2020年5月22日
無地刷毛目茶碗
無地刷毛目茶碗
最初は真っ白でしたが、お客様にお出ししたり、
自分で使用する時には、日本酒や氷を浮かべてウイスキーを入れたりと、4年ほど経過した頃には、ニュウや金直しとも馴染んできたのか、味わいが出てきました。
口元のすぐ下が凹んでいて唇にぴったりと収まり、
非常に飲みやすく、そこもこのお茶碗の虜になっている理由の一つかもしれません。
従業員が、普通の皿に入れるとこぼれるからと、
このお茶碗にとんがりコーンを入れてきた時は驚きましたが、大切に、毎日何かしらを入れて鉄鉢のように使っています。
有名な無地刷毛目に伊達政宗旧蔵の「千鳥」という塩笥茶碗がありますが、
私のお茶碗よりも口が狭く、プロポーションも良い塩笥らしい算盤形になっています。
政宗は、その茶碗で二代将軍徳川秀忠、三代将軍徳川家光にお茶を呈したといわれている。
後に原三渓が所蔵したことでも有名な「千鳥」ですが、
去年、三井記念美術館で実物を拝見してまいりました。
「千鳥」には吉祥の意味が込められていますが、
畏れ多いので、自分愛用のお茶碗には「百鳥」と命銘、
意味を広辞苑で調べると、”多くの鳥”、”いろいろの鳥”ともいうみたいです。
素朴でなかなか気に入っています。
もう一つ、茶碗と一緒に写っている茶杓のお話をします。
こちらの茶杓は、織田信長の孫である織田貞置作のものです。
貞置は、千利休の茶挽坊主で、織田有楽斎の茶頭をしていた高島玄旦に台子の手前を伝授された茶人です。
二代尾張徳川光友、三代尾張徳川綱誠に茶を呈しており、
後に二代将軍徳川秀忠の小姓組に加えられ主計頭になり、
貞置も将軍秀忠の側にいたと考えられています。
私の店の近くにある総見寺には、
貞置が狩野常信に描かせた信長像が残っています。
織田一門や信長をとても尊敬しており、事蹟の収集に熱心であった貞置は、
数十年後の本能寺の変が起きたのと同じ日である6月2日に亡くなります。
偶然なのか、はたまたそうではないのか、
無地刷毛目茶碗に織田貞置の茶杓をのせて、
戦国武将茶人に思いを馳せてお茶をいただくことにしましょう。
2020年1月23日
日蓮宗の日潤の掛軸を買取致しました。
寄道祝
桑門日潤
春奈ほなる
こゝ呂の者那や
知里ひぢの
都もりてたかき
や滿とこと能葉」
●意訳
「素直な小さくうずくまった花があることよ 取るに足らない大和言葉でも積もれば高くなるのだ」
日潤さんを訪ねて中村区の定徳寺に行ってきました。
日蓮宗の素敵なお寺で、創立が元応元年(一三一九)三十番神略縁起が祀られていて三十の神々を一度に拝む事が出来るので便利で有難いと住職のお母様がおしゃっておりました。
定徳寺には、日潤さんのお墓や和歌の石碑があり、かなり当時は知られていたお坊さんだったのでしょう。私は、日潤さんの茶杓も所有しており、定徳寺には、茶室があったようで茶道もたしなんだと言われている。
今後、どんな方だったのかもっと知りたいと思いました。
日潤さんは、江戸後期の僧で尾張名古屋に生まれる。
号は一雨院、俗姓は中島。
名古屋中村区の定徳寺二五世となるが、招かれて京都満願寺に移住。のち名古屋に戻り、身延山久遠寺六十世となる。
元政・日相に私淑し、和歌を日野資枝に、また儒学を磯貝潤洲に学び、詩を能くした。天保9年(1838)寂、80才。
2020年1月7日
福澤諭吉の掛軸を七言絶句を買取りました。
福澤諭吉
七言絶句
適々豈唯風月耳 渺茫塵界自天真
世情休説不如意 無意人乃如意人
川島清堂箱書
【読み下し】
適々は豈に唯だ風月のみならんや 渺茫(びょうぼう)たる塵界も自ら天真なり 世情説くを休(や)めよ意の如くならずと 無意の人は乃(すなわ)ち如意の人なり
【もっと詳しく】
適々とすることは、何も風月のみではないだろう。
渺茫たる(広くて見定めがたい)塵界(俗世)も、自然のままで飾り気のないものだ。
自分の思い通りにならなくとも世情を説くことはやめなさい。
意を持たぬ人こそ自分の思いを達する人なのだ。
2019年11月27日
古染付 水文皿 明時代末の厚手を買い取りました。
古染付
水文皿
明時代末
厚手で爽やかなデザインが気に入ってます。
なんか良い風に使ってみたいです。
一つが割れて銀で綺麗に治してます。
一つ、裏手にほつがあります。
古陶磁、古染付を買い取りいたしております。
ございましたらご一報ください。
よろしくお願いいたします。
2019年10月21日
昭和初期、燻銀の古〜い!純銀インゴット買取ました。
昭和初期、燻銀の古〜い!純銀インゴットを買取ました。
30キロは、重たいな〜!
このようなお買取は、あまりありません。
このようなインゴットから、スクラップの純銀まで、様々な銀製品を買取致しております。
純銀は、くすんでいてもへこんでいても目方でお買取を行い、査定に響くことはありません。
銀瓶などは目方以上にお値段をお付けできる場合もございます。
あらゆる銀製品を買取致しますので、お気軽にお問い合わせください。
2019年9月23日
有栖川宮幟仁親王 井伊直愛箱書 寄弓祝
有栖川宮幟仁親王
井伊直愛箱書
寄弓祝
幟仁親王
萬(ま)とにいる 夫(そ)のこと
御代の直なれば
遊(ゆ)みの道こそ
弥(いや)さかへけれ
【大意】
的に射る それは御代の直なので
弓の道はいよいよ栄えるのだ
有栖川宮幟仁親王
(ありすがわのみや たかひとしんのう)
文化 9年1月 5日
明治19年1月24日
幕末・明治期の日本の皇族。
有栖川宮韶仁親王の第一王子。
文政6年(1823年)親王を宣下され上総太守。
元治元年には国事御用掛となりる。
慶応3年(1867年)に親王の位階第一位の一品を授けられ、明治新政府の議定・初代神祇事務総督・神祇事務局督に就任。
明治14年(1881年)数多の神道家の請願により神道教導職総裁に就任して、時の祭神論争の沈静化に尽くし、翌年には皇典講究所総裁として皇学の隆盛に尽力した。
有栖川宮家は代々歌道・書道が家学で、五代・職仁親王の代に書道有栖川流の基礎を固め、幟仁親王により大成し確立した。現大教院扁額も親王揮毫のものである。
2019年8月29日
高麗茶碗を買取いたしました。
高麗茶碗
玉星
裏千家又妙斎書付
味のある素直な形の茶碗、口の部分がやや鼠色になっており、茶碗全体に鉄分がおおくふくまれているのか黒い斑点が出てきている。それが珍しく、玉星と名付けられたのか。
古格があり比較的古い頃の作に感じられます。古い桐箱に裏千家又妙斎宗匠の書付が嬉しいです。
しばらくお茶を頂くと茶碗の良さがわかりますね。
画像ではわかりにくいですかね!
味があり景色があり最高!
高麗茶碗の買取をいたしております。やっぱり高麗茶碗が一番茶碗としては魅力があると思うことが多いです。ピシッと焼きしまった土味、長い間使った時代の味、必要以上に機を衒わない形など高麗茶碗には人を惹きつける何かがありますね。良いお茶碗のお持ちでしたら一度拝見させて頂きたいです。高麗茶碗は私が好んでおりますのでできる限りお値段を頑張って買取ろうと思います。高麗茶碗高価を買取いたします。是非ご一報を!
2019年8月28日
涌蓮法師の掛軸を買取致しました。
涌蓮法師(ようれん)
わけゆかむ
末もはるけし
野べはいま
花の千種の
色になるころ
訳
分けてゆこう、果ても遥かな野辺は今、花が様々な色になるころだ
伊勢の黒田の人、江戸中期の浄土真宗高田派の僧。
浄光寺誓海の弟。
諱は慧亮、字は達空、嵯峨居士と号する。
江戸桜田の澄泉寺に住したが、のち京に出奔し、嵯峨に庵を結んだ。
和歌は冷泉為村に学び、小沢蘆庵や伴蒿蹊と親しかった。
生涯一物もたくはへず。明暮念仏するいとまには歌をよめりしに、歌書一巻をだに持たなかったという。
伴蒿蹊(ばんこうけい)【近世畸人伝】
安永三年(1774)五月二十八日、没。五十六歳。
歌は一首として書き残していなかったが、聞くままに書き付けた人があり、辛うじて一巻の家集をなしたのが『獅子巌和歌集』であるという、校注国歌大系十七所収されている。
※短冊の掛軸など、和歌や俳句の掛軸を買取致します。日本人の心は和歌や俳句に宿されています。素晴らしい日本文化の芸術作品です。和歌や俳句を筆と墨を使って表現された書も大変素晴らしい作品があります。まずは、お電話にてお問い合わせください。物によっては高価格にて買取致します。
2019年8月26日
李朝陶器の銘々皿を買取いたしました。
李朝陶器の銘々皿を買取いたしました。杉箱に定家流の筆で井戸脇 向付と書かれてます。
遠州流の茶人が使ってたのかな。
銘々皿としてつかいたいです。
李朝初期から中期にかけての物かな?
李朝の陶磁器を買取致します。
李朝陶器の、茶碗、壺、花入、皿、盃などを買取いたしております。
お宅に眠っていませんでしょうか?
茶道具の茶碗などにも李朝陶器は高麗茶碗として様々なものが桃山時代から大切に使われてきました。ヒビやカケがありましても素晴らしさに変わりはありません。高価なものでも茶碗として使われていたので、痛んでいるものがありますが、問題なく取引されております。むしろ使い込んだ味わいが評価の対象になります。先ずは、お電話やメールにてお話をお聞かせください。画像をもとにお話を致しましょう。
2019年8月22日
烏丸光廣の短冊軸装を買取りました。
烏丸光廣
短冊軸装です。
佐夜中山
あやしなと、かくはながめの、とまからん、花も紅葉も佐夜の中山
あやしなと
は、
「あやしげな」神秘的な
かくはながめの
は、
「かく」は「このように」なので「このような眺めの」になります
とまからん
は、
「止ま」「か」「らん」と解釈して、「立ち止まったんだなぁ」
花も紅葉も
は、
そのまま
佐夜の中山
は、
小夜の中山(さよのなかやま)または佐夜の中山(読みは同じ)は、静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)に位置する峠。最高点の標高は252m。古くは遠江国の東部に属し、宿場では金谷宿と日坂宿の間に当たる。頂上には真言宗の久延寺、西側の麓の日坂宿の入口には事任八幡宮があり、多くの人々が旅の安全を願って立ち寄ったと伝わるほか、遠州七不思議の一つで、赤ん坊の泣き声を発したとの伝説を持つ夜泣き石がある。
夜泣き石の伝説
小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所である。曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年)(1805年)によれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。
そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれた。
生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。
音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。
そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである。
その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号をきざんでいったという。 なお、ほぼ同様な伝説は安永2年(1773年)刊行の随筆「煙霞綺談」(遠州の人・西村白鳥 著)にも記載されている。
生涯
天正7年(1579年)に准大臣・烏丸光宣の長男として誕生。母は不詳。経済的に恵まれた環境のもと、
天正9年(1581年)わずか3歳で従五位下に叙された。弁官や蔵人頭を経て、
慶長11年(1606年)1月参議に任じられて公卿に列した。
慶長14年(1609年)7月に起きた猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた。
慶長16年(1611年)4月に勅免されて還任。
元和2年(1616年)2月権大納言に進む。
元和6年(1620年)1月正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られず。
寛永15年(1638年)7月13日に薨去。享年60。初め西賀茂霊源寺に葬られた。
寛文3年(1663年)7月洛西太秦の法雲院に移された。
法名は法雲院泰翁宗山。伝記に孫・資慶による『烏丸光広卿行状』がある。後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。
慶長8年(1603年)に細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。
書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される。
本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守に帰依して禅をも修めた。