2024年10月25日

田村耕一の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

御所蔵の田村耕一の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

田村耕一の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、田村耕一の作品の買取情報を確認してください。 簡単LINE査定も受付致しております。

 

田村耕一の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談下さい。 先代様の田村耕一のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた田村耕一の作品を鑑定して買取り致します。

陶芸作品を、遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、片付けなど、ご所蔵の田村耕一の作品を正当な評価で売却したい方、後悔しないように当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

田村耕一 青磁鷺文壺

田村耕一 青磁鷺文壺

 

陶器に鉄絵で文様を描く分野からは初の人間国宝に認定された田村耕一は富本憲吉に師事して陶芸を学びました。

 

初期の頃は黒色と黄褐色の二種類の鉄釉を用い、蝋抜きや筒描きによる草花文様の作品を発表して高い評価を得ました。

 

その後、刷毛目を施した上に勢いのある筆描きで鉄絵の文様を表し、銅彩を併用して色彩に変化を与え、さらに青磁釉を用いて重厚さを表現するなど鉄絵を基としながら数々の技法を加えて表現内容を豊かにし、高い技術性を持つ陶芸を制作しています。

 

 

田村耕一 本人

田村耕一 本人

 

田村耕一という陶芸家の評価の中で一番特徴的なものとして「簡略化」という言葉があります。これはひとつのモチーフをその器物の中でどの様に形づけたら美しいものになるか、器形に対して違和感がないだろうか、更にはその創り出されたモチーフがありきたりでなく独自のモノ、になっているであろうか……………….

 

とここにその作家としての力量というものを計られる重要な要素があるのです。

 

 

田村耕一の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.田村耕一の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.田村耕一の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.田村耕一の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただけます。

 

Q.田村耕一の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

田村耕一 略歴

 

1918年大正7年6月21日栃木県佐野市富岡町で生まれた。

 

1941年昭和16年 東京美術学校工芸科図案部卒業。大阪府下で楽焼を学ぶが翌年応召する。私立南海商業学校のデザインの教師となります。

 

1942年昭和17年宇都宮第36部隊に召集され兵役に服します。

 

1946年昭和20年京都市の松風工業株式会社松風研究所に入所して陶磁器の本格的研究を開始し、富本憲吉に師事しました。

 

1948年 昭和23年赤見焼の創業に参画する。

 

1949年 24年栃木県佐野市久保町に倒焔式の薪窯を築きます。

 

1950年昭和25年には浜田庄司の勧めで栃木県窯業指導所技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わります。

 

1953年昭和28年 佐野市久保町に四袋の登り窯を築きます。

 

1956年 第5回現代日本陶芸展 朝日新聞社賞、松坂屋賞 受賞

 

1967年昭和42年 東京藝術大学助教授となる。 トルコ・イスタンブール国際陶芸展 グランプリ金賞 受賞

 

1951年昭和31年と33年に現代日本陶芸展で朝日賞を受賞

 

1957年 昭和32年日本陶磁協会賞を受賞、さらに同35年と翌年には日本伝統工芸展で奨励賞を連続受賞します。

 

1962年昭和37年日本工芸会正会員となります。この間、陶器に酸化鉄を付けて文様表現する鉄絵の技法を開発し、銅彩で色彩を加えた創造性に富む作風を展開しました。

 

1967年昭和42年トルコ・イスタンブール国際展で金賞を受賞するなど国際的な評価も得ます。

 

1970年昭和45年 栃木県文化功労賞 受賞。 1975年 日本陶磁協会賞金賞 受賞。

 

1977年昭和52年 東京藝術大学教授に就任します。

 

1983年昭和58年 紫綬褒章を受章

 

1984年昭和59年にはミュンヘンで個展を開催します。

 

1967年昭和42年東京芸術大学助教授

 

1986年昭和61年 重要無形文化財(人間国宝)「鉄絵陶器」保持者に認定。東京藝術大学名誉教授に推される。 佐野市名誉市民となる。

 

1976昭和51年教授に就任し母校での後進の指導にもあたります。

 

1985年昭和60年停年退官し同校名誉教授となります。

 

1986年昭和61年国指定重要無形文化財(鉄絵)保持者に認定される。日本工芸会副理事長、佐野市名誉市民でもありました。

 

1987年 1月3日、死去。勲三等瑞宝章受章。1月3日、胆のうがんのため栃木県の栃木県南総合病院で死去した。享年68。

 

 

 

田村耕一 ほたるぶくろ筒花入

田村耕一 ほたるぶくろ筒花入

 

鉄釉を基調に、古陶などを意識しつつ現代的な感覚で再構築した独自の作風を確立しました。

 

白釉・青磁・銅彩(辰砂)など多彩な釉技に取り組み、闊達な鉄絵と共に華やかに器を彩る作風です。

 

 

田村耕一の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.田村耕一の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

田村耕一 査定価格におけるポイント

 

田村耕一の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

田村耕一先生の作品は絵付けが軽妙で洒脱な作品に高値の査定価格がつきます。

5万円から20万円ぐらいの買取相場です。ぐい呑みですと2万前後になります。

大皿は大きければ大きいだけ高値が付く傾向にあります80万円の高値が付いたこともあります。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

田村耕一の作品は窯の焼き上がりと絵付けを重要とします。上がりが良い作品と上がりが悪い作品があります。

無地の作品より草花模様が出ている作品が高値の傾向にあります。田村耕一展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

壺の作品が高値が付く傾向にあります100万円の高値が付いたこともあります。

 

制作年代

 

田村耕一先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ田村耕一の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月24日

松井康成の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

御所蔵の松井康成の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

松井康成の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、松井康成の作品の買取情報を確認してください。 簡単LINE査定も受付致しております。

 

松井康成の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談下さい。 先代様の松井康成のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた松井康成の作品を鑑定して買取り致します。

 

陶芸作品を、遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、片付けなど、ご所蔵の松井康成の作品を正当な評価で売却したい方、後悔しないように当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

昭和2年、長野県に生まれた松井康成は、30歳で茨城県笠間市にある月崇寺の住職となり、中国や日本の古陶磁研究ののち、練上の技法に絞って試行錯誤を重ね、独自の表現世界を創造しました。

 

種類の異なる土の組み合わせは、収縮率などの違いから破損しやすいため、基本となる土を同じものとし、そこに少量でも鮮やかに発色する呈色剤を混ぜる「同根異色」の方法により、練上による表現の可能性を格段に拡げました。

線文様に代表される初期の練上作品に始まり、ロクロで内側から膨らませ表面に亀裂を誘う「嘯裂(しょうれつ)」から、磁器に近い土の組成と硬質な輝きを特徴とする晩年の「玻璃光(はりこう)」に至るまで、松井康成は多彩な展開をしました。

 

松井康成は「練上手(ねりあげで)」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

 

 

松井康成 本人

松井康成 本人

 

「私の仕事は、須恵物造りというより、玉造りといったほうがふさわしいかもしれません。いつの間にか、壺のかたちがまあるくなって玉のようになりました。それでもやはり壺と言っていますが、必ずしも花を挿したりする器ではありません」

 

 

松井康成 晴白練上大壺 1989年

松井康成 晴白練上大壺 1989年

 

松井康成が作陶活動を開始したのは、33歳の時で、当初は古陶磁を規範とした灰釉や天目・刷毛目などの実用的な器を手掛けています。

 

まもなく、中国古陶の「交胎」「撹胎」を現代的な意匠で構成させた「練上」を作り上げ、それはモノトーンのストライプ文様を器物に装飾したものでした。

 

47歳頃からは、それまでの実用性を意識した器から、美的装飾性を重要視した作品へと方向転換します。

 

練上作品の形状は丸い形になり、色彩はそれまでの陶芸には無かった極彩色を使うようになりました。

 

制作技法も複雑化し、他の追随を許さぬほどの技術でもって新しいものに挑戦をし続けました。

 

 

松井康成の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.松井康成の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.松井康成の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただけます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.松井康成の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.松井康成の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

松井康成 略歴

 

1927(昭和2)年5月20日、長野県北佐久郡本牧村生まれ。本名宮城美明(みめい)

 

1952年明治大学文学部文学科卒業。同年、茨城県笠間の浄土宗月崇寺(げっそうじ)住職の長女松井秀子と結婚、松井姓となる。

 

1957年月崇寺第二十三世住職となる。60年月崇寺境内に窯を築き、古陶磁の研究に基づく倣古作品を制作していました。

 

1968年頃から陶芸家田村耕一のすすめで練上手の技法に専念するようになる。

 

1969年第9回伝統工芸新作展に「練上手大鉢」が初入選し、奨励賞を受賞。同年、第16回日本伝統工芸展に「練上手壺」を出品し、初入選

 

1970年第10回伝統工芸新作展に「練上手辰砂鉢」を出品し、日本工芸会賞を受賞

 

1971年第18回日本伝統工芸展に「練上線文鉢」を出品し、日本工芸会総裁賞受賞

 

1973年第2回日本陶芸展(公募部門第1部)に「練上線文鉢」を出品し、最優秀作品賞・秩父宮賜杯受賞

 

74年日本陶磁協会賞を受賞。75年第22回日本伝統工芸展に「練上壺」を出品し、NHK会長賞を受賞

 

1976年「嘯裂(しょうれつ)」と「象裂瓷(しょうれつじ)」をあいついで発表。「嘯裂」とは、器の表面を刷毛や櫛などで荒らし、傷を入れることによって生じるひび割れを模様に見立てたもので、また、「象裂瓷」とは異なる種類の色土を二層、三層に重ね、成形後に深く切込みを入れて下層の色土が見えるようにする技法である。いずれも土そのものの粗く厳しい質感をあらわしたもので、それまでの練上にはない、松井康成独自の作品世界を示すものとして高く評価された。

 

1979年から現代工藝展(資生堂ギャラリー)に参加。83年からは「堆瓷(ついじ)」と呼ぶ、彩泥の技法による作品を発表

 

1985年には「破調練上」を発表 

 

1986年第2回藤原啓記念賞を受賞

 

1987年には「風白地(ふうはくじ)」と呼ぶ、器の表面に粗い砂を強く吹き付けることによって荒涼とした雰囲気を表現した作品を発表

 

1990(平成2)年日本工芸会常任理事となる。同年、日本陶磁協会金賞受賞

 

1991年第4回MOA岡田茂吉賞大賞受賞。92年には、釉薬による光沢と鮮やかな色土による華麗な「萃瓷(すいじ)」を発表

 

1993年「練上手」の技法により重要無形文化財保持者に認定される。同年、パリで松井康成展開催(三越エトワール)。同年、茨城新聞社より茨城賞受賞

 

1994年「人間国宝松井康成練上の美」展開催(朝日新聞社主催、日本橋高島屋ほか)。同年、茨城県より特別功績賞受賞

 

1996年「玻璃光(はりこう)」と呼ぶ、焼成後にダイヤモンドの粉末で研磨した、滑らかでしっとりとした光沢を放つ作品を発表。同年、茨城県近代美術館にて「変貌する土――松井康成の世界」展開催

 

1999年平成11年度重要無形文化財「練上手」伝承者養成研修会の講師を勤める(翌年も)。練上手の作品は色の異なる土を組み合わせて成形するため、土の収縮率の違いなどから、焼成の段階で割れる可能性が高いが、松井康成は少量でも発色の良い呈色剤を加えることにより、同じ性質でも色の異なる土を作り出す工夫をし、色彩豊かな練上げ作品を制作した。そして、「嘯裂(しょうれつ)」、「象裂瓷(しょうれつじ)」、「堆瓷(ついじ)」、「風白地(ふうはくじ)」、「萃瓷(すいじ)」、「玻璃光(はりこう)」などの技法を新たに創案し、多彩な作品を制作、練上の技法による表現の可能性を広げ、それまでには見られない独自の作品世界を切り開いていった。作品集に、『松井康成陶瓷作品集』(講談社、1984年)、『松井康成練上作品集1985―1990』(講談社、1990年)。また、著書に『松井康成随想集:無のかたち』(講談社、1980年)、『宇宙性』(講談社、1994年)

 

2023年4月11日午後4時42分、急性呼吸器不全のため死去した。享年75

 

 

 

松井康成 練上嘯裂茜手壺

松井康成 練上嘯裂茜手壺 1982年

 

松井康成の技法の解説

 

嘯裂(しょうれつ)

1976年ごろの陶芸技法のひとつに、陶土の表面に刷毛や釘、櫛を使って最初に傷をつける方法がありました。その傷を残しながら成形することで、土の表面に自然な亀裂や傷跡が独特の模様を生み出し、作品にユニークなテクスチャーと表情を与える技法です。

 

象裂(しょうれつ)

1977年ごろの技法として、異なる色の粘土板を幾重にも重ね、その表面に傷をつける方法がありました。この技法では、嘯裂(しょうれつ)と同様にロクロで成形する際に、裂け目から下の層が見えるようになり、多層的な表現が可能になります。複数の層が互いに重なり合うことで、作品に深みと立体感が生まれる特徴的な技法です。

 

堆瓷(ついじ)

1983年ごろには、「堆」という言葉が意味する「積み上げる」技法が使われていました。この技法は、色のついた泥漿を重ねて模様を描く採泥(さいでい)の一種ですが、異なる色の土を何層にも重ねたり、はめ込んで模様を作り出すことで、立体感のあるデザインを表現します。この堆積した模様は、視覚的な奥行きや豊かな色彩のコントラストを生み出す技術です。

 

破調練上(はちょうねりあげ)

1985年ごろ、「破調」という技法が使われていました。これは、文字通り調和を意図的に崩すことを意味しますが、作為的ではなく、自然に生まれた練上模様をそのまま活かした作品に対して用いられる名称です。この技法によって、偶然性や不規則な美しさが作品に表れ、自然体でありながら独自の表現が生まれるのが特徴です。

 

風白地(ふうはくじ)

1987年ごろ、「風をもって白(さら)す」という意味を持つ技法が生まれました。成形後に削りを行い、表面に砂を吹き付けてから焼成することで、ざらついた質感を表現します。この技法によって、まるで風化した地層のような独特な表情が生まれ、非常に個性的で独創的な作品が仕上がります。

 

晴白(せいはく)

1989年ごろ、白のくすみが一切なく、呈色剤の本来の色が鮮やかに表れる技法が登場しました。明るい色彩が特徴で、この技法にはニュージーランド産の高純度カオリンを焼粉に混ぜて使用していたとされています。これにより、透明感のある発色と美しい色合いが作品に表現されました。

 

翠瓷(すいじ)

1992年ごろ、「集める」という意味を持つ「翠」という名がつけられた技法が誕生しました。この技法は、それまで積み重ねてきた練上技術の「集大成」としての意図を込めて名付けられたと言われています。特に花をモチーフにした連続模様が特徴的な作品が数多く残されており、緻密で美しい装飾が作品全体に広がる点が魅力です。

 

玻璃光(はりこう)

2001年ごろ、松井康成の晩年期に生み出された技法で、「玻璃光」と名付けられた作品群が登場しました。玻璃は仏典に登場する七宝のひとつで、水晶やガラスを指す言葉です。この技法では、特に丸い壺のような形状が特徴で、中国古陶磁に深く通じていた松井康成の美学を集大成したものと言えます。焼成後、表面をダイヤモンドで何度も研磨することで硬質な輝きを引き出し、その独特の光沢は他に類を見ないほど評価が高く、松井の晩年期を代表する傑作として広く知られています。

 

松井康成 査定価格におけるポイント

 

松井康成の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

松井康成先生の作品は窯で出来る景色が重要で景色が鮮やかで綺麗な作品に高値の査定価格がつきます。

10万円から100万円ぐらいの買取相場です。ぐい呑みですと5万前後になります。

初期の作品は査定価格が低くなります。

壺は大きければ大きいだけ高値が付く傾向にあります200万円の高値が付いたこともあります。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

色彩が鮮やかな作品が高値で売れる傾向にあります。

模様が強く出ている作品が高値の傾向にあります。松井康成展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

松井康成先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ松井康成の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただくます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月23日

清水卯一の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取ブログ

御所蔵の清水卯一の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

清水卯一の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、清水卯一の作品の買取情報を確認してください。 簡単LINE査定も受付致しております。

 

清水卯一の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談下さい。 先代様の清水卯一のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた清水卯一の作品を鑑定して買取り致します。

陶芸作品を、遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、片付けなど、ご所蔵の清水卯一の作品を正当な評価で売却したい方、後悔しないように当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

 

清水卯一 蓬莱掛分壺

清水卯一 蓬莱掛分壺

 

当時鉄釉の焼成は還元炎による焼成が一般的であったなか、清水卯一は酸化炎での焼成に成功します。

 

昭和45年大気汚染防止法の施行により京都の市街地で登り窯が使えなくなったことを一つの契機に、滋賀県志賀町へ移り蓬莱窯を築きました。

 

若い頃からの念願であった登り窯を築き、以後堰をきったように新しい釉薬に挑戦していきます。

 

清水卯一の作陶へのこだわりは、比良山系の山中を探し回って見つけた、陶土、磁土、石、など素地です。

 

様々な方法を試行錯誤して釉薬の発色を追求しました。

 

そして氷裂貫入の青磁、青白磁に近い釉薬の蓬莱磁、そして黄蓬莱など、釉薬や素地土の素材の内部にあるものを導き出すように美しい色釉を創出しました。

 

 

清水卯一の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.清水卯一の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.清水卯一の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.清水卯一の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただけます。

 

Q.清水卯一の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

清水卯一 本人

清水卯一 本人

 

陶芸家で鉄釉陶器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の清水卯一は、師匠の石黒宗麿の影響を受けた事の一つに、「作陶に必要な材料をすべて自分で賄う」というものがあります。

 

自分に合う土や石を探し続け、焼成具合や試験を徹底して繰り返し行うなど、若い頃から素材への執着は相当なものでした。

 

清水卯一の芸術は素材から滲み出た個性にあると言っても過言ではないのです。

 

 

清水卯一 略歴

 

1926年(大正15)年3月5日、京都市東山区五条橋に、京焼陶磁器卸問屋を営む父清水卯之助、母モトの長男として生まれます。

 

1937年11歳のときに父が病死する。

 

1938(昭和13)年に家業を継ぐため立命館商業学校へ入学するが、作陶に興味を抱き、近隣の轆轤師宮本鉄太郎を知ります。

 

1940年には同校を2年修了とともに中退し、14歳で石黒宗麿に師事し、通い弟子となる。しかし戦時体制の強化に伴い、数ヶ月で五条坂から八瀬への通い弟子を中断し、自宅に轆轤場を設けて作陶を始めます。翌年、伏見の国立陶磁器試験場に伝習生として入所し、日根野作三、水町和三郎らの指導を受けます。

 

1943年には京都市立工業試験場窯業部の助手となるが、終戦を機に辞職し、自宅を工房にして作陶を再開します。

 

1947年、前衛的な陶芸家集団「四耕会」の結成に参加します。

 

1949年には、「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」などの結成にも参加します。

 

1951年には第7回日展に初入選

 

1955年の第11回展まで出品。同年、第2回日本伝統工芸展に石黒の推薦を受けて出品します。

 

1957年には日本工芸会正会員となります。翌年の第5回展の奨励賞をはじめ、第7回展では日本工芸会総裁賞、第9回展では優秀賞朝日新聞社賞を受賞するなど、若手の実力派としてふさわしい創作性豊かな作品を発表し評価を得ます。

 

1955年には日本陶磁協会が新設した第1回日本陶磁協会賞を受賞

 

1959年のブリュッセル万国博覧会でグランプリ受賞

 

1962年のプラハでの国際陶芸展で金賞、63年のワシントン国際陶磁器展で最高賞

 

1967年イスタンブール国際陶芸展でグランプリを受賞するなど、めざましい活躍をみせる。この頃の作品は主に、鉄釉や柿釉、天目などの鉄釉系技法に基づくもので、轆轤挽きによる端正なフォルムと融合させて独自の世界をつくり上げました。

 

1970年には、滋賀県志賀町の蓬莱山麓へ工房を移転し、念願であった登窯を築窯。またガス窯も設けて蓬莱窯と名付け、さまざまな作品を制作する場とする。この移転が転機となり、自宅周辺で採集した陶磁器に適した土や釉薬を新たな素材として加え、さらに作域を広げる。

 

1973年の第20回日本伝統工芸展では、蓬莱の地土を使った「青瓷大鉢」の評価と、これまでのすぐれた制作の展開に対する評価によって20周年記念特別賞を受賞。その後も土と釉薬の研究に情熱を傾け、青瓷、鉄耀、蓬莱耀、蓬莱磁など、伝統的な技術と豊かな創造力による意欲的な作品を次々に発表し高い評価を受ける。

 

1985年には石黒宗麿に続いて二人目となる、「鉄釉技法」で重要無形文化財保持者に認定される。

 

1989(平成元)年、ポーラ伝統文化振興財団が記録映画「伝統工芸の名匠シリーズ・清水卯一のわざ-土と炎と人と」を制作します。

 

1992年には京都市文化功労者表彰を受けます。

 

1999年、1940年から1998年までの作品147点を滋賀県立近代美術館に寄贈。とくに認定後は、日ごろの仕事の積み重ねを大切にする姿勢を説きながら、若手陶芸家の指導に蓬莱窯を開放するなどして、積極的に後進の育成にも尽力しました。

 

2004年2月18日、2月18日午後11時、大腸がんのため滋賀県滋賀郡志賀町(現大津市)八屋町の自宅で死去した。享年77。

 

 

清水卯一 蓬莱燿茶碗

清水卯一 蓬莱燿茶碗

 

銀色の煌めきが満天の星を象徴するかのような高雅で幻想的な茶碗です。

 

触れると切れそうな程の鋭く厳しい造形に艶を帯びた黒釉がたっぷりと掛かり、見込みには虹彩を覗く事ができます。

 

 

清水卯一の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.清水卯一の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

清水卯一 査定価格におけるポイント

 

清水卯一の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

清水卯一の作品は窯で出来る景色が重要で景色が鮮やかで綺麗な作品に高値の査定価格がつきます。

10万円から30万円ぐらいの買取相場です。ぐい呑みですと3万前後になります。

大壺大きければ大きいだけ高値が付く傾向にあります80万円の高値が付いたこともあります。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

清水卯一の作品は焼き上がりの景色を重要とします。上がりが良い作品と上がりが悪い作品があります。

模様が強く出ている作品が高値の傾向にあります。清水卯一展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

制作年代

 

清水卯一の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ清水卯一の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月22日

徳田八十吉の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

御所蔵の徳田八十吉の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

徳田八十吉の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、徳田八十吉の作品の買取情報を確認してください。 簡単LINE査定も受付致しております。

 

徳田八十吉の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談下さい。 先代様の徳田八十吉のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた徳田八十吉の作品を鑑定して買取り致します。

陶芸作品を、遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、片付けなど、ご所蔵の徳田八十吉の作品を正当な評価で売却したい方、後悔しないように当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

三代徳田八十吉 本人

三代徳田八十吉 本人

 

『戦後しばらく、経済は社会主義、文化は抽象化への全盛でした。 私の周辺でも必然の流れと信じ、誰も疑わない時代でした。 具象から完全抽象に至る論理は、若者にとって大きな魅力と説得力がありました。 私には「九谷に描かれる絵」は、抽象でなければならなかったのです。 若い時、「アーチストの道は棄ててクラフトマンの道を歩こう」と思った私でしたが、「クラフトも創作に徹すればアートへの道が開けるかもしれない」という淡い思いもありました。 齢七十、遺された人生を、一生懸命、淡々と生きてゆきたいと思っています。 「作家の年輪は作品の積み重ね」です。 少しでも大きくなればと思っています。ご高覧を乞います』

三代徳田八十吉

 

 

 

三代徳田八十吉 彩釉

三代徳田八十吉 彩釉

 

彩釉の技法は、九谷焼の伝統を受け継ぎつつも、より現代的な美意識に応えるために発展しました。重要無形文化財(人間国宝)にも指定された三代徳田八十吉は、この技法の確立者として広く知られています。三代徳田八十吉は、九谷焼の五彩を駆使しつつ、新たな色彩の表現を追求し、彩釉技法を独自に進化させました。

 

三代徳田八十吉先生の生涯を通じた作品制作は、九谷焼の技術と美学を一層高めるものとなりました。特に「燿彩」シリーズは、九谷焼の伝統的な色彩を基盤にしながらも、色彩の層を重ねることで、まるで光が内部から溢れ出るかのような透明感を持つ作品をとなっています。

 

彩釉は従来の九谷焼には見られなかった新しい表現であり、国内外で高い評価を受けました。その深い色合いは、九谷焼の印象に革新をもたらしたとされており、その美しさは今日でも多くの人々を魅了し続けています。

 

 

三代徳田八十吉の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.三代徳田八十吉の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.三代徳田八十吉の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.三代徳田八十吉の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただけます。

 

Q.三代徳田八十吉の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

三代徳田八十吉 耀彩

三代徳田八十吉 耀彩

 

作品の色彩と輝きからも分かるように、耀彩とは「光り輝く色という意味」です。

 

三代徳田八十吉は祖父から伝授された九谷五彩の赤を除く四彩で作品づくりをします。

 

同系色の釉薬を重ね合わせ、順に配置していくことでグラデーション効果をつくりだします。

 

三代徳田八十吉は従来の九谷の特徴である色絵の概念を超え、自分らしい作品を作ろうと古九谷の色の確認を行っていたとき偶然発見したのがこの耀彩でした。

 

新しいことに取り組むことでおこる失敗と新発見、微妙な釉薬の色彩変化と通常の上絵窯よりはるかに高い温度での焼成方法、これが耀彩を完成させる要因となりました。

 

 

 

三代徳田八十吉 略歴

1933(昭和8)年9月14日、石川県能美郡小松町字大文字町(現、小松市大文字町)に二代徳田八十吉の長男として生まれます。本名正彦。

生家は、祖父の初代徳田八十吉(1873―1956)、父の二代徳田八十吉(1907―97)と続く九谷焼の家系で、初代八十吉は1953年に「上絵付(九谷)」の分野で国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定されています。

 

古九谷再現のための釉薬の研究と調合に取り組んだ祖父と陶造形作家として日展を中心に作品を発表し富本憲吉にも学んだ父のもとで育った三代徳田八十吉は、1952年4月に金沢美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)陶磁科へ入学します。

 

1954年3月に同大学を中退し、父・二代八十吉の陶房で絵付技術を学びます。

 

1955年の秋、病に倒れた祖父・初代八十吉から上絵釉薬の調合を任されて翌年2月祖父が亡くなるまでの数ヶ月間に釉薬の調合を直接教わりました。

 

本格的に陶芸の道に進む意志を固めたのは1957年で、すでに1954年から日展に出品していたが、9度の落選を経験した後、63年第6回日展に器「あけぼの」を出品して初入選(以後6回入選)。初入選作品は鉢型の器の外面を口縁に沿って上から下に青、黄、緑、紺と色釉を塗り分けたもので、色釉のグラデーションを初めて試みたという点で重要です。しかし、後に代名詞となる「燿彩」に見られる自己の様式、すなわち特有の透明感のある色調と段階的な色彩の変化を確立するまでには、ここから1980年代前半にいたる上絵釉薬の調製法と絵付・焼成法に関する研究と技の錬磨が必要でした。

 

焼成法に関する大きな変化は電気窯の使用です。当初は父の薪窯(色絵付)で焼成をしていたが、薪窯の温度を上げることに限界を感じ、1969年に独立して小松市桜木町に工房兼自宅を構えた際、電気窯による高温焼成を始めました。素地は1280度で固く焼き締めた薄い磁器を用い、色釉の美しさを効果的に見せるため、研磨の工程では器表面の微細な孔なども歯科医の用具にヒントを得た独自の手法で全て整えて平滑な素地を実現しました。上絵付の焼成は1040度に達する上絵としては極めて高い温度で行い、ガラス釉の特質を活かした高い透明感と深みのある色調を表出しました。色釉は古九谷の紫、紺、緑、黄、赤の五彩のうち、赤はガラス釉でないため使わず、残りの四彩を基本とし、少しずつ割合を変えて調合することで200を超える中間色の発色が可能になりました。こうした技術の昇華を経て生まれたのが「燿彩」という様式でです。それは花鳥をはじめとする描写的な上絵付による色絵の世界を超えて、九谷焼が継承してきた伝統の色そのものの可能性を広げたいという探求心が結実した色釉のグラデーションによる抽象表現の極みであり、1983年から「光り輝く彩」の意を込めたこの作品名を使うことが多くなりました。

 

2003年の古希記念展の後は「耀彩」と表記します。

 

1971年の第18回日本伝統工芸展に初出品して「彩釉鉢」でNHK会長賞を受賞します。翌年に日本工芸会正会員となる(以後38回入選)。

 

1977年の第24回日本伝統工芸展に「燿彩鉢」を出品して日本工芸会総裁賞

 

1981年の第4回伝統九谷焼工芸展に「彩釉鉢」を出品して優秀賞

 

1983年の第6回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉組皿」を出品して九谷連合会理事長賞

 

1984年の第7回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉線文壺」を出品して大賞

 

1985年に北国文化賞

 

1986年に日本陶磁協会賞、同年の第33回日本伝統工芸展に「燿彩鉢「黎明」」を監査員出品して保持者選賞

 

1988年に第3回藤原啓記念賞

 

1990(平成2)年に小松市文化賞、同年の’1990国際陶芸展に「燿彩鉢「心円」」を出品して最優秀賞

 

1991年の第11回日本陶芸展に「燿彩鉢「創生」」を推薦出品して最優秀賞(秩父宮杯)

 

1993年に紫綬褒章

 

1997年にMOA岡田茂吉大賞などを受賞

 

1986年に石川県九谷焼無形文化財資格保持者

 

1997年に国の重要無形文化財(人間国宝)「彩釉磁器」保持者に認定されました。小松市の名誉市民に推挙されました。

 

1994年6月に日本工芸会理事(~2004年6月)、1998年4月に日本工芸会石川支部幹事長(~2006年4月)

 

2004年6月に日本工芸会常任理事(~2008年6月)に就任

 

2005年に九谷焼技術保存会(石川県無形文化財)会長

 

2007年1月に小松美術作家協会会長、同年3月に財団法人石川県美術文化協会名誉顧問に就任。海外展への出品も多く、

 

1991年に国際文化交流への貢献が認められ外務大臣より表彰された後も2007年の大英博物館「わざの美 伝統工芸の50年展」にともなって「私の歩んだ道」と題する記念講演を行うなど最晩年まで貢献を続けました。

 

2009年8月26日午前11時04分、突発性間質性肺炎のため石川県金沢市下石引町の金沢医療センターで死去した。享年75。

 

2010年7月22日から9月6日に石川県立美術館で「特別陳列 徳田八十吉三代展」(同館主催)

 

2011年1月2日から12年1月29日に横浜そごう美術館、兵庫陶芸美術館、高松市美術館、MOA美術館、茨城県陶芸美術館、小松市立博物館、小松市立本陣記念美術館、小松市立錦窯展示館で「追悼 人間国宝 三代徳田八十吉展―煌めく色彩の世界―」(朝日新聞社・開催各館主催)が開催されました。

 

 

 

 

三代 徳田八十吉 耀彩小紋八角香炉

三代 徳田八十吉 耀彩小紋八角香炉

 

「香炉」は茶道で使われたりその形の美しさから観賞用としてもコレクターが多く評価も高いです。

 

「古九谷冩意卓形香爐」「燿彩香炉」「燿彩獅子撮み大香炉」など「香炉」作品は特に高価買取をさせて頂きます。

 

 

 

三代徳田八十吉の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.三代徳田八十吉の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

三代徳田八十吉 査定価格におけるポイント

 

三代徳田八十吉の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

三代徳田八十吉先生の作品は窯で出来る景色が重要で景色が鮮やかで綺麗な作品に高値の査定価格がつきます。

5万円から200万円ぐらいの買取相場です。ぐい呑みですと3万前後になります。

正彦サインの初期の作品は査定価格が低くなります。

大皿は大きければ大きいだけ高値が付く傾向にあります300万円の高値が付いたこともあります。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

九谷焼は窯の焼き上がりの景色を重要とします。上がりが良い作品と上がりが悪い作品があります。

模様が強く出ている作品が高値の傾向にあります。三代徳田八十吉展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

大皿は大きければ大きいだけ高値が付く傾向にあります300万円の高値が付いたこともあります。

 

制作年代

 

三代徳田八十吉先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ三代徳田八十吉の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

愛知県名古屋市中区門前町2-10

 

電話052(251)5515

 

営業10:00-18:00

2024年10月22日

黒田辰秋の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ

御所蔵の黒田辰秋の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

黒田辰秋の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、黒田辰秋の作品の買取情報を確認してください。 簡単LINE査定も受付致しております。

 

黒田辰秋の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談下さい。 先代様の黒田辰秋のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた黒田辰秋の作品を鑑定して買取り致します。

陶芸作品を、遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、片付けなど、ご所蔵の黒田辰秋の作品を正当な評価で売却したい方、後悔しないように当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

制作は、当時一般的であった分業制に疑問を持ち、図案制作、素地作りから加飾までを一貫して黒田辰秋自身で行うもので、実用性と装飾性、素材の特性を一体化させたところに生命感にあふれた独自の創作世界を切り開きました。古典に根差したその活動は、民藝運動と関係づけて語られることが多いものの、黒田はあくまでも自身を「個人作家」としてみなしており、自身が生み出した作品のひとつが「地球と代えられる」だけの価値を有しているかということを常に問いかけていました。

 

 

 

黒田辰秋 螺鈿総貼小棚

黒田辰秋 螺鈿総貼小棚

黒田辰秋は、木工芸の分野で初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた作家です。その作域は多岐にわたっており、螺鈿による漆芸には、貝の複雑な色味を組み合わせた繊細なものから、華やかな図案による大胆なものまでさまざまな作品があります。

 

 

黒田辰秋の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.黒田辰秋の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。

 

Q.黒田辰秋の作品以外にも骨董品などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせていただき、買取りさせていただけます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。

 

Q.黒田辰秋の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.黒田辰秋の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.黒田辰秋の作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

黒田辰秋 本人

黒田辰秋 本人

 

 

黒田辰秋 略歴

 

1904(明治37)年9月21日、京都府京都市の塗師屋を営む黒田亀吉の六男として生まれます。

 

病弱の幼時期を送り、1919年父兄の勧めで一時蒔絵師に就くが、健康を害してこれを止め、以後独学をします。

 

この頃、漆芸界での分業制に疑問を持ち、制作から塗りまでの木工芸の一貫作業を目指して木工も独学しました。

 

1923年第一回京都市美術工芸品展に「螺鈿竜文卓」が入選します、デビュー作となる。

 

1921年楠部弥弌、1924年には河井寛次郎、柳宗悦、青田五良(染織)らを知り、彼らの民芸運動に共感します。

 

1926年柳らが発行した『日本民芸館設立趣意書』の表紙の表題を彫る。

 

1927年には柳宗悦、青田五良、鈴木実(染織助手)と共に上賀茂民芸協団を創立し、共同生活をしながら制作に没頭しました。この頃朝鮮の木工品に学ぶところが大きく、また技術的にも、透明漆を塗り木目を生かして重厚な仕上がりを見せる拭漆や、朱漆、黒漆、白蝶貝等による螺鈿などの技法を既に用い、大量の木工家具や装飾品等を制作しました。

 

1928年御大礼記念博覧会に特設された民芸館に「拭漆欅テーブルセット」を出品、1929年には民芸協団作品展が開催され、また民芸論を通じ、小林秀雄、志賀直哉、芹澤銈介らを知ります。

 

上賀茂民芸協団は1929年秋解散となるが、ここでの活動が以後の制作態度を決定しました。また本の表題や扉絵、挿絵などもこの頃手がけています。

 

1930年柳宗悦の推薦により国画会に無鑑査出品、以後同展に出品すします。

 

1935年頃よりメキシコ産アワビ貝(耀貝)を使った螺鈿も本格的に手がけ、終戦前後までは主に個展を中心に活動します、

 

1940年には武者小路實篤を知る機会を得ます。

 

1948年、戦後に至りその社会的活動も活発となり、漆芸研究団体を結成、1948年京都工芸作家審議委員会(常任委員)、1954年日本工芸会近畿支部創設、1956年日本工芸会正会員、1958年には日本伝統工芸展鑑査委員・木工部長となります。

 

作品では1959年東宮御所「耀貝螺鈿盒子」、1967年皇居新宮殿扉飾り、及び梅の間用の大飾棚、そのほか螺鈿の台座などを制作しています。

 

木質の持つ美を極力生かし、伝統に学び民芸運動にも参加する一方、卓越した技量により現代的な造型性をも盛り込んだその作品は、志賀直哉をして「名工中の名品」と言わしめました。

 

1970年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受け、1971年紫綬褒章、1976年京都市文化功労者、1978年勲四等旭日小綬章を受章、また1964年国画会会員となっています。

 

1982年(昭和57年)木質の美を追求し続けた木漆工芸の人間国宝黒田辰秋は、6月4日午後3時30分、急性肺炎のため京都市伏見区の自宅で死去した。享年77。

 

 

黒田辰秋 耀貝螺鈿大丸茶器

耀貝螺鈿大丸茶器

 

黒田辰秋はメキシコの鮑貝に小学校時代から憧れていて、いつかそれを用いることを長い間構想していたと言います。

 

この作品のように全面に貼ることで今までにない蠱惑的な輝きの魅力を最大限に引き出した作風となりました。

 

茶器などの曲面で、十六分割した意匠に細分化した貝片を漆で貼ることは、卓越した技術と強靭な根気が必要となります。

 

友人である棟方志功がこの仕事を「耀貝」と名付けています。

 

茶器の内側は黒塗となっていて、耀貝の煌きをより際立たせています。

 

黒田の耀貝作品は、見た目はモダンできらびやかだが、その実、細かく切り分けられたメキシコ鮑の貝片をほとんど加工することなく、張り合わせて完成されている。

 

美しい耀貝のキラキラは、貝のもつ自然な輝きを集めて、きわめて人工的な形態をつくりあげたといっていい。

 

 

黒田辰秋 金鎌倉四稜捻茶器

黒田辰秋 金鎌倉四稜捻茶器 1965-70年

 

蓋の中央から稜線は回転し始め、螺旋を描きながら表面を包み込むように下の方へと向う。

 

計算されつくした形でありながら、柔らかで生き生きとした動きを感じます。

 

捻りを加えた独特の造形に、濡れたような朱赤がのり、品の良い仕上がりとなっている。 黒田辰秋先生の代表作の一つと言えます。

 

木や貝などの素材そのものが持つ装飾性にゆだねるような方向性も、拭漆や螺鈿に共通して見られる黒田辰秋作品の特色です。

 

黒田の拭漆は、たっぷりと木地に漆を吸わせる独自の方法で、艶やかな漆の質感とくっきり鮮やかに浮き出る木目を実現しています。

 

螺鈿でも絵や文様を描くことはほとんどなく、総張りにして素材が本来備えている姿を見所にするような作品が多くあります。

 

 

 

黒田辰秋 査定価格におけるポイント

 

黒田辰秋の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

黒田辰秋先生作品は小さくても棗が一番高値の査定価格が出来ます。60万円から200万円ぐらいの買取相場です。

 

竹の茶杓ですと10万前後になります。箱物などの螺鈿の作品は査定価格は高いです。

 

保存状態

 

箱が汚れているのも査定価格が下がります。漆物の作品で、時折ヒビやワレがある作品がありますが査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

螺鈿の作品の査定価格が上がる傾向にあります。黒田辰秋展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

制作年代

 

黒田辰秋先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ黒田辰秋の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

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