2023年4月19日

アンディ・ウォーホル の絵画を買取り致します。

アンディ・ウォーホル の買取価格を知りたい、高額査定がご希望なら北岡技芳堂にお任せください 。
アンディ・ウォーホル作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。
豊富な買取実績がある北岡技芳堂では、アンディ・ウォーホルの作品を探しています。
もしアンディ・ウォーホルの作品がお手元にございましたら、北岡技芳堂へぜひご相談ください。
アンディ・ウォーホルの作品を無料査定し、少しでも高く、お客様にご満足いただける価格で買取いたします。

 

 

 

アンディーウォーホル 本人写真

アンディ・ウォーホル 本人写真

 

アンディー・ウォーホルの紹介

 

アメリカのポップアート界において最も中心的な存在として活躍し、
1960年代のアートシーンを輝かせました。
彼の作品の多くは、はアメリカ文化とアメリカなるものの概念をテーマにしました。
彼の選んだ紙幣、ドルマーク、食料品、有名人、ニュース写真などは、
彼にとってアメリカの文化価値を代表するものでした。
例えば、コカ・コーラは「コークはいつでもコーク。大統領の飲むコークも僕の飲むコークも同じだから」というわけで民主主義社会の平等性を表すものでした。
こうしたポピュラーなイメージを使い、彼は20世紀アメリカの文化的アイデンティティーを表現したのです。

世界中の展覧会に参加しただけでなく、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、
ロンドンのテートモダン、パリのポンピドューセンターなどの美術館にその作品がコレクションされています。
日本の東京都現代美術館でも大規模な回顧展が開催され、絵画、版画、インスタレーション、
ドローイングなどにより彼の多彩な芸術活動が紹介され、人々が現在も注目している人気作家の一人でしょう。

 

キャンベルスープ

 

上記の画像のアンディ・ウォーホルの32のキャンベルスープの缶

作品解説

《キャンベルスープの缶》または《32のキャンベルスープの缶》は、

1961年11月から1962年3月、4月にかけてアンディ・ウォーホルが制作した作品です。

32枚の51 cm × 41 cmのキャンバスから構成されている作品で、
各キャンバスには当時のキャンベル・スープ・カンパニーが販売していた32種類のスープ缶が描かれており、それぞれ異なる絵画となっております。

 

《32のキャンベル・スープ缶》は、1962年7月9日、アーヴィン・ブルムのキュレーションにより、
カリフォルニア州ロサンゼルスのフェルス・ギャラリーで行われたウォーホルの最初の個展で発表されたものです。

この個展が、実質的にウォーホルのファイン・アートデビューとなり、
《キャンベルスープの缶》は、大衆文化から主題を得ることで、
アメリカにおける大きな前衛芸術運動であるポップ・アートの生成と発展を導きました。
ウォーホルはこのテーマとの関連から、以後キャンベル・スープ缶の絵の代名詞となりました。

 

テーマは当時アメリカで流行していた抽象表現主義の技術や哲学を侮辱していることもあり、
当初はアートワールドに不快感を与え、ウォーホルの芸術家としての動機が問われました。

しかし、現在では「キャンベルスープの缶」で上げたウォーホルの名声は、
最も有名なアメリカのポップ・アートティストにしただけでなく、
現存する最も高価なアメリカ人美術家の作品となりました。

 

32のキャンベルスープの缶シルクスクリーン版画も存在しており、

1枚88.9 cm × 58,4cmで構成され、1968年から1969年にかけてアンディ・ウォーホルが制作しました。

特にトマトスープ缶が高値で取引されており、1500万円前後は買取り可能でございます。

各作品は版画の手法、絵の具を使わないで半機械化されたシルクスクリーンで制作されております。

 

 

アンディ・ウォーホルの3つ買取ポイント

 

作家評価

 

1928年~1987年にかけて活躍し、アメリカのポップ・アートの代表的存在となった現代アート作家。
アメリカの大量生産・大量消費社会を積極的に受け入れ、大衆受けするようなチープであたかも工業製品のように工場生産された彼の作品が、
そうしたもののもつ空虚さも同時に体現しているようです。
また交通事故や電気椅子のような死のイメージを扱った作品のシリーズもあり、
見た目の明るく乾いたポップな表面の様相とは裏腹に、
ぞっとするような虚無感を感じさせるところも見所の一つではないでしょうか。
どのようなイメージを扱っても、アンディ・ウォーホルの作品全てにこの虚無感は通底しています。

彼はインタビューで「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」などと宣っておりますが、
果たしてそのまま真に受けて良いものかどうか、ふと気付けばその表面の下に広がる深淵に飲み込まれそうな恐怖すら感じてしまいます。

 

技法評価

 

アクリルにキャンバスは市場に出ても億単位なりますのでお取引は少ないです。
「シルクスクリーン」はアンディ・ウォーホルを代表する技法の為、お取引も多く評価が高い為、高価買取となる場合が多いです。

 

絵柄評価

 

キャンベルスープ缶、フラワーズ、毛沢東、ミックジャガー、ミッキー、を探しております。
特に「マリリンモンロー」シリーズは人気があり、高価査定に繋がりやすいです。

 

 

アンディウォーホル マリリンモンロー

アンディ・ウォーホルの作品でもブラックマリリンは非常に人気が高く、2000万前後の相場がつくこともあります。

 

 

 

買取査定のポイントは、アンディ・ウォーホル全版画より抜粋しております。

 

サインと刻印

特に記載がないかぎり、作品には表に鉛筆、ポールペン、フェルトペンでサインと算用数字のエディション番号が記されております。

制作年と顕辞を記入したものもあります。

また、サインや頭文字やゴム印、あるいは空押しになっている例も見られます。

サインとエディション番号の位置についても、同じエディションであっても異同があります。

例えば試し刷りは、ダイヤモンドの粉末を用いて刷られることが多く、

サインの順がエディションの他の刷りの後になるため、位置が変わりやすいです。

出版された版画でもウォーホールが亡くなった時点でサインが無かった物については裏面に新作である事を証明する判が押され、

エステート・オブ・アンディー・ウォーホール(The Estate of Andy Warhol/ウオーホールの遺産管理組織、以下エステートと略す)の責任者フレデリック・W・ヒューズの署名が添えてあります。

なかには刷り師と版元の名を記したものもあります本来は出版されていないのに、

1987年のウオーホールが亡くなる以前から市場に流通していた版画のなかにも、

サインがしてあったり、献辞をきしたものもあります。

ウオーホールの没後、遺産んとして残された版画の大半ににはサインもエディション番号も入ってないが、

在庫品番号とアンディ・ウォーホール財団(The Andy Warhol Foundation For the Visual Arts, Inc)の代表の頭文字、そしてThe Estate of Andy Warhol,またはThe Estate of Andy WarholとThe Andy WarholとFoundation The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts,Inc,のゴム印が押してあります。

 

真贋と判定

1987年にウォーホルが亡くなってから1995年まで,エステート・オブ・アンディ・ウォーホルが一般から寄せられる作品について,ウォーホル作とされる版画もふくめ、真贋の判定を行っていた。

1990年以降は,判定を下した作品のすべてに,Authenticated by Estate of Andy Warhol「エステート・オブ・アンディ・ウォーホル審査済」の意) のスタンプが捺印されることになった。

贋造と判定したものについては,このスタンプの上に denied(否認)のスタンプを押す。

エステートが判定できないものについては、エステートのスタンプを押していない。

三つのすべてについて,エステートの判定、あるいは判定を下しがたい旨を記した証明書が発行され、作品それぞれに番号が付される。

番号の前に、真作はA、腰作はB, 判定不能についてはCのいずれかのアルファベットが添えられている。

1995年にはエステートが真贋の判定作業を停止し,アンディ・ウォーホル作品真贋判定委員会(Andy Warhol Art Authentication Board, Inc.)が設立され、業務をひき継いだ。
委員会は審査の結果,判定を下した作品すべてに Andy Warhol Art Authentication Board, Inc. Authentic アンディ・ウォーホル作品真贋判定委員会。真作」の意)のスタンプを押し、

贋造と判定したものについてはこの上にdeniedのスタンプを押す。

委員会として判断が下せない場合には、委員会のスタンプを押さない。

委員会はエステートの例にならい作品にA,B. Cのアルファベットと通し番号を付すとともに、

委員会の判定、あるいは判定を下しがたい旨を記した証明書の発行を行なっておりましたが現在は行なっていない。

 

 

アンディ・ウォーホル全版画

アンディウォーホル 画集

 

 

1997年に出版された第3版をさらに充実させた最新版第4版。
ポップアートの鬼才ウォーホルの版画制作活動を原点から掘りおこす。
国内独占販売、限定1500部。

初期版画制作、出版された版画、未出版の版画、そして新たに[1950年代の挿画本とポートフォリオ]を追加。

こちらのカタログレゾネは値段が高騰しておりますね!

 

北岡技芳堂では、アンディ・ウォーホルの作品を高価格にて買取り致します。
売却をご検討なさってみえる方は、お電話やメールにて随時受付けております。
また、簡単LINE査定も致しておりますのでお気軽にお申し込みください。

 

アンディ・ウォーホル以外の絵画も買取り致しております。

 

買取相場

アンディ・ウォーホルの作品は基本的に上昇傾向にありますが、価格は日々変動しております。

北岡技芳堂では、日本中の古美術商・画廊・ギャラリーが集まるオークションに参加しており、

常に最新の売却相場を把握しておりますので、高く買取させていただくことができます。

以下は買取商品の一例です。

アンディ・ウォーホルの作品、その他の作家の作品のことでも、

詳細はお電話、メール・LINEにてお気軽にお問い合わせくださいませ。

油彩・水彩・版画(木版・リトグラフ・エッチング・シルクスクリーン)など、絵画の種類は問いません。

 

アンディ・ウォーホル 「Committee 2000」

アンディ・ウォーホル 「Committee 2000」 50万から60万の買取り目安

 

 

 

アンディ・ウォーホル 「ミックジャガー #143」

アンディ・ウォーホル 「ミックジャガー #143」 1975年 500万から800万の買取り目安

 

 

 

アンディ・ウォーホル 「リズ Liz」

アンディ・ウォーホル 「リズ Liz」   1964年 300万から400万の買取り目安

 

 

 

 

アンディ・ウォーホル 「フラワー」 1970年

アンディ・ウォーホル 「フラワー」 1970年  400万から800万の買取り目安

 

 

 

アンディ・ウォーホル 「MAO  毛沢東」 

アンディ・ウォーホル 「MAO  毛沢東」 1987年 400万から500万の買取り目安

 

 

 

 

アンディ・ウォーホル 「ドル・サイン」

アンディ・ウォーホル 「ドル・サイン」 1982年 1000万から1500万前後の買取り目安

 

 

 

 

アンディ・ウォーホル 「シベリアンタイガー」

 

アンディ・ウォーホル 「シベリアンタイガー」 1983年 1000万から1500万前後の買取り目安

 

 

 

 

買取りに際しては状態が重要です

汚れやカビ、ヤケなどの状態は減額になるので注意してください。
芸術作品の査定で厳しく拝見しなければいけないのが作品の状態です。

 

高く買い取れる作品の場合でも、劣化や痛みなどの状態を拝見いたします。

 

ご売却前に状態の確認は必須です。
版画や絵画のような作品は光、温度、湿気、埃、煙草などの煙などで状態が悪くなるので気をつけなければいけません。

破れ、ホコリ、カビ、スレ、汚れ、キズ、穴、などの状態は大きく減額になるため十分ご注意ください。

 

作家にまつわる付属品で査定額が変わることもあります。

 

作品の付属品にも価値があます。

作品の付属品をお持ちの場合は、一緒にご売却いただく方が良いですので、大切に保管なさってください。

画集などに直筆サインが入っている物もあります。

また、鑑定書、保証書、箱、額縁などの付属品を一緒に売ることで査定額は上がります。

特に有名な作家の作品は偽物や贋作が多いこともあり、
鑑定書や保証書は大切に保管してください。

※アンディ・ウォーホル以外にも様々な絵画を買取り致しております。
絵画の売却を検討されていましたら北岡技芳堂までご連絡ください。
高価格買取り致します。まずはお電話、メールにて受け付けております。

絵画を買取り致します。

簡単LINE査定も随時お受けしております。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
 
 
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
 
 
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
 
 
裁判所にも有効な書類を作成させて頂く事も出来ます。
 
 
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
 
 
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させて頂きます。
 
 
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
 
 
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
 
愛知県名古屋市中区門前町2-10
 
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
 
 
#骨董品買取#骨董品#古美術#絵画#版画#茶道具#日本刀#彫刻#金#掛軸

 

 

 

 

 

 

2023年4月15日

棟方志功の絵画、版画を買取り致します。

棟方志功の買取価格を知りたい、高額査定がご希望なら北岡技芳堂にお任せください 。
棟方志功作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。
豊富な買取実績がある北岡技芳堂では、棟方志功作品を探しています。もし棟方志功の作品がお手元にございましたら、北岡技芳堂へぜひご相談ください。
棟方志功の作品を無料査定し、少しでも高く、お客様にご満足いただける価格で買取いたします。

 

 

棟方志功は肉筆の作品を倭絵といいます。
棟方志功は版画以外にも肉筆の倭画や書も非常に人気あり、
北岡技芳堂ではコレクター作品を探しております。

 

棟方志功 本人写真

棟方志功 本人写真

 

 

北岡技芳堂で買取りのご相談が非常に多いのが棟方志功の買取りです。
棟方志功の大首など人気の図柄の場合は、高額買取り致します。
贋作も多い為、評価や査定の回答も慎重に行っております。

 

現在所蔵している棟方志功の自画像の板画

現在所蔵している棟方志功の自画像の板画

 

 

棟方志功の大首絵

棟方志功の代表作は、何と言っても女人をテーマに構成された作品のシリーズが有名で、女性の顔を大きく描いたいわゆる大首絵の独特の大首絵シリーズは最も人気があります。「弁財天妃の柵」「くちなし妃の柵」「門世の柵」「弘仁の柵」「沢潟妃の柵」などふっくらとした女性の顔をえがきながら、季節の花や詩も織り込まれています。

 

棟方志功 大首絵「弁財天妃の柵」

棟方志功 大首絵「弁財天妃の柵」

 

 

いわゆる大首絵と言われる胸から上の顔のアップの作品は、棟方志功の代表的のカテゴリーの一つですが今回はその中でも代表作とも呼べる「弁財天妃の柵」をご紹介いたします。

 

「弁財天」(河川を神格化した女神)は棟方志功にとって自らの姓のルーツだとの思いがあったようです。

『板極道』昭和39年の中で棟方志功はこのように述べています。 「宗像という神社は、どこの国へいっても弁天さまなのです。 宗像神社というのは、ご承知のように、福岡県宗像郡というところにあります。 それで「むなかた」という姓も、九州が最初らしいのです」

 

ご紹介する弁財天妃の柵は、本紙の裏打ちを致しておりません。裏打ちをしていない棟方志功の作品を好まれる傾向にあります。板画の素地には、半紙のような棟方独自の薄紙を用いていますが、多少の経年劣化などでシワ、オレなどがあっても修復せずにシワシワのままにしておいた方のが好ましいです。裏打ち等でピンと伸ばした作品も見かけますが、棟方志功の独自の風合いが損なわれ、評価が低くなる場合があります。修復や額装などについても北岡技芳堂にて、行っておりますのでお気軽にご相談下さい。

 

擦りの状態がよく、彩色の濃い色味の作品となると、評価額は300万から500万以上する逸品もあります。
健康的で豊かに描かれている女人は棟方志功にとっての理想的な姿であり、ビーナスのような存在であったと思われます。黒一色の作品も御座いますが大首は比較的高値でお取引できます。

 

棟方志功の釈迦十大弟子

菩薩様、観音様の全身像に彩色した作品や、釈迦十大弟子シリーズも大変評価が高いです。こちらのシリーズは日本神話やインドを旅行した際の寺院壁画などの影響を受けたとされています。

 

十大弟子とは釈迦の弟子の中で優れた10名のこと。 「目鍵連」、「舎利弗」、「優婆離」、「須菩提」、「阿難陀」、「羅睺羅」、「魔訶迦葉」、「阿那律」、「富楼那」、「迦旃延」を指し、その両端に「普賢延命菩薩」と「文殊止利菩薩」が配されています。

 

1956年ヴェネツィア・ヴィエンナーレで絶賛され、日本人初のグランプリを受賞した記念すべき作品です。12作品全て揃っていて、かつ擦りの良いものとなれば、現在なら1億超えの評価も過言ではないでしょう。

 

棟方志功の釈迦十大弟子

棟方志功 二菩薩釈迦十大弟子板画

 

 

 

棟方志功の肉筆と板画のどちらが高いのか

 

棟方志功の作品は、板画(版画)の他、肉筆の絵画、油絵もあります。

 

画家を志した初期のころの油絵は珍しく、ミュージアムピース級のものもありますが、圧倒的に数は少ないのでめったに見ることはありません。

 

また倭絵(肉筆の絵画)も大首絵や仏画が多数描かれ、棟方の筆遣いがとてもよく表れた作品ですが、どちらが高いかといわれると、意外なことに、肉筆よりも裏彩色された板画の方が評価が高い傾向があります。

 

やはり海外のヴェネツィアビエンナーレで棟方志功が板画(版画)で評価された為ともいえるかもしれませんが、板が削られ作品が刻み込まれる過程そのものが棟方芸術の神髄と言えるのではないでしょうか。

 

棟方志功の作品は、「〇〇の柵」と画題が付けられています。 棟方にとってこの「柵」の字は、囲いを意味するものではなく、四国の巡礼者が寺を廻るときに首に下げる廻札の意味を含んでいます。 1つ1つ自分の願いをそのお寺に納めるという意味を込め、1つづつ作品を置いていく、念願をかけて置いていくというお札のような願いが作品に込められています。

ただ、必ずしも板画の方が高いとも一概には言えませんので、作品を1点ずつ評価をいたします。

 

 

棟方志功 菩薩像 倭画

棟方志功 菩薩像 倭画

 

 

 

棟方志功の相場評価と価値

 

① 倭絵

紙に墨や水彩などで描かれた直筆作品です。描き込み具合や色の有無によって評価が変わりますが数十万円~数百万円と幅広いです。

 

② 板画

木版画の事です。木を使っているため「版」ではなく「板」の字を使い板画(はんが)と呼んでいました。多くの作品は木版で摺られた後に裏彩色で色を付けています。図柄や裏彩色の有無で大きく評価が変わります。数万円の作品もあれば、200~300万円で買取できる作品もあります。価格差が非常に大きいです。

 

③ リトグラフ

棟方志功の没後に制作された版画作品です。構図はどれも素晴らしいですが希少価値や作品の成り立ちを考慮すると、生前作と比べると安価で10万から20万ぐらいの価格帯となります。

 

④ 陶芸

柳宗悦の民芸運動とのつながりから焼き物も多く制作していました。志功らしい大胆な絵付けが特徴的です。人物などの具象的なモチーフが茶碗や皿に描かれていると高評価です。

 

⑤書

棟方志功の書はダイナミックな筆さばきで力強く、非常に評価が高いです。出来の良い書であれば、板画より高値で買取りさせていただく事が出来ます。

 

棟方志功の査定と鑑定

 

棟方志功の作品は種類により買取金額が異なります。また、棟方志功の作品は贋作が多く作られているため、没後に制作されたリトグラフ以外は鑑定が必要となります。

また、棟方志功作品にはご子息の棟方巴里爾(パリジ)のシールが付いているケースもあります。 この場合には真筆の証明にはなりますが、昨今では、残念なことにこのパリジシールの贋物も出回っているので、 いづれにしても、あらためて東急百貨店の棟方鑑定委員会登録を取得する必要があります。

 

棟方巴里爾の鑑定書

棟方巴里爾の鑑定書

 

鑑定が必要な作品は(板画・油彩画・倭絵・書・陶芸)です。

 

棟方志功の場合は渋谷の東急百貨店美術部内の棟方志功ギャラリーで鑑定・登録を行っています。

 

 

棟方志功鑑定委員会 鑑定書

棟方志功鑑定委員会 鑑定書

 

 

真筆の場合は登録番号札と割印が押されます。 共シールの有無など条件によって多少金額が変わってきますが、鑑定書取得に2~3万、残念ながら贋物だった場合も鑑定代として1万円かかります。 また、既に鑑定登録済みの作品でも、再鑑定が必要な場合もあります。

 

現在、東急百貨店閉店の影響により鑑定に関する状況が明示されておりません。鑑定書が無くてもお気軽にお問合せください。

 

また、万が一贋作という結果でも、鑑定料等の実費は支払わなければなりません。 事前に査定依頼をいただければ、鑑定に出したほうが良いかアドバイスすることができます。

 

また、最近では、安川電機さんの発行された複製画(印刷画)を持ち込みになるケースも非常に増えています。 こうした事例も含めて、経験豊富な北岡技芳堂にご相談ください。

 

倭絵・板画作品は湿気等によるシミやカビ等のダメージが発生しやすいです。

 

作品によっては数十年以上経過していますので、状態のチェックは必要です。コンディションにより評価が変わりますので、現物確認後に最終的な判断させていただきます。

 

北岡技芳堂では棟方志功の作品を高価格にて買取り致します。売却を検討されております方は、お電話やメールにて受付けております。また、簡単LINE査定も致しておりますのでお気軽にお申し込みください。

 

棟方志功以外の絵画も買取り致しております。

 

 

棟方志功の木版画作品は全てこちらの棟方志功全集に収録されています。

作品の種別や調査に使用いたします。

全集に収録されている作品は高値でお買取りさせて頂く事ができます。

 

 

棟方志功全集

 

棟方志功全集

1巻:物語の柵/2巻:神々の柵(1)/3巻:神々の柵(2)/4巻:花鳥の柵/5巻:詩歌の柵(1)/6巻:詩歌の柵(2)/7巻:女人の柵(1)/8巻:女人の柵(2)/9巻:想いの柵(1)/10巻:想いの柵(2)/11巻:海道の柵/12巻:雑華の柵

 

棟方志功の代表的な作品

 

「弘仁の柵」「文殊菩薩の柵」「湧然の柵」「普賢菩薩の柵」「沢瀉妃の柵」「波乗妃神の柵」「須菩提の柵」「妙如菩薩の柵」「没然の柵」「富楼那の柵」「薔薇妃の柵」「琵琶弁天妃の柵」「なでしこ妃の柵」「阿那律の柵」「揚髷の柵」「くちなし妃の柵」「妙如菩薩の柵」「弘仁の柵」「吉祥天吉祥妃の柵」「大顔の柵」「揚鷹妃の柵」「山梔妃の柵」「右首の柵」「柳仰板画柵」「摩訶迦葉の柵」「騎象普賢の柵」「騎獅文殊の柵」「赫不動明王の柵」「阿難陀の柵」「阿云妃の柵」「沙羅双樹の柵」「濡髪の柵」「名久井の鷹妃の柵」「優婆離の柵」「太首の柵」「二の腕妃の柵」「仰向妃の柵」「美女神誕生の柵」「あかえくぼの柵」「ハイビスカス妃の柵」「救世観音の柵」「カスタネットの妃踊の柵」「夜訪の柵」「胸肩吉祥妃神の柵」「金富士の柵」「妙肌韻板画柵」「颯子の柵」「美業の柵」「凡聖一如の柵」「吾妹の柵」「鷹持妃の柵」「天狗の柵」「獅子窟の柵」「角屋の柵」「雷紋の柵」「菩提の柵」「壺眺妃の柵」「姐肌の柵」「秋扇の柵」「紫袂の柵」「踊鯉の柵」「はまなす妃の柵」「風神の柵」「振向の柵」「広鰭の柵」「バラライカの女の柵」「女人鷹の柵」「雷童子の柵」「足揚の柵」「救世観音の柵」「巌鷹の柵」「白頭巾の柵」

 

上記の棟方志功の絵画の板画作品は高値にてお買取り出来ます

 

棟方志功の簡単な略歴

1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。

豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となる。

少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した。

(友人たちとの会話の中で「大きくなったらお前は何になりたいか」の問いに「私だったら絵描きになりたい」という趣旨であった。

ゴッホとは個人ではなく絵描きという職業のことだと思っていた。

青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ。

1924年(大正13年)、東京へ上京する。

帝展や白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。

1928年(昭和3年)、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、入選する。

1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務める。

1932年(昭和7年)日本版画協会会員となる。

1934年(昭和9年)、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動、制作のきっかけとなる。

1936年(昭和11年)、国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民藝運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。

1945年(昭和20年)、戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。

1954年(昭和29年)まで在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛し、また多くの作品を残した。

1946年(昭和21年)、富山県福光町栄町に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付けた。また住居は谷崎潤一郎の命名によって「愛染苑(あいぜんえん)」と呼んだ。現在は栄町にあった住居を移築保存し、鯉雨画斎として一般公開している。 1

1956年(昭和31年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。

1969年(昭和44年)2月17日、青森市から初代名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。

1975年(昭和50年)9月13日、肝臓がんのため東京で死去。72歳没。死没日をもって従三位に叙された。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた「静眠碑」と名付けられた墓がある 。

 

北岡技芳堂では棟方志功の作品を高価格にて買取り致します。売却を検討されております方は、お電話やメールにて受付けております。また、簡単LINE査定も致しておりますのでお気軽にお申し込みください。

 

棟方志功以外の絵画も買取り致しております。

 

 

棟方志功記念館

 

【青森県】 棟方志功記念館

【出典】https://munakatashiko-museum.jp/

【入館料】大人550円/学生(専門含む)300円/高校生200円/小・中学生無料 (20名以上の団体割引・各種割引:大人450円/学生(専門含む)200円/高校生100円) 無料開館日:11月3日(文化の日)

【アクセス】〒030-0813 青森県青森市松原2丁目1-2

【駐車場】有

【公式HP】棟方志功記念館 1975年に棟方志功の生誕地・青森に建てられた記念館です。2012年に鎌倉の棟方版画館を吸収合併したことにより、棟方志功作品の国内最大の所有数を誇る記念館となりました。校倉造を模した建物と日本庭園の調和が非常に気持ちよく、四季折々に応じて展示を変えるという興味深い展示方法を行っており、青森の棟方志功に対する愛を感じ取ることが出来ます。

 

 

棟方志功記念館愛染苑

 

【富山県】棟方志功記念館愛染苑

【出典】https://nanto-museum.com/aizen-en/

【入館料】大人310円/大・高校生210円/小・中学生無料

【アクセス】〒939-1654 富山県南砺市福光1026-4

【駐車場】有

【公式HP】南砺市福光美術館 富山は、棟方志功が1945年から6年8か月疎開した場所です。実は棟方志功がこの地を選んだのは、富山の「善知鳥(うとう)」という能にインスピレーションを受けたからだと言われています。福光美術館には常設展として棟方志功作品を展示、さらに別館の愛染苑には40代の脂ののった棟方志功が豊かな自然と優しい人々に囲まれて創り出した作品が寄贈され、ゆっくりと楽しむことが出来ます。近くには、当時住んでいた住居なども訪ねることが出来ます。

 

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裁判所にも有効な書類を作成させて頂く事も出来ます。
 
 
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
 
 
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2023年4月12日

ピカソの絵画、版画を買取りいたします。

パブロ・ピカソの買取価格を知りたい、高額査定がご希望なら北岡技芳堂にお任せください 。

パブロ・ピカソ作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。

豊富な買取実績がある北岡技芳堂では、パブロ・ピカソ作品を探しています。もしパブロ・ピカソの作品がお手元にございましたら、北岡技芳堂へぜひご相談ください。

パブロ・ピカソの作品を無料査定し、少しでも高く、お客様にご満足いただける価格で買取いたします。

 

北岡技芳堂では、パブロ・ピカソの絵画を買取りいたします。

 

古くからピカソの版画は日本国内に入ってきており、様々な版画作品を拝見させて頂いております。それらの中でも銅版画が多いです。

 

まずは、簡単なピカソの作品について、ご紹介を致します。

 

 

パブロ・ピカソ 本人写真

パブロ・ピカソ 本人写真

 

パブロ・ピカソの現在の評価と価値

 

ピカソは多作の作家としても有名ですので、作品は多く残っております。

 

ギネスにも最も作品を残した作家として記録され、生前に約15万点を残しました。

 

どれだけ一流の作家でも作品を作りすぎると、

 

需要と供給のバランスが崩れて市場価値が下がる事があります。

 

実際に市場の反応を読めずに作品を作りすぎてしまい、

 

市場価値の暴落を招いた作家も存在します。

 

しかしピカソは世界で最も多作な作品でありながら、

 

世界で最も市場評価が高い作家と言えるでしょう。

 

ピカソの油絵作品は近年世界的なオークションでも高値を更新し、

 

世界の富裕層から安定資産として選ばれています。

 

パブロ・ピカソ 夢 1932年 

パブロ・ピカソ 夢 1932年 

 

高額で売買されたのは、1932年に描かれた(夢)です。

描かれているのは、当時の愛人マリー・テレーズ・ワルテルです。

 

テレーズの身体と、肩の部分が性器のような形になっており、

 

それらが融合した状態をダブルイメージで描かれています。

 

この作品は1941年にコレクターが7000ドルで購入して長く所有していましたが、

 

死後の1997年にオークションに出品され、4800万ドルで落札されました。

 

さらに2001年には6000万ドルで売買、2013年には1億5500万ドルで売買されるなど、

 

取引のたびに価格が大きく上昇しています。

 

日本国内ではキャンバスの油絵画が市場に出ることが少なく、

 

版画や陶磁器などのマルチプル作品が殆どです。

 

油彩画と比べるとお値打ちな価格帯になりますが、

 

現在の市場相場をもとに概算価格などを紹介させていただきます。

 

ピカソの絵画といいますと何十億円と思いがちですが、

 

版画は比較的に安価でお買い求め頂ける作品もございます。

 

といいましてもピカソですから、1000万円を超える版画作品もございます。

 

ピカソの版画作品の画集

パブロ・ピカソの版画作品は、版画カタログ・レゾネ 全4冊揃 「Pablo Picasso Catalogue de l’oeuvre grave et lithographie Tome 1-4」に殆どが収録されております。

 

 

版画カタログ・レゾネ 全4冊揃

版画カタログ・レゾネ 全4冊揃 

vol.1 鼠色本1904-1967

vol.2 黒色本1966-1969

vol.3 茶色本1949-1971

vol.4 赤色本1970-1972

となっております。

 

 

ピカソの版画の作品の評価

 

ピカソは生涯を通じて版画を制作しました。

 

最初の作品は1899年で、まだ10代の頃です。

 

1972年、彼が90歳になったとき、彼は最後の作品を制作しました。

 

その間ずっと実験を続け、エッチング、リトグラフ、リノカットなどのさまざまな技法を使用して、

 

合計で約 2,400 点の版画を制作しました。

 

絵画とは異なり、版画は共同作業であり、ピカソは何十年にもわたってさまざまな印刷をアトリエのマスターと

 

協力し、指導を受けてきました。

 

制作年代・技法・作品のモチーフ等で大きく金額が異なります。

 

基本的には、没後遺族が作った版画は値段がお安くなります。

 

パブロ・ピカソの版画の技法の種類

 

版画に関しては【技法】を分けて考えると理解しやすいです。

 

【リノカット】、【エッチング】、【リトグラフ】の3種類に分けられます。

 

 

自作の版画を見るピカソ

自作の版画を見るピカソ

 

 

銅版

銅版(どうばん)とは版画、印刷の技法の一種である。銅板とも表記する。
銅の版に絵画、文字などを彫ってその銅版の表面を凹版にしてインクを流して印刷を行う。
また、このようにして作ったものをさす。
主に銅版画の制作に使用されており、これは銅版を直接道具を用いて彫る彫刻銅版と、硝酸などの薬品によって腐食させる腐食銅版とに大きく分類される。
主としてルネサンス期以降のヨーロッパにおいて銅版画として広く使用された。
1600年代の作家Ambrosius Hannemannの銅板 彫刻銅版というのは主にビュラン(Burin)という鑿(のみ)で銅版に刻線を得る方法で、エングレービング、ドライポイント、メゾチントというものがこれにあたる。
腐食銅版というのは凹状にする部分の銅面のみを露出させて、その部分を腐食させることによって原版を作るものをさし、エッチングやアクアチントがこれにあたる。
日本においては司馬江漢が天明3年(1783年)に日本創製と銘打って初めてのエッチングによる銅版画を製作している。

 

リノカット

リノカット(Linocut)とは、リノリウムと呼ばれるコルクや木の粉から作られる合成樹脂材を彫って版にする版画の技法のひとつ。
木版と同じく凸版技法に分類されるが、材質が木材に比較して柔らかく、木目の制約を受けないため、どの方向にも無理無く彫ることができる。
いっぽう、素材の軟性により細い線が描きにくいことから、繊細な描写よりも大胆な線や形を活かした作品に向くといわれる。

 

リトグラフ

リトグラフ (lithograph)とは版画の一種たる平版画。水と油の反発作用を利用した版種で、製作過程は大きく「描画」「製版」「刷り」の3工程にわかれる。
ほかの孔版画、凹版画、凸版画などに比べると複雑で時間も多く要するが、クレヨンの独特のテクスチャや、強い線、きめ細かい線、筆の効果、インクを飛ばした効果など、描写したものをそのまま紙に刷ることができ、多色刷りも可能で、版を重ねるにつれて艶を有した独特の質感が出てくる。
19世紀頃、ヨーロッパで偶然から原理が発見され、以降ロートレックなどの画家が斬新で芸術性の高いポスターをこの方法で描いた。
以前は巨大な石(石灰岩)に描いていたので石版画(石版印刷術、リトグラフィ)とも呼ばれるが、扱いやすいアルミ板に描くことが近年は多い。

 

パブロ・ピカソの版画作品の紹介

 

パブロ・ピカソ ヴォラール・シリーズ エッチング 1930~1937年制作

パブロ・ピカソ ヴォラール・シリーズ エッチング 1930~1937年制作

 

 

 

アンブロワーズ・ヴォラール」は、1930年から1937年にかけて制作された100点の連作版画である。

 

ちょうどピカソの49歳から56歳までの絶頂期の作品であり、ピカソの版画作品の最高傑作のひとつです。

 

サルタムバンク・シリーズの制作で、エッチング、ドライポイント、ビュランなどの銅版画技法を自家薬籠中、ものにしたピカソの能力を最大に発揮したのが、このヴォラール・シリーズです。

 

1930年に最初の3枚が制作され、32年に1枚、33年に61枚。34年に24枚、35年に2枚、36年に2枚、37年に3枚がそれぞれ描かれました。

 

ピカソは画面の中に制作年月日を記入してあるので、ピカソの制作リズムがよく理解できます。

 

このシリーズに描かれたテーマは、途中から色々と飛躍はします、基本的には彫刻家とモデルの関係です。

 

最初はモデルが単身で描かれ。彫刻家との対話や性のドラマが展開されます。そして、動物や神話に登場するミノタウルスが登場し、また、サーカスや曲芸師(サルタムバンク)が加わり、場所もアトリエから闘牛場へと移っていきます。

 

このシリーズが制作された1930年から1937年にかけては、ピカソの変貌期にあたります。社会的には1920年代終末からのアメリカを中心とした世界大恐慌がおこり、30年代初めにはファシズムの台頭によるヨーロッパの政治情勢が険悪化していました。

 

ピカソの芸術も、一時期の新古典派的安定から、内的葛藤が繰り返されていて、現状打破を自己に課した時代でした。

 

このヴォラール・シリーズには含まれていませんが、やはりピカソの版画の最高傑作のひとつ、ミノトルマシーも1935年の作品で、1937年にはピカソ自身の記念碑ともいうべき、ゲルニカが制作されています。

 

1936年までに、ピカソは計画した通りの作品を制作し終えると、最後にこの版の注文者であるヴォラールの肖像を3枚描き、このシリーズを完結させました。

 

この100点の原版を受け取ったヴォラールは、アーティストと版元のオリジナル作品である証左として、ヴォラールとピカソのサインを特別に漉き込んだモンバル紙(Montval)を使用して、二種類のセットをつくりました。44.5 X 34cmのスモール・マージン(小版)が250部、50 X 38.5cmのラージ・マージン(大版)が50部です。(なお、この他、作者保存用3部あり)

 

この二つのマージンは1939年に全部すりあげられたましたが、版元のヴォラールが自動車事故で急死し、さらに第二次世界大戦が勃発したため、実際に世に出たのは戦争が終ってからでした。

 

作品番号は付されていませんが、ピカソの署名は全作品になされており、特に最後のヴォラールの肖像を書いた3枚の作品は赤鉛筆でサインがされました。

 

 

パブロ・ピカソ 347シリーズ エッチング 1968年

パブロ・ピカソ 347シリーズ エッチング 1968年

 

 

制作年が1968年 限定部数:50部 「347シリーズ」は、ピカソが晩年の1968年に制作した、347点の連作版画の大作です。

 

ピカソの命題でもあった女性に対する「愛」を中心テーマとしながら、
創造的イメージを展開させていると同時に、ピカソの生涯に取り上げた多くの題材を回顧している作品でもあります。

 

晩年ながら、わずか204日で完成させたピカソの強靭な精神力には驚嘆すべきものがあります。

 

 

自作リノカットの作品とピカソ

自作リノカットの作品とピカソ

 

 

 

リノカットの特徴は、大胆で荒削りな躍動感のある描画を表現できる事です。

 

ピカソはリノカット技法を80歳近い晩年になってから取り組み始めました。

 

リノカット技法とは、普通、薄い色から濃い色へ順番に刷り重ねていくものなのですが、ピカソはこのリノカットを常識にはとらわれず、刷る色の順を変えました。

 

それにより独自のダイナミックな迫力ある作品に仕上げられました。

リノカット自体、木版と同じく彫刻刀で彫りますが、リノリウム板は柔らかく彫り易く伸びやかな表現に適しておりますが、繊細な表現には適しておりません。

 

ピカソは、リノカット技法の持つ特徴を見事に活かし、独自にアレンジすることでより迫力ある個性的な作品を作り上げることができました。

 

 

パブロ・ピカソ ヘアーバンドを付けた女性 リノカット 1962年

パブロ・ピカソ ヘアーバンドを付けた女性 リノカット 1962年

 

 

 

 

パブロ・ピカソ 花飾りの帽子の女性 リノカット 1962年

パブロ・ピカソ 花飾りの帽子の女性 リノカット 1962年

 

 

上記のようなリノカットの作品は高額買取りが出来る作品が多いです、大抵の場合は百万円以上の買取り査定が出来ると思います。

 

パブロ・ピカソ 若い女性の顔 リトグラフ 1947年

パブロ・ピカソ 若い女性の顔 リトグラフ 1947年

 

 

パブロ・ピカソ 想像の中の肖像 リトグラフ 1969年

パブロ・ピカソ 想像の中の肖像 リトグラフ 1969年

 

 

29枚のリトグラフ(石版画)により構成されるシリーズの一枚です。

 

ピカソは南仏への引っ越しの際、開梱後のダンボールに創作意欲をかき立てられ、次々に29点の肖像を描きました。

 

グワッシュにより描かれたそれらの作品は、ピカソ本人の強い希望により直ちにリトグラフ(石版画)化されました。

 

肖像画から独自のイメージを発展させた、斬新かつキュビズムを連想させるピカソらしい秀作です。

 

 

パブロ・ピカソ 貧しき食卓 エッチング 1904年

パブロ・ピカソ 貧しき食卓 エッチング 1904年

 

 

ピカソの最も芸術的評価が高い「青の時代」に製作された傑作、(貧しき食事)。当時、自らも極貧状態にあったピカソが、貧しい人々を鋭くも情緒的な眼差しで描いた作品です。

 

ピカソ作品の中でも、最も著名な版画となっている本作は、パンとワインのみの粗末な食事を前に、盲目の男性とその伴侶と思われる女性が食事を進めている。

 

ピカソは当時、30枚の版画をこの原版から作成したと言われているが、その後、画商のアンブロワーズ・ヴォラールが1913年に原版を買い取った。

 

ヴォラールは、原版に薄い鉄の被膜をコーティングして補強を施したが、それ以前の原版によってすられた作品はより高い評価を受けている。

 

実際、2014年6月にはヴォラールによるコーティング以前に作られた作品が、ロンドンのオークションで、120万2500ポンド(当時、約2億1千万円)もの金額で落札された。

 

サルタンバンク・シリーズの本作は、初期ピカソの傑作「サルタンバンク・シリーズ」のひとつとして知られている。

 

貧しく、高価なジンク版を買うことができなかったピカソは、他人からジンク版をもらってこのエッチングを制作した。 サルタンバンクとは、スペイン・ヴィニャン街に住む大道芸人たちで、これ以外にもピカソはこの時期、貧しい人々や病気の人々に積極的に目を向けて作品を生み出していた。

 

 

ピカソは多作ですので、まだまだご紹介したい作品がありますが、以上で版画作品の紹介を終わりにします。

 

パブロ・ピカソの作品を買取り致しております。

 

ご相談だけでもお気軽にお問い合わせください。

 

ピカソは専門的な知識が必要でございますので、ご売却の際は北岡技芳堂までご連絡ください。

 

 

パブロ・ピカソの略歴

スペインの画家。20世紀を代表する画家である。創作活動の中で次々と作品のスタイルを変え、そのたびに絵画の新境地を切り開いた。

絵画以外にも彫刻や版画、陶芸にも才能を発揮するなど、生涯エネルギッシュな活動を続けた。

1881年、スペインのマラガに生まれる。

美術教師をしていた父のもと、幼少時代から絵画に非凡な才能を示した。

1900年、パリに出てロートレックらの影響を受ける。1901年、友人の死をきっかけに、「青の時代」にはいる。背景に青色を多用したことから、この時期に制作した作品群は「青の時代」と呼ばれる。青は貧困や悲しみを象徴しており、貧民を題材に哀感あふれる作品を制作した。

1904年、モンマルトルの「洗濯船」 (Bateau-Lavoir)という安アトリエに入居。ここで詩人のアポリネール、後の恋人フェルナンド・オリヴィエらと出会う。この頃から「バラ色の時代」に移行し、「青の時代」より温かみのある色調で旅芸人やサーカスを主題とした作品を作り出した。

1907年、『アヴィニヨンの娘たち』を世に送り出す。この作品は今でこそ「現代美術の出発点」と呼ばれるが、当時は轟々たる非難を浴びた。

対象を分解し、複数の視点から再構築するというこの作品はセザンヌの手法をさらに追求したものであり、これをもとにジョルジュ・ブラックらと共にキュビズムを発展させていく。ピカソのキュビズムは分析的キュビズムを経て、総合的キュビズムへと至る。

1918年ごろから、キュビズムでは消し去られていたモチーフを復活させ、 新古典主義的な絵画を制作する。画面から抽象性は無くなり、おおらかでボリューム感のある人物像を描くようになる。

1937年、スペイン市民戦争でナチスがゲルニカに対し行った空爆に抗議するため、『ゲルニカ』を発表する。これは縦3.5m、横7.8mという巨大な作品である。ピカソの作品は色彩豊かなものが多いが、『ゲルニカ』はモノトーンで描かれている。死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬、などが戦争の悲惨さを訴えている。

スペイン市民戦争後にフランコ独裁政権が成立すると、以降ピカソは二度と故郷スペインの地を踏むことはなかった。『ゲルニカ』自体も長らくアメリカのニューヨーク近代美術館に所蔵されていたが、フランコ将軍の死後、1981年スペインに返還された。現在『ゲルニカ』はスペインのプラド美術館に展示されている。

その後も、様式にとらわれない作品を制作しつづけた。第二次大戦後は、「画家とモデル」をテーマにした連作のほか、彫刻、版画、陶芸なども数多く制作した。80歳代になってもその制作意欲は全く衰えず、作風はますます自由奔放になっていった。

生涯に制作した作品は約8万点にものぼる。ピカソの作品を多く収蔵する美術館として、バルセロナとパリの両方にピカソ美術館がある。また、日本では箱根の彫刻の森美術館に「ピカソ館」がある。

 

※ピカソ以外にも様々な絵画を買取り致しております。
絵画の売却を検討されていましたら北岡技芳堂までご連絡ください。
高価格買取り致します。まずはお電話、メールにて受け付けております。

絵画を買取り致します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
 
 
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
 
 
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2023年4月12日

北川民次の絵画を買取り致します。

北川民次の買取価格を知りたい、高額査定がご希望なら北岡技芳堂にお任せください 。

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北川民次の買取り、その他の様々な絵画も買取り・販売を行っております。

 

 

北川民次 本人写真

北川民次 本人写真

 

 

北川民次の作風

北川民次といえば(メキシコの絵)、(瀬戸の民衆生活)、(母子像)、(花)、(バッタ)を題材にした絵画作品ではないでしょうか。

戦前から生涯を過ごした瀬戸の民衆生活を題材に、独創的なデフォルメによる原始的な生命感を表す作風を展開しました。

デザイン化された人物や花は北川民次の代名詞と言ってよいでしょう。
フランスを含めたヨーロッパ留学が一般的な時代に、
民次の場合はアメリカ・メキシコで学んだ経験が如実に表れています。

 

 

 

北川民次「花」 油彩画 1973年 

北川民次「花」 油彩画 1973年 ギャラリー北岡技芳堂内にて

 

 

 

はっきりとした輪郭線や色の配置はその賜物でしょう。
北川民次の作品は油絵や水彩だけではなく、
メキシコ時代に学んだ銅版画、石版(リトグラフ)、木版画などの作品も数多く残しました。

北川民次の現在の評価と価値は、没後30年以上経過した現在でも相場がある作家の一人ですが、
買取価格は下落傾向にあります。私はもっと評価されても良い作家の一人だと思っております。

高価買取のポイントは鮮やかな色彩です。
原色を少し薄くしたような色味が特徴的で、北川民次が描く独特な対象物の魅力をより引き出させます。
色合いがはっきりしている方が高額査定しやすい傾向にあります。

北川民次の作品は、油絵、水彩、版画と大別する事ができます。

 

 

北川民次 母子像 リトグラフ

北川民次 母子像 リトグラフ

 

買取りのポイント

 

① 油彩画作品

キャンバスや板に描かれた作品です。
残念ながら全盛期に比べると、大きく評価額が下がっているのが現状です。
良質な作品でも、50万円以上で買取できるものは少ない印象です。
母子像や花を北川民次らしいタッチで描かれている作品でも、
サイズが小さいと10万~15万円前後の買取となる場合が多くございます。

 

② 水彩作品

紙に水彩で描かれた作品です。
描き込み具合やサイズにより異なりますが、数万円台になることが多いです。

 

③ 版画作品

北川民次の版画作品は挑戦的なモチーフや構図が多く、
技法の特性を生かしながら作られていますが市場価格は低いです。
厳しい評価になるでしょう。10万以下が殆どなのが現状です。

 

 

 

 

 

瀬戸市を愛した芸術家

北川民次の作品は、瀬戸市立図書館の陶板壁画が有名です。 
陶芸の街に絵画という新たな息吹をもたらし、多くの作家たちに影響を与えました。
図書館では北川民次画伯に関する資料も揃えております。

 

 

瀬戸市立図書館 北川民次 陶壁画

瀬戸市立図書館 北川民次 陶壁画

 

 

 

北川民次が瀬戸の町に暮らすようになったきっかけは奥さんの実家があったためで、
メキシコから帰国してまもない1937年に半年暮らし、それから1943年に東京から疎開して再び瀬戸へ戻ってきました。
この町を気に入った民次は、戦後も瀬戸に留まりました。

北川民次が瀬戸を愛したのは、丘の傾斜地に沿って工場や住居が建つ風景が、
メキシコ時代に暮らしたタスコの町のそれと似ていたことです。

メキシコのタスコが銀鉱山で働く労働者たちの町だったのに似て、
瀬戸も陶土を採掘する鉱山の労働者や焼物づくりで陶工が泥まみれになって働く町でした。
メキシコのタスコの人たちと気質的に共通するものを感じて愛着を覚えたのでしょう。

 

 

北川民次 煙突のある風景  1937年 セルロイド凸版

北川民次 煙突のある風景  1937年 セルロイド凸版

 

 

民次の言葉「ぼくは、これまでに知ったどこの街よりも瀬戸の働く人たちが好きだった。彼等は一日じゅう、泥まみれになって働く~(中略)~彼等は清らかだった。心が清浄だった」(北川民次「ぼくの愛する瀬戸」『栄養と料理341号』1967年)。
そして民次は瀬戸の人や町をモチーフに絵を描きました。

 

 

 

北川民次のアトリエ跡

北川民次のアトリエ跡

今でもこの場所が実際に使われているのではないかという雰囲気が漂っているようです。

 

民次の支援者が1974年に敷地を購入、その購入者から1992年に土地の寄付が瀬戸市にありました。
民次の死後、1994年には「北川民次のアトリエを守る会」が支援者の間で発足、
アトリエの手入れと、春秋年2回の一般公開をその方たちが行ってきました。
しかし会の主要メンバーが高齢化、主だった方々は亡くなってしまい、2018年からは瀬戸市が管理を担当しています。

 

 

北川民次 瀬戸風景 1936-7年 水彩画 ガッシュ

北川民次 瀬戸風景 1936-7年 水彩画 ガッシュ

 

 

 

私が思うところ、北川民次には金縁の額装が合わないのではなでしょうか。
これからは額縁もどういった額に変えるか、研究しなければいけないと思っております。
これまでのように重く立派な額縁ではなく、今の住宅環境などに合う額縁

 

北川民次の絵画を買取り致しますが、北岡技芳堂では、様々な絵画も買取、販売を致しております。

北川民次のご所蔵品を高価格買取り致します。売却を検討されております方はご連絡をお待ちいたしております。

下記のリンクから

絵画買取りページ

北川民次の絵画の買取りページ

 

 

北川民次 略歴

 

元二科会会長の洋画家北川民次は、426日肺線維症のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。
享年97

特特なデフォルメによる生命感あふれる作風で知られ、
はやくから児童美術教育のすぐれた実践者でもあった北川民次は、
明治27(1894)117日静岡県榛原郡に生まれた。
生家は農業で製茶業を営み、アメリカへも茶を輸出していた。

明治43年県立静岡商業学校を卒業し早稲田大学へ入学したが、
大正2年中退しカリフォルニア在住の伯父を頼って渡米した。
3年ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに入り、
社会的主題を描いたジョン・スローンに師事、ここで国吉康雄と相識った。

大正10年、アート・ステューデンツ・リーグを卒業するまでの間、
苦学を重ね主に舞台美術家として生計をたてていた。
12年、アメリカ南部からキューバへ放浪、同年9月メキシコのオリサバに着き、
サンテーロ(聖画行商人)となって村々を転々とした。
同年中、サンカルロス美術学校に入学、特待生となり3カ月で卒業する。
13年、チュルブスコ村の旧僧院で研修する画学生の一員となり、
この頃、リベラ、オロスコ、シケイロスらと交際、彼らの推進する野外美術学校に関わることになり、
14年からのトランバムの野外美術学校奉職を経て、昭和6年タスコに移した野外美術学校の校長となった。
8年には、メキシコ旅行中の藤田嗣治が訪問する。
11年、学校を閉鎖して帰国し、一時愛知県瀬戸市に寓居した。
12年上京し豊島区長崎仲町1-241に居住、藤田嗣治の紹介で同年の第24回二科展に
「メキシコ、タスコの祭日」「同、銀鉱の内部」「同、悲しき日」「メキシコの三人娘」「瀬戸の工場」を出品し、会員に推挙された。
同年、数寄屋橋の日動画廊で第1回目の個展「メキシコ作品展」を開催する。
13年久保貞次郎を知る。
戦前は、二科展の他、聖戦美術展(14)、紀元二千六百年奉祝美術展(15)、新文展(18)にも出品した。
18年、瀬戸市安土町23番地に転居し、以後同地に定住した。
戦後は、二科展をはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展、国際形象展、太陽展などに制作発表を行う。
その間、瀬戸の民衆生活を題材に、独自のデフォルメによる原始的な生命感の横溢する作風を展開、1960年代からは色彩の上で一転し、それ以前のいわゆる「灰色の時代」から鮮烈な原色の明るさをました。
一方、メキシコ時代に身につけた銅版画をはじめ、石版、木版画もよくした。
また、児童美術教育にも力を注ぎ、昭和24年名古屋市東山動物園内に名古屋動物園美術学校を開設(26年迄)
26年名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立、翌27年には創造美育協会の創立に発起人として参加した。
30年から翌年にかけ、メキシコを再訪したのち、中南米、フランス、スペイン、イタリアを巡遊する。
39年、第6回現代日本美術展出品作「哺育」で優秀賞を受賞。
48年東急日本橋店他で「画業60年北川民次回顧展」(毎日新聞社主催)が開催された。
53年、東郷青児の死去のあと二科会会長に推されたが、
「残る人生は、ただ描くために」と同年9月会長を辞し、翌年二科会も退会した。
『北川民次画集』(昭和31年、美術出版社、同49年、日動出版)のほか、
『絵を描く子供たち』(岩波新書、同27)、『子供の絵と教育』(28年、創元社)
『メキシコの誘惑』(35年、新潮社)などの著書がある。

 

北川民次の絵画を買取り致しますが、北岡技芳堂では、様々な絵画の買取、販売も行っております。

北川民次のご所蔵品を高価格買取り致します。

売却をご検討中のお客様はご連絡をお待ちしております。

下記のリンクからも詳細をご覧いただけます。

絵画買取りページ

北川民次の絵画の買取りページ

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
 
 
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
 
 
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
 
 
裁判所にも有効な書類を作成させて頂く事も出来ます。
 
 
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
 
 
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させて頂きます。
 
 
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
 
 
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
 
愛知県名古屋市中区門前町2-10
 
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
 
 
#骨董品買取#骨董品#古美術#絵画#版画#茶道具#日本刀#彫刻#金#掛軸

 

 

 

2023年4月11日

日本刀を買取り致します。

北岡技芳堂では、日本刀を買取り致しております。

古い日本刀は貴重です。

しかし、どれほどの価値があるのか分かりにくいことと思います。

 

画像上:拵  画像下:白鞘

画像上:拵 
画像下:白鞘

 

日本刀は、大体このような形になっております。
代々引き継がれた日本刀や、先代様や先先代様がコレクションなさった日本刀など、
様々なご事情があるかと思います。
ご来店頂いたり、お電話頂きましたら専門スタッフが丁寧にお答えいたします。

 

 

銃砲刀剣類登録証

          銃砲刀剣類登録証

 

日本刀を所持する場合は、銃砲刀剣類登録証が必要です。

※持ち運びにも必要ですからご注意ください。

 

 

日本刀 短刀

日本刀 短刀

 

日本刀 太刀

日本刀 太刀

 

 

日本刀を登録する際に、事前に価値があるか知りたい

登録証の発行には費用と時間がかかります。
登録証のない刀をお持ちご売却をお考えの方は、
デジカメやスマートフォンなどで撮影した刀剣の写真を、メールまたはLINEにてお送りください。

お値段がどのくらいつくのかどうかなど、事前に画像査定を行うことができます。
日本刀の登録手順に関してのご説明なども承りますので、お気軽にお問い合わせください。

 

日本刀は、状態や作行きによってお値段は変わります

 

日本刀にはさまざまな種類のものがあり、作られた時代・作者などによっても買取金額が大きく異なってきます。
日本刀の参考買取り価格をお伝えいたします。
専門の鑑定士が当社独自の査定基準にて適正評価をいたします。

 

日本刀は錆びやすいです

こまめなお手入れと状態確認が必要です。
刀は手入れをしていないと錆びてしまいます。
鞘に収めてあるからといって大丈夫ではありません。
湿気の多い場所で何十年と放置している場合には、刀身全体が錆びてしまい、
鞘から刀が抜けないこともございます。 
放置期間が長くなればなるほど錆は進み、買取金額もどんどん下がってしまいます。
日本刀の錆を手入れするのは、研ぎに出さなければいけませんので時間と労力をかなり費やします。そうなってしまう前に、ご売却をお勧めします。

 

 

上記のような日本刀を買取り致します。

上記のような日本刀を買取り致します。

 

 

※初めて日本刀の処分を検討されるお客様は、どこに売却・査定・鑑定を相談するべきか、
どのような形で買い取ってもらえるのか等、ご不明な点が多いのではないでしょうか。
ギャラリー北岡技芳堂では古刀、中古刀、末古刀、新刀、新々刀、昭和刀、現代刀などの日本刀を鑑定し、高価買取いたします。
ご売却の際は、出張による日本刀の買取も行っております。
どのようなご質問、売却・鑑定のご相談も、お客様にご納得いただけるまでお話させていただきます。
ご相談だけでも大歓迎です。
引越しなどで日本刀の売却・鑑定を検討の際、また解体の際の日本刀の売却や、
ご家族様、先代様が収集された日本刀売却・鑑定をお考えの際などお気軽にご連絡下さい。
秘密厳守にて高価買取させていただきます。
また、同業者様からの日本刀についてのご相談も歓迎いたしております。

 

日本刀の買取りはこちらのページからご覧ください

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

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骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

愛知県名古屋市中区門前町2-10

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2023年4月8日

草間彌生の作品を買取致します。

草間彌生の網目模様の作品、水玉模様の作品を買取り致します。

 

 

草間彌生 本人写真

草間彌生

 

 

1929年長野県生まれ、幼少期から幻視や幻聴を体験し、その体験から網目模様や水玉模様をモチーフにした絵画を制作する。

 

これらの模様は草間の代名詞にもなっており「水玉の女王」と称されることもある。

 

 

草間彌生 無限の水玉

草間彌生 無限の水玉

 

 

 

 

様々なオブセッションを乗り越え、単一モチーフの強迫的な反復と増殖による自己消滅という芸術哲学を見出している。

1957年に渡米し、細かい網目模様を巨大な画面に描くネット・ペインティングや、
男性器をモチーフにしたソフト・スカルプチャー、鏡や電飾を使ったインスタレーションやハプニング、
ボディ・ペインティングなど様々な作品を発表し、前衛芸術家としての地位を確立した。

 

 

 

草間彌生 無限の網

草間彌生 無限の網

 

 

 

 

1966年には第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加するいっぽうで、
映画製作や新聞の発行などメディアを使った表現も行う。

 

1973年に帰国すると、小説や詩集を発表するなど活動の幅を広げました。

 

 

草間彌生 小説 心中櫻ヶ塚

草間彌生 小説 心中櫻ヶ塚

 

1983年には第10回野性時代新人賞を受賞。

 

1994年より野外彫刻を世界中で手がけ、その作品が街中で見られるようになる。

以降も精力的に活動を続け、次々に新作を発表。

 

 

草間彌生 野外彫刻  松本市美術館

草間彌生 野外彫刻  松本市美術館

 

世界中の美術館で展覧会を開催し、いずれも好評を博します。

 

2017年、東京・新宿に草間彌生美術館が開館。

 

 草間彌生美術館 東京都新宿区弁天町107

 草間彌生美術館 東京都新宿区弁天町107

 

2021年における草間彌生のオークション実績について、 2000年前後と比べると徐々に市場価格が上がり、とどまることを知りません。

 

国内外のオークションで草間彌生作品を見かけますが、落札予想価格の下限で落札される事は殆どなく、上限、もしくはそれ以上競り上がっている印象です。

 

日本人アーティストの中で最も注目されている作家でございます。

 

2021年7月に中国のオークションハウスで、無限の網と無限の網の2点セットが約17.8億円で落札されました。

 

2019年にサザビーズ香港にて約8.8億円で落札された、無限の網を上回り、草間彌生の注目の高額落札がうかがえます。

 

 

北岡技芳堂 所蔵 草間彌生 花 0号

北岡技芳堂 所蔵 草間彌生 花 0号

 

 

作家の評価

昭和から現在に至るまで活躍している文化勲章受賞の現代アート画家。
1998年より世界各国を巡回する大規模回顧展「ラブ・フォーエバー: 草間彌生 1958年~1968年」をきっかけに
1960年代の草間彌生の輝きを世界中に知らしめ「世界の草間彌生」となりました。
年を経ても失われない旺盛な創作意欲とチャレンジ精神、そして初期から一貫して続く、
強迫的に繰り返し描かれる模様の蠱惑的な魅力、さらに水玉模様や網目模様やかぼちゃといったモチーフのポップさが特徴です。

 

技法の評価

作品の奥行きを感じることが出来るキャンバスの直筆作品は、大量に流通していない為評価が高く、
サムホールでも高価買取に繋がりやすいです。
特にサイズの大きな作品や版画作品の原画は、高価買取に繋がりやすい傾向があります。

 

図柄評価

「かぼちゃ」作品、その他の作品も全般的に探しています。
かぼちゃの作品は人気ということもあり、特に黄色は高値で取引されます。

「ダンスかぼちゃ」「かぼちゃの神様」「かぼちゃと果物」や、
大判の「黄色かぼちゃ」「コラージュ作品」「ラメ入り作品」は、買取を強化しております。

 

 

草間彌生作品 北岡技芳堂店内ギャラリーにて

草間彌生作品 北岡技芳堂店内ギャラリーにて

 

ここ10年で急激に市場価値が上がりました。

現在の価格になるまで相場は上がったり下がったりしましたが、2000年以前の評価と比べると別格の価格で取引されています。

2000年以前に購入された方の多くは、想像以上の金額で売れるかもしれません。

モチーフとしてはかぼちゃを描いた作品が最も評価が高く、油絵も版画も同様です。

版画作品の多くはシルクスクリーンで制作され、数十万円台から1千万円前後と様々です。

 

かぼちゃが描かれていると基本的には三百万円~七百万円前後となり、サイズが大きい場合は、一千万円を超える相場となっております。

かぼちゃに関しては同じサイズでも色によって評価が変わり、一般的には黄色が最も高いとされております。

草間彌生の相場は安定していると言えないため、お問い合わせいただいたタイミングで買取金額が若干変わる可能性があります。

草間彌生の油彩画、版画作品のご売却をご検討の際は、お気軽にご相談ください。高価格にて買取致します。

 

※草間彌生作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。

 

携帯電話からのline査定も随時お受けしております。

 

お手持ちの草間彌生作品の買取情報をお伝えくだい。買取査定の際に、お電話やメールにてご説明致します。

 

こちらから草間彌生の絵画買取りページに行きます。

 

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2023年4月6日

堂本印象の絵画を買取り致します。

堂本印象の日本画を買取り致します。

堂本印象の買取価格を知りたい、高額査定をご希望でございましたら北岡技芳堂にお任せください 。

近代日本画の巨匠堂本印象を他社よりも高い買取価格で査定しています。
豊富な買取実績がある北岡技芳堂では、堂本印象作品を探しています。堂本印象は初期から晩年まで掛軸もございます。掛軸の鑑定や査定も行なっております。もし堂本印象の作品がお手元にございましたら、北岡技芳堂へぜひご相談ください。

堂本印象の作品を無料査定し、少しでも高く、お客様にご満足いただける価格で買取いたします。

 

北岡技芳堂では、様々な絵画を買取致しておりますが、堂本印象は特に自分自身が好きな作家でもあります。

 

筆を持つ堂本印象

筆を持つ堂本印象

 

印象先生の一番最初の記憶は、私が小学生の頃です。

 

表具師であった祖父は、堂本印象先生の掛軸を仕入れてきては修復をしたり、額装に変更したりしておりました。

 

2代目である父は、京都での修行中、苔寺の堂本印象先生の襖絵を仕立てたこともあり、

 

幼い頃よりとても身近に感じる作家の一人でありました。

 

現在では私も作品を買取などさせていただいておりますので、親子3代で堂本印象先生の作品をお取り扱いしております。

 

弟は表具師を継ぎましたので、堂本印象先生の軸装や額装、修復などを行なっております。

 

 

堂本印象先生の凄いところは、画風の変化でしょうか。

江戸時代の仏教的な絵画から師匠の西山翠嶂風、大和絵から漢画、仏画、文人画へと展開した。

 

フランスのミッシェエル・タピエと出会い、必然的に抽象絵画絵へと変化して行きました。

 

これだけ画風が変化した作家は他にいないのではないかと思うほどです。

 

今回は、堂本印象先生の晩年の抽象絵画をご紹介いたします。

 

堂本印象画「次元結晶」

堂本印象画「次元結晶」

 

こちらの絵画は1964年に描かれた作品となり、画集にも掲載されております。

 

(1965年、編集者:堂本四郎、発行者:藤岡健太郎、発行所:株式会社京都画院)

 

最近の現代アートブームで、堂本印象先生の作品も抽象絵画のが人気が出てまいりました。

 

私が若い頃は、抽象絵画はまったく人気がありませんでした。

 

堂本印象 画集

堂本印象 画集

 

堂本印象 画集掲載部分(77p)

堂本印象 画集掲載部分(77p)

 

堂本印象の抽象画に関しての言葉を中尾泰斗先生の論文から一部抜粋してご紹介します。

 

堂本印象は、1966 年の『みずゑ』にて、作家の発言として対談を行っている。

 

その中には抽象表現に至る動機について述べており注目できるため、対談の問いと共に 3 カ所を以下に引用する。

 

問「 抽象の世界に飛びこまれた動機はどこにあったのですか。」

堂本印象 「私は日本の美術史をかえりみて日本画というものを考えたんです。そして、自分としての思想なり欲望なり希望なりを検討したわけですけど、それともうひとつには(略)こういう仕事をやれという状態に置かれたんやないかと思います。それが正しいんやないかとおもうんですが・・・・。」

問「 去年、出版された画集の中で富永惣一氏は、抽象への転向を、超論理的な飛躍という言葉で解釈していますが・・・・。

 

堂本印象「飛躍とか何とかではありませんで、その道が開けたところに私が入っていったということで、たいした障害とか飛躍とかはあんまりないと思うんです。」

 

問「とにかく思い切って今のような仕事に入られたわけですが、いろんな批判を受けられたことでしょうね。」

堂本印象 (略)私としては何かほかに今までとは違った日本画の行くべき道がありそうなと思うてたんです。しかし日本画というものが分かるところまで行かんと、やっぱり今までのものに引きづられますよ。」

 

対談で記されている内容をまとめると、印象は自身の思う新しい日本画の表現を模索するにあたって、これまでの日本美術史を振り返った結果、抽象表現に至ったとすることができる。つまり、抽象への移行は印象にとってごく自然なものであったことが読み取れる。

このような印象の抽象表現への意識については、「欧風の表現を如何に日本画独自のものに昇華させるかという印象の思索 」や、「抽象の取り組みには印象の伝統に対する強い意識が見られる 」、「自己の情念の自由な発露 」との指摘がなされている。このような指摘と印象の発言を踏まえると、印象は日本画を礎として、西洋の抽象絵画を昇華した表現を目指していた。その根底には、自身の思想や希望を自由に表現するという目的があったと考えられる。

 

堂本印象先生 本人写真

堂本印象先生 本人写真

 

 

堂本印象の創造の観点

印象におけ る創造の意味を読み解くことは「新抽象芸術論」を理解する上で必要であろう。

堂本印象、創造という行為は、「自己に似て他には似ないものであり、自ら純芸術的に、新しく作り出す、生み出すもの」である 。

「絵も線や色の濃淡だけの構成で本質的な作品が生み出される。(略)墨画や書道は 幾百年前、既に今の抽象芸術に近づいていた。(略)抽象芸術も絵画の本質を問うこ とから誕生した。」牧渓の筆遣いに「抽象絵画の形態にも似た妙味」を感じています。

 

堂本印象の技法と表現の関係性について

 

『看心有道』に記されている以下の文章から、その一端を読み取ることができる。

 

「日本画は本来高揚されたる精神内容を要求することを第一義におきます、が、日本画は精神内容だけでは成立しないからこの精神内容を十分に表出するだけの画面への技巧即ち日本画技法が要ります。しかし、技法は末であり精神が主でありますが技巧が不十分であれば筆者の心を十分に表現することができません。」

 

印象は縄文土器を例示して、「人体造形を行った縄文土器よりも縄文中期の非対象な純粋造形のほうがはるかに自由で力強くはっきりとして、より美的である」と述べている 。このことからも、美術において具象物を描写することを必要としていないことがわかる。つまり、堂本には形態の描写という技巧的な側面を超越した造形要素を見出すことを重んじていた姿勢が見られる。このような突き詰めた単純化や、縄文土器 への注視は、絵画において本質的な造形要素を抜き取り構成するためには必要不可欠な 視点であると考えらえる。

 

 

上記のように堂本印象の画論をしるしておきます。

 

 

フランス美術評論家 ミッシェル・タピエ

フランス美術評論家 ミッシェル・タピエ

 

画集には「高度な文明をもつ芸術家」というタイトルで、

 

フランス美術評論家のミッシェル・タピエが印象について書いおりますので、91pより一部抜粋いたします。

 

「印象先生の作品は、たとえば、絵を描くという制作活動が目標ではなく、またそれが終局の目的でもなく、

 

先生の身についている数多い表現手段のうちの一つである。」

 

「わたしが、型破りの特性をもつ印象先生の物の考え方に私淑し、先生の芸術に学び、美学を発展させるために、

 

基本的な判断となる非常に多くの教えをうけるようになって、まもなく10年になるが、わたしは、今なお先生に私淑し、教えられるのである。」

 

「印象先生は、最も自由に、そしてまた最もゆたかに言語を創造し、それらのことごとくをわたしに教えているのである。

 

それは、完璧に完成された芸術である。つまり、完璧な芸術のエッセンスそのものである。」

 

(1965年1月 フランス美術評論家 ミッシェル・タピエ・ド・セレイラン)

 

ミッシェル・タピエ

第二次世界大戦後、フランスを中心に興隆した美術運動。

 

運動の推進者・提唱者となったのは批評家のミシェル・タピエである。

 

タピエは戦時下の不安な人間存在を表現したフォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルスらの作品に触発され、」

 

1951年、ギャラリー・ニナ・ドーセで「激情の対決―非具象絵画の最先端」展を組織する。

 

その後、2度に渡る展覧会「アンフォルメルの意味するもの」の企画や画集兼著書の『別の芸術』の刊行を通じ、

 

未分化な形象を前面に打ち出した一連の抒情的抽象を「アール・アンフォルメル(不定形の芸術)」として括った。

 

構成主義をはじめとする幾何学抽象が「冷たい抽象」と呼ばれるのに対し、

 

アンフォルメルはその激しい感情表現から「熱い抽象」と定義されることがある。

 

日本の美術界全体に「アンフォルメル旋風」と呼ばれる一大ブームを巻き起こした。

 

とりわけ具体美術協会の美術家たちを一挙に絵画制作に向かわせた影響力は、

 

その成否も含めて特筆すべきものがある。

 

※堂本印象の絵画は抽象絵画に限らずどんな作品でも買取致します。売却を検討されております方はご連絡ください。高価格にて買取いたします。

 

下記のような抽象画以外の作品も買取り致しております。

 

堂本印象先生の絵画の変化

堂本印象 大原女

堂本印象 大原女

一般的にこのような風景画を数多く描きました。美術商や画廊がデーパートや展覧会で昭和から平成にかけてかなり好まれて高値で取引されていたと思います。

10万前後の買取り相場となります。

 

堂本印象 梅に雀

堂本印象 梅に雀

日本画の画題に梅に小禽の図は多く印象も頼まれてよく描かれたと思います。かなりの数が残っております。お正月から春先に好まれて床間に飾ったと思われます。

15万前後の買取り相場となります。

 

堂本印象 風景画 

堂本印象 風景画 

印象先生は様々な風景画を描かれております。初期から晩年までも画風の変遷が面白いですね。

20万前後の買取り相場となります。

 

堂本印象 薔薇

堂本印象 薔薇

抽象画を描くと同時に床間から応接間に飾る絵画が増えてきた時代です。このような晩年に作品は数百万円で取引されていた時代があります。非常に人気があり富裕層に好まれる雰囲気が今でもしますね。このような画風の時代に同じようなタッチで風景画も多数残っております。

50万前後の買取り相場となります。

 

上記のような作品んがあればお問い合わせください。高価買取いたします。

 

 

※堂本印象の兄弟、親族の紹介

堂本寒星 – 長兄、演劇評論家

堂本漆軒 – 次兄、漆芸家

堂本四郎 – 弟。印象の画集を編集するなどしている。

堂本元次 – 寒星の養子、日本画家。

堂本阿岐羅 – 漆軒の息子日本画家。

堂本尚郎 – 四郎の息子、洋画家。

 

 堂本印象の弟子、岩澤重夫、久保吉郎、三輪晁勢、山本倉丘、堂本元次、岩澤重夫、山本茂斗萌、中尾英武

 

堂本印象の簡単な略歴

1891年 明治24年 12月25日、京都市出身。

1910年(明治43年)京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)を卒業後、西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。

1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。

1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。

1936年(昭和11年)京都市立絵画専門学校教授に就任。

1937年(昭和12年)には、この年から始まった新文展の審査員に就任した。

1940年ごろには、新造される戦艦大和に大和神社の分霊を祭るために海軍が奈良県に発注した日本画の製作依頼を受け「戦艦大和守護神」を描く。堂本には建造中の新戦艦に納められることは知らされなかった。奈良県の大和神社の神殿を描いたこの日本画は戦艦大和の艦長室に祭られるが、沖縄への海上特攻前に大和から降ろされ、現在は海上自衛隊第1術科学校教育参考館が収蔵している。

1944年(昭和19年)7月1日帝室技芸員。

1950年(昭和25年)日本芸術院会員。

1961年(昭和36年)文化勲章、文化功労者。

1962年(昭和37年)密教学芸賞受章。

1973年(昭和48年)京都市名誉市民。1975年、心不全のため死去。従三位に叙せられる。 また、私塾東丘社の主催者として、画壇の指導者としても活躍した。 戦後は抽象表現や障壁画の世界にも活躍の場を広げ、国際展覧会に多くの作品を出展するなど国際的にも活躍。

1963年(昭和38年)、大阪カテドラル聖マリア大聖堂に壁画『栄光の聖母マリア』を描く。

1966年(昭和41年)堂本美術館設立。

1973年(昭和48年)にはローマ教皇パウロ6世の委嘱により、バチカン美術館に飾る『母と子』を制作(翌1974年完成)。聖シルベストロ教皇騎士団勲章大十字章を受章した。

1975年(昭和50年)9月5日、逝去。

 

※堂本印象の絵画や掛軸を買取り致しております。小さな作品から大作、出品作まであらゆる堂本印象の作品を買取り致します。

 

堂本印象の買取ページはこちらからご覧ください

 

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2023年4月6日

中島千波の桜の絵画を買取り致します。

中島千波の買取価格を知りたい、高額査定がご希望なら北岡技芳堂にお任せください 。

中島千波作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。

豊富な買取実績がある北岡技芳堂では、中島千波の作品を探しています。もし中島千波の作品がお手元にございましたら、北岡技芳堂へぜひご相談ください。中島千波の作品を無料査定し、少しでも高く、お客様にご満足いただける価格で買取いたします。

 

中島千波の桜の絵画は、千波先生の作品の中でも特に人気がある作品でございます。

中島千波の桜の絵画を買取り致しますが、北岡技芳堂では、様々な絵画も買取、販売を致しております。

 

 

中島千波先生 自筆の桜画の前で

中島千波先生 自筆の桜画の前で

 

今回ご紹介する中島千波先生の絵画は肉筆の日本画でございます。

後ろの共シールには「夜桜」とあります。

一見暗く感じるかもしれないのですが、ライトスポットを当てていただくと、

絵の具の美しい色が浮かび上がりシックな雰囲気となります。

大きさも程よく、4号となっております。

このくらいの大きさですと、マンションのちょっとした場所にも飾っていただくことができます。

やはり日本画の良さは絵の具の美しさでしょう。

中島千波先生は、非常に綺麗な色使いをされております。

 

中島千波「夜桜」

中島千波「夜桜」

 

そろそろ、桜の時期も終わりそうですが、桜は日本を代表する花でございます。

 

日本の国華ですから、年中飾っていただいていても良いのではないかと思います。

ここで日本からニューヨークに行った桜の小話を挟みます。

ニューヨークの桜は、1909年(明治42年)の「ハドソン・フルトン祭」の一環として、

当時のニューヨークの日本人コミュニティ(Committee of Japanese Residents of New York)が、

ニューヨーク市に2,000本の桜を寄贈する計画を立てたのが始まりです。

しかし、日本からの桜を積んだ蒸気船は途中航路で行方不明となり、1909年に間に合いませんでした。

その後、東京市がワシントンDCに桜を再度寄贈することを聞いたニューヨーク在留邦人日本クラブと高峰譲吉博士らは、

ワシントン寄贈用の桜とは別にニューヨーク植樹用として苗木作りを興津の農事試験場に依頼しました。

1912年(明治45年)、ワシントンへの桜と同時に輸送され、3月に無事ニューヨークに到着、

4月28日に植樹式が行われ、翌29日に植樹されました。

現在でも桜は人気で、ニューヨーク全体で桜の時期に様々な場所で桜祭りが開かれております。

日本人も桜は好きですが、桜は美しいので世界中の人々から愛されるのでしょう。

中島千波の桜の作品は版画の作品も多く制作されていて、当店でも買取実績が多数ございます。

弊社が過去に買取させていただいた中島千波先生の版画作品をご紹介いたします。

 

中島千波の評価と価値

 

① 日本画の最も評価が高いのは桜を描いた日本画です。サイズや描き込み具合によりますが、桜以外の花や静物ですと少し安めの買取金額になります。共シールとシミ、痛み具合、額の破損が関係してきます。 本画の買取金額は数十万円から数百万円までと出来により大きく異なります。 鑑定書等は現存作家ですからございません。お気軽にご相談ください。

 

② 水彩の描き込み具合によって金額は異なりますが、日本画と比べると評価額は下がります。要因としては日本画を描くための下絵のような扱いが多いからです。 ただ、水彩画作品でも日本画のような書き込みがあれば、そのクオリティに応じた評価にはなります。

 

③ 版画に関しても桜が描かれた作品数が多く、最も高額査定しやすいです。シルクスクリーン、木版、リトグラフなど様々な技法によって制作されていますが、作品技法による価格差はあまりないです。作品の大きさ構図のほうが重要です。桜以外の花に関しては安値の買取金額になる事が多いです。シミや退色などのダメージが出ていると評価額が下がります。

 

 

 

 

 

 

中島千波 醍醐桜

中島千波 醍醐桜

中島千波 石割桜
中島千波 石割桜

 

 

中島千波 千歳桜

中島千波 千歳桜

 

 

中島千波 臥龍桜

中島千波 臥龍桜

様々な場所へ中島千波先生は取材に行かれたのでしょうね。

桜を中心的にこだわって描かれているのが分かります。

やはり、資産価値で考えますと肉筆が良いと思いますが、

インテリア感覚で気軽に飾って頂けるのは版画ではないでしょうか。

中島千波先生の描かれた作品でございましたら、桜以外の図柄でも買取を行なっております。

売却をご検討中のお客様は、北岡技芳堂までお問い合わせください。

高価格にて買取りさせていただきます。

 

 

 

中島千波 略歴

昭和20(1945) 1021日、中島清之の三男として長野県小布施に生まれる

昭和44(1969) 東京藝術大学美術学部日本画科卒業 第54回院展初出品、初入選「窓」

昭和46(1971) 東京藝術大学大学院修了

昭和49(1974) 現代日本美術展(神奈川県立近代美術館)に「草の主」出品、同館に収蔵される

昭和52(1977) 32回春の院展、第62回院展でそれぞれ奨励賞受賞

昭和54(1979) 5回山種美術館賞(山種美術館)「衆生・視」優秀賞受賞

昭和55(1980) 2回日本秀作美術展(日本橋・高島屋)に選抜出品

昭和58(1983) 裸体画100年の歩み展(国立国際美術館)に出品

昭和59(1984) 横の会結成に参加(以後平成5年の最終回まで出品)

昭和62(1987) NHKテレビ「きょうの料理」のテキスト表紙絵を3年間担当

昭和63(1988) 宮尾登美子著『きのね』(朝日新聞)の挿絵制作

平成2(1990) 1回両洋の眼展(日本橋・三越)に出品 三溪園臨春閣第六室襖絵「不二と桃花図」「松林図」完成

平成4(1992) 永井路子「姫の戦国」(日本経済新聞社)の挿絵制作 おぶせミュージアム・中島千波館開館

平成5(1993) 中島千波展(北澤美術館) 中島千波展-いきなり拒絶反応しないで「なんでこんな絵を描くの」と思ってくれればいいんです-(横浜市民ギャラリー)

平成6(1994) 東京藝術大学美術学部助教授に就任 鎌倉鶴岡八幡宮  斉館貴賓室床の間画  孔雀図制作

平成7(1995) 中島千波の世界展(パリ・三越エトワール) 歌舞伎座緞帳「淡紅白梅」が完成

平成8(1996) 1回「目-それぞれのかたち展」(日本橋・三越)

平成10(1998) 日本美術院退院  無所属となる

平成12(2000) 東京藝術大学美術学部デザイン科教授に就任

平成14(2002) NHK教育テレビ番組・NHK趣味悠々「中島千波の日本画基礎講座  花を描く」の講師をつとめる

平成16(2004) 2年前から制作していた成田山東京別院深川不動堂の内仏殿大日堂の格天井絵が完成

平成17(2005) 還暦記念「中島千波の世界展」開催(日本橋高島屋ほか横浜・京都高島屋、おぶせミュージアム・中島千波館、北澤美術館、新宿タカシマヤを巡回)

平成18(2006) 小布施名誉町民に選出される

平成20(2008) 中島千波展〈花がたり  おもちゃシリーズ〉(日本橋高島屋ほか、京都・名古屋・大阪・新宿・横浜・高崎・岐阜・米子の高島屋を巡回)

平成22(2010) 中島千波の花菖蒲の世界展〈平成花菖蒲〉(日本橋・三越本店新館) 四曲七隻屏風「神池花菖蒲」が披露された。福岡、松山、高松三越巡回。 第1521世紀の目展〈目それぞれのかたち〉(日本橋・高島屋ほか大坂・京都高島屋巡回)この15回をもってこの展覧会を解散。

平成23(2011) NHKBSプレミアム「旅のチカラ」「まぼろしの牡丹  中国・玉龍雪山」の取材のため中国雲南省・玉龍雪山を訪れる 中野嘉之、畠中光享とともに公募グループ展「Artist Group風」を立ち上げる

平成24(2012) 1回「Artist Group風」(東京都美術館) 中島千波展宮尾本「平家物語」の挿画と花々の宴(ウッドワン美術館)  おぶせミュージアム・中島千波館開館二十周年記念 「横浜美術館所蔵作品による中島千波・清之親子展」 東京藝術大学退官展(東京藝術大学美術館)

 

中島千波先生以外の絵画も買取り致しております。どんな絵画でもまずはお電話、メールにてお問い合わせしてください。

 

こちらから絵画の買取りページをご覧ください

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
 
 
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
 
 
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
 
 
裁判所にも有効な書類を作成させて頂く事も出来ます。
 
 
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
 
 
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させて頂きます。
 
 
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
 
 
骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】
 
愛知県名古屋市中区門前町2-10
 
電話052(251)5515
営業10:00-18:00
 
 
#骨董品買取#骨董品#古美術#絵画#版画#茶道具#日本刀#彫刻#金#掛軸

 

 

2023年4月6日

名古屋市内の絵画の買取りを致しております。

北岡技芳堂名古屋店では、絵画の買取を重点的に行なっております。

名古屋は昔から歴史や文化があり、様々な美術品が残されております。

 

名古屋市内の絵画を買取り致します。

名古屋市内の絵画を買取り致します。

 

 

素晴らしい画家も数多く存在し、現在も高値で取引されている場合もございます。

名古屋市内にお住まいの方で絵画の売却をご検討中の方は、

北岡技芳堂までご連絡ください。

遺産相続のご相談もお受けしております。

評価査定だけでもお気軽にお申し付けください。

愛知県出身の画家

中村正義の絵画(買取絵画の例)

日本画、洋画、版画にかかわらず、具象画、抽象画にかかわらず様々な絵画を買取致しております。

店舗へ直接お持ち込みいただく方法、

点数が多かったり持ち運びが難しい場合は出張査定をご利用ください。

査定だけでも無料でご利用いただけます。

高額商品も、最新のオークション相場を参考に高価格買取致します。

まずは絵画のお写真をメールやLINEにてお送りいただいても、

おおよその査定額をお伝えさせていただいております。

絵画のことは名古屋の北岡技芳堂にお任せください。

絵画の買取りページです。ご覧ください。

 

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2023年4月5日

翠巌宗珉和尚の掛軸を買取り致します。

翠巌宗珉(すいがんそうみん)和尚の掛軸を買取致します。

様々な掛軸を買取しております北岡技芳堂ですが、お茶会に使用する掛軸も買取り致しております。

 

堺 南宗寺

堺 南宗寺 

 

私の考えるところ、大徳寺の和尚の掛軸はどの千家でも、どの流派でも使用が出来ますから、万能と言えると思います。

高僧は立派ですし修行を積まれておりますので、お人柄が文字に伝わり拡張が高いです。

お茶室に掛けても茶味があり、茶室に相応しい文字や表装仕立てとなっております。

その中でも幕末の大徳寺の和尚は、近年、ご高齢のお茶の先生がやめられた後の茶道具の売却時に、

非常に多く出てきて値下がりしている掛軸が多くなっております。

江戸時代後期の掛軸は、ますます「お値段が下落しているなぁ」という感じです。

江戸時代初期の大徳寺の和尚の掛軸も一部を除いて下落していますが、

江戸初期はやはり古いのと掛軸の残っている数が幕末より少ないのとで値打ちがあると考えております。

美術品は江戸初期より桃山時代というように、基本的には古いものを喜びますよね。

 

 

大徳寺 龍光院

大徳寺 龍光院

文字も古い方がピシッっと張り詰めた感じが致します。

表装の布地も「金襴緞子」も古い方のが良いですね。

しかし、古ければ古いほど真贋の問題は付き纏います。

よく知り合いの茶道具商は、茶道具商は印(落款)を見ないと仰ってましたが、

掛軸は書かれれた文句や茶に相応しいかで選ばれる傾向にあります。

私は印も非常に大切な真贋の見分け方の一つだと思っております。

優れた茶道具商は、最終的には印を見るのではないかなと考えております。

今回は、翠巌宗珉和尚一行物の掛軸をご紹介いたします。

 

翠巌宗珉和尚の掛軸

翠巌宗珉和尚の掛軸

この一行書は、論語から来ていると、宗匠のお茶人様に教えていただきました。

215(09-10)
顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人。博我以文、約我以禮。欲罷不能。旣竭吾才。如有所立卓爾。雖欲從之、末由也已。
 
とても難しいのですが、上記から1部分抜粋して一行にしたと考えられます。
 
在 前 忽 焉 在 後
 
(前にあり、たちまちいずくんぞ、後ろにある)
 
もしかすると千宗旦も、当時の大徳寺の和尚や茶人とこちらの一行物を掛け、色々な事を話し合っていたかもしれませんね。
 
そのようなことを想像しながら、こちらの掛軸を眺めてお茶を頂くのが至福の時間です。

千利休の孫の千宗旦とお付き合いがあった和尚ですから、千家のお茶にはなお相応しいですね。

下記をご紹介いたします。

千宗旦にとっては、気心知れた人たちや大徳寺の和尚方と交わる茶の湯がおもしろく、しかもそれは「一世のおもしろさ」であると言っています。実際、江岑宗左の茶会記には、宗旦と江岑の親子が、天祐紹杲、江雪宗立、玉舟宗璠、天室宗竺、翠巌宗珉ら、大徳寺和尚方の茶会に招かれた記録があります。また、宗旦は天室の大源庵の三畳半茶室や、玉舟の芳春院の一畳半茶室の作事にもたずさわっています。 宗旦が大徳寺の和尚方と親しく交わったのは、幼き日に三玄院の春屋宗園のもとで喝食として修行していた縁もあるでしょう。千家の屋敷から大徳寺までは歩いても近い距離です。ことに晩年の宗旦にとって、大徳寺の和尚方との直心の交わりは精神的なよりどころになっていたともいえるでしょう。

 

龍光院 国宝 密庵

龍光院 国宝 密庵

 

翠巌宗珉のお祖父様は津田宗及

千利休や今井宗久と共に、茶の湯の天下三宗匠と称えられた堺の豪商・津田宗及。天王寺屋の3代目。

宗及の次男・江月宗玩は大徳寺の156世に出世し、娘の南窓栄薫は宮中医・半井云也(なからいうんや)に嫁ぎその子供・翠巌宗珉も大徳寺の195世に出世するなど、津田宗及のDNAは京都で引き継がれていった。

江月宗玩と翠巌宗珉が参禅し茶の湯の修業をした南宗寺には、津田一族の墓碑と利休三千家の墓碑が並ぶようにある。

大御所の潮田洋一郎さんが、中国人の書を掛けたら大徳寺の和尚が見られないというような事を仰っておられましたが、
私は大徳寺の和尚は茶味があり、茶室の床間に相応しいと思っております。

翠巌宗珉の掛軸を買取いたします。
現在でも良い掛軸は高値で取引されております。
掛軸は古くなって掛ける場所がないから全て安くなったと思われる方もいらっしゃいますが、
良い掛軸は今でも高値で取引されておりますので、一度お問い合わせいただけますと幸いでございます。

 

翠巌宗珉の簡単な略歴

江戸前期の臨済宗の僧大徳寺百九十五世

宗珉は名、号に似玉・栖蘆子等。勅諡は法雲大仰禅師。江月の法を嗣ぎ、紫野寸松庵に住む。

1608 慶長13年〜1864 寛文4年 寂、57才。

和泉堺生、俗姓 半井、 自号 似玉じぎょく 栖櫓子せいえし、江月宗玩の甥、法の師

1657 明暦3年 3月18日 奉勅により大徳寺へ入寺 195世

1664 寛文4年 7月23日 遷化

1672 寛文12年 3月18日 冷厳天皇より 法雲大仰禅師号を諡された。

どんな掛軸でも先ずはご相談ください。高価買取致します。

こちらから掛軸の買取をご紹介するページに行きます

 

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