に入ったが、入門した翌日から風邪をひいて寝こみ、直に郷里へ帰りました。初期の雅号を霞村、後年には燦樹の別号をもっていた。

 

明治37年
1904年、京都市立美術工芸学校日本画科に入学、同級に田中喜作、川路柳虹、高畠華宵などがあり、1学年上級に村上華岳がいた。幸野楳嶺、菊池芳文門下の川北霞峰の画塾に入ります。

 

明治41年
同校を卒業、京都市立絵画専門学校に入学し、竹内栖鳳の指導をうけた。絵専在学中も霞峰画塾に通い、霞村と号します。

 

明治43年第4回文展に椿を描いた作品を出品して入選します。

大正二年
1913年京都市立絵画専門学校を卒業し、この年の第7回文展に「志摩の波切村」が入選します、褒状をうけたが、その後出品しても落選します。

 

大正9年
1920年洋画研究を志して鹿子木孟郎の下鴨の画塾に入門して初歩の木炭画から始め、ここで林重義、北脇昇などと知り合う。
 

 

大正11年
1922年春、大正博覧会に上京、偶然紹介された小石川の野島熙正邸を訪ねてその所蔵の洋画コレクションに接し、特に梅原龍三郎、中川一政の作品に感動して洋画への転向と上京を決し、居を東京に移した。中野の前外務大臣伊集院彦吉の邸宅に住い、梅原龍三郎、中川一政、それに林武に油彩画の指導をうけ、春陽会展に出品します。また、梅原龍三郎、中川一政、林武らの作品を蒐集します。京都におけるジャン・ポール・ローレンス系のフランス・アカデミスムの画風から、上京後は印象派以後の近代的画風へと転じていく。

 

大正14、15年
つづけて春陽会賞を受賞します。

 

昭和2年
1927年
第5回春陽会展に「上高地の秋」を出品して春陽会会員にあげられる。

 

昭和3年
1928年1月、林倭衛、林重義、ベルリンへ行く弟と4名でシベリア経由でヨーロッパへ赴き、パリへ行き、さらに山脇信徳と共にイタリア旅行、夏にはイギリスへ旅行しました。

 

昭和4年
1929年、春には約5ヶ月のあいだエクス・アン・プロヴァンスに滞在した。同年5月、再びシベリア経由で帰国します。

 

昭和6年
1931年、経済恐慌で実家の経済状態が悪化し、財産を整理、その前年に創立された独立美術協会に林重義を通じて参加を勧誘されたがこれを断り資金援助だけをします。
 

 

昭和9年
1934年、春陽会を脱会して独立美術協会に会員として参加、また、同年東京から尾道に居を移し、以降、尾道にあって独立展を中心に作品を発表していきます。戦後は、春、秋の二度にわたり長期の写生旅行で日本国内をまわり、その成果を独立展、秀作展、日本国際美術展、現代日本美術展などに発表します。

 

昭和28年
1953年、27年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。

 

昭和46年
1971年、に勲三等旭日中綬章を受賞。なお、80歳を祝って、梅原龍三郎、中川一政、小糸源太郎などを加えて八樹会がおこされ、日動画廊で展覧会が毎年開催される。後半期は日本の古美術、特に肉筆浮世絵、文人画から富岡鉄斎、村上華岳などと幅広い蒐集でコレクターとしても知られ、また、随筆家としてもよく知られており、随筆集に「風景画と随筆」「春雪秋露」「美しき峯々の姿」「天地豊麗」「春の旅、秋の旅」などの著書があり、そのほか、「浮世絵肉筆名品画集―小林和作家蔵」(画文堂)、「備南洋画秀作集」(求竜堂)などがあります。

 

昭和49年
1974年、尾道市在住の独立美術協会員、小林和作は、11月3日出入りの門下生4名とスケッチ旅行中、車から降りたときにドアに接触して約2メートル下の荒地に転落、広島県三次市の双三中央病院で治療中であったが、11月4日午後9時過ぎ、頭蓋内出血のため死去した。享年86歳。

 

 

 

小林和作の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.小林和作の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

小林和作 査定価格におけるポイント

 

小林和作の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

小林和作先生の作品は、風景画の作品に高値の査定価格がつきます。

 

5万円から10万円ぐらいの買取相場です。版画は1万から2万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

小林和作の作品は、キャンバスの作品が評価されます。

 

湖が描かれていると評価されます。版画の作品もあります。

 

小林和作展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

小林和作先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ小林和作の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月5日

東郷青児の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の東郷青児の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

東郷青児の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、東郷青児の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

東郷青児の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の東郷青児のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた東郷青児の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の東郷青児の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

東郷青児 本人

東郷青児 本人

 

東郷 青児は、日本の洋画家、本名は東郷 鉄春、夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡しました。

 

派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれていました。 独特のデフォルメが施されて、柔らかな曲線と穏やかな色調で描かれた女性像が有名です。後期には版画や彫刻も手掛けております。雑貨のデザインや本の装釘も数多く残っており、また、彼の画風は弟子の安食一雄に受け継がれています。

 

 

東郷青児 ピエロ 1926年

東郷青児 ピエロ 1926年

 

名古屋の丸栄百貨店のエレベーターや洋菓子の包装紙だけでなく、2007年に閉店した吉祥寺の老舗喫茶店「ボア」は、東郷青児がプロデュースし、店のロゴからケーキを入れる箱、包装紙、マッチデザインなどを手がけております。栃木県のマロニエ、横浜の洋菓子店「フランセ」 鹿児島の銘菓「御菓子司青柳」 駒込の洋菓子店「アルプス洋菓子店」 久が原の洋菓子店「フラマリオン」 京都喫茶店「喫茶ソワレ」 自由が丘の洋菓子店「モンブラン」 成城の洋菓子店「成城アルプス」などがあります。

 

ダンディで社交的であったことから女性スキャンダルも少なくなく、愛人のひとり、作家の宇野千代の『色ざんげ』は、東郷青児をモデルにしています。

 

 

東郷青児 塔のある町

東郷青児 塔のある町

 

「女の美しさは千手観音の功徳以上に素晴らしいものではないだろうか」。これは、「女体礼賛」という晩年の絵に寄せた東郷青児の言葉です。

 

このような作品が人気がありますね!今の若者にも多少は支持されるようにも思います。アカデミックな要素も多少ありますが、女性の雰囲気やスタイルが今の時代にも受け入れられると思います。そんなに相場が下がっているというような感じはあまり受けません。まだまだ、人気があるという事ですね。

 

 

 

東郷 青児の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.東郷 青児の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.東郷 青児の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.サインが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.サインが無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.東郷 青児の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.東郷 青児の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.洋画家の作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

 

東郷 青児 略歴

 

明治30年
(1897)東郷青児は、本名を鉄春、鹿児島市の旧島津藩士の家に生まれ、幼年時代に上京、青山学院中学部を卒業した。中学時代から絵画の勉強をはじめたが、中学4年ころか、竹久夢二展をみて感激し夢二宅にも出入りしていました。

 

大正3年
ベルリンから帰国した作曲家山田耕作と知り合う。

 

大正4年
山田耕作の東京フィルハーモー赤坂研究所の一隅を借用して制作、同年9月日比谷美術館で個展を開催「コントラバスを弾く」など前衛的な作品を発表した。山田耕作は、ベルリン滞在時に『シュトルム』と接触があり、帰国のときドイツ表現派の版画などを持ち帰っていた。この個展のとき有島生馬の知遇をえ、以後、有島生馬に師事することとなります。

 

大正5年
第3回二科展に「パラソルさせる女」が入選、直に二科賞をうけて画壇に登場した。以後、滞欧期をはさんで戦前、さらに戦後と終始二科会にあって活躍することになる。

 

大正10年
1921年、第1次大戦後のフランスに留学して、タダイスムに接し、同年イタリアに未来派マリネッティを訪ねます。

 

大正11年
にはリヨン美術学校に学び、その後再びパリに移って制作します。

 

昭和3年
1928年に帰国します。帰国後は二科会のなかで藤田嗣治らと親交します。

 

昭和13年
二科会内の前衛グループ九室会が結成され、藤田嗣治と共に顧問となりました。東郷青児の華々しい活躍は戦後で、昭和20年敗戦直後に二科会再建に尽力し、美術団体のなかでもっとも早く再建に成功、以後、二科会の中心的画家となり、会長も務め、毎年、秋の美術シーズンの幕開けに二科展開会の祭典を演出して話題を集めました。作風は、初期の表現主義から未来派、キュービスム、さらにシュール・レアリスムの影響をうけた作風へとすすみ、戦後は甘美なロマンティンズムと幻想をただよわせた独特の女性像で知られました。

 

昭和32年
日本芸術院賞をうけ、同35年日本芸術院会員となった。フランス、ブラジルなどとの美術による国際交流にも尽力します。

 

昭和47年
ブラジル政府から、昭和51年にはフランス政府からそれぞれ勲章を授与されました。

 

昭和53年
4月24日、熊本県立美術館での第62回二科展巡回展のために熊本に入り、翌日ホテルで倒れ呼吸困難に陥り、熊本大附属病院に収容され、午後2時8分死去した。 

 

昭和53年
1978年、日本芸術院会員、二科会会長の洋画家東郷青児は、4月25日午後2時8分、急性心不全のため旅行中入院先の熊本市熊本大附属病院で死去した。享年80でした。

 

 

 

東郷青児 パラソルさせる女 1916年

東郷青児 パラソルさせる女 1916年

 

東郷青児は、我が国初のキュビストとして知られ、キュビスムの影響を受けた作品を残しています。

 

こういう初期の作品は、非常に魅力がありまうね。なかな市場に出て来ませんが、出たら高く売れると思います。1916年ですから、ピカソやブラックと10年前後しか離れていません。日本人でここまで作品が出来たのは、充分評価に値すると思います。キュビズムの画風を取り入れながらも、絵画として充実している大変魅力のある作品です。

 

 

 

 

東郷青児の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.東郷青児の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

東郷青児 査定価格におけるポイント

 

東郷青児の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

東郷青児先生の作品は、少女の作品に高値の査定価格がつきます。

 

50万円から150万円ぐらいの買取相場です。版画は1万から2万が相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

東郷青児の作品は、キャンバスの作品が評価されます。

 

瞳がとぢてる方が評価されます。版画の作品もあります。

 

東郷青児展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

東郷青児先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ東郷青児の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

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