2024年12月5日
清水六兵衛の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の清水六兵衛の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
清水六兵衛の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、清水六兵衛の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
清水六兵衛作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の清水六兵衛のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた清水六兵衛の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の清水六兵衛の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
清水六兵衛の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.清水六兵衛の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.清水六兵衛の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.清水六兵衛の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.清水六兵衛の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
清水六兵衛の歴史
六兵衛窯は江戸後期(1771 年)に初代清水六兵衞が京都の五条坂に開窯したのが始まりです。以後 250年にわたり、各代の当主が各々の特質を家伝の上に生かした作品を世に送り出してきました。 六代六兵衞の時に会社組織として株式会社清六陶匋(現 株式会社キヨロク)を立ち上げました。現在は八代六兵衞の監修の下に、伝統的な京焼の作風を生かしつつ、食器から花器、インテリア、茶陶など現代のライフスタイルにマッチした製品を作っています。
初代六兵衞は、1738(元文3)年に摂津国島上郡五百住村(現、大阪府高槻市)の農家・古藤六左衛門の子に生まれた(幼名・栗太郎)。 寛延年間(1748-51)頃、京都の五条坂にて、海老屋清兵衛(海老屋弥兵衛)について陶業を学びました。
その後、1771(明治8)年頃に独立し、「六兵衞」と改称しました。また師の海老屋清兵衛から授けられた「きよ水」の印にちなみ、「清水(きよみず)」姓を名乗るようになります。
天竜寺の住職で茶人としても名高かった桂州和尚より六角「清」の大小印を授かり常用し、「愚斎(ぐさい)」の号を贈られました。
初代清水六兵衛
初代は主に茶器の制作を行い、轆轤成形の後、鉋目、篦目を効果的に生かす特徴的な表現を得意としました。作域は信楽写、瀬戸釉(鉄釉)、御本、染付(陶胎)などにおよびます。
妙法院宮眞仁法親王の命により、御庭で黒楽茶碗を作り、「六目」の印を授けられました。これによって眞仁法親王の文化サロンに加わり、絵師の円山応挙や松村呉春、文人の上田秋成、村瀬栲亭との交遊で親睦を深めました。
上田秋成と村瀬栲亭から文人趣味の煎茶器の制作を引き受け、晩年、急須、涼炉の制作で高く評されました。
1799(寛政11)年に死去。
初代六兵衛 御本立鶴茶碗
御本立鶴茶碗は小堀遠州によるデザインで朝鮮への発注による注文品であることが知られております。 人気がありましたので、幕末頃迄まで断続的に注文製作されていたようでした。本歌はかなり時代の幅があります。
この初代清水六兵衛作の方が同時代のものよりずっと作品の出来が良いです。 なんともいえない古作風の味わいがあります。
二代六兵衛
初代六兵衛が52歳、1790年(寛政2)年の時に生まれました。(幼名正次郎)初代が亡くなった時には9歳で、すぐに家業を継ぐことは出来ませんでした。1811年(文化8)年に家業を再興しまして、二代六兵衞を襲名しました。また今回新たに、初代没後、正次郎が幼少のため家業を継げるようになる年齢まで、清水家を支えたと考えられる丸屋庄九郎という人物がいて、正次郎襲名の翌年に亡くなっていますが、これを清水家では顕彰の意味を込めて、二代六兵衞と称したと推測される資料が見付かっています。
三代六兵衛
三代六兵衞は、1820年(文政3)年に、二代の次男として生まれました。(幼名・栗太郎)。1838年(天保9)年に18歳で三代を襲名し、父に作陶を学びます、同時に南画家の小田海僊に絵を学びました。三代六兵衛は48歳と若くして隠居した父・六一とともに家業に取り組み、そして1848年(嘉永元)年に、五条坂芳野町に登窯を買取り、これにより清水家は窯元となり、陶家としての活動をより確かなものとしていきました。
四代六兵衛
四代六兵衞は、三代の長男として1848年(嘉永元)年に生まれました。(幼名・正次郎)三代六兵衛との交友の深かった画家の塩川文麟に師事しまして、祥麟(祥次山)の号を与えられました。1883年(明治16)年、三代六兵衛の死去によりまして、四代六兵衞となります。世界的な不況に陥った最も厳しい時期に家業を継いだ四代六兵衛は、家の存続を懸けた日々を過ごしながらも、後の五代六兵衛、栗太郎とともに、洋画家の浅井忠が主宰する図案研究団体「遊陶園」や、日本画家の神坂雪佳の「佳都美会」に参画し、清水家のみならず、京焼の意匠刷新に貢献しました。
五代六兵衛
五代六兵衞は、四代六兵衞の次男として1875年(明治8)年に生まれました。(幼名・栗太郎)。祖父、父と親交が深かった日本画家の幸野楳嶺に師事し、その後、父について作陶を学んだ。
六代六兵衛
六代六兵衞は五代六兵衛の長男として1901年(明治34)年に京都に生まれました。(幼名正太郎)京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)で日本画家の竹内栖鳳と山本春擧など京都画壇の巨匠たちから日本画を学びます。その後兵役につきましたが、復員後の1925年(大正14)年から父に師事して製陶全般を学びました。初期の図案風のものから古典に学んだものまで幅広い作品、特に三彩、玄窯、銹泑、古稀彩などは六代六兵衛を代表する装飾技法であり、日本画の素養をもとに確かな技術と経験を通じて重厚な趣をみせた作品が多いです。
七代六兵衛
七代六兵衞は、塚本竹十郎の三男として1922年(大正11)年に名古屋に生まれました。(幼名・廣、後に洋、裕詞)名古屋高等工業学校建築科を繰り上げで卒業した後、召集され戦地に赴きます。復員後、東京美術学校附属工芸技術講習所ならびに東京芸術大学彫金科で学びます。1951年(昭和26)年に六代六兵衞の養嗣子となり陶芸の道に進みます。1950年代から1960年代にかけてクラフト作品を制作する一方で日展に作品を出品し、特選を連続受賞するなど陶芸家として高い評価を得ます。1966年(昭和41)年に初めて彫刻作品を発表した後は、1968年(昭和43)年に九兵衞を名乗り、アルミニウムを主な素材に用いて彫刻家として活躍しました。1980年(昭和55)年に六代六兵衛の急逝を受けて七代を襲名しました。
八代清水六兵衛 本人
現在は、八代目六兵衞です、七代六兵衞の長男として1954(昭和29)年に京都に生まれました。襲名の前の名前は柾博です。1979年(昭和54)年に早稲田大学理工学部建築学科卒業して、京都府立陶工高等職業訓練校で轆轤を学び、京都市工業試験場で釉薬を学びます。
本格的に作陶活動に入ったのは、1983年(昭和58)年の朝日陶芸展’83でグランプリを受賞します。その後も数々の公募展において受賞を重ねまして、1980年代から1990年代にかけて陶芸表現が拡大する時代の中で常に注目を集めていきます、制作は図面にあわせて正確に土の板を切り、結合させることでなされるが、器体にスリットを入れることで強度を操作する、あるいは重力の力を利用するなど焼成によるゆがみやへたりを意図的に造形に取り入れています。
2000年(平成12)年に八代を襲名し、以後、造形性を持った器物を中心に作品制作を展開します。2003年(平成15)年に京都造形芸術大学教授となり、精力的な創作活動の傍らで後進の指導にもあたっています。 2005年(平成17)年に2004年度日本陶磁協会賞を受賞するなど、現在、京焼を代表する陶芸家の一人です。
各代が先代とは同じことをやらずに、それぞれ独自の作品を作ってきました。作品に入れる「銘」も、代々六角の中に「清」の字が書かれています。この字が各代で異なっています。 二代六兵衛〜五代六兵衛は磁器の洋食器なども作陶しております。
五代六兵衛は、結構新しい事を試しました、七宝の技法を応用した「音派焼」と呼ばせた作品があります。時代的にもアールヌーヴォーが入ってきたころだったのでその影響がありました。野々村仁清風の作品、青磁や天目もあり様々な作品があります。
六代六兵衛は若いころは彫刻風の作品を制作していまし、唐三彩の研究もしていました。他にも赤三島と名づけた器などもあります。 六代目は先代の五代目が使っていた釉薬を使いませんでした。五代目は釉薬がありましたが河井寛次郎さんも、若い頃に釉薬顧問という形で六兵衛窯に出入りされていました。 元々、寛次郎さんのところの窯(現在の河井寛次郎記念館の登り窯)は五代目が持っておりました。それを河井寛次郎さんに譲ったみたいですね。 その頃にはいろんな釉薬を研究していましたが、六代目がそれをほとんど使わなくて終わってしまった。
父の七代目は陶芸というよりは彫刻家(清水九兵衞 )としての活動の方が長かったです。40歳を過ぎてから一度やきものをやめて、それから20年程、金属彫刻家として活動していました。京都駅とかみやこめっせ(京都市勧業館)の前にある赤い彫刻は七代目の作品です。他にも全国各地に作品があります。
八代清水六兵衛 古稀釉富士に鶴抹茶碗
古稀釉は1971年に六代六兵衛が古稀の歳に発表した技法です。ガラス釉を厚くかけて焼成し、多泡質となった上に赤絵、金銀彩などの絵付けを繰り返し行うことで、侘び寂びの中にも華やかな印象を与えます。
富士山に鶴の図柄も大変縁起の良い図柄になりますのでお正月やめでたい時に使用されます。
清水六兵衛の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.清水六兵衛の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
清水六兵衛 査定価格におけるポイント
清水六兵衛の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
清水六兵衛先生の作品は、茶道具の陶芸作品に高値の査定価格がつきます。
歴代六兵衛の作品の中でもお茶碗が需要があるように思います。
1万円から5万円ぐらいの買取相場です。
中には10万円を超える陶芸作品もあります。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
清水六兵衛の作品は茶碗、水差、香合、徳利、盃の作品が評価されます。
清水六兵衛展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
清水六兵衛先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ清水六兵衛の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
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