2023年4月12日
ピカソの絵画、版画を買取りいたします。
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古くからピカソの版画は日本国内に入ってきており、様々な版画作品を拝見させて頂いております。それらの中でも銅版画が多いです。
まずは、簡単なピカソの作品について、ご紹介を致します。
パブロ・ピカソ 本人写真
パブロ・ピカソの現在の評価と価値
ピカソは多作の作家としても有名ですので、作品は多く残っております。
ギネスにも最も作品を残した作家として記録され、生前に約15万点を残しました。
どれだけ一流の作家でも作品を作りすぎると、
需要と供給のバランスが崩れて市場価値が下がる事があります。
実際に市場の反応を読めずに作品を作りすぎてしまい、
市場価値の暴落を招いた作家も存在します。
しかしピカソは世界で最も多作な作品でありながら、
世界で最も市場評価が高い作家と言えるでしょう。
ピカソの油絵作品は近年世界的なオークションでも高値を更新し、
世界の富裕層から安定資産として選ばれています。
パブロ・ピカソ 夢 1932年
高額で売買されたのは、1932年に描かれた(夢)です。
描かれているのは、当時の愛人マリー・テレーズ・ワルテルです。
テレーズの身体と、肩の部分が性器のような形になっており、
それらが融合した状態をダブルイメージで描かれています。
この作品は1941年にコレクターが7000ドルで購入して長く所有していましたが、
死後の1997年にオークションに出品され、4800万ドルで落札されました。
さらに2001年には6000万ドルで売買、2013年には1億5500万ドルで売買されるなど、
取引のたびに価格が大きく上昇しています。
日本国内ではキャンバスの油絵画が市場に出ることが少なく、
版画や陶磁器などのマルチプル作品が殆どです。
油彩画と比べるとお値打ちな価格帯になりますが、
現在の市場相場をもとに概算価格などを紹介させていただきます。
ピカソの絵画といいますと何十億円と思いがちですが、
版画は比較的に安価でお買い求め頂ける作品もございます。
といいましてもピカソですから、1000万円を超える版画作品もございます。
ピカソの版画作品の画集
パブロ・ピカソの版画作品は、版画カタログ・レゾネ 全4冊揃 「Pablo Picasso Catalogue de l’oeuvre grave et lithographie Tome 1-4」に殆どが収録されております。
版画カタログ・レゾネ 全4冊揃
vol.1 鼠色本1904-1967
vol.2 黒色本1966-1969
vol.3 茶色本1949-1971
vol.4 赤色本1970-1972
となっております。
ピカソの版画の作品の評価
ピカソは生涯を通じて版画を制作しました。
最初の作品は1899年で、まだ10代の頃です。
1972年、彼が90歳になったとき、彼は最後の作品を制作しました。
その間ずっと実験を続け、エッチング、リトグラフ、リノカットなどのさまざまな技法を使用して、
合計で約 2,400 点の版画を制作しました。
絵画とは異なり、版画は共同作業であり、ピカソは何十年にもわたってさまざまな印刷をアトリエのマスターと
協力し、指導を受けてきました。
制作年代・技法・作品のモチーフ等で大きく金額が異なります。
基本的には、没後遺族が作った版画は値段がお安くなります。
パブロ・ピカソの版画の技法の種類
版画に関しては【技法】を分けて考えると理解しやすいです。
【リノカット】、【エッチング】、【リトグラフ】の3種類に分けられます。
自作の版画を見るピカソ
銅版(どうばん)とは版画、印刷の技法の一種である。銅板とも表記する。
銅の版に絵画、文字などを彫ってその銅版の表面を凹版にしてインクを流して印刷を行う。
また、このようにして作ったものをさす。
主に銅版画の制作に使用されており、これは銅版を直接道具を用いて彫る彫刻銅版と、硝酸などの薬品によって腐食させる腐食銅版とに大きく分類される。
主としてルネサンス期以降のヨーロッパにおいて銅版画として広く使用された。
1600年代の作家Ambrosius Hannemannの銅板 彫刻銅版というのは主にビュラン(Burin)という鑿(のみ)で銅版に刻線を得る方法で、エングレービング、ドライポイント、メゾチントというものがこれにあたる。
腐食銅版というのは凹状にする部分の銅面のみを露出させて、その部分を腐食させることによって原版を作るものをさし、エッチングやアクアチントがこれにあたる。
日本においては司馬江漢が天明3年(1783年)に日本創製と銘打って初めてのエッチングによる銅版画を製作している。
リノカット(Linocut)とは、リノリウムと呼ばれるコルクや木の粉から作られる合成樹脂材を彫って版にする版画の技法のひとつ。
木版と同じく凸版技法に分類されるが、材質が木材に比較して柔らかく、木目の制約を受けないため、どの方向にも無理無く彫ることができる。
いっぽう、素材の軟性により細い線が描きにくいことから、繊細な描写よりも大胆な線や形を活かした作品に向くといわれる。
リトグラフ (lithograph)とは版画の一種たる平版画。水と油の反発作用を利用した版種で、製作過程は大きく「描画」「製版」「刷り」の3工程にわかれる。
ほかの孔版画、凹版画、凸版画などに比べると複雑で時間も多く要するが、クレヨンの独特のテクスチャや、強い線、きめ細かい線、筆の効果、インクを飛ばした効果など、描写したものをそのまま紙に刷ることができ、多色刷りも可能で、版を重ねるにつれて艶を有した独特の質感が出てくる。
19世紀頃、ヨーロッパで偶然から原理が発見され、以降ロートレックなどの画家が斬新で芸術性の高いポスターをこの方法で描いた。
以前は巨大な石(石灰岩)に描いていたので石版画(石版印刷術、リトグラフィ)とも呼ばれるが、扱いやすいアルミ板に描くことが近年は多い。
パブロ・ピカソの版画作品の紹介
パブロ・ピカソ ヴォラール・シリーズ エッチング 1930~1937年制作
「アンブロワーズ・ヴォラール」は、1930年から1937年にかけて制作された100点の連作版画である。
ちょうどピカソの49歳から56歳までの絶頂期の作品であり、ピカソの版画作品の最高傑作のひとつです。
サルタムバンク・シリーズの制作で、エッチング、ドライポイント、ビュランなどの銅版画技法を自家薬籠中、ものにしたピカソの能力を最大に発揮したのが、このヴォラール・シリーズです。
1930年に最初の3枚が制作され、32年に1枚、33年に61枚。34年に24枚、35年に2枚、36年に2枚、37年に3枚がそれぞれ描かれました。
ピカソは画面の中に制作年月日を記入してあるので、ピカソの制作リズムがよく理解できます。
このシリーズに描かれたテーマは、途中から色々と飛躍はします、基本的には彫刻家とモデルの関係です。
最初はモデルが単身で描かれ。彫刻家との対話や性のドラマが展開されます。そして、動物や神話に登場するミノタウルスが登場し、また、サーカスや曲芸師(サルタムバンク)が加わり、場所もアトリエから闘牛場へと移っていきます。
このシリーズが制作された1930年から1937年にかけては、ピカソの変貌期にあたります。社会的には1920年代終末からのアメリカを中心とした世界大恐慌がおこり、30年代初めにはファシズムの台頭によるヨーロッパの政治情勢が険悪化していました。
ピカソの芸術も、一時期の新古典派的安定から、内的葛藤が繰り返されていて、現状打破を自己に課した時代でした。
このヴォラール・シリーズには含まれていませんが、やはりピカソの版画の最高傑作のひとつ、ミノトルマシーも1935年の作品で、1937年にはピカソ自身の記念碑ともいうべき、ゲルニカが制作されています。
1936年までに、ピカソは計画した通りの作品を制作し終えると、最後にこの版の注文者であるヴォラールの肖像を3枚描き、このシリーズを完結させました。
この100点の原版を受け取ったヴォラールは、アーティストと版元のオリジナル作品である証左として、ヴォラールとピカソのサインを特別に漉き込んだモンバル紙(Montval)を使用して、二種類のセットをつくりました。44.5 X 34cmのスモール・マージン(小版)が250部、50 X 38.5cmのラージ・マージン(大版)が50部です。(なお、この他、作者保存用3部あり)
この二つのマージンは1939年に全部すりあげられたましたが、版元のヴォラールが自動車事故で急死し、さらに第二次世界大戦が勃発したため、実際に世に出たのは戦争が終ってからでした。
作品番号は付されていませんが、ピカソの署名は全作品になされており、特に最後のヴォラールの肖像を書いた3枚の作品は赤鉛筆でサインがされました。
パブロ・ピカソ 347シリーズ エッチング 1968年
制作年が1968年 限定部数:50部 「347シリーズ」は、ピカソが晩年の1968年に制作した、347点の連作版画の大作です。
ピカソの命題でもあった女性に対する「愛」を中心テーマとしながら、
創造的イメージを展開させていると同時に、ピカソの生涯に取り上げた多くの題材を回顧している作品でもあります。
晩年ながら、わずか204日で完成させたピカソの強靭な精神力には驚嘆すべきものがあります。
自作リノカットの作品とピカソ
リノカットの特徴は、大胆で荒削りな躍動感のある描画を表現できる事です。
ピカソはリノカット技法を80歳近い晩年になってから取り組み始めました。
リノカット技法とは、普通、薄い色から濃い色へ順番に刷り重ねていくものなのですが、ピカソはこのリノカットを常識にはとらわれず、刷る色の順を変えました。
それにより独自のダイナミックな迫力ある作品に仕上げられました。
リノカット自体、木版と同じく彫刻刀で彫りますが、リノリウム板は柔らかく彫り易く伸びやかな表現に適しておりますが、繊細な表現には適しておりません。
ピカソは、リノカット技法の持つ特徴を見事に活かし、独自にアレンジすることでより迫力ある個性的な作品を作り上げることができました。
パブロ・ピカソ ヘアーバンドを付けた女性 リノカット 1962年
パブロ・ピカソ 花飾りの帽子の女性 リノカット 1962年
上記のようなリノカットの作品は高額買取りが出来る作品が多いです、大抵の場合は百万円以上の買取り査定が出来ると思います。
パブロ・ピカソ 若い女性の顔 リトグラフ 1947年
パブロ・ピカソ 想像の中の肖像 リトグラフ 1969年
29枚のリトグラフ(石版画)により構成されるシリーズの一枚です。
ピカソは南仏への引っ越しの際、開梱後のダンボールに創作意欲をかき立てられ、次々に29点の肖像を描きました。
グワッシュにより描かれたそれらの作品は、ピカソ本人の強い希望により直ちにリトグラフ(石版画)化されました。
肖像画から独自のイメージを発展させた、斬新かつキュビズムを連想させるピカソらしい秀作です。
パブロ・ピカソ 貧しき食卓 エッチング 1904年
ピカソの最も芸術的評価が高い「青の時代」に製作された傑作、(貧しき食事)。当時、自らも極貧状態にあったピカソが、貧しい人々を鋭くも情緒的な眼差しで描いた作品です。
ピカソ作品の中でも、最も著名な版画となっている本作は、パンとワインのみの粗末な食事を前に、盲目の男性とその伴侶と思われる女性が食事を進めている。
ピカソは当時、30枚の版画をこの原版から作成したと言われているが、その後、画商のアンブロワーズ・ヴォラールが1913年に原版を買い取った。
ヴォラールは、原版に薄い鉄の被膜をコーティングして補強を施したが、それ以前の原版によってすられた作品はより高い評価を受けている。
実際、2014年6月にはヴォラールによるコーティング以前に作られた作品が、ロンドンのオークションで、120万2500ポンド(当時、約2億1千万円)もの金額で落札された。
サルタンバンク・シリーズの本作は、初期ピカソの傑作「サルタンバンク・シリーズ」のひとつとして知られている。
貧しく、高価なジンク版を買うことができなかったピカソは、他人からジンク版をもらってこのエッチングを制作した。 サルタンバンクとは、スペイン・ヴィニャン街に住む大道芸人たちで、これ以外にもピカソはこの時期、貧しい人々や病気の人々に積極的に目を向けて作品を生み出していた。
ピカソは多作ですので、まだまだご紹介したい作品がありますが、以上で版画作品の紹介を終わりにします。
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ピカソは専門的な知識が必要でございますので、ご売却の際は北岡技芳堂までご連絡ください。
パブロ・ピカソの略歴
スペインの画家。20世紀を代表する画家である。創作活動の中で次々と作品のスタイルを変え、そのたびに絵画の新境地を切り開いた。
絵画以外にも彫刻や版画、陶芸にも才能を発揮するなど、生涯エネルギッシュな活動を続けた。
1881年、スペインのマラガに生まれる。
美術教師をしていた父のもと、幼少時代から絵画に非凡な才能を示した。
1900年、パリに出てロートレックらの影響を受ける。1901年、友人の死をきっかけに、「青の時代」にはいる。背景に青色を多用したことから、この時期に制作した作品群は「青の時代」と呼ばれる。青は貧困や悲しみを象徴しており、貧民を題材に哀感あふれる作品を制作した。
1904年、モンマルトルの「洗濯船」 (Bateau-Lavoir)という安アトリエに入居。ここで詩人のアポリネール、後の恋人フェルナンド・オリヴィエらと出会う。この頃から「バラ色の時代」に移行し、「青の時代」より温かみのある色調で旅芸人やサーカスを主題とした作品を作り出した。
1907年、『アヴィニヨンの娘たち』を世に送り出す。この作品は今でこそ「現代美術の出発点」と呼ばれるが、当時は轟々たる非難を浴びた。
対象を分解し、複数の視点から再構築するというこの作品はセザンヌの手法をさらに追求したものであり、これをもとにジョルジュ・ブラックらと共にキュビズムを発展させていく。ピカソのキュビズムは分析的キュビズムを経て、総合的キュビズムへと至る。
1918年ごろから、キュビズムでは消し去られていたモチーフを復活させ、 新古典主義的な絵画を制作する。画面から抽象性は無くなり、おおらかでボリューム感のある人物像を描くようになる。
1937年、スペイン市民戦争でナチスがゲルニカに対し行った空爆に抗議するため、『ゲルニカ』を発表する。これは縦3.5m、横7.8mという巨大な作品である。ピカソの作品は色彩豊かなものが多いが、『ゲルニカ』はモノトーンで描かれている。死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬、などが戦争の悲惨さを訴えている。
スペイン市民戦争後にフランコ独裁政権が成立すると、以降ピカソは二度と故郷スペインの地を踏むことはなかった。『ゲルニカ』自体も長らくアメリカのニューヨーク近代美術館に所蔵されていたが、フランコ将軍の死後、1981年スペインに返還された。現在『ゲルニカ』はスペインのプラド美術館に展示されている。
その後も、様式にとらわれない作品を制作しつづけた。第二次大戦後は、「画家とモデル」をテーマにした連作のほか、彫刻、版画、陶芸なども数多く制作した。80歳代になってもその制作意欲は全く衰えず、作風はますます自由奔放になっていった。
生涯に制作した作品は約8万点にものぼる。ピカソの作品を多く収蔵する美術館として、バルセロナとパリの両方にピカソ美術館がある。また、日本では箱根の彫刻の森美術館に「ピカソ館」がある。
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