2023年4月12日
北川民次の絵画を買取り致します。
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北川民次 本人写真
北川民次の作風
北川民次といえば(メキシコの絵)、(瀬戸の民衆生活)、(母子像)、(花)、(バッタ)を題材にした絵画作品ではないでしょうか。
戦前から生涯を過ごした瀬戸の民衆生活を題材に、独創的なデフォルメによる原始的な生命感を表す作風を展開しました。
デザイン化された人物や花は北川民次の代名詞と言ってよいでしょう。
フランスを含めたヨーロッパ留学が一般的な時代に、
民次の場合はアメリカ・メキシコで学んだ経験が如実に表れています。
北川民次「花」 油彩画 1973年 ギャラリー北岡技芳堂内にて
はっきりとした輪郭線や色の配置はその賜物でしょう。
北川民次の作品は油絵や水彩だけではなく、
メキシコ時代に学んだ銅版画、石版(リトグラフ)、木版画などの作品も数多く残しました。
北川民次の現在の評価と価値は、没後30年以上経過した現在でも相場がある作家の一人ですが、
買取価格は下落傾向にあります。私はもっと評価されても良い作家の一人だと思っております。
高価買取のポイントは鮮やかな色彩です。
原色を少し薄くしたような色味が特徴的で、北川民次が描く独特な対象物の魅力をより引き出させます。
色合いがはっきりしている方が高額査定しやすい傾向にあります。
北川民次の作品は、油絵、水彩、版画と大別する事ができます。
北川民次 母子像 リトグラフ
買取りのポイント
① 油彩画作品
キャンバスや板に描かれた作品です。
残念ながら全盛期に比べると、大きく評価額が下がっているのが現状です。
良質な作品でも、50万円以上で買取できるものは少ない印象です。
母子像や花を北川民次らしいタッチで描かれている作品でも、
サイズが小さいと10万~15万円前後の買取となる場合が多くございます。
② 水彩作品
紙に水彩で描かれた作品です。
描き込み具合やサイズにより異なりますが、数万円台になることが多いです。
③ 版画作品
北川民次の版画作品は挑戦的なモチーフや構図が多く、
技法の特性を生かしながら作られていますが市場価格は低いです。
厳しい評価になるでしょう。10万以下が殆どなのが現状です。
瀬戸市を愛した芸術家
北川民次の作品は、瀬戸市立図書館の陶板壁画が有名です。
陶芸の街に絵画という新たな息吹をもたらし、多くの作家たちに影響を与えました。
図書館では北川民次画伯に関する資料も揃えております。
瀬戸市立図書館 北川民次 陶壁画
北川民次が瀬戸の町に暮らすようになったきっかけは奥さんの実家があったためで、
メキシコから帰国してまもない1937年に半年暮らし、それから1943年に東京から疎開して再び瀬戸へ戻ってきました。
この町を気に入った民次は、戦後も瀬戸に留まりました。
北川民次が瀬戸を愛したのは、丘の傾斜地に沿って工場や住居が建つ風景が、
メキシコ時代に暮らしたタスコの町のそれと似ていたことです。
メキシコのタスコが銀鉱山で働く労働者たちの町だったのに似て、
瀬戸も陶土を採掘する鉱山の労働者や焼物づくりで陶工が泥まみれになって働く町でした。
メキシコのタスコの人たちと気質的に共通するものを感じて愛着を覚えたのでしょう。
北川民次 煙突のある風景 1937年 セルロイド凸版
民次の言葉「ぼくは、これまでに知ったどこの街よりも瀬戸の働く人たちが好きだった。彼等は一日じゅう、泥まみれになって働く~(中略)~彼等は清らかだった。心が清浄だった」(北川民次「ぼくの愛する瀬戸」『栄養と料理34巻1号』1967年)。
そして民次は瀬戸の人や町をモチーフに絵を描きました。
北川民次のアトリエ跡
今でもこの場所が実際に使われているのではないかという雰囲気が漂っているようです。
民次の支援者が1974年に敷地を購入、その購入者から1992年に土地の寄付が瀬戸市にありました。
民次の死後、1994年には「北川民次のアトリエを守る会」が支援者の間で発足、
アトリエの手入れと、春秋年2回の一般公開をその方たちが行ってきました。
しかし会の主要メンバーが高齢化、主だった方々は亡くなってしまい、2018年からは瀬戸市が管理を担当しています。
北川民次 瀬戸風景 1936-7年 水彩画 ガッシュ
私が思うところ、北川民次には金縁の額装が合わないのではなでしょうか。
これからは額縁もどういった額に変えるか、研究しなければいけないと思っております。
これまでのように重く立派な額縁ではなく、今の住宅環境などに合う額縁
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北川民次 略歴
元二科会会長の洋画家北川民次は、4月26日肺線維症のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。
享年97。
特特なデフォルメによる生命感あふれる作風で知られ、
はやくから児童美術教育のすぐれた実践者でもあった北川民次は、
明治27(1894)年1月17日静岡県榛原郡に生まれた。
生家は農業で製茶業を営み、アメリカへも茶を輸出していた。
明治43年県立静岡商業学校を卒業し早稲田大学へ入学したが、
大正2年中退しカリフォルニア在住の伯父を頼って渡米した。
翌3年ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに入り、
社会的主題を描いたジョン・スローンに師事、ここで国吉康雄と相識った。
大正10年、アート・ステューデンツ・リーグを卒業するまでの間、
苦学を重ね主に舞台美術家として生計をたてていた。
同12年、アメリカ南部からキューバへ放浪、同年9月メキシコのオリサバに着き、
サンテーロ(聖画行商人)となって村々を転々とした。
同年中、サンカルロス美術学校に入学、特待生となり3カ月で卒業する。
翌13年、チュルブスコ村の旧僧院で研修する画学生の一員となり、
この頃、リベラ、オロスコ、シケイロスらと交際、彼らの推進する野外美術学校に関わることになり、
同14年からのトランバムの野外美術学校奉職を経て、昭和6年タスコに移した野外美術学校の校長となった。
同8年には、メキシコ旅行中の藤田嗣治が訪問する。
同11年、学校を閉鎖して帰国し、一時愛知県瀬戸市に寓居した。
翌12年上京し豊島区長崎仲町1-241に居住、藤田嗣治の紹介で同年の第24回二科展に
「メキシコ、タスコの祭日」「同、銀鉱の内部」「同、悲しき日」「メキシコの三人娘」「瀬戸の工場」を出品し、会員に推挙された。
同年、数寄屋橋の日動画廊で第1回目の個展「メキシコ作品展」を開催する。
同13年久保貞次郎を知る。
戦前は、二科展の他、聖戦美術展(同14年)、紀元二千六百年奉祝美術展(同15年)、新文展(同18年)にも出品した。
同18年、瀬戸市安土町23番地に転居し、以後同地に定住した。
戦後は、二科展をはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展、国際形象展、太陽展などに制作発表を行う。
その間、瀬戸の民衆生活を題材に、独自のデフォルメによる原始的な生命感の横溢する作風を展開、1960年代からは色彩の上で一転し、それ以前のいわゆる「灰色の時代」から鮮烈な原色の明るさをました。
一方、メキシコ時代に身につけた銅版画をはじめ、石版、木版画もよくした。
また、児童美術教育にも力を注ぎ、昭和24年名古屋市東山動物園内に名古屋動物園美術学校を開設(同26年迄)、
同26年名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立、翌27年には創造美育協会の創立に発起人として参加した。
同30年から翌年にかけ、メキシコを再訪したのち、中南米、フランス、スペイン、イタリアを巡遊する。
同39年、第6回現代日本美術展出品作「哺育」で優秀賞を受賞。
同48年東急日本橋店他で「画業60年北川民次回顧展」(毎日新聞社主催)が開催された。
同53年、東郷青児の死去のあと二科会会長に推されたが、
「残る人生は、ただ描くために」と同年9月会長を辞し、翌年二科会も退会した。
『北川民次画集』(昭和31年、美術出版社、同49年、日動出版)のほか、
『絵を描く子供たち』(岩波新書、同27年)、『子供の絵と教育』(同28年、創元社)、
『メキシコの誘惑』(同35年、新潮社)などの著書がある。
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