2025年9月30日
画壇と決別し、離島に渡った孤高の天才・田中一村 〜北岡技芳堂の骨董品買取りブログ〜
生前は見向きもされず、死後に評価された芸術家――。そう聞いて真っ先に思い浮かぶのはやはりゴッホでしょうか。小説家では「モルグ街の殺人」のエドガー・アラン・ポーや、科学者で遺伝学の祖とされるメンデルなども、存命中にその仕事が評価されることなく不遇な人生を送りました。そして日本にも彼らと同じような画家がいます。少年時代に神童と呼ばれて将来を嘱望されたものの、その後はまったく評価されず、離島で孤独に創作活動を続けた孤高の画家、田中一村(1908〜1977)です。今回は彼の生涯と作品の特徴、死後の再評価に至るまでの流れをご紹介します。
田中一村 本人 写真
■かつての神童が過ごした孤独な晩年
田中一村は栃木県生まれ。幼い頃から画才を示し、7歳の時に制作した「紅葉にるりかけす/雀」を見れば、人並外れたその画力を知ることができます。周囲の大人たちが神童扱いしたのも納得です。南画と呼ばれる水墨画の一種を描く彼は、10代に入ると次々と賞に輝き、東京美術学校(現・東京芸術大学)の日本画科に入学。順風満帆な画家人生かと思いきや、わずか2ヶ月で中退してしまいます。教師とソリが合わなかったためだとか、病気のためだとか、家庭の都合だとか色々いわれているようですが、詳細は今もって不明。しかし、このあたりから歯車が狂い始めたのは間違いないようです。
中退後も制作を続けましたが、日展や院展に何度出しても落選する日々が続き、やがて後援者からの支援も打ち切りに。日本画壇に絶望した一村は南画と決別。自分の画風を追い求める試行錯誤の日々がスタートします。この時期に描かれた「蕗の薹とめだかの図」などの作品はどれも見事な出来なのですが、残念なことに新しい作風が画壇から受け入れられることはありませんでした。
思い悩んだ37歳の一村は、近畿地方、四国、九州をめぐるスケッチ旅行に出かけます。途中、宮崎県に立ち寄った際にその南国情緒あふれる風景にすっかり魅了され、50歳の時に思い切って奄美大島に単身移住。収入に乏しく、島の工場で染色工として働きながら、後に代表作となる数々の作品の制作に取り組みます。一村は「日本のゴーギャン」と呼ばれることがありますが、確かに楽園を求めてタヒチに渡ったゴーギャンとよく似ています。想像でしかありませんが、自らが描きたいものを見つけた奄美の一村は、ゴーギャン同様に生活は苦しくとも充実した日々を送ったのではないでしょうか。
画壇を離れて以降、絵が売れることはほとんどなく、展覧会に作品を出すこともなかった一村。生涯独身を貫き1977年に没するまで、どこに出すでも誰に見せるでもなく、自らが理想とする絵をひたすら描き続けたそうです。
■類似作家がいない異端の画家
亜熱帯の花鳥や風土をモチーフにした奄美時代の代表作に「不喰芋(くわずいも)と蘇鐵(ソテツ)」があります。鮮やかなグリーンやイエローで彩られた植物たちが共演するこの作品は、一見すると日本画とは思えず、カンバスにアクリルで描かれた現代アートにも見えてきます。知人へ宛てた手紙には「この絵は百万円でも売れません。これは私の命を削って描いた絵です。閻魔大王への土産品ですから」と記してありました。奄美での生活は極貧で、工場で得た賃金をすべて画材に投じていたようです。俗世から離れ、自らが追い求める芸術のためにひたむきに生きる姿を想像すると、やはり畏敬の念と感動を覚えます。
「アダンの海辺」1969年 個人蔵(千葉市美術館寄託)
「アダンの海辺」という作品では、奄美の熱帯植物であるアダンと、その先に広がる砂の一粒一粒や浜に寄せる波が精緻に描かれています。西洋画の写実性と、余白やグラデーションが美しい日本画のエッセンスとを併せ持ち、配色や構図は時に繊細、時に大胆。生命力に満ち満ちたこれらの作品を言葉で説明するのは難しいですが、一村の「自然の事物は必然性をもって存在し、必然の中に生命を保つ」という言葉を聞くと、とてもしっくりくるから不思議です。
奄美大島にある「田中一村記念美術館」では、掛け軸に描かれた初期の南画から、奄美時代の大作に至るまでの変遷が見られます。私も奄美に行ったらぜひ訪問したいと思います。
■一村フィーバーはどのようにして起こったか
1977年に没した一村。三回忌に奄美の人たちが彼を偲んで展覧会を開催しました。その様子を地元の南日本新聞が報じたことでその名が知られるようになり、4年後の1984年にNHK「日曜美術館」で取り上げられ全国的な話題となります。その独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催されるなど、再評価の動きが加速します。その後も伝記映画の制作や書籍の出版など人気は続き、2001年には田中一村記念美術館がオープン。2024年に東京都美術館で開催された大回顧展では、入場に長蛇の列ができるほどだったそうです。天国の一村は、これらの出来事を一体どのような気持ちで眺めてきたのでしょうか。
評価が高止まりしているにも関わらず、残っている作品数がそもそも少ないため、高額で取引されている作家の一人です。サイズや内容によりますが、数十万円から数百万円、大作であれば一千万円以上の価格が付いていてもおかしくはありません。もし一村の作品をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひ当ギャラリーにご相談ください。もちろん「価値が知りたい」方であれば、査定だけでも構いません。
奄美の海に蘇鐵とアダン 昭和36年(1961)1月 絹本墨画着色 田中一村記念美術館蔵
■田中一村の作品もそれ以外も 骨董・アートの高価買取は北岡技芳堂へ
北岡技芳堂では骨董品の他にも絵画や茶道具、貴金属、趣味のコレクションなど、さまざまなジャンルの品物を買受しております。ここ名古屋の地で長年にわたり取引を重ねてきた実績をベースに、多種多様なニーズに対応できる販売チャネルをもつため、あらゆる骨董品の高価買取を実現しています。
ご実家の片付けや相続などの際、手持ちの骨董品について「どうしたら良いか分からない」という方も多くいらっしゃると思います。どのような品物でも、どのようなことでも構いません。私たち北岡技芳堂にお任せください。出張買取も実施しています。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させて頂きます。まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせください。
記事監修:北岡淳(北岡技芳堂 代表)
初代である祖父が掛け軸の表具師を生業としており、幼い頃から美術品や骨董品に親しむ。その後京都での修行を経て、3代目として北岡技芳堂を継承。2006年に名古屋大須にギャラリーを構え、幅広い骨董品や美術品を取り扱いながらその鑑定眼を磨いてきた。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2025年9月28日
陳衡恪(ちんこうかく)の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の中国人作家 陳衡恪(ちんこうかく)の作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
陳衡恪(ちんこうかく) の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、陳衡恪の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
陳衡恪の掛軸をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の陳衡恪のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた陳衡恪の作品を鑑定して買取りいたします。
美術品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の陳衡恪の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
陳衡恪 本人
陳衡恪(ちんこうかく、号は陳師曾/しそう、1876–1923)は、中国近代美術において重要な役割を果たした文人画家です。浙江省の書香の家に生まれ、幼い頃から詩文や書画に親しみました。清朝末から民国初期という大きな変革期に生きた彼は、伝統的な中国画の精神を尊重しながらも、新しい時代にふさわしい表現を模索した画家として知られています。
その作風は、花鳥画や山水画を中心に据えつつ、筆墨の余白を生かした清新な趣と、洗練された気品を兼ね備えています。単に古典を模倣するのではなく、そこに近代的な感覚を融合させたことで、中国画の近代化の先駆者とみなされています。また、書家や美術評論家としても活動し、当時の美術教育にも深く関わりました。北京大学では教鞭をとり、「美術革命」の必要性を説いたことで知られ、中国美術界に大きな思想的影響を与えました。
陳衡恪 壽同金石
陳衡恪の芸術は、同時代の斉白石や徐悲鴻など、多くの後進に刺激を与えたといわれます。彼の花鳥画は、淡雅でありながら生命力に満ち、伝統と革新が調和した表現として高く評価されています。その作品は、清末から民国初期の文化的混沌の中にあって、新しい中国美術のあり方を示すものでした。
短い生涯の中で残された作品は多くはありませんが、その思想と作風は近代中国美術史に確かな足跡を残しています。伝統を重んじつつも旧来の枠にとらわれない陳衡恪の姿勢は、今日でも高く評価され続けています。
陳衡恪(ちんこうかく)の作品買取について
陳衡恪(1876〜1923)は、中国近代美術の歴史において重要な位置を占める文人画家です。号を「陳師曾」と称し、花鳥画や山水画を中心に、伝統的な中国画の精神を守りながらも近代的な感覚を取り入れた表現で知られています。洗練された筆致と淡雅な色調は、多くの愛好家から高い評価を得ています。
また、北京大学で教鞭をとり、美術評論や教育活動を通じて「美術革命」の必要性を説いたことでも知られ、斉白石や徐悲鴻ら次代の画家たちに大きな影響を与えました。残された作品は多くはありませんが、その希少性と芸術的価値の高さから、現在もコレクターに強い関心を持たれています。
北岡技芳堂では、陳衡恪の掛軸や屏風、花鳥画、山水画などを誠実に鑑定し、他社に負けない高額査定を心がけております。ご実家やご親族が大切にされていた作品の整理やご売却をお考えの際は、ぜひ当店にご相談ください。
LINE査定にも対応しておりますので、お写真を送っていただくだけで概算査定が可能です。遺品整理・生前整理・コレクションのご整理など、あらゆるご要望に寄り添い、誠意をもって対応させていただきます。
陳衡恪(ちんこうかく)略歴
1876年
清代末期、広東省番禺に生まれる。本名は陳衡恪、号は師曾。
1899年頃
日本に留学し、東京美術学校(現・東京藝術大学)で学ぶ。この経験が後の美術思想にも影響を与える。
1901年
帰国後、北京大学などで教育活動に携わり、美術教育の近代化に尽力する。
1900年代前半
伝統的な文人画の精神を重んじながらも、写生を重視した新しい美術の在り方を模索し始める。
1910年代
花鳥画や山水画において独自の境地を築き、また美術評論活動を行い「美術革命」を提唱。伝統の枠にとらわれない新しい中国画のあり方を追求する。
1920年代初頭
斉白石や徐悲鴻など後進の芸術家たちに影響を与え、中国近代美術史の重要人物としての地位を確立する。
1923年
北京にて逝去。享年47歳。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
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骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
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2025年9月27日
良いものを追い求め、たどり着いた「阿波晩茶」骨董品買取ブログ
こんにちは、鑑定人の北岡です。最近、私が好んで飲むお茶があります。「阿波晩茶(あわばんちゃ)」というのですが、ご存知の方はいらっしゃいますか?徳島県の山間部でしか生産されておらず、一般の小売店にはなかなか流通しないため、あまり見かけない名前だとは思います。
空海が伝えた幻のお茶
阿波晩茶がいつどうやって徳島県に伝わったのかについては、いくつかの説があります。そのうちの一つが「空海(弘法大師)による伝承」説です。1200年ほど前のこと、唐から帰国した空海が四国を巡礼した際、唐で学んだ製法を村の人々に直伝したという言い伝えが残っています。
晩茶とは「夏の遅い時期に摘まれる茶」のことで、摘んだ茶葉を茹でた後にすりつぶし、樽でじっくりと漬け込む後醗酵製法によってつくられます。私たちがよく知る緑茶は春の新芽を使った不発酵茶ですから、まったく違うお茶といえます。この後数週間にわたり天日干しされるのですが、一連の行程はすべて手作業。手間暇がかかる上、生産量に限りがあるため「幻のお茶」とも呼ばれています。
飲んでみると、ほのかな酸味とやさしい甘みを感じて、とても美味しい。カフェインがまったく入っていないこともあり、赤ちゃんでも安心して飲めます。そもそも腸に効く善玉菌の代表格・乳酸菌発酵のお茶ですから、胃腸が弱い私にぴったりです。最近はほぼ毎日飲んでいます。
なぜ美術・骨董品の鑑定人である私がお茶について語るのか、不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。その理由をお話しします。
阿波晩茶
芸術は絵画や彫刻だけではない
これまで多くの美術品や工芸品に触れてきた私ですが、美味しい和食やフレンチを口にするたびに「料理も芸術と同じではないか?」と考えるようになりました。例えば高級料亭での食事は、その空間デザインからもてなしの技、器、料理に至るまでの総合芸術です。敷居を跨ぐ前から建物の雰囲気に気分が高まり、室内の至る所に美しい絵画や掛け軸、生花が飾られています。そんな雰囲気の中で細部まで行き届いたサービスを受けながら、古美術品に盛り付けられた美味しい料理を口に運ぶと、体の隅々にまで栄養と幸福感が行き渡るようです。こうした経験を重ねると目に映る美術品も、人の住まいも、口にする食べ物も、人の心を豊かにする芸術性にあふれていることに気づくのです。
阿波晩茶 毎日飲みたい!
良いものを追い求める心と見分ける技術
アートを突き詰めるということは、「良いものとそうでないものを見分ける力」を身につけるということでもあります。鑑定の仕事をしているうち、普段から口にするものや身につけるものについても自然と良いものを求めるようになり、阿波晩茶に行き着いたというわけです。口に美味しく、健康に良い。やはり阿波晩茶のような良いものは人生を豊かにしてくれます。
ちなみにこの阿波晩茶、近年の研究でお茶に含まれる成分が「オートファジー(細胞のリサイクル機能)」を活性化させる働きがあることがわかり、健康寿命の延伸や老化関連疾患の予防に効果があることがわかってきました。なんでも阿波晩茶の乳酸菌は特殊なものらしく、「若返り」の実現につながるオートファジーの研究者たちが注目しているようなのです(阿波晩茶を線虫に与えてみたところ寿命が驚くほど伸びたそう)。先日放映されたフジテレビ「Mr.サンデー」によると、米国meta社のマーク・ザッカーバーグ氏、Open AI社のサム・アルトマン氏、Amazon社のジェフ・ベゾス氏らIT長者たちが数千億円規模の投資を行うなど、今やオートファジーの研究は世界的な関心事。まさに現代科学の最先端といえる領域で、日本のおばあちゃんたちがつくる昔ながらのお茶が脚光を浴びるなんて、ちょっとすごい話ですよね。
「弘法も筆の誤り」といわれるほど書の達人として知られる空海。彼のような優れた文化人が阿波晩茶を伝えたという話はとても納得ができます。なぜなら優れた文化を見極める力がなければ、阿波晩茶が持つ価値に気づけなかったはずだからです。オートファジーの活性化まで見抜けていたかどうかはさておき、阿波晩茶に潜む何かに気づいたのは間違いありません。私も良いものに触れ続けることで鑑定眼を鍛え、優れた文化を後世に伝えていく役割を担って行きたいですね。
鑑定人:北岡淳(北岡技芳堂 代表)
初代である祖父が掛け軸の表具師を生業としており、幼い頃から美術品や骨董品に親しむ。その後京都での修行を経て、3代目として北岡技芳堂を継承。2006年に名古屋大須にギャラリーを構え、幅広い骨董品や美術品を取り扱いながらその鑑定眼を磨いてきた。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
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骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
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2025年9月26日
野長瀬晩花の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ
御所蔵の野長瀬晩花の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
北岡技芳堂では、野長瀬晩花(のながせばんか)の作品を他社に負けない高価査定で買取しております。
野長瀬晩花は、国画創作協会の一員として活躍し、日本画に新しい息吹をもたらした画家です。その独自の色彩感覚や構図は、近代日本画の流れを考える上で欠かせない存在とされ、今も多くの愛好家やコレクターから注目されています。当店では、その芸術性や希少性を十分に踏まえたうえで、丁寧に鑑定・査定を行い、適正かつ高価な評価を実現いたします。
ご所蔵の作品が先代様から受け継がれたコレクションであっても、ご自身で蒐集されたもの、または譲り受けられた一点であっても、誠意を持って拝見いたします。絵画の遺品整理や生前整理をはじめ、コレクション整理やお引越し、リフォーム、お片付けなど、さまざまなご事情でのご売却にも対応しております。
また、スマートフォンから簡単にご利用いただけるLINE査定も随時受付中です。お写真をお送りいただくだけで簡易査定が可能ですので、まずはお気軽にご利用ください。
野長瀬晩花の作品をお持ちの方は、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。大切なお品を誠実に鑑定し、ご満足いただける査定額をご提示いたします。
野長瀬晩花 本人
野長瀬晩花(のながせばんか、本名・弘男)は、明治22年(1889年)に現在の和歌山県田辺市中辺路町に生まれ、大正から昭和にかけて京都を拠点に活動した日本画家です。
13歳のときに大阪へ出て中川蘆月に日本画を学んだのち、京都に移り、谷口香嶠に師事しました。さらに、明治42年には京都市立絵画専門学校の第一期生として入学します。この頃から「晩花」の号を用いるようになりましたが、学校にはあまり通わず、やがて中退しています。とはいえ、その間に日本画の基礎技術を身につけるとともに、洋画の要素を取り入れた新しい表現を模索し、京都画壇において異彩を放つ存在となりました。
伝統的な日本画の枠にとどまらず、独自の感覚で日本画に革新を試みた野長瀬晩花の姿勢は、同時代の画家たちにも強い刺激を与えています。彼の画業は、大正から昭和期の日本画の変革期における一つの重要な流れを示すものといえるでしょう。
野長瀬晩花 島の女 1916年頃
野長瀬晩花は、京都の公募展での受賞を重ねる一方で、秦テルヲや竹久夢二らと交わり、当時の既存の画壇とは距離を置きながら活動しました。その姿勢は、モダンで時に奇抜と評される作品に結実し、独自の存在感を放っています。
大正7年には、京都市立絵画専門学校時代の同窓である土田麦僊や村上華岳らとともに国画創作協会を設立しました。彼らは官展に対抗するかたちで新しい芸術の在り方を掲げ、西洋のポスト印象派などの表現を積極的に採り入れた日本画を発表し、京都画壇に大きな変革をもたらしました。国画創作協会の活動は、大正期の美術界に新風を吹き込み、後の近代日本画の展開に強い影響を与えています。
野長瀬晩花の作品は、明治末から大正初期にかけての交友関係の中で培われた個性的な感性が色濃く表れており、秦テルヲらの影響を受けた時期の強烈な個性がにじむ作品群があります。また、国画創作協会時代には、ゴーギャンなど西洋画家の色彩感覚に触発され、豊かな色彩と健康美にあふれる表現を展開しました。その独自性は今なお評価が高く、再評価が進むべき画家として、今後ますます注目を集める存在といえます。
野長瀬晩花 舞妓図 1916年
野長瀬晩花は、当時の京都でもひときわ「ハイカラ」な存在でした。花街やカフェー、バーへと足を運び、遊びと創作を行き来しながら、自由で奔放な日本画の制作に取り組んでいきます。その生き方は既成の画壇からはみ出すように映り、彼の表現に強烈な個性を与えました。
大正初期には、移動式テントや園芸店、さらには遊興施設といった、一風変わった場所での展示も試みています。こうした発表の場は、保守的な美術展とは対照的で、京都の人々にとっても奇抜に映ったことでしょう。この頃には、習作期に見られた伝統的な筆遣いは影を潜め、ポスト印象派をはじめとする西洋絵画の影響を取り込みながら、自己主張の強い日本画を発表するようになりました。大正デモクラシーの自由な空気の中で、彼の個性はますます開花していったのです。
大正6年、27歳の野長瀬は雑誌に「若きものは覚めよ」と題した文章を寄せています。そこで彼は、若い芸術家に対し「先人のつくった道をただ手を懐にして歩いてゆくのは卑怯であり、狡猾であり、盗みと同じだ」と警鐘を鳴らし、模倣にとどまらない新しい芸術の創造を呼びかけました。この強い言葉は、彼自身の姿勢そのものであり、妥協のない精神を表しています。
その翌年には、土田麦僊や村上華岳らとともに国画創作協会を創立。晩花は創立会員の中でも特に異彩を放つ存在であり、仲間が「優等生」と評されたのに対し、自身は「放校処分でも受けそうな分子」と称されるほどの急進派でした。協会が解散するまでの間、野長瀬晩花は常に先鋭的な立場を貫き、挑発的ともいえる存在感を示し続けました。
彼の人生と作品は、享楽的な日常と先鋭的な芸術活動が一体となったものであり、時代の空気を色濃く映し出しています。その奔放さは、今なお鮮烈な印象を与え続けています。
野長瀬晩花の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.野長瀬晩花の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.野長瀬晩花の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.野長瀬晩花の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.野長瀬晩花の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります
野長瀬晩花の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.野長瀬晩花の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
野長瀬晩花 査定価格におけるポイント
野長瀬晩花の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
野長瀬晩花先生の作品は、色彩の明るい作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から20万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
野長瀬晩花の作品、鮮やかな作品が評価されます。
美人画や人物が描かれていると評価されます。
色紙サイズでも図柄が良ければ高値で取引されます。
野長瀬晩花展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
野長瀬晩花の作品は、掛軸の作品が高値で取引されております。
※このように同じ野長瀬晩花の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
野長瀬晩花 略歴
1889年
和歌山県に生まれる。本名は弘男。15歳のとき大阪に出て中川芦月に日本画を学び、その後京都で谷口香嶠に師事する。
1909年
京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の創立に際し、第1期生として入学するが、後に中退。
1918年
国画創作協会の創立に参加し、主要メンバーの一人となる。
1921年
土田麦僊、小野竹喬らと共に欧州各地を巡遊する。
1923年
帰国。その後、満州にも数回旅行し、体験をまとめた著書『北満国境線をかく』(1936年、私家版)を刊行。国画創作協会解散後は、特定の団体に属さず無所属で活動した。
代表作には「初夏の流」(1918年、第1回国画創作協会展)、「休み時」(1919年、第2回国画創作協会展)、「夕陽に帰る漁夫」(1920年、第3回国画創作協会展)、「スペインの田舎の子供」(1924年、第4回国画創作協会展)、「水汲みに行く女」(1926年、第5回国画創作協会展)、「海近き町の舞妓」(1927年、第6回国画創作協会展)などがある。
晩年は実業界に身を置き、絵画制作からは次第に離れていった。
1964年
3月31日、東京都北多摩郡の自宅にて逝去。享年76歳。
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美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
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2025年9月24日
川喜田半泥子の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
お持ちの川喜田半泥子陶芸作品を、大切にしてくださる次のお客様へ橋渡し買取りさせていただきます。
川喜田半泥子は、近代陶芸の重要な人物であり高い人気があります。北岡技芳堂では川喜田半泥子の作品を高く評価した価格で買い取りしています。
特に川喜田半泥子を代表する作品は高価買取いたします。
川喜田半泥子の評価の高いの陶芸作品
茶道具の中でも茶碗を主に作陶し、独特の品格をもつ作品を制作しております。
主に千歳窯と広永窯で焼かれております。
井戸、粉引、刷毛目、志野、瀬戸黒、唐津、伊賀、信楽、色絵など、幅広い作陶作品があります。
独自の世界観があり、箱書きの銘にも独自のものがあり川喜田半泥子の魅力を感じる事が出来ます。
買取価格は、年代や作陶した窯・土などから、希少性が高いと評価したお品は高価買取させていただきます。
そのほかに俳句や書画も創作し、掛け軸・絵画、竹製の茶杓や花入れなども高く評価しています。
川喜田半泥子 本人
千歳山の泥仏堂にて、昭和15年頃の撮影
川喜田半泥子の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.川喜田半泥子の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。
Q.川喜田半泥子の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。
Q.川喜田半泥子の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させて頂きます。
Q.川喜田半泥子の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし)
1878年(明治11年)11月6日 〜1963年(昭和38年)10月26日)
日本の陶芸家・実業家・政治家「東の北大路魯山人、西の川喜田半泥子」、「昭和の光悦」などと称されています。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯」等。実業家としては、河芸銀行、一志銀行、三重共同貯蓄銀行、百五銀行各頭取等を務めました。
川喜田半泥子の前半生・財界人として
大阪市東区本町で生まれます。三重県津市の川喜田家の本宅で育ち、15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は川喜田半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となり、久太夫(政令)を襲名します。母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、川喜田半泥子は祖母「政」の手によって育てられました。
川喜田家の家族写真 左から3人目が政、その横が半泥子 石水博物館
また筆頭分家の川喜田四郎兵衛からも教育を受け、三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)に入学します。1900年(明治33年)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学します。1901年(明治34年)23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚しています。1903年(明治36年)に百五銀行の取締役に就任します。1919年(大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めました。頭取としては、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で地元の中小銀行を買収・合併していきます。1922年には吉田銀行、1925年には河芸銀行、1929年には一志銀行を買収します。1943年には勢南銀行を合併して規模を拡大していきました。1924年には津市中心部の丸之内に新本店を建設します。1931年の金融恐慌においては自らの個人株を担保として日本銀行より現金を借り入れ、窓口に積み上げて現金が豊富にあることをアピールし、取り付け騒ぎを乗り切りました。こうして、彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長しました。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めています。また、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めました。
川喜田半泥子 波和遊 ハワユー(How are you)石水会館
川喜田半泥子の芸術・文化活動
半泥子の陶芸は趣味で、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するようになりました。1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始しました。主に抹茶茶碗を製作しました。作風は自由奔放で破格と評されます。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯にほとんど売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えました。 豊富な財力で、1930年(昭和5年)に「財団法人石水会館」を設立し、同名の文化施設を津市中心部の丸の内に建設して文化事業を支援しました。文化施設は1945年に戦災により焼失しましたが、財団法人はその後も文化活動を行いましした。同年、自宅のある津市南部の千歳山に川喜田家の所蔵品収蔵庫として千歳文庫を建設しました。
からひね会のメンバー(前)金重陶陽(後方左から)川喜田半泥子・三輪休和・荒川豊蔵 昭和17(1942)年2月
1942年(昭和17年)「からひね会」をつくり、後に人間国宝となる陶芸家、荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪を支援しました。戦後、千歳山の自宅が進駐軍に接収されたため郊外の広永へと移転します。自宅にあった窯もこの地に移しました。1945年に百五銀行の頭取から会長に退き、1950年には相談役となりました。1955年には再び千歳山に住まいを移しました。 死後、「石水会館」を母体として1980年「石水博物館」が設立し、川喜田家に所蔵されていた川喜田半泥子の作品を公開していました。石水博物館はその後、2011年に千歳山に新築移転しています。 川喜田半泥子の墓(津市玉保院納所道場) 専修寺玉保院納所道場には地理学者の稲垣定穀の墓碑や陶芸家・川喜田半泥子の墓があります。川喜田家の墓所の右側2つ目が川喜田半泥子の墓で、仙鶴院と刻まれています。川喜田半泥子の遺志で祖母と妻と供に1つの墓に入っている。
半泥子の墓(津市玉保院納所道場)
川喜田半泥子 高麗手茶碗 銘「雅茶子(がちゃこ)」
廣永窯 昭和20年代 昭和24(1949)年9月、タイから東京の上野動物園に送られたゾウ「ガチャ」にちなんで命名されたという。
高台(茶碗の底の足に当たる部分)がゾウの足を思わせる面白いお茶碗です。
川喜田半泥子 粉引茶碗 銘「雪の曙(あけぼの)」
千歳山窯 昭和10年代 石水博物館蔵
全体に白い粉が吹き出しているように見えるところから粉引茶碗と呼ばれる。
ピンク色に染まった部分があり半泥子の茶碗の中でも名品といわれております。
川喜田半泥子が贔屓にしていた料理屋
料亭はま作
昭和2年の創業。 川喜田半泥子の贔屓の店として、半泥子の書いた看板が今もなおこの店の顔として掲げられています。
画像は川喜田半泥子の愛した料亭はま作の一寸亭
「忘蛙亭」(ぼうけいてい)
「又来亭」(ゆうらいてい)
「一寸亭」(いっすんてい)
それぞれ、「帰ることを忘れる」「また来る」「ちょっと来る」という願いが込められ、 半泥子のユーモアが効いています。 また、屋敷には茶室の水屋が取り入れられ、茶も愛した川喜田半泥子の息遣いが感じられます。
お部屋は五室あり離れもございます。 お茶会に利用される方もいらっしゃいます。
東洋軒
「東の魯山人、西の半泥子」と称された陶芸家で、百五銀行頭取も務めた津の名士・川喜田半泥子は言いました。 「黒いカレーができないか?」 津の東洋軒初代料理長 猪俣重勝はその提案を受け長い間研究を重ね苦労の末出来上がったのが東洋軒伝統の味「ブラックカレー」です。
川喜田半泥子が愛した東洋軒のブラックカレー
黒さの秘密は!
ブラックカレーが昔も現在も愛されている理由は、上質な松阪牛脂と小麦粉、秘伝のスパイスを手間暇かけてじっくり炒めた香ばしさと旨みのある“ブラック・ルゥ”にあります。 真っ黒になったルゥは、松阪牛本来の甘みや旨みを強調し、口に入れたとたん、その見た目からは想像できないまろやかな味わいを奏でます。手間ひまかけた比類なき一品です。
川喜田半泥子の鑑定買取り評価
川喜田半泥の概要
日本の陶芸家で、特に美しい茶碗や器などの陶芸作品で知られています。また、彼の作品は茶道に関連するものが多く、その美術的価値は高く評価されています。
川喜田半泥の作品は、その独自のスタイルと希少性から、美術市場でも人気があり、コレクターの間で高い評価を受けています。
買取の査定プロセス
買取の際は、まず専門の鑑定士が作品の状態、年代、(落款)の有無、来歴などを評価します。特に有名な茶碗や、展覧会で展示されたことのあるもの作品などは、より高い査定額が期待できます。
市場価値
川喜田半泥の作品は、美術オークションや個人コレクター間での取引が盛んです。市場の動向や、最近の取引例を参考にしつつ、適正な価格を提案することができます。
作品の状態
陶芸作品は保存が価値に大きく影響します。欠損やひび割れの状態、修復の跡などにも価格に影響しますので、状態が良好な作品である事は、より高額での取引が可能です。
買取の流れ
まずは作品の写真や詳細を送って頂くか、直接査定をさせていただきます。作品の箱や付属品の写真もありますと詳しくご説明できます。
川喜田半泥子の略歴
1878年 明治11年、大阪市東区本町の仮寓で、伊勢商人の長男として生れる
1894年 16歳 三重県尋常中学校(現・三重県立津高等学校)で当時同校で教えていた藤島武二に洋画を学びます
1900年 22歳 東京専門学校(現・早稲田大学商学部)に入学します(翌年退学)
1901年 23歳 川喜田四郎兵衛の長女・為賀と結婚する
1912年 34歳 津市南郊外にある千歳山を購入する
1913年 35歳 中国・朝鮮半島を旅行し、各地の陶土を持ち帰ります
1915年 37歳 父の命日に千歳山に邸宅を建築し移住する
1923年 45歳 長男、壮太郎と欧米旅行に出かけ、マチス、ボナールらの名画を入手。この頃「無茶法師」と号す
1925年 47歳 楽焼師、長江寿泉の設計による両口の倒炎式石炭窯を千歳山に築窯、初窯を焚く
1930年 52歳 私財を投じて財団法人石水会館を設立します、千歳山に「千歳文庫」を建てます
1932年 54歳 自己流で本窯を炊き上げます。茶の湯の師匠、久田宗也に茶碗を所蔵される
1933年 55歳 小山富士夫に築窯を依頼、二袋の煙突式薪窯を焚くが失敗に終わる
1934年 56歳 朝鮮、鶏龍山の古窯跡をヒントに自ら三袋の登窯を築窯、成功します
1935年 57歳 伊賀上野城内の古窯跡を発掘。「やきもの趣味」に泥仏堂日録を寄稿します
1936年 58歳 加藤唐九郎と共同で翠松園に天狗窯築窯。金重陶陽、北大路魯山人との交流が始まる
1937年 59歳 加藤唐九郎と決別。赤絵を始めて試みて、赤坂山王下の茶屋で「無茶法師作陶展」開催。荒川豊蔵との交流始まる 1938年 60歳 還暦記念に「赤絵梅文茶碗」を61碗制作する。金重陶陽窯を訪ねる
1940年 62歳 荒川豊蔵と鳴滝の乾山窯を調査します。古伊賀水指の名品「破袋」に倣って伊賀水指「破袋」を制作。陶陽窯訪問 1941年 63歳 仁和寺で「仁和寺御記」を拝見。池田家所有の「陶工必要」を筆写します
1942年 64歳 荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪を千歳山に招来し「からひね会」結成。「乾山異考」刊行する
1943年 65歳 作品集「千歳山半泥子六十六碗鑒」を便利堂から刊行する
1947年 69歳 千歳山より戦中疎開した広永に築窯「広永窯」にて初窯を焚く
1949年 71歳 金重陶陽、広永窯来訪。「大吹雪」制作する
1954年 75歳 喜寿を記念して、喜寿祝賀77碗をつくる
1956年 78歳 藍寿褒章受章
1957年 79歳 八十寿祝賀会開催。参加者100人に記念の茶碗と図録「半泥子八十賀百碗鑑」を贈ります
1963年 昭和38年、86歳で逝去
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