2025年2月22日

竹久夢二の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の絵画買取りブログ

御所蔵の竹久夢二の絵画作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

竹久夢二の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、竹久夢二の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

 

竹久夢二の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の竹久夢二のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた竹久夢二の作品を鑑定して買取りいたします。

 

絵画作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の竹久夢二の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

 

竹久夢二 本人

竹久夢二 本人

 

明治17年、岡山県に生まれた竹久夢二は18歳で上京します、雑誌や新聞にコマ絵を寄稿する事から画家としての道を歩み始めました。やがて「夢二式美人」といわれる独特の情感をたたえた美人画のスタイルを確立します、叙情あふれる画集を次々と発表して人気画家となりました。

また、雑誌の表紙や広告から、千代紙、便箋、封筒、うちわ、半襟、浴衣などの日用品まで幅広くデザインを手がけ、商業美術や出版の世界でも卓越した存在を示していきます。

 

仕事の領域は画家にとどまらず、今でいうイラストレーター、グラフィックデザイナー、あるいはアートディレクターの先駆者といえると思います。そんな竹久夢二の姿は、19世紀末のパリで活躍したベル・エポックを象徴する画家、トゥールーズ=ロートレック(1864〜1901)に重なります。

 

 

 

竹久夢二 この夜ごろ

竹久夢二 この夜ごろ 昭和初期

 

共に画壇に属さず、版画やポスターを独立したジャンルにまで高めた2人は、時代の先端を読み取る感性を持っていました。明治30年代ごろから、ヨーロッパの世紀末芸術の波が日本にも押し寄せます、竹久夢二も洋雑誌や美術書からロートレックをはじめ、ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、ムンク、ビアズリーらの図版を切り抜いて貼りつけたスクラップブックを残しており、熱心に研究したことがうかがえます。

一方、トゥールーズ=ロートレックら世紀末の芸術家も同時に日本美術の影響を受けていて、時を超えて呼応するかのような関係に興味は尽きません。

 

 

夢二の女性関係

 

夢二式美人画に影響を与えた要素として、竹久夢二の私生活や女性関係については、しばしば言及されます。そんな美人画のモデルをつとめた3人の女性たちを紹介するとともに、永遠の女性像を探し続けた竹久夢二の恋多き人生に迫ります。

 

岸たまき

岸他万喜(たまき)

 

好きあって恋愛結婚をします。しかし、二人の結婚生活は長くは続きませんでした。気性の激しいたまきと、繊細な感受性を持つ竹久夢二、しかも揃って我が強い、二人の間には喧嘩が絶えず、たった2年で協議離婚をします。

 

たまきは後に竹久夢二との関係を振り返った手記で、偽造された印により騙されるようにして竹久夢二の父の菊蔵により別れさせられたと言っています。

 

あくまでたまきの言い分ですので、果たしてそこまでエゲツナイ手段がとられたのかは不明ですがしかし、菊蔵が竹久夢二たち夫婦の生活ぶりに呆れ怒ったこと、たまきに主婦失格の判を押したこと、二人に別れるように言ったことは考えられます。

 

八幡で父を手伝う仕事を辞めて、家出同然に上京した竹久夢二は、そもそも郷里にいられなくなったのは、父の女性問題が原因だった。

そのせいで姉も離縁して、彼の父に対する気持ちは決して穏やかではなかったと思います。しかし、この時ばかりは父に従ったところを見ると、竹久夢二自身はこの結婚に疲れていたようです。

 

また、たまきにしても、竹久夢二に正統派の絵画の勉強をさせようとしますが、あるいは個性を殺すことになると窘められ、あるいは展覧会に落選すると、夫としても画家としても、頼りないものを感じていたと言えるでしょう。

 

父の菊蔵が促すまでもなく、互いに疲れはてていた、しかし、二人の縁は離婚のみで切れることは無く、この後も次男、三男が生まれています、腐れ縁と思われる。

 

 

笠井彦乃

戸籍名はヒコノ、山梨県南巨摩郡西島村に生まれます。竹久夢二にとって「最愛のひと」であり「永遠のひと」。明治36年、一家を挙げて上京します。父親は日本橋で紙商を営み、のちに宮内省御用達となります。大正3年に「港屋絵草紙店」で竹久夢二と出会います。

 

やがて相思相愛の仲となり、父親の反対を押し切って大正6年から京都で同棲をはじめます、この夏の北陸旅行では金沢で開催された「夢二抒情小品展覧会」において、「山路しの」の名で作品を出品します。湯涌温泉滞在後に、結核で倒れ、わずか25歳でその生涯を閉じます。

 

大正13年、新聞の連載小説として夢二が発表した『秘薬紫雪』は竹久夢二と彦乃がモデルであり、二人が愛を誓うラストシーンは湯涌温泉が舞台となっています。

 

 

竹久夢二、右37歳とモデルであり愛人のお葉左17歳、1921年の写真

竹久夢二、右37歳とモデルであり愛人のお葉左17歳、1921年

 
 
本名は佐々木カネヨ。別名に永井カ子ヨ(かねよ)。藤島武二、責めを得意とした伊藤晴雨、竹久夢二といったそうそうたる画家の絵のモデルとなります。特に、伊藤晴雨と竹久夢二については愛人関係であり、公私においてパートナーでした。
 
 
大正8年、彦乃と引き離され、絵筆をとれないほどに落胆した夢二を気遣う友人たちの紹介によって、春頃にモデルとなります。竹久夢二の好みの立居振舞を身につけたお葉は、竹久夢二の絵から抜け出したような魅力的な美人といわれた。
 
 
 
竹久夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住み、竹久夢二の子供たちも同居しました。一児をもうけるが夭折して、翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する。後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごした。
 
 
 

竹久夢二の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.竹久夢二の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.竹久夢二の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.竹久夢二の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.竹久夢二の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.日本画作品でなくても、骨董品など様々な物が買取り対象となります

 

 

竹久夢二の買取で当社が選ばれる理由

 

1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。

 

2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。

 

3.竹久夢二の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。

 

4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。

 

5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。

 

 

 

竹久夢二 査定価格におけるポイント

 

竹久夢二の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

竹久夢二先生の作品は、夢二式美人画の色彩の明るい作品に高値の査定価格がつきます。

 

50万円から300万円ぐらいの買取相場です。

 

保存状態

 

シミや痛み、汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

竹久夢二の作品は、女性の描かれたの作品が評価されます。

 

大正ロマン風の美人が描かれていると評価されます。

 

竹久夢二展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

竹久夢二の作品は、後期の作品が高値で取引されております。

 

※このように同じ竹久夢二の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

 

 

竹久夢二 略歴

 
1884年
明治17年、0歳 9月16日 岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)の代々酒造業を営む家に次男として生まれます。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられます。
 
 
1899年
明治32年、15歳 兵庫県神戸市の叔父宅に寄宿しつつ兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12月には家の都合で中退します。
 
 
1900年
明治33年、16歳 父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居します。茂次郎もしばらく製鉄所で働きます。
 
 
1901年
明治34年、17歳で 家出して単身上京します。
 
 
1902年
明治35年、18歳で早稲田実業学校専攻科入学します。学生時代、スケッチを『読売新聞』などに投書します。
 
 
1903年
明治36年、19歳の制作年らしき数字「1903」が記された、文章・絵画からなる冊子『揺籃』が2018年に発掘されています。
 
 
1904年
明治37年、20歳
 
 
1905年
明治38年、21歳 友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載されます。これは最初に印刷に附された竹久夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めました。同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選します、このとき、初めて夢二を名乗る。早稲田実業学校専攻科中退します。
 
 
1906年
明治39年、22歳 童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描きます。
 
 
1907年
明治40年、23歳 岸たまきと結婚します。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当します。 1908年(明治41年)24歳 長男・虹之助誕生します。
 
 
1909年
明治42年、25歳の時、たまきと協議離婚します。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなります。
 
 
1910年
明治43年、26歳 たまきと再び同棲し、その後、二児をもうけます。大逆事件関与の容疑で2日間拘留される。夏、房総方面に旅行し、『宵待草』を発想。
 
 
1911年
明治44年、27歳 次男・不二彦誕生、たまきと別居します。月刊『夢二 ヱハガキ』発売。
 
 
1912年
明治45年、28歳 雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表します。京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」。
 
 
1913年
大正2年、29歳 、11月に絵入り小唄集『どんたく』出版、その中の一節に『宵待草』を現在の三行詩で発表します。
 
 
1914年
大正3年30歳 、日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦乃と出会います。
 
 
1915年
大正4年31歳、 婦人之友社より雑誌『子供之友』『新少女』創刊、絵画主任として挿絵を描き始める。たまきとは離別します。
 
 
1916年
大正5年32歳 、2月、三男の草一が生まれる。セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画、以降270余点を作画します。東京を離れ、京都二寧坂に転居。草一、他家へやられる。
 
 
1917年
大正6年、33歳の時、高台寺近くに移り彦乃と同棲します。石川県金沢市を旅行中に「夢二抒情小品展覧会」を開きます。 『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表します。
 
 
1918年
大正7年34歳 、『宵待草』がセノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとなります。長崎方面に旅行。彦乃入院、東京に戻ります。
 
 
1919年
大正8年35歳 、寄宿先の本郷の菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介されます。日本橋三越にて「女と子供に寄する展覧会」。
 
 
1920年
大正9年36歳、 彦乃25歳で病没します。『長崎十二景』『女十題』のシリーズ制作します。
 
 
1921年
大正10年37歳、 お葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持ちます(6年後には離別)。福島の会津を旅行、各地で展覧会を開催します。
 
1922年
大正11年38歳、 春、山形県方面へ旅行に行く、滞在。夏、不二彦と富士山を登山します。
 
 
1923年
大正12年39歳、 恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足するも、関東大震災(大正関東地震)で潰滅。友人で画家の有島生馬とともに震災後の東京を歩き、スケッチ21枚を『都新聞』に『東京災難画信』として寄稿連載します。

 

1924年
大正13年40歳 、アトリエ兼自宅「少年山荘」(山帰来荘)を東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設します。この年に発刊された雑誌『婦人グラフ』に掲載するための表紙絵、口絵用に浮世絵の技法による新版画といわれる木版画『秋のしらべ』などを発表します。

 

1925年
大正14年、41歳の時に作家の山田順子と交渉を持ち、お葉は去ります。後、順子とも別れます。

 

1926年
大正15年、42歳、海外旅行を希求します。

 

1927年
昭和2年、43歳 『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。

 

1928年
昭和3年、44歳 母・也須能、没(享年72)

 

1929年
昭和4年、45歳

 

1930年
昭和5年、46歳、4月、群馬県の伊香保温泉に約1ヶ月滞在、「榛名山美術研究所」の構想を練ります。

 

1931年
昭和6年、47歳 父の菊蔵、没(享年79)。渡米告別展を新宿三越他で開催の後、5月7日に横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米します。

 

1932年
昭和7年、48歳 米国に1年3ヶ月滞在、西海岸各地にて個展を開くが、米不況もあり受け入れられず不調。 9月にパナマ運河-大西洋を経て渡欧します。約1年の滞欧中、ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイスの諸都市を巡り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残します。

 

1933年
昭和8年、49歳 ドイツ首都ベルリンに滞在中、ヨハネス・イッテンの画学校で日本画の特別講義をします。8月19日イタリアのナポリを発ち、9月18日神戸に帰国します。10月26日、台湾を訪れて講演し「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」開催します。11月11日帰国、結核を患って病床につきます。

 

1934年
昭和9年、49歳11ヶ月で逝去。 1月19日、親しい文芸仲間でもあった正木不如丘院長の手配により、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所(現・JA長野厚生連富士見高原病院)に入院します。9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に死去。49歳没。東京雑司ヶ谷霊園の文芸仲間の上田龍耳の義理の弟山地純一の墓に9月19日に埋葬されます。戒名「竹久亭夢生楽園居士」。墓碑には有島生馬に依る揮毫「竹久夢二を埋む」と刻まれている。骨は後に現在の墓に移された。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

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