2024年10月11日
荒川豊蔵の作品を高価格で買取ります。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の荒川豊蔵の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
荒川豊蔵の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、荒川豊蔵の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。
荒川豊蔵作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の荒川豊蔵のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた荒川豊蔵の作品を鑑定して買取りいたします。
陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の荒川豊蔵の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。
茶道具の中でも茶碗を主に作陶し、独特の品格をもつ作品を制作しております。主に大萱窯、水月窯で焼かれております。
志野を中心に瀬戸黒、黄瀬戸、粉引、唐津、伊賀、信楽、色絵など、幅広い作陶作品があります。
桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見しました。
可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指し作陶を重ねました。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立しました。
号は、「斗出庵」「無田陶人」
荒川豊蔵 本人
荒川豊蔵の座右の銘は「随縁(ずいえん)」で、仏教用語で「縁に随(したがう)」という意味です。すべてのことは縁で結ばれているため、それに従って生きるのが良いことを表しています。
愛妻・志づへの贈り物として「随縁」という銘の志野茶碗を焼いたこともあります。
荒川豊蔵の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.荒川豊蔵の作品は、当店が真贋を拝見させていただき、判断させていただきますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。
Q.荒川豊蔵の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせていただき買取りさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。
Q.荒川豊蔵の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。
Q.荒川豊蔵の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
出生から修業時代
1894年(明治27年)(0歳)3月17日 – 岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれます。
荒川豊蔵の母方は多治見市高田で製陶業を営む 陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、荒川豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれました。
1906年(明治39年)(12歳)多治見尋常高等小学校高等科卒業。神戸の貿易商能勢商店で働きます。
1907年(明治40年)(13歳)多治見に戻り、地元の陶磁器貿易商木塚商店で働きます。
1911年(明治44年)(17歳) 従妹(父の弟の次女)の志づ(14歳)と結婚します。
1912年(明治45年)(18歳)神戸の親戚のもとで陶器商を手伝います。
1913年(大正2年)(19歳)長男武夫が生まれます。
1915年(大正4年)(21歳)以前多治見で小僧として働いた木塚商店が名古屋で商売を始めたことを聞き、名古屋に移り住んで働きます。
荒川豊蔵 志野茶碗
荒川豊蔵は、桃山時代に焼造された「志野」について、「白い釉といっても朝鮮や中国の白さでなく、やわらかい感じの釉が、厚くたっぷりとかかっておりあたたか味を感じるものである。
志野焼の肌のところどころに、緋色(ひいろ)という志野独特の調子の高い薄紅色が、柚子のようなぽつぽつアバタのある膚に、自然ににじみ出ている美しさは他の国にも類がない」と、その見どころを荒川豊蔵自身が解説しています。
鑑賞者である荒川豊蔵が「志野」というやきものを読みとき、そして創造者として自身の志野を生み出そうとした手がかりを見つけることができます。
志野焼をつくる材料として、ボディには山から掘ってきた白い「モグサ土」、白い釉薬には水車でついた「長石」と呼ばれる鉱物が用いられました。
作陶のプロセスとしては、手回しの「轆轤」で成形し、「木箆」で削って形を整え、乾燥させた後に施釉し、半地下式の「薪窯」に松の割り木をくべて焼成を行います。
荒川豊蔵資料館
荒川豊蔵資料館は、志野焼と瀬戸黒焼の2つの工芸技術で国の重要無形文化財保持者(通称「人間国宝」)に認定された荒川豊蔵が昭和59年4月に創設されました。
その後、平成25年4月に、財団法人豊蔵資料館から可児市に寄贈されました。また、平成29年4月からは、敷地内にある居宅(旧荒川豊蔵邸)や陶房など改修し、公開しております。荒川豊蔵資料館内では、荒川豊蔵の自作・自筆による作品や出土陶片などを中心に、年4回ほどの展示替えをしております。
豊かな自然に囲まれた「美濃桃山陶の聖地」をご覧いただけます。
※お車でお越しの方
東海環状自動車道『可児御嵩IC』から県道84号線を土岐方面へ約8km ・東海環状自動車道『五斗蒔スマートIC』から県道84号線を可児方面へ約3km ・中央自動車道『土岐IC』から国道19号線経由で県道84号線を可児方面へ約20分
※電車でお越しの方
JR中央本線『多治見駅』下車 → JR太多線『可児駅』下車 → タクシーで約15分 ・名鉄広見線『新可児駅』下車 → タクシーで約15分
宮永東山と東山窯時代
1919年(大正8年)(25歳) 名古屋の教育者鈴木勲太郎と知り合い、彼の研究による特殊絵の具で手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュースします。生地は瀬戸の菱松から購入し、絵付けは名古屋出身の日本画家近藤紫雲に依頼しました。このコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛に持ち込んだところ高価で買い取ってくれ、更に「この品をもっと作ってみなさい。引き受けます。」と言われたため、独立して上絵磁器製作の事業を起こすことを決意します。この時錦光山の顧問をしていた宮永東山に引き合わされます。
1922年(大正11年)(28歳)上絵磁器の事業に失敗し、心機一転、子供のころから得意であった絵描きを志します。宮永東山を頼って手紙を出すと「すぐこい」との返事をもらって京都に行くと、いきなり東山窯の工場長を任されます。京都では旧大名家や名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得ます。
荒川豊蔵 瀬戸黒茶碗
漆黒の瀬戸黒釉が、ちぢれています。桃山陶では失敗だった釉調を、荒川豊藏は美の表現として見事に昇華させました。
北大路魯山人と星岡窯時代
1925年(大正14年)(31歳)東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と出逢います。北大路魯山人は約1年間逗留し、その間親交を深めます。
1926年(大正15年)(32歳)次男達生まれます。
1927年(昭和2年)(33歳)北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。北大路魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かしました。(星岡窯では自分専用の轆轤を持ったが、東山窯、星岡窯時代の荒川豊蔵は陶工というよりはプロデューサー兼マネージャーで、本格的に作陶を始めるのは大萱に窯を築いてから後のことです。
古志野との出会い
1930年(昭和5年)(36歳)4月6日~10日 北大路魯山人が名古屋の松坂屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、北大路魯山人と荒川豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらいます。志野茶碗の高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持ちます。その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った可児市久々利の大平、大萱の古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野焼が美濃で焼かれたことを確信します。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の全貌を明らかにし、いつかは志野焼を自分の手で作陶することを決意します。
大萱窯
1933年(昭和8年)(39歳)星岡窯をやめての可児市久々利の大萱古窯跡近くに穴窯をつくります。作陶は荒川豊蔵と長男の武夫、弟子の吉村義雄の三人で行りました。最初の窯は初窯で荒川豊蔵自身意識を失って倒れるまで三晩四日かけて焚き続けましたが温度が上がらず、瀬戸黒が一碗焼けただけで失敗に終わります。
1934年(昭和9年)(40歳)最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作します。
1935年(昭和10年)(41歳)ようやく満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、荒川豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶します。
戦中・戦後
1941年(昭和16年)(47歳)大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催します。
1946年(昭和21年)(52歳)多治見市にある虎渓山永保寺所有の山を借り受け水月窯を作る。水月窯は大萱窯とは異なる連房式登り窯で、染付、色絵、粉引や、生活のための日用食器の量産を行いました。
荒川豊蔵 水月窯
1955年(昭和30年)(61歳)志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される。日本橋三越百貨店で戦後初の個展を開催。大成します。
1960年(昭和35年)(66歳)俵屋宗達画・本阿弥光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手します。
1968年(昭和43年)(74歳)妻志づ死去。 1971年(昭和46年)(77歳) – 文化勲章受章。
1975年(昭和50年)(81歳)唐津の西岡小十窯、有田の今泉今右衛門窯で作陶し絵付けします。
1976年(昭和51年)(82歳)萩の三輪休和窯他で作陶します。
1977年(昭和52年)(83歳)信楽、備前、丹波の各窯で作陶します。
1978年(昭和53年)(84歳) 萩、唐津、備前の各窯で作陶します。
1984年(昭和59年)(90歳) 可児市にある大萱窯の地に豊蔵資料館(現・荒川豊蔵資料館)が開館します。
1985年(昭和60年)(91歳)8月11日 死去。
古窯発見端緒図 荒川豊蔵 昭和55年 荒川豊蔵筆
関戸家所蔵の志野秋艸絵の香炉ともう一碗を北大路魯山人と眺める。
昭和5年の美濃における志野発見は、日本陶磁史を塗り替えるほどの大発見で、数寄者や陶磁器関係者に大きな衝撃を与えました。
また、発見した当事者である荒川豊蔵にとっては、それまでの人生を覆すものであり、その衝撃は計り知れません。この発見を契機に志野再現の決意を抱き、窯跡を探査する傍ら陶土や釉薬の探索を始めていきました。
荒川豊蔵は、日本の陶芸界において重要な存在であり、特に美濃焼の復興に大きく貢献したことでも知られています。
荒川豊蔵の陶芸作品は、日本の伝統的な美意識と技術が結集した芸術品です。
現在、荒川豊蔵の作品をお持ちの方や、その価値を知りたい方のために、当店では鑑定と買取を行っております。
荒川豊蔵の陶芸作品の特徴は、桃山時代の古美濃陶器の復元に成功し、その技術を彼の作品にも反映させた所にあります。
作品からは力強さを感じさせる轆轤、自然の風合いを活かした釉薬の美しさが特徴です。
特に、志野茶碗や瀬戸黒茶碗などの伝統的な技法を現代に蘇らせた作品は非常に高く評価されています。
また、彼は人間国宝(重要無形文化財保持者)に指定されており、その作品は国内で人気が高く、コレクターからも非常に必要とされています。
荒川豊蔵の作品をお持ちの方へ
ご自宅に荒川豊蔵の陶芸作品をお持ちであれば、北岡技芳堂にご連絡ください。荒川豊蔵が生きた時代の歴史的背景や技術的な価値からも、評価がされております。
作品の出来や保存状況、制作時期などに基づいて、丁寧に評価させていただきます。
荒川豊蔵作品の査定・買取の流れ
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