2025年2月20日

村上華岳の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の村上華岳の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

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村上華岳の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の村上華岳のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた村上華岳の作品を鑑定して買取りいたします。

 

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村上華岳 本人

村上華岳 本人

 

京都市立絵画専門学校に学んだ日本画家の小野竹喬、 土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰により、大正 7 年の1918年に京都で創立された国画創作協会は、約 10 年間にわたって、7 回の展覧会、国画創作協会 展覧会を開催しました。 村上華岳は、その前期にあたる第 1 回〜第 3 回展に人物像を各 1 点 出品しています。

 

第 1 回展に出品した《聖者の死》1918 年・関東大震災により焼失。 大下絵が京都市美術館に伝存している作品では、悲嘆に暮れる群衆の中で聖者が涅槃に入る様子を描き、第 2 回展の《日高河清姫図》1919 年・東京国立近代美術館蔵には紀州道成寺伝説に基づいて、僧安珍を追いかけた末、日高川に身を投じる刹那の清姫を発表 し、第 3 回展では《裸婦図》1920 年・山種美術館蔵によって、村上華岳の理想とした 「久遠の女性」を表現しました。

 

 

村上華岳 日高河清姫図 1919年

 

村上華岳 日高河清姫図 1919年

 

村上華岳が第 1 回展のために準備したものの、展覧会へは恐らく出品しな かった作品として、目の見えない一人の男性を描いた《盲者の春》(現存不詳。『新京都』1918 年 11 月にモノクロ図版が掲載という作品の存在を確認することができました。 この時期から村上華岳は特に目を意識して制作するようになったと考えられ、その後、村上華岳のほぼ全ての作品において、神仏など尊崇の対象となる存在は開眼し、俗人は目を閉 じて表現されています。

 

この描写には、国画創作協会で顧問を務めた美学者の中井宗太郎からの影響を指摘することができます。中井宗太郎は、大正 7年の1918年 2 月の雑誌『中外美術』に発表しました「釈迦金棺出現図と色彩象徴」という文章の中で、モーリス・メーテルリンクの戯曲「群盲」(Les Aveugles)にも触れながら、「衆生は道と光とを失つた群盲である。この群盲に道と光を與ふるものは聖者である。」として、釈迦金棺出現図について解説しています。

 

 

釈迦金棺出現図 平安時代・11世紀 京都国立博物館

釈迦金棺出現図 平安時代・11世紀 京都国立博物館

 

この頃、直接村上華岳が《釈迦金棺出現図》(京都国立博物館蔵)の解説を中井宗太郎から受けて、釈迦と摩耶夫人の母子の物語に創作意欲をかき立てられていた様子も確認できることから、村上華岳が《聖者の死》で展開した世界観や表現も《釈迦金棺出現図》やその解説を参照した可能性が高いです。 第 2 回展のために準備されながら未発表となった《母と子》などを含めて、主に前期国画創作協会時代の目の描写の変遷を考察し、村上華岳の制作態度や女性観が感じる事ができる。

 

 

村上華岳 聖者の死 1918年

村上華岳 聖者の死 下絵 1918年

 

加えて、主に《日高河清姫図》について、西洋絵画の影響で「引目鉤鼻」を否定し、解剖学的視点に基づいて多くが伏目で描かれた聖女像や美人画、あるいは物語の再現性に主眼を置いて発展した歴史画といった明治期以降の面貌表現を踏まえ、伝統的な引目を「盲目」すなわち俗人の苦悩に置き換えた手法に前時代とは異なる象徴性を指摘し、同作を大正期の美術に画期をもたらした作例として、近代日本美術史上に重要な作品と考えられます。

 

 

村上華岳 裸婦図 1920年

村上華岳 裸婦図 1920年

 

国画創作協会を設立し新様式の日本画を描いて活躍した村上華岳の傑作、大正9年に、第三回国画創作協会展に出品された作品で、薄物を纏った女性の姿を上品に絹本に描いている。インドの仏教美術や西洋の宗教画なども研究した村上華岳による人体表現の到達点を示す日本画作品であり、我が国大正期の日本画による裸体画の代表作です。

 

村上華岳 瞻部樹下悉達太子禅定之図

村上華岳 瞻部樹下悉達太子禅定之図 1933年

 

箱書に難しい漢字が並んでいます、「瞻部(せんぶ)」と(えんぶ)」ともいわれる樹木「ジャンブ」の事です。はインド、ひいては人間世界を「瞻部(せんぶ)(閻浮(えんぶ))堤(だり」と称するほど、インドでは親しまれてきた木です。「とは、釈迦の皇太子時代の名前「悉達多(シッ意味します。「禅定」とは、座禅をして瞑想する事です。この絵画には、出家前の釈迦が、樹下で心静かに座禅を組んでいる姿が描かれています。墨の濃淡で葉と茎とその影をあらわす事、不明瞭で混沌とした場となり、端正な顔立ちの王子は、薄墨の線でそこに溶けこむかのように描かれています。若き日の釈迦が心身を深く統一していく感覚が、みずみずしくも穏やかに表現されている日本が作品です。

 

 

村上華岳 山澗含春図

村上華岳 山澗含春図 1936年

 

晩年の村上華岳は慣れ親しんだ六甲の山を数多く描きました。題名の「澗」は山間を流れる谷川を、「含春」は春の気配を意味します。この水墨画が描かれた当時、村上華岳は学生時代から活躍ていた京都から、神戸の実家に戻っていました。持病の喘息の悪化で床に就く事が多くなり、製作活動は続けていたものの、画壇の表舞台からは身を引いていました。この水墨作品ではさまざまな薄墨の表現によって、芽吹く山や川の流れが描かれていますが、山肌から湧き立つ霞に揺ぐように混沌としています。喘息の症状が出やすくなる冬を乗り越えたあとの、春を待ち望む思いを反映しているかのように、自由でのびやかな筆遣いで描かれた日本画作品です。

 

 

村上華岳の言葉

 

〈制作は密室の祈り〉といい、〈仏陀山水であり山水菩薩である〉という言葉は、作家の描くものは仏画も山水も同じように生命の深淵を研ぎ出す行為であるという境地を示しています。

 

 

 

 

村上華岳の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.村上華岳の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.村上華岳の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.村上華岳の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.村上華岳の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

村上華岳の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.村上華岳の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

村上華岳 査定価格におけるポイント

 

村上華岳の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

村上華岳先生の作品は、菩薩や山水の作品に高値の査定価格がつきます。

 

30万円から500万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

村上華岳の作品、絶筆の場合は入江波光箱書きです。波光の箱書の作品も評価されます。

 

晩年の作品で山水や菩薩が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

村上華岳展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

村上華岳の作品は、晩年の水墨作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ村上華岳の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

 

 

村上華岳 略歴

 

 明治21年
7月大阪に生れます。武田誠三の長男、武田震一

 

明治28年
神戸小学校に入学します。神戸村上家に寄居。

 

明治34年
同校卒業、京都美術工芸学校に入学します。

 

明治37年
村上家を継ぎます。

 

明治40年
美術工芸学校卒業します。

 

明治41年
第13回新古美術品展「木枯」4等、文展第2回「驢馬に夏草」3等

 

明治42年
第14回新古美術品展「春の雨」4等。京都絵画専門学校設立、入学します。

 

明治44年
第16回新古美術品展「早春」3等、文展第5回「二月の頃」褒状、京都絵専第1回卒業、入江波光、榊原紫峰、土田麦僊、小野竹喬等同期生

 

大正4年
文展第9回「春耕図」

 

大正5年
文展第10回「阿弥陀」特選

 

大正6年
文展第11回「白頭翁」、選外

 

大正7年
1月、入江、土田、榊原、小野、野長瀬等と国画創作協会創立、国展第1回「聖者の死」

 

大正8年
国展第2回「日高川」

 

大正9年
国展第3回「裸婦」

 

大正11年
巴里日本美術展「CINTAMANICAKRA」出品

 

大正12年
京都を去り阪神沿線に住みます。

 

大正13年
国展第4回「説法の図」「八重橋」「瓜茄残暑」

 

大正14年
国展第5回「松山雲煙」

 

大正15年
久迩宮家へ献上画。以後一切の美術団体を離脱します。

 

昭和10年
帝院改組に際し無鑑査推挙、所蔵家により東京美術倶楽部にて5月個展開催します。

 

昭和11年
中井宗太郎主催で京都美術倶楽部にて個展開催します。

 

昭和12年
三聖代名作美術展へ「山」(連作)出品 昭和14年 11月11日没 画集―「華岳画集」(大正12年発行)、「華岳画集」(大正14年発行)「華岳画集」(大正15年発行)「華岳画譜」(昭和6年発行)「華岳画襍」(昭和14年発行)

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月18日

土田麦僊の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の土田麦僊の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

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土田麦僊 舞妓林泉 1924年

土田麦僊 舞妓林泉 1924年

 

 

土田麦僊は、京都日本画壇を代表する画家の一人であり、日本、中国の古画と西洋絵画を統合して、内なる理想美の世界を開いた点で、近代日本画に多大な影響を与えました。土田麦僊の生涯や作品については、土田麦僊が主導した芸術運動である国画創作協会との関係については従来あまり取り上げられておらず、なお検討の余地を残しているように思われます。

 

土田麦僊は国画創作協会の中心人物としてどのような作品を出品したのか、土田麦僊は、統制された構成、線と色との諧調の優美を成すが、「主観」「生命」の表れが弱いと批判されており、土田麦僊の造形志向と自然に没入した内面的人間性を希求する国画創作協会の精神とは隔たりと矛盾が生じていました。  

 

国画創作協会は、大正 9 年の第三回展開催後は、土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花の欧州遊学のため 3 年間 休止されており、大正13年の第四回展から昭和 3 年の第七回展までは後期とみなされます。

 

土田麦僊は会員の中では最も長期にわたる大正10~大正12年間に欧州に遊学し、そこで「表面描写」「細かな写生画」を離れた、構図、色、形の造形性をより強く意識した。そのため、土田麦僊と国画創作協会との芸術観の乖離は、後期国画創作協会においてとりわけ顕著であるように 見受けられます。  

 

 

土田麦僊 ヴェトゥイユ風景 1922年

土田麦僊 ヴェトゥイユ風景 1922年

 

このような後期国画創作協会における土田麦僊は、村上華岳、入江波光、榊原紫峰らとの会員相互間の確執があらわになり、さらに、入江波光風の写実表現に対して「悪写実」として否定したことが指摘されています。この 問題に関しては、土田麦僊が写実に対してどのような捉え方をしていたのか、日本画をどのように考えていたのかを今後も検討するべきであろう。

 

国画創作協会の解散に至った要因の一つとして、先に述べた経済状況の悪化に加えて、会員相互間の確執が挙げられます。国画創作協会の解散に至る経緯を整理し、土田麦僊がいかに国展の解散に関わったのか。  土田麦僊と会員との確執に関して、まず、前期国が国画創作協会と後期国画創作協会の間にあった欧州遊学が、会員ならびに若い出品作家たちとの溝を深めたことが指摘される。

 

国画創作協会の画家のうち遊学を経験したのは、創立会員では土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花のみであった。もとは村上華岳と榊原紫峰も参加し、創立会員全員で遊学する予定であったのが、榊原紫峰は妻を病気の為、村上華岳は喘息の発作を起こした為、参加を断念しました。

 

彼らの不参加は偶然の要素によるが、このことは会員間の溝を深めました。また、絵専に勤めていた入江波光、中井も京都市からの派遣により遊学できたが、若い会員たちのなかで遊学できたのは偶然義兄の援助が得られた吹田草牧のみでした。

 

 

土田麦僊 香魚 鮎

土田麦僊 香魚 

 

 

このとき国画創作協会は一部会員の欧州遊学のため 3年間休止しており、若い世代の画家たちの国展に対する信頼を裏切るものであったとされます。  さらに、滞欧期間は各々異なり、1921年の大正10年に10月 4 日に土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花は共に神戸港を出発したが、小野竹喬、野長瀬晩花は 1 年も滞在せず1922年の大正11年中に帰国した。一方で、土田麦僊は1923年の大正12年まで約 1 年半欧州に滞在しました。

 

この間に、1922年の大正11年入江波光、中井、 草牧が日本から出発し、1923年の大正12年に中井、入江波光、草牧の順で帰国しました。入江波光は滞欧中に家族に不幸があり帰国を早めたが、このような滞欧期間の違いは経済状況の違いにもより、 土田麦僊は滞欧期間の長さ、あるいは欧州でセザンヌやルノワールらの作品を購入したことからも、 最もブルジョワであったことがうかがえます。

 

おそらくこのような経済格差もあり、土田麦僊の遊学中の振る舞いは、土田麦僊に対する周囲の不満を募らせたようであります。土田麦僊の遊学時におけるフランス女性アンリエットとの恋愛については、美術雑誌でも取り上げられて大きな話題となっていたことがうかがえ、厳格な性格の入江波光は土田麦僊の奔放な振る舞いに対して反感を抱いたと考えられます。

 

 

土田麦僊 紅葉小禽

土田麦僊 紅葉小禽

 

会員相互間の確執をめぐって、芸術観の違いについて検討を加えます。国画創作協会の創立会員(第一回展から会員となった入江波光を含む)は、二派に大別されてきた。 まず、土田麦僊、小野竹喬は竹内栖鳳、野長瀬晩花は谷口香嶠の塾生であり、絵専では別科生、村上華岳、榊原紫峰、 入江波光は京都市立美術工芸学校出身の本科生という差異があり、このことが国画創作協会に不協和音を成したことが指摘されます。

 

土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花は「塾派」、村上華岳、榊原紫峰、入江波光は「学校派」と称されました。  彼らの後期国画創作協会における活動をみると、村上華岳は第五回展を最後に第六回展以降は出品せず、 画壇との交渉を絶ちました。入江波光は第六回展に、野長瀬晩花は第七回展に出品していません。さらに、国画創作協会の解散後は、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花は画壇との交渉を断ち、入江波光も展覧会を離れて模写に打ち込みました。

 

一方で、土田麦僊、小野竹喬は第四回展から第七回展まで毎年出品している。解散後は、土田麦僊、小野竹喬は 官展に復帰し、土田麦僊は1934年の昭和11年帝国美術院会員、小野竹喬は1947年の昭和22年、日本芸術院会員となり1976年の昭和51年文化勲章を受章しました。

 

土田麦僊 鮭と鰯

土田麦僊 鮭と鰯

 

このことからは、土田麦僊、小野竹喬らの竹内栖鳳門下生としての立場と、村上華岳、榊原紫峰、入江波光ら「学校派」の半ば職人的な立場とは、展覧会に対する志向、画壇における位置が異なり、「学校派」は第五回展以降国画創作協会に対する熱意が萎えていたことがうかがえます。美工は、京都産業の徒弟として、半ば芸術家、半ば職人の養成を志していました。

 

 

土田麦僊 本人

土田麦僊 本人

 

 近頃私自身の心持ちが自分の仕事に興味を持ちだして来る程非常に隠遁的になってゐるものだから今かうして何かお話ししやうとすることも内心可成り心苦しい思ひである。自分の作品に就いても、丁度藤原、弘仁時代の佛畫工か或ひは徳川時代の人形師のやうに、自分といふものを露骨に表はさない、影の仕事で満足してゐたいと思つてゐる。随分無用氏されており或ひは工藝視されてゐるやうな職人的な仕事にすら興味を持つてゐるのである。で、そのために展覽會といふやうな、對人的なあはたゞしい發表機關に依つて發表したいといふ慾望がそれ程ない。(中略)もう繪具がすぐに剥落してしまふとか或ひは變色してしまふといふやうな、おざなりの仕事よりもつと永久的な仕事にゆつくり取掛かりたいといふ希望を持つてゐる。

 

 

 

土田麦僊の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.土田麦僊の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.土田麦僊の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.土田麦僊の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.土田麦僊の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

土田麦僊の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.土田麦僊の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

土田麦僊 査定価格におけるポイント

 

土田麦僊の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

土田麦僊先生の作品は、舞妓の作品に高値の査定価格がつきます。

 

10万円から60万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

土田麦僊の作品、渡欧時のヨーロッパの風景の作品が評価されます。

 

小禽が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

土田麦僊展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

土田麦僊の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ土田麦僊の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

 

 

土田麦僊略 略歴

 

 

明治20年
2月新潟県佐渡郡に生れる。麦僊名は金二、

明治35年
16歳で上洛します。

 

明治36年
17歳、鈴木松年の門に入ります。

 

明治37年
18歳で、竹内栖鳳の門に移ります。

 

明治38年
19歳、新古美術品展第10回「清暑」4等賞

 

明治39年
20歳、新古美術品展第11回「残陽」3等賞

 

明治40年
21歳、新古美術品展第12回「春の歌」2等賞1席

 

明治41年
22歳、文展第2回「罰」3等賞

 

明治42年
23歳、絵画専門学校入学します。

 

明治42年
23歳、新古展第14回「徴税日」2等2席

明治43年
24歳、新古展第15回「春山霞壮夫」2等2席

 

明治44年
25歳、京都絵専選科卒業します。

 

明治44年
25歳、 文展第5回「髪」褒状

 

大正元年
26歳、文展第6回「島の女」褒状、「冬」

 

大正2年
27歳、文展第7回「海女」

 

大正3年
28歳、文展第8回「散華」褒状

大正4年
29歳、文展第9回「大原女」3等賞

 

大正5年
30歳、文展第10回「三人の舞妓」

 

大正6年
31歳、文展第11回「春禽趁晴」

 

大正7年
32歳、1月国画創作協会組織。国展第1回「湯女」

 

大正8年
33歳、国展第2回「三人の舞妓」

 

大正9年
34歳、 国展第3回「春」

 

大正10年
35歳、秋西欧美術巡礼に旅立ちます。

 

大正12年
37歳、3月帰朝します。

 

大正13年
38歳、国展第4回「舞妓林泉図」

 

大正14年
39歳、国展第5回「罌栗」、「鮭と鰯」、「舞妓」、「大原女」

 

大正15年
40歳、聖徳太子奉讃展出品「鶉」

 

昭和2年
41歳、国展第6回「大原女」

 

昭和3年
42歳、国展第7回「朝顔」、7月国画創立協会解散。

 

昭和4年
43歳、帝展第10回「罌栗」

 

昭和5年
44歳、帝展11回「明粧」、審査員任命。七弦会第1回展「蓮華」、「麗日」

 

昭和6年
45歳、帝展第12回「娘」。七弦会第2回展「舐瓜図」「菊」。瓜図(久迩宮家御所蔵)

 

昭和7年
4歳、第13回帝展審査員任命。七弦会第3回展「黄蜀葵」

 

昭和8年
47歳、帝展第14回「平牀」。清光会第1回展「芍薬」、「菊」。七弦会第3回展「山茶花」

 

昭和9年
48歳、帝展第15回「燕子花」。10月20日帝国美術院会員任命。

 

昭和10年
49歳、春虹会第1回展「舞妓」。清光会第3回展「蓮」、「舞妓」。七弦会第5回展「歌妓図」。秋渡鮮。「妓生の家」画稿成る。

 

昭和11年
50歳、「妓生の家」製作中罹病。5月27日大学病院入院。6月10日逝去 享年50。

 

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北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

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2025年2月16日

入江波光の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の入江波光の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

入江波光の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、入江波光の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

 

入江波光の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の入江波光のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた入江波光の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の入江波光の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

入江波光 南欧小景(聖コスタンツァ寺)」 1922年

入江波光 南欧小景(聖コスタンツァ寺)」 1922年

 

日本画家、入江波光の一生は単純である。明治二十年、京都に生まれ、生涯その生家を離れることなく、一九四八(昭和二十三)年、病没した。本名幾治郎。高等小学校時代に森本東閣に師事し波光の号を受ける。明治34年京都市立美術工芸学校に入学、村上華岳、榊原紫峰は、同級生になります。

 

卒業後、染色会社見習や、砲兵連隊に志願入隊したのち、明治40年同校研究科に入学。明治42年京都市立絵画専門学校設立に際して、2学年に編入されました。同研究科卒業後も、同校嘱託、助教授をつとめ、昭和11年より教授となる昭和15年からの法隆寺壁画模写への参画は名高く、寝食を忘れて精励したといわれ、歴史に名を残しました。
 

展覧会へはほとんど出品せず、古画の模写を軸にした教育を生活の中心にしていたため、その実力にもかかわらず、専門家以外にはほとんど名を知られることがなかった。現在でも、これはあまり変わらない。かろうじて波光を有名にしているのは、土田麦遷、榊原紫峰、村上華岳、小野竹喬とともに参加した「国画創作協会」での活躍(その第一回展では「降魔」で国画賞を受賞)

 

 

 

入江波光 志ぐれ 1937年 昭和12

入江波光 志ぐれ 1937年 昭和12

 

「花を忠実に写生することよりも、」花を咲かせているものの観察が肝要である」と語った画家だけのことはある。

 

 

入江波光の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.入江波光の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.入江波光の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.入江波光の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.入江波光の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

入江波光の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.入江波光の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

入江波光 査定価格におけるポイント

 

入江波光の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

入江波光先生の作品は、晩年の仏画の作品に高値の査定価格がつきます。

 

10万円から100万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

入江波光の作品、渡欧時のヨーロッパの風景の作品が評価されます。

 

小禽が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

入江波光展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

入江波光の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ入江波光の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

 

入江波光 如意輪観音 昭和14年頃

入江波光 如意輪観音 昭和14年頃

 

 

 

入江波光 略歴

 

明治20年
京都市に生まれる。本名は幾治郎。

 

明治35年
森本東閣に師事、この年京都市立美術工芸学校に入学します。

 

明治38年
京都市美術工芸学校を卒業します。

 

明治40年
同校研究所に入学します第1回文展に「夕月」を出品入選した。

 

明治42年
京都市立絵画専門学校新設され、その第2学年に入学します。

 

明治44年
京都市立絵画専門学校を卒業します。

 

大正2年
京都市立美術工芸学校教諭に任ぜられます。

 

大正7年
絵画専門学校助教授となり、国画創作協会に「降魔」を出品、授賞されます。

 

大正8年
同協会同人となり、第2回展に「臨海の村」発表します。

 

大正9年
第3回展に「彼岸」を発表します。

 

大正11年
京都府から英、米、伊へ出張を命ぜられます。

 

大正12年
帰朝します。

 

大正13年
第4回国展に「虹」を出品します。

 

大正14年
の第5回国展に「ローマ郊外」、昭和3年第7回国展に「摘草」を発表した。

 

昭和11年
京都絵画専門学校教授に進みます。

 

昭和13年
北京、大同に出張します。

 

翌昭和5年
朝鮮美術展審査のため朝鮮に出張します。

 

昭和15年
文部省から法隆寺壁画の模写を依嘱され、晩年はほとんどこれに没頭した。その間仏画及び水墨画に、洗練された技法を示します。

 

昭和23年
日本画家入江波光は、6月9日京都市上京区の自宅で胃病のため逝去。享年62。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月14日

榊原紫峰の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の榊原紫峰の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

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榊原紫峰 静物の図 1934年

榊原紫峰 静物の図 1934年

 

榊原紫峰は、明治20年に京都の染織家の家に生まれました。兄の雨村、弟の苔山、始更、弘も共に日本画家になっております。明治40年、京都市立美術工芸学校を卒業して、明治44年には京都市立絵画専門学校(絵専)を、後に国画創作協会を創立する土田麦僊、小野竹喬、村上華岳、入江波光らと共に卒業しました。

 

絵専在学中の明治43年には、第4回文展で《ながき日》が褒状を受け、京都画壇の若手を代表する花鳥画家として文展で入選を重ねていきます。しかし、大正6年の第11回文展で《梅雨霽れ》が好評のうちに無賞に終わったことを受け、かねてから文展の曖昧な体質に不満を抱いていた土田麦僊らと、国画創作協会を創立することになります。

 

 

榊原紫峰 雪柳白鷺図 1924年

榊原紫峰 雪柳白鷺図 1924年

 

大正7年の第1回国画創作協会展に一対の大作《青梅》を出品したのち、第2回展《赤松》、第3回展《奈良の森》と丹念な写生に基づいた立体的な花鳥画を発表します。主要会員の渡欧による中断をはさんだ後期においては、大正13年の第4回展に《雪柳白鷺図》、第5回展《蓮》、第6回展《獅子》、第7回展《冬朝》と、東洋画の古典を再解釈した力作を発表します。いずれの作品も、クラシック音楽の壮大で深遠な調べを造形化したかのような、従来にない花鳥画を創造しました。

 

 

榊原紫峰 墨梅 1966年 晩年

榊原紫峰 墨梅 1966年 晩年

 

昭和3年の国展解散後は、官展への出品はせず、母校の教授を務めながら、小品の水墨画の中に洗練された筆遣いを示していきます。その生涯にわたって、円山四条派の伝統を踏まえつつ、西洋絵画の陰影法と中国の宋元花鳥画の精緻な質感表現を融合した、生新な創作を続けていきました。その高度な筆法技術は日本のみならず、筆文化を持つ東洋の至宝ともいえるものです。

 

 

 

榊原紫峰の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.榊原紫峰の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.榊原紫峰の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.榊原紫峰の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.榊原紫峰の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

榊原紫峰の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.榊原紫峰の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

榊原紫峰 査定価格におけるポイント

 

榊原紫峰の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

榊原紫峰先生の作品は、花鳥画の華やかな作品に高値の査定価格がつきます。

 

5万円から50万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

榊原紫峰の作品、小禽の図柄の作品が評価されます。

 

梅に目白の鳥がふくらんでいる図が、描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

榊原紫峰展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

榊原紫峰の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ榊原紫峰の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

 

 

榊原紫峰 略歴

本名安造。明治20年8月8日日本画家榊原蘆江の次男として京都市中京に生れ、京都市立美術工芸学校卒業後、京都市立絵画専門学校に学び、明治44年第1回生として卒業しました。大正7年に、村上華岳、入江波光、土田麦僊、小野竹喬らと国画創作協会を創立し、新しい日本画創造を目ざして活躍しました。国画創作のほかは官展に出品し、昭和12年京都市立絵画専門学校教授、昭和24年同市立美術大学教授となります。昭和34年退職し、名誉教授となります。この間宇治平等院、醍醐寺三宝院、山科法界寺で壁画模写の指導にあたり、昭和37年には日本芸術院恩賜賞を授与されます。作品は沈静荘重な画風を特色とし、代表作に「赤松」「獅子」「冬朝」「奈良の森」などがあります。著書「紫峰花鳥画集」「花鳥画の本質」「紫峰芸術観」

 

明治20年
日本画家・榊原蘆江の次男として、京都市中京区に生れる。本名、安造。

 

明治40年
京都市立美術工芸学校日本画科卒業。「軍鶏」(卒業制作)引続き同校研究科に進む。この年父より紫峰正勝の画号をもらう。

 

明治42年
京都市立絵画専門学校創設され、村上華岳、入江波光らと共に同校2年に編入。第3回文展に«動物園の猿»初出品、以後大正6年まで文展を中心に出品する。

 

明治43年
「永き日」(褒状)第4回文展

 

明治44年
絵画専門学校本科卒業、続いて研究科に入学。卒業制作«花曇り»を第5回文展に出品して3等賞を受賞。

 

明治45年
「南園の一隅に於ける曲と眠り」第6回文展

 

大正2年
「夕榮」(褒状)第7回文展

 

大正3年
第8回文展出品«秋草»落選 第2回院展に出品する。

 

大正4年
「白梅」第9回文展「秋草」第2回院展

 

大正6年
「梅雨晴れ」第11回文展

 

大正7年
小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花と共に国画創作協会設立の宣言をする。文展を離れて第1回国画創作協会展を開く。「青梅」出品。以後この国展に出品してゆく。

 

大正8年
「赤松」第2回国展

 

大正9年
「奈良の森」第3回国展

 

大正10年
より12年まで、国展は、主力会員のヨーロッパ行きと関東大震災などのため休会する。

 

大正13年 
「雪柳白鷺の図」第4回国展

 

大正14年
「蓮池」第5回国展

 

昭和2年 
「獅子」第6回国展

 

昭和3年
「冬朝」第7回国展。国展第1部(日本画)解散を声明。

 

昭和4年
第10回帝展の推薦となる。また翌昭和5年からは新官制による無鑑査となる。パリ日本美術展に«朝露»を出品。

 

昭和5年
ローマ日本美術展に«風雪白鷺図»を出品。

 

昭和12年
新文展開かれ、参与となる。絵画専門学校教授に就任。

 

昭和14年
第3回新文展の審査員となる。

 

昭和16年 
小野竹喬、入江波光と三人展を開催する。

 

昭和23年
京都市立美術専門学校の客員教授となり、翌年、同美術大学の教授に就任。

 

昭和31年
この年から、宇治平等院、醍醐三宝院、日野法界寺で壁画模写の指導に当る。

 

昭和36年
市立美術大学教授を定年退職、名誉教授となる。この頃から病床につく。

 

昭和37年 
日本芸術院恩賜賞を受ける。

 

昭和44年 
画業60年記念<榊原紫峰>展を大阪・阪神で開催。

 

昭和46年 
日本画家榊原紫峰は、1月7日老衰により京都市北区の自宅で死去した。享年83歳。

画集に«紫峰画集»(大正13年、高島屋美術部)、«同»(大正15年、同)、«紫峰花鳥画集»(昭和9年、芸艸堂)、«紫峰スケッチ集»(昭和23年、全国書房)等、著書に«花鳥画を描く人へ»(昭和4年、中央美術社)、«花鳥画の本質»(昭和10年、芸艸堂)、«紫峰芸観»(昭和15年、河出書房)等がある。この他氏に関する論評及び参考図書等多い。
(年譜京都市美術館年報昭和45年に拠る。)

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2025年2月13日

小野竹喬の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の小野竹喬の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

小野竹喬の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、小野竹喬の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

小野竹喬の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の小野竹喬のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた小野竹喬の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の小野竹喬の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

小野竹喬 本人

小野竹喬 本人

 

小野竹喬は、1918年、大正7年に京都で設立された国画創作協会のメンバーの一員として、日本画の新しい表現を模索したことで知られます。

 

後年には、温雅な色彩と簡潔なかたちを特徴とする画風を確立して、「風景の中にある香りのようなもの」(竹喬の言葉)を画面にとらえようと、さりげない自然の表情に眼を向け続けました。

 

小野竹喬は国画創作協会の仲間である土田麦僊、野長瀬晩花、そして洋画家の黒田重太郎とともに、1921年にヨーロッパへと出発します。

 

小野竹喬は、色に重きをおく日本画へと転じた1939年、昭和14年頃を大きな転換期とみなし、それを境に小野竹喬の作品は、独自の世界に入りました

 

。新しい画風は、色の面によって対象を把握し、かつ日本画の素材を素直に活かそうとするものでした。この時期、小野竹喬は大和絵の表現を手本とし、線も色も古い大和絵に学ぼうとしたのです。

 

小野竹喬 波切村

小野竹喬 波切村 重要文化財

この転換はその後の竹喬作品の方向性を決定づけました。それ以降、小野竹喬はおおらかで単純な形と温雅な色彩を特徴とする表現を深め、ゆるぎない独自の世界を確立してゆきます。

 

奥の細道句抄絵は小野竹喬晩年の代表作です。小野竹喬はこの作品で、江戸時代の俳人、松尾芭蕉の『おくのほそ道』をもとに、その句意を絵にしようと試みました。小野竹喬は昭和お代表する日本画家でした。

 

 

小野竹喬 奥の細道句抄絵 暑き日を海に入れたり最上川

小野竹喬 奥の細道句抄絵 暑き日を海に入れたり最上川

 
「暑き日を海にいれたる」とは、「気温の高い一日が川によって海に流されていく」「あつい夕日が川によって海に沈められていく」といったような意味合いで用いられています。
 
「暑い一日を海に流し入れてしまった最上川(その河口のあたりから涼しい夕風が吹いてきた)」という意味です。
 
 
 
 

小野竹喬 朝空 1975年

小野竹喬 朝空 1975年

 

冒頭でも述べた、「風景の中にある香りのようなもの」を画面にとらえようと、さりげない自然の表情に眼を向け続けた小野竹喬は、茜雲の作品の評価が非常に高く、ピンクの雲は小野竹喬独自の絵画スタイルとも言えます。

 

 

 

小野竹喬の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.小野竹喬の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.小野竹喬の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.小野竹喬の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.小野竹喬の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

小野竹喬の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.小野竹喬の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

小野竹喬 査定価格におけるポイント

 

小野竹喬の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

小野竹喬先生の作品は、風景画の作品に高値の査定価格がつきます。

 

50万円から300万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

小野竹喬の作品は、松尾芭蕉奥の細道シリーズの図柄の作品が評価されます。

 

ピンクの茜雲が描かれていると評価されます。

 

色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。

 

小野竹喬展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

小野竹喬の作品は、晩年の作品が、高値で取引されております。

 

※このように同じ小野竹喬の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

 

 

小野竹喬 略歴

 

1889年
明治22年、11月20日、岡山県笠岡市に父小野才次郎母ハナの四男として生まれ、英吉と命名される。生家は浜中屋を屋号とする文具商であったが、のち、ラムネ製造業を始めます。

 

1902年
笠岡小学校高等科を卒業し、家業を手伝います。

 

1903年
父の希望であった商人になることを嫌い、新劇俳優か、日本画家を志望する長兄益太郎(後に坪内逍遙の創立した文芸協会の第1回生として卒業)の勧めで画家になる決心をし、11月2日京都に出て、竹内栖鳳の門に入る。御幸町錦下ルの長兄の下宿に同居します。

 

1905年
竹内栖鳳から「竹橋」の雅号をもらう。油小路御池西入ルの寺で自炊生活を始めたが、許可を得て、竹内栖鳳宅寄宿生となる。間もなく土田麦僊も寄宿生となり、親交が始まる。日本美術協会展に「月宵」が入選します。

 

1906年
4月、第11回新古美術品展に「夏の夕」を出品します。

 

1907年
4月、第12回新古美術品展に「雨の木屋町」を出品、4等褒状を受ける。10月、第1回文部省主催美術展覧会(文展)に「山家の春」を出品し、入選します。

 

1908年
竹内栖鳳寄宿室を出て、下河原の益太郎宅に寄宿したのち、9月、富小路上ルに間借りします。4月、第13回新古美術品展に「春宵」を出品し、3等となります。10月、第2回文展に「落照」を出品します。

 

1909年
4月、土田麦僊とともに京都市立絵画専門学校別科に入学する。同科には他に野長瀬晩花がおり、本科2年には村上華岳、榊原紫峰、入江波光がいました。同月、第14回新古美術品展に「花の山」を出品し、5等となります。

 

1910年
4月、第15回新古美術品展に「暮るる冬の日」を出品し、3等となる。日の出新聞紙上で田中喜作に好評され、以後田中との親交が始まる。12月、田中喜作を中心とする懇談会「黒猫会(シャ・ノアール)」結成に参加。会員は津田青楓、黒田重太郎、田中善之助、新井謹也、泰輝男、土田麦僊らでした。

 

1911年
3月、京都市立絵画専門学校を卒業。卒業制作に「まつり」を出し、絵専美工校友会展で銀賞を得、学校の所蔵となったが、のちに仮面会展に出品した「南国」と取りかえます。4月、黒猫会は展覧会を開くことになったが、会員間の意見の相違のため解散し、5月、黒田、新井、田中(善)、土田と共に「黒猫会」の発展として「仮面会(ル・マスク)」を結成する。その第1回展を京都三条柳馬場京都青年基督教開館で開き、「南国」「朝」を出品する。10月、第5回文展に「港」を出品します。

 

1912年
5月、第2回仮面会展に「紺屋の裏」「学校」「棕梠」を出品する。この後、同会は会員の多くが京都を離れ、自然消滅する。同月、麦僊と共に知恩院山内崇泰院に移住します。

 

1913年
4月、第18回新古美術品展に「南島-春夏秋冬」を出品する。5月、岡山市郊外大供に移り、文展出品作を制作する。晩秋、再び上洛する。10月、第7回文展に「麦秋」を出品します。

 

1915年
10月、第2回院展に前年度文展の落選作「黍熟るゝ頃」を出品し、入選する。居を粟田口三条に移します。

 

1916年
10月、第10回文展に「島二作」を出品し、特選を受ける。居を室知恩院山内林下町に移します。

 

1917年
10月、第11回文展に「郷土風景」を出品したが鑑別される。居を室町出水上ルに移します。

 

1918年
1月20日、京都倶楽部で「国画創作協会」の結成を発表(この後1月21日、東京上野精養軒でも発表)。11月、第1回国画創作協会展(国展)を東京・白木屋で、引き続き京都・岡崎第一勧業館で開き、「波切村」を出品します。

 

1919年
11月、第2回国展に「夏の五箇山」「風景」を出品します。

 

1920年
11月、第3回国展に「海島」を出品します。

 

1921年
10月4日、土田麦僊、黒田重太郎、野長瀬晩花らと共に神戸出航の賀茂丸にて渡欧の途につく。途中、香港、シンガポール、マラッカ、ボンベイ等を経て、11月16日、マルセーユに着き、アビニヨン、リヨンを見学し、同18日パリに到着、ノートルダム寺院に近いセーヌ河畔のオテル・ビッソンに投宿します。

 

1922年
1月~2月、イタリア、2月スペイン、3月イギリスを訪れ、4月5日帰国の途につき、5月20日に帰国する。帰国と同時に住居が、市電烏丸線の延長計画にかかり、立ち退きを迫られていることを知り、居を等持院南町に移し、アトリエを等持院北町に定める。雅号の「竹橋」を「竹喬」と改めます。

 

1923年
11月、大阪毎日新聞社主催 日本美術展覧会に「村道」を出品します。

 

1924年
11月、第4回国展に「春耕」を出品します。3月、第5回国展に「長門峡」を出品します。

 

1926年
5月、第1回聖徳太子奉讃展に「八瀬村頭」を出品します。

 

1927年
4月、第6回国展に「青海」「波涛」を出品します。

 

1928年
4月、第7回国展に「冬日帖」を出品します。7月28日、東京・帝国ホテルで国画創作協会第1部(日本画)の解散を発表。11月、国画創作協会第1部会員ら26名によって設立された、新樹社の賛助会員になります。

 

1929年
9月、帝国美術院推薦となります。10月、第10回帝展に「山」を出品します。

 

1930年
10月、第11回帝展に「風浪」を出品します。7月、翌年1月、ベルリンで開催される日本美術展の国内公開展に「冬の室戸岬」を出品します。

 

1931年
等持院北町に移転します。

 

1932年
10月、第13回帝展に「立獅子峡」を出品します。

1933年
10月、第14回帝展に「はざまの路」を出品します。11月、竹内栖鳳の主宰する竹杖会が解散します。

 

1934年
5月、大礼記念京都美術館美術展覧会に「出靄」を出品します。

 

1935年
4月、春虹会(京都の帝展系作家16名に院展の冨田溪仙を加えた17名を会員として組織される)第1回日本画展に「稲」を出品する。10月、帝展出品無鑑査の指定を受けます。

 

1936年
9月、新文展審査委員に任命されます。11月、新文展招待展に「室戸岬」を出品します。

 

1938年
4月、第3回京都市美術展覧会に「雪後」を出品します。

 

1939年
10月、第3回文展に「清輝」を出品する。同作品は京都市美術館に買上げられたが、終戦後の同館接収時に行方不明となります。

 

1940年
2月、大阪・高島屋にて個展を開催。「山峡の月」「溪潤」「帰樵」「洛北の春」「奈良早春」「喧春」「春霞」「深春」「富嶽」「松巒」「蔬菜」「石榴」「早晨」を出品します。7月、京都・佐藤梅軒画廊で入江波光・小野竹喬・榊原紫峰新作展が開かれ、「清宵」「層巒」「秋霽」「春暁」を出品します。9月、都市と芸術社主催、池田遙郎・小野竹喬山水画新作展が東京・銀座資生堂で開かれる。大阪毎日新聞社主催紀元2600年奉祝美術展覧会の審査員になる。

 

1941年
5月、第6回京都市展に「晴日」を出品します。9月、第4会文展審査員を委嘱される。

 

1942年
5月、岡山県の依頼で同県護国神社本殿用四季山水屏風を完成奉納する。11月、第1回十宜会展を東京・日本橋三越で開催(同会は京都作家10氏の会)

 

1943年
10月、第6回文展に「冬」を出品する。同作品を政府に買上げられ、ラウレル・フィリピン大統領に贈られます。

 

1944年
7月、平安神宮御鎮座50年、平安遷都1150年奉祝京都市美術展覧会に「月」を出品します。11月、文部省戦時特別美術展に「太平洋」を出品し、京都市に買い上げられます。

 

1945年
11月、第1回京都市主催美術展覧会(京展)に「新冬」を出品します。

 

1946年
9月、第2回日展の審査員を委嘱されます。

 

1947年
3月、京都市美術専門学校教授となります。4月、帝国芸術院会員となる。6月、第3回京都市美術展覧会に「麓」10月、第三回日展に「仲秋の月」を出品します。

 

1948年
9月、第4回日展の審査員を委嘱される。10月、第4回日展に「新秋」を出品します。

 

1950年
4月、京都市美術専門学校が新制大学の京都市立美術大学として新発足し、その教授となります。

 

1951年
6月、第7回日展の審査員を委嘱される。10月、第7回日展に「奥入瀬の渓流」を出品します。

 

1952年
10月、第8回日展に「雨の海」を出品し、国立近代美術館に買い上げられます。

 

1953年
6月、第9回日展の審査員を委嘱されます。10月、第9回日展に「夕空」を出品する。11月、京都市立美術大学教授を依願退職し、以後非常勤講師となります。

 

1954年
1月、第5回秀作美術展に「雨の海」が出品されます。2月、東京・上野松坂屋にて「契月、翠嶂、竹喬」日本画展を開催される。7月、国立近代美術館で「大正期の画家」展が開催され、「島二作」が出品されます。

 

1955年
1月、第6回秀作美術展に「夕空」が出品される。6月、第11回日展の審査員を委嘱されます。日展参事となる。10月、第11回日展に「深雪」を出品します。

 

1956年
5月、第8回京展に「残照」を出品します。6月、第12回日展の審査委員を委嘱されます。10月、第12回日展に「高原」を出品します。

 

1957年
1月、第8回秀作美術展に「深雪」が出品されます。7月、東京・銀座松屋にて「小野竹喬写生展」(朝日新聞社主催“スケッチ展シリーズ”第11輯)を開催、「高原」など30点を出品します。9月、京都府ギャラリーにてスケッチ展を開催。

 

1958年
3月、社団法人日展の発足にあたりその常務理事となります。5月、第10回京展に「木」(スケッチ)を出品します。11月、第1回日展に「山月」を出品します。

 

1959年
11月、第2回日展に「曇り日の海」を出品します。

 

1960年
4月、東京・日本橋三越にて「小野竹喬日本画展」を開催。6月、日本中国文化交流協会・朝日新聞社共催の「日本現代画展」が中国各地で開催され、「高原」が展示されます。9月、文部省、毎日新聞社主催明治・大正・昭和美術秀作展に「高原」が選ばれます。11月、第3回日展に「夕映」を出品する。

 

1961年
11月、第4回日展に「樹」を出品します。

 

1962年
1月、現代画壇の20人展に「深雪」を出品します。4月、現代美術京都秀作展に「夕映」が選ばれます。5月、第5回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「ヨウシュヤマゴボウ」を出品します。5月、第14回京展に「冬樹」を出品します。11月、第5回日展に「残照」を出品します。

 

1963年
9月、国立近代美術館の「近代日本美術における1914年」展に「島二作」が出品されます。11月、京都市美術館の国画創作協会回顧展に「波切村」「海島」「冬日帖」が出品されます。

 

1964年
1月、郷土出身芸術院4人展が岡山県総合文化センターで開催され、「雨の海」「深雪」「山月」「黎明」「彩秋」「夕映」「樹」「雲」「ヨウシュヤマゴボウ」「比叡」が出品される。1月、第15回記念秀作美術展に「残照」が選ばれる。4月、現代美術京都秀作展に「残照」が出品されます。7月、昭和31年より38年まで続けられた朝日新聞主催の「スケッチ展シリーズ」完結記念の「50人画家展」が東京・銀座松屋で開かれ、「茜」を出品します。7月、国立近代美術館の「京都の日本画-円山応挙から現代まで-」展に「波切村」が出品される。11月、第7回日展に「洩れ日」を出品します。

 

1965年
11月、第8回日展に「夕雲」を出品します。京都の日本画展に「洩れ日」を出品します。

 

1966年
1月、現代美術京都秀作展に「洩れ日」が出品されます。2月、毎日新聞に随想「絵画十話」を20回にわたり、連載する。6月、東京・高島屋にて「喜寿記念小野竹喬展」(毎日新聞社主催)が開催され、自選38点(大正2~昭和41年)が展示される。9月、三彩社より『小野竹喬作品集』が刊行されます。11月、第9回日展に「宿雪」を出品する。11月、岡山県笠岡市の名誉市民章を受けます。

 

1967年
6月、京都国立近代美術館の「近代日本画の名作」展に「冬日帖」「残照」が出品されます。11月、第10回日展に「池」を出品します。

 

1968年
5月、第8回現代日本美術展に「夕茜」を出品します。11月、文化功労者の表彰を受けます。

 

1969年
5月、京都市美術館において京都市主催「小野竹喬回顧展」が開催され、自選53点(大正2~昭和44年)、スケッチ50点(うち、滞欧作5点)が展示されます。11月、勲二等に叙せられます。

 

1970年
4月、大阪・大丸の「日本巨匠20人展」(毎日新聞社主催)に「池」「宿雪」「夕茜」が出品されます。11月、第2回日展に「沼」を出品し、京都市に買い上げられます。

 

1971年
9月、「天皇の世紀」原画展が東京・銀座吉井画廊新館で開催され、80点を出品する(朝日新聞連載、大佛次郎原作「天皇の世紀」の原画)。11月、兼素洞主催小野竹喬画展が開催され、8点を出品します。日本橋三越主催の彩交会展は6名の会員中2名死去したため、24会は新作展ではなく会員自選による回顧展となり、第17回出品の「湖山早春」と第22回出品の「晨」を出品する。この年、中央公論美術出版より『竹喬挿画』を刊行します。

 

1972年
4月、第24回京展に「交叉」(のち「樹」と改題)を出品します。11月、第4回日展に「1一本の木」を出品します。

 

1973年
9月、東京国立近代美術館の「開館20年記年現代の眼-近代日本の美術から」展に「雨の海」「山月」が出品されます。10月、京都市名誉市民の称号を受けます。10月、岡山・高島屋で「小野竹喬展」(山陽新聞社主催)が開催される。10月、笠岡市市民会館の緞帳の原画「朝の海」完成。11月、東京・銀座松屋にて「竹喬素描展」が開催されます。11月、京都市美術館の「開館40年記念昭和期における京都の日本画と洋画」展に「冬日帖」「夕映」「沼」が出品されます。

 

1974年
4月、日本の四季・山本丘人との2人展(“日本の四季シリーズ”第1回)が北辰画廊にて開催されます。5月、26回京展に「阿蘇火口」(スケッチ)を出品します。11月、第6回日展に「樹間の茜」を出品します。昭和19年、戦時特別展に出品し、京都市に買い上げられた「太平洋」を改作し、「海」として京都市美術館に納めます。

 

1975年
2~3月、東京、大阪の三越で「画業60年記念小野竹喬展」(読売新聞社主催)が開催され、大正初期より昭和49年にいたる53点の主要作品と34点のスケッチを出品します。3月、京都・朝日画廊の開廊記念展として「小野竹喬墨彩画・スケッチ展」が開催されます。4月、東京・銀座資生堂ギャラリーで「小野竹喬の画室展」(「作家のアトリエ」シリーズ)が開催されます。5月、「奥の細道句抄絵」制作のため、山形県にスケッチ旅行し、最上川上流の隼、碁点にまで足をのばします。9月、2度目の「奥の細道」取材のため、単身、山形県及び秋田、新潟へ旅行します。

 

1976年
4月、山種美術館開催の「第2回現代日本画の10人展」に「春の湖面」「川の辺り」「京の灯」「樹間の茜」を出品します。山種美術館10周年記念展に「冬樹」を制作します。6月~7月にかけて、朝日新聞社主催「奥の細道句抄絵展」を東京・大阪・京都・岡山の高島屋で開催する。11月、文化勲章を受章します。12月、心筋梗塞のため京大病院に入院します。

 

1977年
3月末、退院。6月、奥の細道ゆかりの酒田市本間美術館で「奥の細道句抄絵展」が開催されます。10月、米寿記念『小野竹喬画集』が朝日新聞社より刊行される。第9回日展に「沖の灯」を出品すします。

 

1978年
3月、京都・朝日画廊で「小野竹喬墨彩展」を開きます。4月、山種美術館開催の「第3回現代日本画10人展」に「奥の細道句抄絵」より「田1枚」「笠嶋は」「涼しさや」「象潟や」「あかあかと」「暑き日を」が出品される。9月、白浜に転地療養する。10月、京大病院に入院、11月に退院します。

 

1979年
1月、冨田病院に入院する。4月、求龍堂より随筆集『冬日帖』が刊行されます。5月10日胃癌のため、冨田病院で死去。12日、自宅で密葬が行われ、5月22日北区の上品蓮台寺で告別式が行われ、同寺に葬る。法名・実相院殿覚法竹喬大居士。

 

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