2024年12月2日

河井寛次郎の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

御所蔵の河井寛次郎の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

河井寛次郎の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、河井寛次郎の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

 

河井寛次郎作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の河井寛次郎のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた河井寛次郎の作品を鑑定して買取りいたします。

 

陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の河井寛次郎の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

河井寛次郎は、濱田庄司とならび、近代陶芸界における先駆者のひとりです。河井寛次郎は東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業の後、京 都市立陶磁器試験場の技手となり、近代的手法に基づく窯業技術者として作陶を行ないました。

 

また自らの窯を築き、個人作家として独立後には、宗教哲学者にして民藝運動の主催者としても知られる柳宗悦らと出会うことにより、新たな表現を模索すると共 に、民藝運動の主導者のひとりとして活動したことでも知られています。

 

河井寛次郎は、陶器という形での表現のみならず、詩文を以て彼自身の美への思い、彼自身の言葉によるならば「祈り」を表現しました。雑誌『工藝』(1931-1948)への寄稿、詩集『火の願ひ』(1947 年刊行)などを通じて見られる河井寛次郎の表現には、当然ながら共に活動を行っ てきた民藝運動の同士である柳宗悦の影響が強く認められます。

 

釉薬の研究などにも余念がなく、ロンドン、ニューヨークなどでの個展や昭和32年にミラノ、トリエンナーレ国際工芸展における最高賞受賞など国際的にも活躍しました。

 

 

河井寛次郎 本人

河井寛次郎 本人

 

「暮しが仕事 仕事が暮し」 陶工・河井寬次郎の言葉です。 陶工でありながら、木彫やデザインなど陶器以外の仕事も手掛けた河井寛次郎は、同時に多くの言葉や文章を残しています。そしてそれらの言葉や文字からは本人の内面、人柄を知ることができ、またその言葉によって、受け手の私たちは励まされ、生きる上でのヒントや大きな力を与えられます。

 

河井寛次郎の人柄がわかるいくつかの言葉を紹介致します。

 

「過去が咲いている今 未来の蕾で一杯な今」

 

目の前に咲いている花は過去の積み重ねが今につながっている姿であり、まだ咲かない蕾はこれからの未来に咲く準備をしていることを意味しています。

 

「何という今だ 今こそ永遠」

 

河井寛次郎は、陶芸以外にも、彫刻、書、詩、金属、民藝運動等を精力的に行った人ですが、「今」を大切にしたということがわかるエピソードですね。

 

 

 

河井寛次郎 草花絵扁壺 1934年

河井寛次郎 草花絵扁壺 1934年

 

河井は常々、美しい仕事、正しい仕事は、美しい暮らし、正しい暮らしから生まれてくる、という思いをもっていました。 ですので、日の出とともに起きて日の入りまで仕事をされるお百姓さんのお仕事をとても尊いものとしていました。 “穀物や野菜は育てることは出来るけれども作る事は出来ない。作る仕事はごまかすことも出来るが、育てる仕事にはそれは出来ない。農家が、農家の暮しが美しくならないはずがない” と随筆「部落の總體」にも書いております。

 

河井寛次郎における仕事は、穀物や野菜ではなく陶器でしたが、それもやはりものづくりには変わりがなく、ごまかすことのない育てる仕事を目指していたのではと思っています。

 

 

 

河井寛次郎 辰砂扁壺 

河井寛次郎 辰砂扁壺 1948年 京都国立近代美術館蔵

 

辰砂の赤の発色が良い見事な扁壺です。造形も素晴らしく惚れ惚れします。

 

そのまま李朝箪笥の上にでも飾ってみても良いですが、どのように花を入れようかと思ったりします。

 

 

 

河井寛次郎の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.河井寛次郎の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.河井寛次郎の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.河井寛次郎の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.河井寛次郎の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

河井寛次郎 略歴

 

 明治23年(1890) 8月24日、島根県能義郡安来町(現、安来市)に生れます。

 

明治43年、松江中学校卒業、東京高等工業学校(現東京工大)窯業科に入学します。

 

明治44年、赤坂、三会堂で、バーナード・リーチの新作展を見て感激、その後間もなくリーチを桜木町の寓居に訪ねます。

 

大正3年、東京高等工業学校卒業、(前年、腸チフスを病み、一カ年休学)。 京都市立陶磁器試験所に入ります。

 

大正5年、同試験所に浜田庄司入所、爾後、研究、制作をともに励みます。

 

大正6年、試験所を辞し、清水六兵衛の顧問となり、各種の釉薬をつくる。浜田とともに琉球及び九州諸窯を視察します。

 

大正8年、浜田とともに朝鮮、満州、大連等を旅します。

 

大正9年、山岡千太郎の好意により、京都、五条坂に窯を築き鐘溪窯と名づけます。 三上やす(現、つねと改名)と結婚。

 

大正10年、東京と大阪の高島屋で、当時同店の宣伝部長川勝堅一の斡旋により、宋、元、明、李朝等古陶磁の手法を逐った作品「第一回創作陶磁展」を開き、絶讃をうける。(爾後、年次展を開催)また、東京、流逸荘で「李朝陶磁展」を見て、李朝陶磁器の真髄に触れるとともに、この会を主催した柳宗悦を知ります。

 

大正11年、前年中の快心作の写真集『鐘溪窯第一輯』を刊行。

 

大正12年、黒板勝美博士の知遇を受け、また大毎京都支局長、岩井武俊を識る。創作についての反省が始まる。

 

大正13年 、イギリスより帰朝した浜田を介し、柳宗悦との親交始まる。 恩賜京都博物館で「陶器の所産心」と題して講演を行ない、新たな所信を披瀝す。

 

大正14年、第5回東京高島屋展に用途を重んじた新しい作風を示します。

 

大正15年、柳宗悦、浜田庄司とともに「日本民芸美術館」設立の念願起こす。黒板博士の努力で「河井氏後援会」生れる。作家としての一大転換機をむかえ、作品の発表を差し控えて、制作に専念します。

 

昭和2年 「河井氏後援会」主催の作品展を、東京丸の内の日本工業倶楽部で開く。柳編纂の『雑器の美』に「陶器の所産心」を掲載します。

 

昭和3年、御大礼記念国産振興博覧会に、柳、浜田、その他日本民芸美術館同人とともに、民芸品で家具調度を整え「民芸館」と名づけた建物を新築出品す。 昭和4年 帝国美術院より院展無鑑査として推薦さる。3カ年の沈黙ののち、東京高島屋で、第6回作品展覧会を開きます。

 

昭和5年、米国ハーヴァード現代芸術協会主催の「日英現代工芸品展覧会」に出品。大阪高島屋主催大阪美術倶楽部で「作陶10年記念展」を催します。

 

昭和6年、柳宗悦、浜田庄司とともに雑誌『工芸』を発刊。柳宗悦とともに鳥取、島根を旅し、鳥取の牛の戸窯の開窯に立会い、松江では郷里の工人を指導します。この年の展覧会に色絵を出品します。

 

昭和7年、ロンドンの山中商会支店で個展を開きます。練上手、抜蝋の作を出品。

 

昭和8年、日本民芸美術館主催の東京高島屋での「綜合新工芸展覧会」に作品を出品します。東京、上野で開催の第8回国展に賛助出品す。倉敷文化協会主催の個展を倉敷市商工会議所で開く。柳宗悦とともに現代民窯展準備のため、中国、九州の諸窯を歴訪す。

 

昭和9年、東京、上野の松坂屋で開催の「陶匠十家展」に出品。バーナード・リーチを自窯にむかえて、ともに制作す。東京高島屋で開催の「現代日本民芸展」にモデルルームとして浜田庄司の食堂、リーチの書斎とともに台所を設計し出陳します。

 

昭和10年、再度リーチを自窯にむかえる。大原孫三郎翁より柳宗悦に対し、民芸美術館設立の資金寄付の申出をうけ、協議に参画します。この年陶硯の制作に没頭す。柳宗悦と四国に旅します。

 

昭和11年、東京高島屋で陶硯百種展を開きます。柳宗悦、浜田庄司とともに朝鮮を旅し会寧を経て満州吉林にはいる。大阪高島屋で陶硯展を開く。『工芸』68号は河井寛次郎特輯号を刊行。東京駒場に、「財団法人日本民芸館」を設立。理事となる。

 

昭和12年、パリ万国博覧会に出品の鉄辰砂草花丸文大壺がグランプリを受賞す。再度、柳宗悦、浜田庄司とともに朝鮮を旅します。

 

昭和14年、民芸協会同人とともに沖縄に渡島す。米人ギルバートソンは2カ年間作陶のため弟子入りす。

 

昭和15年、銀座鳩居堂で富本憲吉、浜田庄司、河井寛次郎の「三人展」を催しこの機会に三人の作品図録を出版します。東京、大阪両高島屋で「作陶20周年展」を催します。

 

昭和16年、柳宗悦、浜田庄司とともに華北を旅します。

 

昭和18年、東西高島屋で浜田庄司との二人展開く。

 

昭和19~20年、戦火はげしくほとんど窯立たず、文筆に没頭します。棟方志功は版画にて鐘溪窯を賛える「鐘溪版画柵」24図を制作します。

 

昭和21年、長女、良に養嗣子、博(現在博次と改名)をむかえる。高島屋での個展復活。

 

昭和22年、寛次郎詞「火の願ひ」を棟方志功版画にて制作47図を完成す。自詞を自刻した陶版「いのちの窓」を完成。酒瓶を主とした個展を開く。

 

昭和23年 『化粧陶器』『いのちの窓』を出版。陶版「いのちの窓」の個展を開く。

 

昭和24年、日本民芸館西館で「辰砂について」と題し講演を行なう。柳著『河井寛次郎』を札幌の鶴文庫より出版。この年から異なった角度による不定形の造型始まります。

 

昭和25年「還暦記念展」を東京、大阪両高島屋で開く。日本民芸館では、館所蔵の河井作品300点を陳列、還暦記念展。

 

昭和26年、フランスで開催の陶器展に出品。この頃しきりに木彫を試作します。

 

昭和27年、仏人ラルー入洛し、1カ年余弟子入りす。東京高島屋増築記念として富本憲吉、浜田とともに「三人展」を開きます。

 

昭和28年、朝日新聞社より『火の誓ひ』出版。『いのちの窓』の英訳を刊行。夏、リーチ、柳宗悦、浜田庄司とともに共著『陶器の本』(仮称)の原稿執筆のため信州松本在霞山荘に滞在。東京高島屋主催「作陶40年展」を東京の光輪閣、大阪高島屋で催す。陳列作品700点。

 

昭和29年、大丸神戸店でリーチ、浜田庄司と「陶芸3人展」を開きます。東京高島屋でリーチ、富本憲吉、浜田庄司とともに「陶芸4人展」を催す。泥刷毛目の手法を制作。前年よりひきつづき共著『陶器の本』の原稿執筆のため、春、千葉県房州、夏信州松本在霞山荘にて、リーチ、柳宗悦、浜田庄司とともに滞在します。

 

昭和31年、日本民芸館本館建物修理のため、浜田庄司とともに抹茶碗を寄贈し、柳宗悦の書軸を加えて、民芸館にて頒布会を行います。東京と大阪の高島屋で個展を開催。20年振りに新型陶硯、練り上げ手、陶板花手文の筒描き始めます。

 

昭和32年、朝日新聞社主催で、京都、東京両高島屋および名古屋のオリエンタル中村で「陶芸40年展」を開く。ミラノ、トリエンナーレ展で「花文菱形扁壺」グランプリを受賞。京都の民芸使節団をひきいて沖縄に渡島。

 

昭和33年、木彫で手、人物像、動く手、動く足、面等を造る。またこれらで陶土の原型をつくる。一方幾何学的貼付陶文の試作、色釉を使った打薬の手法を始む。腸閉塞と腸癒着のため大手術をうける。

 

昭和34年、木彫の制作つづく。秋の高島屋展に木彫の面20余点を出品。三彩打薬の手法漸く安定し、壺、大鉢、茶碗、皿等の製作に打ち込む。緑釉および陶彫の試作始まる。北海道、青盤舎で柳、浜田との「三人展」開催。

 

昭和36年 大原美術館は四人の陶匠(富本憲吉、リーチ、河井寛次郎、浜田庄司)作品の常時陳列施設として「陶器館」を開設。

 

昭和37年、雑誌『民芸』1月号に「六十年前の今」の第1回を掲載、第59回まで続く。和蘭のマーガレット王女来訪。天満屋広島店で、個展を開催。

 

昭和38年、名古屋オリエンタル中村、天満屋岡山店で個展を開く。 昭和39年 東京、大阪両高島屋および名古屋オリエンタル中村で個展開催。

 

昭和40年、大原美術館は『河井寛次郎作品集』の刊行を企画。天満屋広島店で個展を開き、広島より郷里安来に旅します。また天満屋福山店の「日本民芸館同人陶器展」に賛助出品。

 

昭和41年、京都高島屋で「寛次郎、博次、武一三人展」を催す。名古屋オリエンタル中村で「寛次郎博次父子展」を開く。天満屋岡山店、東西両高島屋でそれぞれ個展を開く。6月頃より躰の衰弱はげしく、11月2日、専売公社病院に入院、11月18日午後1時5分永眠す京都市東山区の専売公社京都病院で老衰のため死去した。享年76才。12月1日紫野大徳寺山内の真珠庵で日本民芸協会葬を執行。法名、清心院鐘溪寛仲居士。享年77才。

 

昭和42年 3月、京都府立総合資料館で、河井寛次郎コレクション約300点を出品し「民芸展」を催す。5月、東西高島屋で、6月、大原美術館で「河井寛次郎遺作展」を催す。またこの年に、大原美術館より大型図録、『河井寛次郎作品集』を出版。

 

 

 

河井寛次郎 木彫像 昭和29年頃

河井寛次郎 木彫像 昭和29年頃 河井寛次郎記念館蔵

 

このような木彫の作品は少なくオークションにはなかなか出て来ません。

 

陶芸作品でも手の作品や顔の作品が出ましたら高値での取引が予想されます。

 

 

河井寛次郎 書

河井寛次郎 書 

 

ひとりの仕事で

ありながら

ひとりの仕事で

ない仕事

 

このような書の作品も時々見かけます。書の作品もお探しの方がお見えです。

 

お問い合わせください。

 

 

河井寛次郎の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.河井寛次郎の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

河井寛次郎 査定価格におけるポイント

 

河井寛次郎の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

河井寛次郎先生の作品は、鐘渓窯の初期の作品に高値の査定価格がつきます。

 

晩年の三色扁壺や独特の個性的な形の壺も高値で取引されております。

 

20万円から300万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

河井寛次郎の作品は扁壺や壺、ぐい呑みの作品が評価されます。

 

河井寛次郎展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

河井寛次郎先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ河井寛次郎の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

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