2024年11月21日
板谷波山の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の板谷波山の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
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板谷波山作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の板谷波山のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた板谷波山の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の板谷波山の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
明治5(1872)年、茨城県真壁郡下館町(現・筑西市)に生まれた板谷波山(本名、嘉七、1872-1963)は、開校間もない東京美術学校で木彫を学びました。教師として赴任した石川県工業学校で本格的に陶芸の研究を始め、最新の釉薬技術や西洋のアール・ヌーヴォー図案から多くを学びます。明治36(1903)年、陶芸家として独立することを決心し上京します。東京田端に窯を築き、郷里の筑波山にちなんで「波山」と号しました。
「芸術としてのやきもの」を目指した板谷波山は、卓越した彫刻技術を活かした薄肉彫と、釉下彩による豊かな表現によって「葆光彩磁」などの格調高い独自の作風を確立していきました。昭和9(1934)年に帝室技芸員、昭和28(1953)年には陶芸家として初の文化勲章を受章し、近代陶芸史に大きな足跡を残しています。
板谷波山 本人
近代陶芸の祖・板谷波山は、自分は職人ではなく、「工芸」の分野に「個人作家」の創作という意識を持ち込んだ陶芸作家です。
アーティストだという意識が強かった板谷波山は、1960年には「人間国宝」を辞退しています。
「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」
人間国宝を辞退したということは、芸術家であるということの自負があったことが証明しています。
「私は世の中のことを何も考えないで、土をいじり、窯を燃やしていたい。これが私の志願だ。楽しさは自ずとその中にある。」
「私は何から何まで自分自身でやらないと気が済まないのだ」
という完璧主義者でした。
板谷波山葆光 彩磁花卉文花瓶 出光美術館
昭和3年(1928)頃 高 23.4cm 木蓮や紅梅など、早春に花ひらく植物があらわされています。臙脂(えんじ)、青、淡緑の花々は、端正な薄肉彫(うすにくほり)の上に彩色され、葆光釉(ほこうゆう)の淡くかがやくヴェールに包まれて、朝靄に匂い立つかのようです。明治末期から始められた、波山独自の技法である葆光彩が完成を迎えた頃の本作は、器形と意匠のバランス、葆光釉の淡い光の効果、花々の優美な色あいなど、どこをとっても完成度が高く、波山芸術の到達点といわれています。
葆光彩磁
葆光彩磁は板谷波山による装飾技法です。葆光 釉はいわゆるマット釉の一種です。これを施釉して1,230℃で焼成すると、艶消しの効果によって霧が立ちこめたような幻想的な釉調が得られます。 葆光とは「光を包む・保つ」という意味を持ち、彩磁は「磁胎に描画・彩色する」技法を指します。つまり磁器の表面に加飾したのち、葆光釉をかけて艶消しをすることで淡い光そのものを表現しています。 彩磁で使われる植物や鳥獣などのモチーフは、使う顔料ごとにはっきりと発色します。この上に葆光釉をかけて焼成すると顔料の発色がおさえられ、赤・青・緑・黄など鮮やかな色彩は朝もやの中にあるような自然で柔らかい色調となります。
薄肉彫りと彩色
葆光釉をかけるのは最後の仕上げの段階になります。その前に素地を成形して薄肉彫りという彫作業があります。薄肉彫りとは浮き彫りの一種で、私たちの身近な例では100円硬貨などの貨幣があります。 硬貨の表面をみると、数字や模様が薄く浮かびあがって見えますね。ただし硬貨は機械でプレスして作りますので、薄い凹凸の質感が分かれば薄肉彫りのイメージとしては十分です。 実際の作品はこれを手彫りするわけですが、膨大な時間と労力が必要となります。ただ線を描くだけではなく葉脈の陰影や花びらの立体感、鳥の羽の空気感を表現するため、精緻な彫が施されたあとに素焼きされます。
板谷波山 彩磁瑞花祥鳳文花瓶 1916年 MOA美術館
板谷波山の制作の大きな特徴としては、明治前期までの陶工の常識を破り、個人で本格的な高火度焼成の窯を構えて磁器焼成に挑んだことが挙げられます。しかし、当時窯の焼成は薪によるもので、炎のコントロールが困難で失敗のリスクも大きかった。そのため、板谷波山の作品には唯一無二の名品が多くあったいっぽう、波山は60歳を過ぎるまで借金生活で苦しんでいたという。
また、明治前期の輸出陶磁器の制作において、絵付けは浮世絵師や狩野派の画工を雇い入れ、磁器の素地は瀬戸や有田など窯業産地へ発注する分業システムがメインだった。しかし波山は、図案のデザインや絵付けだけではなく、素地も自らつくり、釉薬や顔料の調合も吟味した。また、東京美術学校彫刻科で立体造形や木彫の技法を学んだ波山は、写実主義の影響を受け、立体的な文様を作品に取り込んだ。
板谷波山の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.板谷波山の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.板谷波山の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.板谷波山の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.板谷波山の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
板谷波山 略歴
明治5年(1872) 3月3日、茨城県下館市に生まれる。本名嘉七。生家は醤油醸造業を営む旧家で、父善吉は半癡と号し風流文事を愛し南画を描いた。母は宇多子、波山はその三男である。
明治15年(1882) 7月、父善吉没す。
明治18年(1885) 下館小学校卒業。
明治20年(1887) 上京し成城学校(陸士予備校)に入学。
明治21年(1888) 陸士予備試験の体格検査に不合格、軍人志望を断念、下宿の近所の河久保正名の画塾に通う。
明治23年(1890) 東京美術学校に入学。
明治27年(1894) 東京美術学校彫刻科を卒業。同予備校美術学館彫刻科に教鞭をとり、同時に攻玉舎中学図画経師を兼ねる。卒業制作「元禄美人」(木彫)
明治28年(1895) 瓜生岩子媼の媒酌により福島県出身の鈴木まると結婚、新居を本郷に構える。
明治29年(1896) 9月、白井雨山氏の勧めにより石川県立工業学校木彫科主任教諭として金沢に赴任。31年木彫科廃止のため辞職を決意したが、校長の要望により陶磁器科を担当。この間約7年焼物の研究に没頭した。当時勤川と号した。
明治33年(1900) 9月、母宇多子没す。
明治36年(1903) 陶芸作家を決意し、8月石川県立工業学校を退職、9月上京、東京高等工業学校窯業科嘱託となる。東京田端に住家、工房をつくり、11月3日移住。このころより波山の号を使用す。
明治37年(1904) 平野耕輔氏の指導により、三方焚口の洋風倒焔式丸窯を夫人まると2人で築き、1年3カ月で完成す。ロクロ工人として深海三次郎(有田出身)工作を手伝う。
明治39年(1906) 4月、初窯を焼上げ好成績を得る。
明治40年(1907) 1月、第2回窯は地震の被害をうけ、完全な作品は、「窯変瓢型花瓶」1点のみ。内国勧業博覧会美術部に出品、入賞。出品作「窯変瓢型花瓶」「染付百合花図花瓶」「錆釉八ツ手葉花瓶」
明治43年(1910) 第1回東京美術工芸展審査員となる。深海三次郎中国に招聘され、現田市松(石川県小松出身)後任となる。
明治44年(1911) 9月、窯業共進会へ出品、一等賞金牌を受く。「フキの葉文花瓶」「菊花図飾皿」「蝶貝名刺皿」東京勧業展審査員となる。大正2年(1913) 7月東京高等工業学校嘱託を辞職。マジョリカ陶器を製作。夫人まる協力し作銘玉蘭を用う。東京府工芸展に花瓶を出品、八百円で東京府買上となり、名声を挙ぐ。「彩磁花鳥文花瓶」(東京府工芸展出品)「貝水指」このころインド、ペルシャなどのサラサ文様に興味をもち図案に取入れる。
大正3年(1914) 3月東京大正博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「彩磁花鳥文花瓶」(大正博出品)
大正4年(1915) 東京府工芸図案会審査会委員となる。シカゴ市博覧会に「笹葉文花瓶」を出品受賞。
大正天皇御大典にさいし、東京市献上品「東京十五景」のうち、磁製扇面浅草観音風景額を作る。
大正5年(1916) 「白磁八ツ手葉彫文花瓶」
大正6年(1917) 日本美術協会展覧会に出品金牌第1席を受賞。「葆光彩磁珍果文花瓶」(日本美術協会展)『白磁瑞獣香炉』
大正8年(1919) 「葆光彩磁紅牡丹文花瓶」
大正9年(1920) 「彩磁獅子騎乗童子文大花瓶」
大正10年(1921) 「葆光彩磁草花文花瓶」
大正11年(1922) 3月平和記念東京博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「白磁宝相葉彫文花瓶」(平和博出品)
大正12年(1923) 12月摂政宮殿下御成婚を祝し、久邇宮家献上の「彩磁瑞鳳文花瓶」及全国文武官献上の「彩磁松竹梅花瓶」を作る。「窯変天目茶碗」「肩衝茶入」
大正14年(1925) 大正天皇御成婚25年奉祝の文武官献上文房具中硯屏および筆架をつくる。小型磁器焼成窯を築く。工芸家にて工芸済々会を結成、11月第1回展を高島屋にて開催。「紅棗磁花瓶」(第1回工芸済々会展出品)「葆光彩磁呉須模様鉢」
昭和1年(1926) 「葆光彩磁葡萄文香炉」(第2回工芸済々会出品)
昭和2年(1927) 東京府美術館開館記念聖徳太子奉讃展覧会審査員となる。6月帝国美術院展覧会に工芸部新設され、その委員。7月帝展審査員となる。茨城工芸会を主催し現在に至る。関東在住の陶芸作家の団体東陶会結成され、それを主宰、現在会長として在任、「氷華磁瑞花文大花瓶」「葆光彩磁禽果文大花瓶」(奉讃展出品)「紫金磁珍果彫文花瓶」(帝展出品)
昭和3年(1928) 9月帝展審査委員となり、出品作は院賞を受く。「彩磁草花文花瓶」(帝展出品)「白磁枇杷彫文瓶」
昭和4年(1929) 帝国美術院会員となる。「彩磁唐花文様花瓶」(帝展出品)
昭和5年(1930) 10月フランス政府よりバルム・オフィシェー・アカデミー賞を贈らる。「彩磁草文様花瓶」(帝展出品)
昭和6年(1931) 「彩磁柘榴文花瓶」(帝展出品)
昭和7年(1932) 帝展出品の「彩磁草花文花瓶」政府買上。「彩磁花卉文花瓶」「葆光彩磁草花文花瓶」(帝展出品)
昭和8年(1932) 帝展出品作政府買上。「黄飴瓷文壺」(帝展出品)
昭和9年(1934) 12月帝室技芸員を拝命。
昭和10年(1935) 帝国美術院改組にさいし会員となる。「葆光彩磁草花文花瓶」「窯変鶴首花瓶」(帝展出品)
昭和11年(1936) 「淡紅磁四方香炉」(文展出品)
昭和12年(1937) 6月帝国美術院、帝国芸術院と改組、会員となる。「彩磁名華文花瓶」
昭和13年(1938) 「朝陽磁鶴首花瓶」(文展出品)
昭和14年(1939) 「彩磁水差」(文展出品)
昭和15年(1940) 紀元2600年展覧会審査員となる。「彩磁山草文水差」(2600年展出品)
昭和16年(1941) 学士会館において全工芸美術家による古稀の祝賀宴を受く、長岡市の有志により古稀記念の作品展開催、「彩磁草花文花瓶」(文展出品)
昭和17年(1942) 「白磁延寿文様花瓶」(文展出品)
昭和20年(1945) 4月、戦災により住居工房全焼、下館市に移住し、茨城県筑波郡菅間村洞下に仮工房を設け制作を続行。「黒飴瓷仏手柑彫文花瓶」(日展出品)
昭和21年(1946) 「彩磁唐華文水差」(日展出品)
昭和22年(1947) 「彩磁草花文花瓶」(日展出品)
昭和23年(1948) 「白磁牡丹彫文花瓶」(日展出品)
昭和24年(1949) 「凝霜磁蓮口花瓶」(日展出品)
昭和25年(1950) 東京旧地に工房を再建、現窯を復興。「蛋殻磁鳳耳花瓶」「彩磁美男蔓水指」(日展出品)
昭和26年(1951) 3月、下館市名誉市民に推挙される。「祥桃瑞芝文花瓶」(日展出品)
昭和27年(1952) 「蚕殻磁呉須絵鯉耳花瓶」(日展出品)
昭和28年(1953) 6月下館小学校に胸像建立さる。11月文化勲章を受く。「彩磁桔梗文水差」(日展出品)
昭和29年(1954) 3月、茨城県名誉県民に推挙さる。「黄磁枇杷彫文花瓶」(日展出品)
昭和30年(1955) 「彩磁桜草文水差」(日展出品)
昭和31年(1956) 5月、水戸市にて大観・波山展を開催。「銅燿磁唐花文花瓶」(日展出品)
昭和32年(1957) 「簸釉草文花瓶」(日展出品)
昭和33年(1958) 8月、夫人まる病没。10月、日本橋三越においてはじめて個展を開催。「青磁瓢花瓶」「彩磁花禽文水指」
昭和34年(1959) 4月、東京会館において米寿賀宴催さる。「凝霜鯉耳水指」(東陶会出品)
昭和38年(1963)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師の現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院します。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。波山は1964年東京オリンピックの開幕を楽しみにしていたが、開会式のちょうど1年間前に息を引き取りました。享年92、満91歳没。絶作の作品となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。
板谷波山 青磁竹節香炉 大正末~昭和初期
「青磁」とは中国から伝わった技法による青緑色の磁器のことです。「竹節」は植物の竹の節。「香炉」は香を焚く器で、茶道具の一つでもあります。作品は底にかけてややすぼまった円筒形で、胴にぐるりと巡らされた突起は竹の節を模しています。
器の表面全体に網のように入るヒビは「貫入(かんにゅう)」とよばれる文様で、器の見どころの一つとされます。三つ足で、高さは7.5㎝ほどの両手に収まるサイズ。木製の瀟洒な透かし彫りの蓋は波山の他作品にも多く使われています。すっきりと整った器形と、華美なところのない落ち着きのある風格は波山作品の特質をよく表しています。
板谷波山の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.板谷波山の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
板谷波山 査定価格におけるポイント
板谷波山の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
板谷波山先生は葆光彩磁にこだわりさまざまな陶芸作品があります、大壺の作品に高値の査定価格がつきます。
市場では、青磁の香炉をよく見かけます。100万から300万円ぐらいが相場です。
150万円から2000万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
板谷波山の作品は葆光彩磁の作品が評価されます。
板谷波山展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
板谷波山先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ板谷波山の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月20日
小山富士夫の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の小山富士夫の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
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世界的な陶磁研究者として知られる小山冨士夫(1900~1975)は、若い頃に陶工を志した後、研究者へと転じ、現在の陶磁研究の基礎を築いた人物です。小山冨士夫は1960年(昭和35)の「永仁の壺事件」以後に作陶を再開します。
1973年(昭和48)に陶芸家塚本快示を介して交流のあった二宮安徳市長の招きにより土岐市へ移住し、「花の木窯」を開きます。小山冨士夫は種子島の土による作品を独特の薪窯で焼成するなど、短期間ながら精力的な創作活動を行い、1975年(昭和50)に土岐市において75歳の生涯を終えます。
轆轤を引く小山冨士夫
晩年を土岐市で過ごした小山冨士夫ですが、美濃との関わりは長く、とくに親しかった陶芸家荒川豊蔵との交流により昭和初期からたびたび美濃を訪れていました。
小山冨士夫は中国定窯古窯址の発見で一躍世界的に陶磁学者として知られ、日本中世「六古窯」の研究や正倉院蔵の奈良三彩の調査など古陶磁研究で多くの業績を残していますが、その研究の対象は朝鮮、日本の古陶磁から中近東、ヨーロッパの陶磁器、さらには現代陶芸にまで及びます。
小山富士夫 本人
研究以外でも、小山冨士夫は人間国宝制度の創設をはじめ、文化財行政の骨格を作り上げた一人として大きな役割を果たしました。
小山冨士夫は、石黒宗麿や荒川豊蔵はじめ、塚本快示、中里無庵、金重陶陽、川喜田半泥子、北大路魯山人他の近代の代表的な陶芸家たちと友情を深めながら、小山冨士夫は自ら「窯場荒らし」と称して各地の親しい陶芸家のもとを訪ねて制作しています。各地窯業の伝統や約束事にとらわれず、自由な造形を追求したその天衣無縫な作風は多くの人々に愛されています。
小山冨士夫 種子島茶碗
偶然にも種子島の職員から「種子島にあった能野焼(よきのやき)の再興に協力してほしい」と要請があった。 能野焼は江戸末期から明治の中ごろまで数十年間、擂鉢や甕、片口など生活雑器を焼いていた窯である。それらは土灰釉が施されていたが、首里での荒焼を思い出した小山冨士夫先生は、「無釉の焼締で良かったら、やってもよいが」と返事されると、「先生にお任せします」との承諾を得たので引き受けることになった。
早々に種子島に出向き、能野焼古窯址付近にあった12種類の土を採集して、自宅にある永福窯で試験焼をされた。試験焼の結果、その中から田土を選んだ。土の耐火度は低いが、きめ細かな土が気に入られたのだ。 丹波の窯を参考にして間仕切りのない蛇窯として西ノ表市で築窯することになった。
赤く焼かれた肌と炭化した黒い焼肌との対比を好んだ小山冨士夫が蛇窯で焼く、新たな「種子島焼」を誕生させたのある。自然とともに焼締陶の楽しさ面白さを世に問うた作品群であった。
小山冨士夫 宋赤絵風花酒觴
作者の代名詞ともいえる「花」。宋赤絵を範としながらも古陶磁研究で養われた感性により 小山冨士夫独自の花として開花した盃と言えましょう。
小山冨士夫の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.小山冨士夫の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.小山冨士夫の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.小山冨士夫の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.小山冨士夫の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
小山冨士夫 信楽水指
小山冨士夫の轆轤さばきは、一気加勢に挽きあげ、実に見事なものだったそうです。
その轆轤を引き上げる際の勢いをそのままに感じる水指の畳付には「古山子」のこれまた勢いあるサインが入る。
小山冨士夫 略歴
明治33年(1900)3月24日、岡山県玉島市に父善太郎、母幾無の長男として生まれる。 父善太郎は花蓆を輸出する貿易商でした。東京府立第一中学(現・ 日比谷高校)から東京商科大学(現・一橋大学)に入学したが、大正12年(1923)中途退学、その後さまざまの数奇な体験をへて作陶生活、ついで古陶磁 研究へすすみます。
明治37年 東京・麻布に転居、姉たちと近所のフレンド教会の日曜学校に通い、ボール博士の教えをうけます。
大正8年 3月、東京府立第一中学校(現・日比谷高校)を卒業。
大正9年 4月、東京商科大学予科(現・一橋大学)に入学。
大正12年 6月、東京商科大学を中退し、社会主義運動に共鳴し一労働者たることを決意してカムチャッカへ赴く。関東大震災の報をうけて帰国。フレンド教会の救済事業に従事する。12月、近衛歩兵第三聯隊に一年志願兵として入隊する。岡部長世を知り、陶器に興味をいだきます。
大正13年 11月、除隊。上野図書館に通い、館蔵の陶器関係図書を読破します。
大正14年 2月、友人坂部甲次郎の紹介により瀬戸の矢野陶々に弟子入りする。兄弟子余郷潔につれられて小長曾古窯を訪れる。これが、古陶磁研究への発端となる。9月、近衛歩兵第三聯隊に見習士官として再入隊、11月予備歩兵少尉として除隊。12月、京都山科の真清水蔵六に弟子入りする。清閑寺、山科街道沿いに須恵器窯址を探ります。
大正15年 朝鮮半島、中国に旅行。旅行から帰り、京都市に借家し、独立して作陶する。 昭和2年 3月、住いのすぐ前に石黒宗麿が越してきたため親交を結び、唐三彩などを試作します。
昭和5年 京都・大丸で石黒宗麿と二人展。川喜田半泥子(久太夫)小山の作陶を買いあげる。4月、古陶磁研究を志して上京、東洋文庫へ通い、郭末若、江上波夫、三上次男などをしる。東洋陶磁研究所設立され、所員となります。
昭和5,6年ころ留学中の郭沫若と親交を結び、昭和10年代に中国諸地方の古窯址を踏査をします。
昭和6年 毎日新聞社の本山彦一の古窯調査団に参加し、美濃、瀬戸、常滑の古窯を調査する。東洋文庫奥田誠一の仲介により横河民輔の中国陶磁コレクションの整理にあたります。
昭和7年 奥田誠一の要請により東洋陶磁研究所(日本橋通3丁目松慶ビル)で雑誌『陶磁』の編集にあたり、論文を発表しはじめます。
昭和8年 5月、奥田誠一の推薦で文部省宗教保存課国宝調査室嘱託となる。この年、京都時代の友人の社会主義者を泊めたという理由で碑文谷署に留置されます。
昭和9年 1月、文部省国宝調査室嘱託を辞職。6月~7月、国宝調査室の田沢金吾と薩摩古窯を調査。
昭和15年 10月、中国東北区に旅行、遼陽缸官屯古窯、撫順大官屯古窯を調査。
昭和16年 2月、田沢金吾との共著『薩摩焼の研究』刊。3月~5月、中国古窯址踏査旅行、河北・河南・山東・内蒙古を調査、4月10日に定窯古窯址を発見します。
昭和17年 10月、文部省帝国美術院附属美術研究所嘱託、根津美術館嘱託となります。
昭和18年 7月、『宋磁』刊(聚楽社)。12月、『支那青磁史稿』刊(文中堂)。12月には、いまなお名著として高い評価をうけている『支那青磁史稿』を発表しました。戦後は、東京国立博物館調査員、文 化財保護委員会調査官として陶磁工芸の調査と文化財指定、各種陶磁全集の編集、評論に活躍します。
昭和19年 5月~6月、中国東北区、モンゴル区を調査旅行し、林東の遼上京窯址、赤峰乾瓦窯址などを発掘調査します。『満蒙の古陶磁』刊(満蒙古蹟古物保存協会)。
昭和20年 応召、少尉として朝鮮へ行き敗戦をむかえる。東洋陶磁研究所被災、焼失し、解散します。
昭和21年 日本陶磁協会設立に関与し、三上次男らと瀬戸古窯を発掘調査する。日本陶磁振興会理事昭和24年 文部技官となる。
昭和25年 9月、文化財保護委員会の発足、美術工芸課勤務となる。
昭和26年 4月、東京大学文学部講師(28年3月まで)。6月、神奈川県立近代美術館運営委員(50年10月まで)。
昭和27年 8月、文化財保護委員会無形文化課勤務となる。
昭和29年(1954)の『東洋古陶磁』全6巻(美術出版社)は、数ヶ国語に訳出され、世界的に知られている著作である。『東洋古陶磁』全6巻。河出書房『世界陶磁全集』全16巻の編集に参加。同年秋、「永仁 の壷」重要文化財指定解除問題がおこります。
昭和30年 2月、日本陶磁協会理事に就任。平凡社『陶器全集』全32巻の監修にあたる。
昭和32年 5月~7月、アメリカ国務省からの招きで渡米、各地美術館を歴訪し講演する。
昭和33年 中津川古窯址の発掘調査に参加。
昭和34年 1月、文化財保護委員会無形文化課調査官となる。
昭和35年 3月、第10回文部大臣賞芸術選奨(評論その他部門)をうける。
昭和36年 7月、文化財保護委員会事務局を辞職する。
昭和37年 3月~4月、イギリス国際文化振興会の招きによりイギリス各地を旅行、講演する。秋、正倉院の陶器の調査に参加。10月、神奈川県文化財専門委員となる。 昭和38年 4月、出光美術館顧問となる。
昭和39年 1月、エジプト、フスタート遺跡出土の中国陶磁を調査。3月、欧米諸国を旅行し、8月開催の「現代国際 陶芸展」(朝日新聞社主催)に尽力する。この年から鎌倉の自宅で再び作陶をはじめる。
昭和40年 3月、文化財専門審議会専門委員。4月~5月、中国政府より招かれ、新中国の各地を訪問、戦後発見の新資料を調査。
昭和41年 2月、佐野美術館理事に就任。4月、和光大学教授会会員。5月、日本工芸会副理事長となる。同月、中国美術史研究日本学術代表団の一員として中国各地を旅行する。鎌倉の自宅に永福窯を築窯。
昭和42年 4月、和光大学教授。6月、日本工芸会副理事長となる。
昭和43年 3月~4月、フィリッピン美術史学会の招きによりマニラで開かれた陶磁交易ゼミナールに参加。タイ、シンガポール、ジャカルタ、バリ、サラワクのクチン、台湾などの窯址を調査。
昭和44年 7月、国際芸術見本市協会理事となる。9月台北の故宮博物院を訪問、汝官窯を研究、「日本にある中国陶磁」について講演する。 昭和45年 3月、台北・故宮博物院で「西方各国出土の中国陶器」と題して講演、蒋介石と会見する。
昭和46年 4月、勲三等瑞宝章をうける。
昭和47年 8月~9月、ヨーロッパ旅行。11月、神奈川文化章受賞。土岐市に花の木窯築窯。
昭和48年 3月、和光大学教授を退職。5月、花の木窯初釜。同月、古田紹欽と柊画廊で二人展。6月、「現代日本の伝統工芸」展開催のため中国を訪問。7月、東洋陶磁学会発足し常任委員長となる。秋、韓国を訪問。 昭和49年 11月、日本橋壷中居において「作陶10年」展を開く。 昭和50年 4月、「小山冨士夫・岑一、書と陶芸」展を銀座松屋で開催。「花ノ木窯作陶展」(グリーンギャラリー)。7月~8月、社会保険中央病院に入院。10月7日、心筋障害で急逝。
昭和49年11月、日本橋壷中居において「作陶 10年」展を開催しました。
小山冨士夫 紅毛茶碗
紅毛とは古来、茶の湯文化で言い習わされているオランダ・デルフト焼の和名。 小山冨士夫先生は、欧州で出会ったデルフト陶に魅せられ、茶碗に限らず、水指や酒器でも、好んでこのブルーと黄色が織りなす紅毛の作品を作りだした。 真っ白な化粧土の上には、透き通るような青色と、黄色が交互に配されています。
特に、口縁には呉須を用いたのか、他で見られるものよりも深い藍色が乗って全体を引き締めている。 一部釉が流れているのも、色の流れる幅やリズムが出て面白くなっている。 茶室に光が射しこんだような明るさを灯してくれるだろう。
小山冨士夫の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.小山冨士夫の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
小山冨士夫 査定価格におけるポイント
小山冨士夫の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
小山冨士夫先生の種子島焼にこだわりさまざまな陶芸作品があります、水指やぐい呑みの作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から30万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
小山冨士夫の作品は茶碗の作品が評価されます。
小山冨士夫展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
小山冨士夫先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ小山冨士夫の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月19日
藤本能道の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の藤本能道の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
藤本能道の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、藤本能道の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
藤本能道作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の藤本能道のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた藤本能道の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の藤本能道の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
藤本能道は色絵磁器の巨匠である富本憲吉や加藤土師萌に陶芸を学びます。オブジェ制作を経た後、色絵磁器の技術の追究と芸術的表現の追究に生涯を捧げました。釉薬や上絵の具、描法などについて常に新しい技法を求め、色・形・質感が一体となった独創的な色絵磁器の世界を創出した革新的な作家です。
その代表的な技法に「釉描加彩」があり、最晩年にはそれまでの集大成ともいえる代表的な作品をつくりだしました。
藤本能道は1919年(大正8年)、東京都大久62保に大蔵省書記官である藤本有隣の次男として生まれました。3歳の時に父が死去し、その後はかつて陸軍中将であった厳格な祖父に育てられました。元々絵を描くことが好きだった藤本能道は、東京美術学校(現芸術大学)への進学を希望しました。周囲は強く反対しましたが、「絵画ではなく図案(デザイン)科なら」と辛うじて受験を許されました。図案科卒業後は文部省により新設された工芸技術講習所に入所します。加藤土師萌に陶芸の手ほどきを受け、さらには、加藤土師萌に代わって教授となった富本憲吉の助手をつとめました。
藤本能道 本人
終戦後は富本憲吉の辞任に伴い藤本能道も講習所を辞め、京都、鹿児島、和歌山で陶磁器をデザインする仕事や窯業の技術指導にあたりました。その頃から巨大な存在である2人の師の模倣から脱却しようと、前衛陶芸に傾倒し、流政行や八木一夫と交流します。1950年代は前衛陶芸団体の走泥社やモダンアート協会を活動の場とし、陶芸のオブジェ化という最前線に身を置き、自身にとっての陶芸を模索しました。
1962年、藤本が43歳の時に加藤土師萌の招きで東京芸術大学の助教授に迎えられました。その翌年に富本憲吉が、1968年に加藤土師萌が世を去り、二人の師を続けて失った藤本能道は、自分の使命であるかのように色絵磁器の制作を本格的に再開するようになりました。それから73歳で亡くなるまでの20余年間、藤本能道は文様表現の新たな可能性を徹底して探求しました。 藤本能道の文様表現は絵画的、且つ写実的な模写を目指したものでした。日本画の輪郭線を用いない技法「没骨描法」をやきものに採り入れたり、それまでタブーとされてきた上絵の具の混色を試みるなど、常に新しい事に取り組みました。とりわけ「釉描加彩」という、磁器釉をかけた器に色釉で文様を描いて本焼きし、足りないところの色彩を上絵の具で描き加えて焼き付ける藤本能道の独自の技法は、藤本能道の色絵に欠かせないものでした。
藤本能道 釉描加彩樹陰宿鴉図四角筥 1987
こうしたひとつひとつの技法の開発が、作品をより絵画的なものへと押し上げ、色絵磁器の世界にも多大な影響を与えました。 1985年には工芸家では初めての東京芸術大学の学長をつとめて、翌年には色絵磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)として認定されました。 作品に描かれる写実的な野鳥や草花からは、物事を正面から見つめ、常に新しいことに挑戦する強い意識を窺い知ることができます。
藤本能道 釉描加彩樹陰宿鴉図四角筥 1987
藤本能道は二つの色絵の革新に取り組んだ。一つは先の没骨技法の応用である。藤本は輪郭線での呉須の利用のみならず、墨絵のようにぼかして面で使用することにより、その上に乗せた色絵の具に濃淡を与えた。たとえば、木の肌の凹凸や光の加減を表現することに成功している。
もう一つは「釉描加彩」である。釉描とは、釉薬を掛けた後に絵の具で彩色するで素地に色を付けることである。加彩とは概ね上絵付と思ってよい。この技法によって可能となったことは、白い素地でしかない余白を背景として使用し、器全体を絵付作品にすることを可能とした。釉描自体は藤本以前にも行われていたことであるが、藤本は釉描の安定性を求めて、素地となる釉薬の開発も独自に行っている。こうして和絵の具の伝統をベースとした色絵作品は藤本の技法によって高い絵画性を持つものとして完成された。
藤本能道の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.藤本能道の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.藤本能道の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.藤本能道の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.藤本能道の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
藤本能道 略歴
大正8(1919)年1月10日、東京大久保に大蔵省書記官藤本有隣の次男として生まれる。
大正12年、関東大震災により生家の郷里高知市へ移り住み、小学4年まで高知市ですごす。
昭和3(1928)年上京。麹町尋常小学校を経て同6年東京府立第一中学校に入り、東京美術学校図案部に入学し、昭和16年同部を卒業
昭和年4月文部省工芸技術講習所第一部に入学し、翌年より同講習所講師であった加藤土師萌に陶芸を学ぶ。
昭和17年第29回光風会展に図案「貝殻の構成」「抽象構成」で初入選。同年の東京府工芸展には陶器を出品している。
昭和18年同講習所を卒業し、ひき続き同所嘱託となった。
昭和19年6月から同講習所教授となった富本憲吉に師事して
昭和年8月より助手をつとめた。同年第31回光風会展に「赤絵花瓶」「黒釉木ノ葉皿」「黒釉上絵花瓶」を招待出品して光風工芸賞受賞。
昭和20年勤務先の講習所が岐阜県高山へ疎開したため教授であった富本に同行した。
昭和21年第20回国画会展に油絵「海樹」で初入選。また、同年の同展に「五染附色絵小壷(かれい)」「色絵小壷(梅)」等全7点を出品するが、同年富本憲吉が国画会展を退会するに伴い同会工芸部が解散したため、同展への出品はこれのみとなった。年第1回日展に「色絵花瓶」を出品する。
昭和年5月、富本が文部省工芸技術講習所を退くと、これに従って講習所助手を辞任。翌月から京都松風研究所に勤務し、同所顧問富本憲吉から再び指導を受けた。
昭和22年より富本を中心に設立された新匠工芸会に参加。
昭和23年同会会友、同24年同会員となった。
昭和25年鹿児島県及び市商工課嘱託となって県内窯業指導に当たる。
昭和31年京都市立美術大学専任講師となり、また
昭和年日本陶磁協会賞を受けた。同32年新匠工芸会を退いて走泥社に参加。同年モダンアート協会展に初出品し、
昭和33年に同協会会員となった。この頃から実用を離れたオブジェ等前衛的な試みに取り組んでいる。同37年京都市立美術大学を退いて東京芸術大学助教授となる。
昭和38年、伝統を重視する作風に転換してモダンアート協会、走泥社を退会。その後日本伝統工芸展を中心に作品を発表したほか、
昭和45年フランスのバロリス国際陶芸展、同51年国際交流基金主催、ニュージーランド、オーストラリア巡回「現代日本陶芸展」、
昭和58年米国のジャパニーズセラミックストゥディ展等、国際的にも活躍した。伝統的な色絵に絵画的写実を導入し、「釉描加彩磁器」の新技法、新たな作風を開拓して、昭和61年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
昭和60年から4年間、工芸家では初めて東京芸術大学の学長をつとめるなど、工芸界に指針を示すとともに教育にも尽力した。著者に『やきもの絵付十二ケ月』
昭和59年 溪水社)、『藤本能道作品集』(同60年 講談社)等がある。
平成4年、人間国宝の陶芸家で東京芸術大学学長もつとめた藤本能道は、5月16日午後4時39分、呼吸不全のため東京都葛飾区の慈恵医大青戸病院で死去した。享年73。
藤本能道 赤絵茶碗
このような赤絵茶碗をチラホラ見かけます。共箱でしたら10万円ぐらいのお値段が予想されます。
藤本能道の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.藤本能道の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
藤本能道 査定価格におけるポイント
藤本能道の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
藤本能道先生の作品は釉描加彩の食籠 (じきろう) の作品に高値の査定価格がつきます。
10万円から100万円ぐらいの買取相場です.
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
藤本能道の作品は釉描加彩の作品が評価されます。
藤本能道展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
藤本能道先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ藤本能道の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月18日
平田郷陽の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の平田郷陽の衣裳人形の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
平田郷陽の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、平田郷陽の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
平田郷陽作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の平田郷陽のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた平田郷陽の作品を鑑定して買取りいたします。
骨董品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の平田郷陽の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
二代平田郷陽作 昭和41年(1966) 抱擁(ほうよう)(部分)
二代平田郷陽作 おんな 昭和39年
平田郷陽の創作人形は、伝統的な「衣裳人形」の形態を採用し、生人形制作で培われた確かな写実性に基づきながら、人々の生活や心情を情趣ゆたかに表現しています。
平田郷陽の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.平田郷陽の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.平田郷陽の作品以外にも他の骨董品などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.平田郷陽の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.平田郷陽の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.衣裳人形の作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
平田郷陽 清泉
この作品は昭和36年に桐の木で作られた作品で、生き人形とはまた違ったデフォルメされた造形が印象的ですが、その表情は生き人形作品と同様に、とても魅力的で引き込まれます。
平田郷陽 略歴
1903(明治26)年11月25日、伝統的な「活き人形」(等身大の似顔人形)の名工として知られた初代平田郷陽(恒次郎)の長男として、東京浅草に生まれる。本名は恒雄。田原町小学校を卒業後、父に人形制作を学び、父が没した1924(大正13)年に二代目郷陽を襲名した。その後、等身大のマネキン人形を作るかたわら、雛人形などの制作に従事しました。
1928年、久保佐四郎、岡本玉水ら創作人形制作への意欲を持った同志と白沢会を結成、同会の展覧会に「島原の太夫」「髪」(共に1933年)など徹底的な写実に基づく作品を発表しました。
1935(昭和10)年には白沢会を解散して新たに日本人形社を創立、商品としての人形から、人形の芸術的発展を目指した活動を展開します。こうした世上の動きを反映して、人形の出品が認められた1936年の改組第1回帝展に、「桜梅の少将」が初入選し、以後、文展、日本人形社展に出品します。
1938年、童人舎人形塾を開設して門下生の指導・育成をはじめました。
1937年には岡本玉水と京城へ旅行して朝鮮の風俗などを調査します。
1940年に京城で作品展を開いています。
1941年、日本人形社を解散して新たに人形美術院を創立します。
1948年、戦後に創立された日本人形作家協会では代表委員に就任します。
この頃より、「沢辺の雪」(1948年、第4回日展)や、第6回日展で特選となった「茶」(1950年)、第9回日展(1953年)で北斗賞を受賞した「秋韻」など、作風は戦前の徹底した写実から、単純化されたフォルムと浮世絵の人物を思わせるほのぼのとした情感をたたえるものに変っていきます。
1953年に無形文化財に選定されます。
1954年第10回日展審査員を勤めます。
1955年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
1957年に日展を退会して以後は、日本伝統工芸展と、彼の門下生らによる陽門会に出品を続け、作風に円熟味と完成度が加わる。「遊楽」「冬麗」
1958年「萠芽」
1960年「清泉」
1961年「遊戯」
1963年「櫛名田姫衣装像」
1965年に創作四十年記念展(三越)
1968年、紫綬褒章
1973年「天のうずめの命」
1974年など、母や子供を題材に、振りや衣裳に意を凝らした愛くるしい作品を次々に発表しました。年勲四等瑞宝章を受賞、また、日本工芸会理事、日本伝統工芸会鑑査委員などもつとめ、人形芸術の発展に尽力しました。
1975年人形芸五十年平田郷陽展(三越)をそれぞれ開催します。
1981年、振りや衣裳に重点を置いた「衣裳人形」の現代化に取り組んだ人間国宝平田郷陽は、3月23日午後1時10分、脳血せんのため東京都文京区の都立駒込病院で死去した。享年77。
平田郷陽 端午
正確無比な人体の動き、き め細かな胡粉の塗り、人形の心を 映し出す豊かな表情、人間と人形の境目を危うくするほどの迫りくる美しさがあります。 戦後、郷陽は写実一辺倒で はない、新たな造形に挑戦します。
特に女性をモチーフに した作品では、その清潔な色香や 凛とした強さを的確に形にし、他 の追随を許さぬ独自の世界を築きあげました。一方で平田郷陽は、子供の表現にも長けていました。彼の作る子どもたちは、生き生きとしたという言い方が追い付かないほど「子ども」そのものです。
作家自身の言葉
「人形作りは、常に人形に心が宿ることを願いつつ、その芸に専念するものであり、たとえその素材は物質であろうとも、 作品が魂のすみかとなることこそ、 私の本望であります。」
平田郷陽の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.平田郷陽の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
平田郷陽 査定価格におけるポイント
平田郷陽の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
平田郷陽先生の作品は共箱の作品に高値の査定価格がつきます。
衣裳人形の作品が評価されております。
40万円から80万円ぐらいの買取相場です.
保存状態
衣裳人形の作品ですので割れや痛みがありますと査定価格が下がります。
箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
平田郷陽の作品は人間国宝に認定された「衣裳人形」の作品が評価されます。
平田郷陽展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
平田郷陽先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ平田郷陽の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
**************************************
弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
愛知県名古屋市中区門前町2-10
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
2024年11月17日
中島宏の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の中島宏の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
中島宏の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、中島宏の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
中島宏作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の中島宏巌のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた中島宏の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の中島宏の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
20代の頃、仕事の合間に窯跡や陶片を捨てた物原(ものはら)などをたずね、作陶の参考に陶片を探していました。古唐津や古伊万里の陶片がたくさんある中に、時々ブルーや緑に光る青磁を発見しました。
その際立った美しさに惹かれて、「こういうものを作りたい!」と思い親父に相談しました。しかし、返ってきたことばは「青磁はむずかしいぞ、商売にならない」。
今思えば、青磁をやるには高度な知識と技術が必要なので親父は心配して言ってくれたのだろうと思うのですが、その時は言われれば言われるほど、「よーし、それだったらやってやろう」と怖いもの見たさで青磁の世界に飛び込みました(笑)。
中島宏 本人
「そんなに難しいものなら人もしないだろうから、自分の存在感を打出せるだろう」と考えて、ひたすら勉強をしました。全国の作家の窯をたずねて色々と話を聞きました。そして家に帰る時には何十冊かの窯業関係の古本を買っていましたよ。新しい本を買うお金がなかったからね(笑)。
京都などで人間国宝クラスの作家の人たちが青磁をやっていましたが、やはり何と言っても中国・朝鮮の青磁ですよね。それらの写しを先ずやりました。しばらく写しをやっていくと技術が把握できるようになるんです。そうすると写しでは満足できなくなるわけですよ。
中島宏 床には小山富士夫の掛軸
「何か独自なものはできないか、自分の個性を出せるものがつくれないか?」という思いが湧いてくるんです。そんな時窯の中に、今までにない色を発見をしました。窯変ですね。
「これは、おもしろい!」「こんなのは誰もしていない!」 それから、この偶然を自分のものにしようと研究しました。偶然を必然に、これがやきもののキーポイントですよね。この偶然はチョイチョイあるんですが、感性がないと気づかないし、おもしろいと思わない。
そうこうする内に賞をもらうようになったのですが、しばらくして「何でこんな色になったんかな」と客観的に考えていったら武雄の自然、武雄の風土色といったものに行き着きました。
中島宏 青瓷彫文壺
その当時、中国陶磁の大家として有名だったのが小山富士夫先生でした。いろんな本を読んでいると、必ずと言っていいほどこの先生の名前がでてくるんですよ。
「ようし、この先生に会わないと話にならない」と今思えば無謀な決意をして鎌倉まで出かけました。 小山富士夫先生の家をやっと探り当てたのですが、門の前に立つと照れくさくなって中に入れなかったですね(笑)。
中島宏 翡青瓷香炉
12月の終わりだったので、みぞれ交じりの雪が降っていました。両手には作品を下げていましたので、手がかじかんでしまいました。そうこうするうちに、若い奥さんが気づかれて、中に招じ入れてくださいました。「寒いでしょうから」と入れていただいたコタツの温もりがうれしくて、今でも忘れられない思い出です。 先生に作品を見ていただき、「いい色をしているね」「形はもう少し工夫しなさい」と言ってもらいました。
小山富士夫先生といえば雲の上の人だったのですが、青磁のことや見るべき作品などを本当に親切に教えていただき、飛ぶようにして家に帰りました。その後はこの小山富士夫先生を美の基準として、一心不乱に青磁に取り組みました。小山富士夫先生にはその後も公私にわたってお世話になりましたが、人にはやはり人生の師となる存在が必要ですね。
中島宏 天青瓷層塔壺
私にはブルーや緑だけでなく、木々の色や花の色も青磁に見えます。自然の中には色んな色があるので、それらの色を表現してみたかったんです。ある専門家からは「これは青磁じゃない」といわれましたが、自然の全ての色が青磁に見えるので、その人に「私は色が見えないかも知れんな」と言ったら唖然としておられました(笑)。 しかし、青磁だけをやっていたらダメなんで、若い人には色んなことをやるように言っています。
僕も若い時には、唐津もやったし、天目も作りました。金彩もやれば色絵もやりましたよ。対称的なものをやれば、より深く理解することができるんですよ。又、そうやって自分の中にある才能に気づくんじゃないですか。天才とは、その人だけにしかない才能だと思うんですよ。そうしないと人は生きていけないから、神様が誰にでも与えてくれたものだと思います。 例えば、小さい子どもにリンゴを描かせると、一人として同じリンゴを描かないですよね。小さい子が実におもしろい絵を描くんですよ。ところが、大きくなって描いてみると色んな知識が豊富になって上手く描けるんですが、同じ絵になってしまう。知識が邪魔してしまったんですね。
中島宏の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.中島宏の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.中島宏の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.中島宏の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.中島宏の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
中島宏 略歴
1941(昭和16)年10月1日、佐賀県杵島郡西川登村大字小田志字弓野(現、武雄市西川登町弓野)生まれ。磁器の窯元に育ち、古窯跡の調査を通して青磁へ傾倒した。10代より、佐賀県、肥前地域の古窯跡を歩き物原(割れた焼き物の捨て場)で青磁の陶片に触れ青磁に魅了された。
1969年、第16回日本伝統工芸展に初入選
1970年、独立し、弓野古窯跡に半地下式穴窯を築窯
1973年には第2回日本陶芸展に初入選
1977年、第24回日本伝統工芸展で「白磁壺」奨励賞受賞、文化庁買い上げとなります。
1980年、西日本新聞社『中島宏作陶集』、97年日本経済新聞出版『中島宏作陶集―無窮なる青磁』を刊行。作品集のほか、95年には日本経済新聞社より随筆集『弓野[四季釉彩]陶芸家中島宏の世界』を刊行。
1981年、第1回西日本陶芸美術展で「粉青瓷線彫文壺」陶芸大賞(内閣総理大臣賞)受賞
1983年、日本陶磁協会賞を受賞。「中島青磁」と呼ばれる独創的な作品は高い評価を受けます。
1984年には、中国古陶磁研究者訪中団(日中文化交流協会主催)の一員として各地の古窯跡及び博物館を視察。青銅器の造形に感銘を受ける。翌年日本人として初めて、中国官窯の青磁がつくられた浙江省龍泉古窯跡を訪問し陶片調査を実施。自己の青磁創作への姿勢を強く意識し、唯一無二の「中島青磁」へと昇華。他に陶板作品も手がけます。
1990(平成2)年佐賀県重要無形文化財認定
1992年、NHK福岡放送センターロビーに青瓷釉彩磁器壁画「躍動する自然」
1995年、国際医療福祉大学(栃木県)に青磁「四季釉彩」磁器壁画を制作する。 また、陶磁研究家であった小山冨士夫を師と仰ぎ、生涯陶磁器の研究と収集を行う。生誕の地である武雄市弓野地区をはじめ、武雄地域の陶器収集を熱心に行った。江戸時代の佐賀藩武雄領で焼かれた古陶磁を「古武雄」と名付けて再評価を行い、収集した作品約600点を佐賀県立九州陶磁文化館に寄贈しました。
1996年にはMOA岡田茂吉賞工芸部門大賞を受賞
2005年、第52回日本伝統工芸展に「青瓷線文平鉢」を出品、NHK会長賞を受賞
2006年、第65回西日本文化賞受賞、日本陶磁協会創立60周年記念日本陶磁協会賞金賞受賞
2007年、青磁で重要無形文化財保持者の認定を受けます。
2010年、日本工芸会常任理事参与
2012年、日本工芸会副理事長就任(―2016年)、旭日小綬章を受章するなど、陶芸界の第一線で活躍しました。
2018年、青磁の美と技術を究めた「中島青磁」「中島ブルー」を確立し、青磁の重要無形文化財保持者であった中島宏は、3月7日肺炎のため死去した。享年76。
中島宏 ぐい呑み
50年この世界でやってきましたが、つくった作品の中で成功といえるものは1割程度です。納得がいかなくて割ったものも数知れず。家内からは「割るために作品をつくっているみたいですね」と言われます。
中島宏の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.中島宏の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
中島宏 査定価格におけるポイント
中島宏の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
中島宏先生の作品は、さまざまな青磁作品があります、大壺や香炉作品に高値の査定価格がつきます。
5万円から30万円ぐらいの買取相場です.
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
中島宏の作品は壺の作品が評価されます。
中島宏展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
中島宏先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ中島宏の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
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北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
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