2019年2月23日

庸軒流 山本退庵 茶杓 銘 高砂

庸庸軒流 山本退庵 
茶杓 銘 高砂

山本退庵の茶杓と経歴

寛文四年(1664年)〜延享五年(1748年)
3月24日84歳京都で沒
本名 儀右衛門、江戸中期の茶人、香人として高名である。
近江堅田生まれ。
名は医師として宗謙、屯翁、屯竜、屯台と号する。
藤村庸軒の門人。
庸軒とは、年齢差が五十一歳あり庸軒が亡くなった元禄十二年(1699年)三十六歳であった。
五十一歳年下という事が原因して、庸軒の茶会には二回しか参席していない。
天和三年(1683年)の茶会には父親と参席している。退庵二十歳。
著作に「反古庵聞書」「茶席夜話」「師秘返答」がある。

山本退庵は、門下に藤堂藩伊賀上野城家老藤堂釆女、
幕府御大工京都棟梁の一人、矢倉久右衛門安義、
久保可季(風後庵)等に庸軒流の茶を伝えた。
その後、庸軒流退庵派は矢倉家代々によって明治まで続いたが、その後は絶えた。

退庵は、香聞としても高名で米川流香道の適伝を受け、
庸軒より香の茶の伝授を受けている。

 

 

 

 

どうしても山本退庵を探ると、
師の藤村庸軒や三宅亡羊を探ることになる。

庸軒は、久田家初代の久田宗栄の次男で、
呉服商十二屋の藤村家に養子に入ったとされる(異説あり)。
千宗旦のもとで皆伝を受け宗旦四天王の一人に数えられており、庸軒の門人には優れた茶人が多く、
それぞれの系譜が伝わり庸軒流退庵派もその流れをくんでいる。

庸軒の父親は藤堂高虎の御伽衆の一人であった。
庸軒は、十二人兄弟の長男として生まれる。
父親との関係から同じ高虎の御伽衆の三宅亡羊に儒学を学んだ。
亡羊は、学者として高名であり近衛応山公、藤堂高虎、
黒田長政、伊達秀宗、津軽信義、板倉重宗らの人々は皆、
寶師(ひんし)の礼をもって遇した。
さらに、亡羊は無位無官であるにかかわらず、
宮中に招かれ、後陽成天皇、御水尾天皇に進講した。
また、近衛尚嗣邸において「日本書記」「論語」「徒然草」等を講義した。
亡羊は香聞としても名高く、宮中より器財名香を賜ったとある。

庸軒は十六才から三六才まで亡羊に学び、
亡羊の漢詩と香を含めた茶道の影響を受けていることから、
正に儒者にして茶人なる藤村庸軒が誕生した。
庸軒一人が「庸軒詩集」を板行するほどの知識をそなえた茶人として評価されたのは、時祭り、春分、秋分、夏至、
冬至の祭りを行い、先祖の霊をなぐさめ多くの詩を残しているからである。
亡羊は、庸軒が小堀遠州の茶を学ぶ機会を作り、
庸軒流茶道を特色づける座敷の茶(大名茶)と草庵茶(侘茶)の融合に寄与したとも云われている。

退庵の書き残した「師秘返答」では、
退庵こそが宗旦→庸軒と伝えられた古流を継承するものとして、宗旦の弟子であった岸田宗二、山田宗偏、覚々斎宗左等を批判している。
今回ご紹介している山本退庵の茶杓の外箱にも漢詩が彫られている事から、庸軒流の茶風を感じる事ができる。

【漢詩釈文】
和陽百姓何某屋舊清之刻棟木有書記處
大同二丁亥正月建之右屋寧裏竹到来杓筥自作

【大意】
和陽百姓の何某(なにがし)というものが、
屋は旧くとも清き棟木(むなぎ)ありと書き記すところ。
大同二年丁亥の正月にこの右の屋は建った。
中のおだやかなる竹が到来したため杓と筥を自作した。

大同二年(丁亥)とは807年ですので、
退庵も古い竹で茶杓や箱を削り、彫りましたね。

 
 
 
 
 
 

2019年2月22日

御本三島茶碗 17世紀〜18世紀

御本三島茶碗 17世紀〜18世紀

普段は、素朴な茶碗の方のが好きですので、あまり御本茶碗(日本からの注文品)を手に取ることは少ないのですがこちらの茶碗は、キズけがなく、ゆったり、おおらかで、品があるので不思議とお茶か飲みたくなってくる。
このお茶碗は、箆で付けた模様が自然なながれで掘られており、四方を軽く焼成前に凹ましてありそのバランスが見事なのが良いのでしょう。古い桐箱に御本とだけ書かれております。

 

 

御本茶碗とは、高麗茶碗の一種で、17~18世紀にかけて日本からの注文で朝鮮の釜山倭館窯で焼かれた物をいいます。
御本の名前は、御手本の意で日本で作られた手本をもとに、焼かれたことが由来です。 
釜山倭館窯は、寛永16年(1639)朝鮮釜山の倭館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯で、燔師(はんし)が朝鮮の陶工を指導して、注文品を焼かせた物の事を言います。
高麗茶碗の古くから三島茶碗もありますが、御本茶碗の中に三島茶碗 もあります。三島茶碗は、鉄分が多い鼠色の素地に、印や箆(へら)や櫛で紋様をつけ、白土の化粧土を塗った後、削り又は拭き取り、仕上げをして、長石釉や木灰釉を掛けて、焼成した白象嵌の陶器で、暦手とも呼ばれます。 
三島の名前は、その文様が伊豆国三嶋明神(現三嶋大社)で版行された摺暦(すりこよみ;木版印刷)である「三島暦」の仮名の崩し文字に似ていることわから「みしま」「こよみ」などと呼ばれたというのが通説となっています。
御本茶碗は、元禄をすぎると、しだいに陶土の集荷が困難になり、享保3年(1718)に閉窯されました。

 

 

 

 

 

2019年2月11日

いい感じの唐物青貝薄茶器

唐物青貝薄茶器

古い箱に入っている時代のある螺鈿の茶器。

感じが良く好きな感じの螺鈿です。

上手いこと取り合わせて使いたい。

 

 

 

螺鈿(らでん)は、主に漆器などの伝統工芸に用いられる装飾技法のひとつ。

貝殻の内側、虹色光沢を持った真珠層の部分を切り出した板状の素材を、漆地や木地の彫刻された表面にはめ込む手法、およびこの手法を用いて製作された工芸品のこと。

螺は貝、鈿はちりばめることを意味する。
使用される貝は、ヤコウガイ(夜光貝)、シロチョウガイ(白蝶貝)、クロチョウガイ(黒蝶貝)、カワシンジュガイ(青貝)、アワビ、アコヤガイなどが使われる。

 

茶道具の買取を致しております。特に唐物(中国物)が現在人気です。売却を検討されてます方はご連絡ください。

高価格にて買取致します。

 

 

 

2019年2月11日

黒柿の炉縁 時代のある黒柿の炉縁を買い取りました。

黒柿の炉縁

時代のある黒柿の炉縁です。

利休さんの時代は、水に強いということで沢栗の炉縁を使用していたみたいです。
使うたびに洗ったことから「洗い縁」とも呼ばれていました。

 

 

 

 

こちらの炉縁は、縁の切口を木地その物のラインを残し活かされていますので所々凸凹してますが、それが程よく風情になっており、数寄者の心をくすぐる風合いになっております。

 

 

また、最近は黒柿が採れなくなってきており、希少性が出てきております。

一度、この黒柿の炉縁を使って釜の湯を沸かしたいものです。

 
茶道具を買取いたしております。
ご自宅に眠っている茶道具がありましたらお譲りください。
ご連絡いただきましたらおじゃまさせていただきます。
 
 
 
 

2019年2月8日

葛明祥の花器を買取ました。

葛明祥の花器

葛明祥(かつめいしょう)は、清朝乾隆・嘉慶年間(1736年-1821年)頃に活躍していた、宜興窯(ぎこうよう)の陶工で親子三代にわたってこの銘を使用していたとされています。
宜興窯では鈞州とよばれた河南省禹県を中心に作られた鈞窯(きんよう)という青磁陶器を製作していました。

 

 

 

 

単色を特徴とする鈞窯釉を葛明祥とその弟である葛源祥(かつげんしょう)が継承、発展させたものが海鼠釉(なまこゆう)です。
その釉色がナマコに似ているところから命名され、青地をベースにオパール現象によって青白く美しい艶をした色彩の海鼠釉を得意としていました。
葛兄弟はこの海鼠釉の技法を施した数々の名作を残しています。
作品の多くは日本へ大量に輸出された為、日本には比較的存在しますが中国にはほとんど存在していなかったといわれております。
ご紹介の花器は、陽刻方印(文字と輪郭を残し他を削り取った角型の印)で「葛明祥造」と底裏に印刻されています。
また、葛明祥造の他にも「葛源祥造」と印刻されている作もあるようです。

 

 

 

 

 


葛明祥のこの形のものですとそれほども珍しい形ではないですが、花台が家鴨になっている為、珍妙で素晴らしく、かえってそちらに感心いたしました。家鴨の花器自体が新しいと葛明祥の本体自体も新しいと判断されてしまいます。
今回この葛明祥の花器に南国産の赤いエピデンドラムを近所の花屋で買い求め投げ入れました。
花言葉は「孤高の憧れ」、他の植物が育たない樹木や岩の上に根を張る姿からそのように付けられたようです。
和花ですと近所の花屋には売っていませんので、葛明祥の花器に洋花を生けてとりあえず切り抜ける時があります。

 

葛明祥の代表的な技法である海鼠釉が施されているもの、花入、壺、水盆、火鉢などが特に需要の見込めるお品物となります。青い海鼠釉が印象的な葛明祥ですが中には白い海鼠釉を施した作品も存在しますので、査定をご希望のお客さまは「作者・作品名・種類・色・形・大きさ」など詳細をお伝えください。高価格にて買取いたします。

 

 

 

 

2019年2月4日

詠寄世祝 和歌 三条西實條

詠寄世祝 和歌 三条西 實條
田中塊堂 箱書

 

詠寄世祝 和歌 三条西 實條

王(ワ)きて猶 ひかりもそはむ玉鉾(タマホコ)の 道しある世の 時にあふ身は

 

素晴らしい表具です。

 

–解説–
とくに一層、光も備わっている玉桙(美しい矛)があり、その道しるべがある世の中の、時と向き合う身であるよ

後陽成天皇の時代に宮中の歌会にて、
後陽成の治める時代を玉鉾の光と例えて讃えた和歌。

2月5日は、旧暦の1月1日です。昔は1ヶ月ぐらい遅れてきますがなかなか実感がわかないですね。今年は元号が5月1日に改元され新天皇の即位がありますので、ふさわしいのではないかと思いご紹介いたします。

三条西實條“実条”(さねえだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の公家。
ご染筆されたのは、三条西実条が権中納言の時期、三十歳代、戦国末期の慶長十一年(32歳)から慶長一八年(39歳)。

 

三条西家歴代当主
1. 公時 2. 実清 3. 公保 4. 実隆 5. 公条 6. 実枝 7. 公国 8. 実条

 

三条西家の家職は歌道であり、実条の高祖父で戦国時代前期の当主・三条西実隆は当代随一の歌人と評された。実隆・公条・実枝の三代はいずれも歌道に優れており、家職として歌道を継承した。しかし実枝は子の公国が幼かったため、弟子の一人であった細川藤孝(幽斎)に中継ぎとして歌道を継承した。「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」等を誓わせ、古今伝授を行った。公国成人後、幽斎は歌道を継承しようとしたが、公国が32歳で死去したため、幽斎は改めて公国の子である実条に歌学伝授を行い、師・実枝との約束を果たした。
実条は慶長18年7月11日(1613年8月26日)武家伝奏に任ぜられ、幕府との交渉を担うこととなった。元和9年(1623年)には、幕府3代将軍・徳川家光の将軍宣下に際して上卿(口頭で天皇からの宣旨を伝える役)を務めた。なお家光の乳母・斎藤福(春日局)は、父・斎藤利三が主君・明智光秀の起こした本能寺の変に従い、山崎の戦いに敗死した後、母方の親戚である公国に引き取られ三条西邸で養育された過去があり、実条とも幼少より親交が深かった。寛永6年(1629年)、福が病中の家光の代理として上洛した際、御所へ昇殿する資格がなかったため、同年内大臣となった実条の義理の妹、猶妹(ゆうまい)として縁組を行い、三条西家の女性の資格で参内し、後水尾天皇に拝謁を許されることとなった。

 

 

 

2019年2月2日

草間彌生 かぼちゃ(Y) を買取いたしました

草間彌生 かぼちゃ(Y) をお客様から購入しました。

以前、売却した作品と久しぶりのご対面でした。

草間彌生 かぼちゃ(Y) 
screenprint 
2003
ed.150 AP.15 PP.5

株式会社草間彌生作品照会済

 

10年ぐらい前にお客様に販売した作品ですが、今回、お客様からの売却依頼があり買受致しました。

昔の記憶が呼び覚まされて、その時の自分の状況などがフラッシュバックしました。

10年ひと昔と言いますが、様々な事が変わりましたね。これからの10年もまた変わるのでしょう。
美術品の価値の変化で、時代の変化を思い知らされました。

柳の下にいつまでもドジョウはいない、新しい元号に向けてこれからの事を考えていこう。

 

最近、草間彌生作品のお問い合わせを多くいただいております。

求めたい方、売却されたい方

いずれの方も弊店にお問い合わせしてください。

ご連絡お待ちいたしております。

 
 
 

2019年1月28日

雪中筍の図

何じゃこのおっさん!
大雪の日に竹の子掘りに出かけて竹の子を見つけとるぞ!
そんな事あるわけないだろ!ふざけてない?
と思って故事を調べたところ、ありました。

三国時代、呉の孟宗が冬に竹林に入って哀歎したところ、母の好む筍を得たという楚国先賢伝(雪中の筍)の故事。
1.(有り得ないもののたとえ)
2.(得がたいもののたとえ)
3.(孝心の深いたとえ)
二十四孝の一つ

日本の竹類の中で最大の孟宗竹の由来の人物みたいですね。

親不孝者の私には頭の痛い図柄ですが、作品をじっと見ているとなんだか笑っちゃいけないが笑えてくる。ちょっとボケ気味のわがままな母さんが、桜が見たいとか西瓜が食べたいとか言ったら孟宗さんはどうするんだろう?

 

大雪なのに筍がとれた。

 

 

賀茂季鷹の歌

「雪のうちの筍の子の孝行は、千歳の後もうもれざりける」

 

 

 賀茂季鷹の歌(部分)

 

 

月岡雪斎の描いた雪中筍の図

全体像

 

=作者紹介=

 

賀茂季鷹 かもの-すえたか

 

1754-1841 江戸時代中期-後期の神職,歌人。
宝暦4年2月6日生まれ。有栖川宮職仁(ありすがわのみや-よりひと)親王に歌をまなび,江戸で加藤千蔭(ちかげ)ら文人,歌人とまじわる。京都にかえり上賀茂神社の祠官をつぐ。書,狂歌もよくした。天保(てんぽう)12年10月9日死去。88歳。京都出身。本姓は山本。号は生山,雲錦。歌集に「雲錦翁家集」「みあれの百くさ」など。

 

月岡雪斎 つきおか-せっさい

 

不明ー1839 江戸時代後期の画家。
月岡雪鼎(せってい)の長男。近江(滋賀県)の人。父および吉村周山にまなぶ。天保10年2月1日死去。名は秀栄。字(あざな)は太素。
人物画や花鳥画を得意としていたが、特に肉筆美人画にその手腕を発揮し、雪斎による美人画は父雪鼎より練達した筆致で描かれたといわれている。法橋期は美人画を雪鼎譲りの豊麗さと可憐の風情で描いたが、法眼期になると当世美人に加え古典的主題を得意とするようになった。子に雪操と雪洞、門人に弟の月岡雪渓がいる。雪斎の養子になったとされるのが月岡芳年である。

 

 

2019年1月28日

有楽流 二代 松本見休の茶杓

有楽流 二代 松本見休

銘 大鶴

有楽流茶人、松本見休の茶杓を紹介します。

尾張藩と有楽流の松本見休の繋がり。

千利休→織田有楽斎→高橋玄旦→織田長好→織田貞置→松本見休→その息子の二代 松本見休 別号芦泉

 

 

 

織田有楽斎の次男頼長の長子である織田長好の没後、有楽流を織田貞置は継承しました。織田信長の九男、織田信貞の息子、織田貞置は台子の伝者とされた高橋玄旦からその点前を伝授されており、高家旗本として松本見休ら多くの門弟を抱えていました。

尾張八代藩主徳川宗勝の時代、藩令により尾張から山本道伝、沖久伝の二人が江戸尾張藩邸に派遣され、二代松本見休に指導を受けています。

貞置の甥貞幹は尾張藩に仕えたことから有楽流の茶道が尾張藩の茶道として流儀が一本化、有楽流は幕末まで伝わりました。

余談ですが、織田家家老て、尾張随一の茶人平手政秀の娘を有楽斎は嫁にもらっており、平手家の茶道具を引き継いでいるといわれています。

 

2019年1月28日

高麗茶碗熊川茶碗

古い漆箱にて熊川茶碗と金泥で書かれてます。

今の時期、愛用してお茶を頂いてます。

古い高麗茶碗は、お茶が美味しく頂けます。

古いお軸とも合いますね。

 

古い茶道具、お茶碗、高麗茶碗を買取致します。

先ずはお問い合わせしてください。

 

 

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