2024年10月6日
北大路魯山人の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の買取りブログ
北大路魯山人を手放す時は骨董品のプロへご用命ください。高価格で買取り致します。
骨董品買取の北岡技芳堂では、書家 篆刻家 画家 陶芸家 漆芸家 料理人「北大路 魯山人」の作品を探しています。
北大路魯山人作品を手放す際は骨董品・古美術専門の鑑定士が在籍する北岡技芳堂にご相談ください。
1883年〈明治16年〉3月23日 〜1959年〈昭和34年〉12月21日)は、日本の芸術家。
北大路魯山人 本人
本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。1883年(明治16年)、両親は京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂に、上賀茂神社の社家・北大路清操(きよあや)、登女(とめ、社家である西池家の出身)の次男として生まれる。士族の家柄だったものの生活は貧しかったうえ、版籍奉還2年後の明治4年に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されたため混乱期にあった。父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎が生まれる4ヵ月前に自殺します。母・登女は滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪しました。しかし家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰ります。出生から5ヵ月後の1883年(明治16年)9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となります。しかしこの2ヵ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になります。同年秋に巡査の妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになりました。
北大路魯山人の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが品物により、出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.北大路魯山人の作品は、当店が真贋を拝見させて頂き、判断させて頂きますので一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像を送ってください。
Q.北大路魯山人の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定をさせて頂き、買取りさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが買取り価格は低くなります。
Q.北大路魯山人の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は実際に作品を拝見させていただきます。
Q.北大路魯山人の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
北大路魯山人が愛した躑躅(ツツジ)
3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎に永遠の記憶を残す「真っ赤な躑躅の咲き競う光景」を見る。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという。
躑躅を愛した北大路魯山人は晩年に紅志野という作品を編み出した。
「鉄分の多い信楽の土を使って焼成した紅志野は、北大路魯山人の代表作になりました。」
その頃、義兄に精神異常が出てその後死亡しました。1887年(明治20年)頃、房次郎が4、5歳だった時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せました。この家で房次郎は義姉の母から激しい虐待を受けます。2、3ヵ月後、これを見かねた近所の人が上京区(現:中京区)竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子の話を持ちかけます。こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなります。福田家では6歳の頃から炊事を買って出ました。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいきました。
若き日の北大路魯山人
こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなります。福田家では6歳の頃から炊事を買って出ました。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいきました。貧しい家で入手できる食材を、可能な限り美味しく料理しようと努めた北大路魯山人は、素材のすべてを活かし切る技術を身につけました。残り物を活用するのも得意だっため、放浪時代は居候先で重宝されました。
北大路魯山人が憧れた竹内栖鳳の絵 山種美術館
10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業します。春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出されます。ある日、奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われます。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳でした。彼に会ったことで絵に対する好奇心と情熱は一気に高められました。
いろは屛風(右隻) 北大路魯山人 昭和28(1953)年 足立美術館
たっぷりとした墨でのびのびと書いたかな文字の屛風が、北大路魯山人の書の代表作。
1896年(明治29年)1月に奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むが家計的な問題もあり断念します。養父の木版の手伝い始め、扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身に着けていきます。他方、一字書の書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中から天の位1枚、地の位1枚、佳作1枚を受賞します。以後、彼は応募を続け次々と受賞していく。14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始めます。この頃には西洋看板描きとしても活躍していました。
北大路魯山人 濡額 無尽蔵 吉兆庵美術館
「幾ら取っても尽きないほど、豊富にあること」
20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れます。彼により母の所在を知ります。実の母の居所が分かり、東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志します。1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した『千字文』が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。21歳での受賞は前代未聞の快挙であった。この展覧会では福田海砂(かいさ)と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。その後、住み込みで版下書きの仕事を始めます。
北大路魯山人の師 岡本可亭の書
「可亭生」の横に、陰刻下駄印の「良信」と「子耐」 の落款が押されている。岡本可亭は伊勢の人で 、名は良信、通称は竹二郎、字は子耐、号を可亭 ・長春堂などと称し、藤堂藩に使えた儒者岡本安五郎の次男で、「初め父より御家流を 習い、後に趙子昂を学んで一家を成した書家」と 伝えられているが、詳細は不明である。ただ父が 儒者であれば、幼時に家学としての漢学や書を習ったと推測することは可能です。その後、東京での版下作りや看板揮毫で名を成した書家であったことは確かで あり、明治24年には『普通高等新体婦女用文』や 『女宝』等の書籍も公刊しています。
漫画家 岡本一平
この頃、房次郎の実母登女との関係も良くなっていきます。1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭(漫画家岡本一平の父、洋画家岡本太郎の祖父)の内弟子となりその後3年間住み込みます。そこでは福田可逸の号を授かり次第に可亭よりも仕事の発注が増えていきます。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになります。1907年(明治40年)、福田鴨亭を名乗って可亭の門から独立します。翌年2月17日、結婚し、その年の夏に長男が誕生しました。仕事は繁盛し、稼いだ収入を書道具や骨董品、外食に注ぎ込むようになりました。合間には書肆に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭しました。
呉昌碩 臨石鼓文 1926年
1910年(明治43年)12月、実母と共に房次郎は朝鮮に旅立知ます。母を京城(ソウル)の兄のところへ送り届けた朝鮮内を旅し3ヵ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活します。1911年(明治44年)3月、日本に残した妻に第二子が誕生しました。京城滞在1年弱で中国の上海に向かい、書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会います。1912年(明治45年)夏に帰国。書道教室を開きます。半年後、滋賀県長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供されました。
呉昌碩 牡丹図幅 1022年
ここで、房次郎は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残しています。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた竹内栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出ます。その款印を気に入った竹内栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになりました。
北大路魯山人を金沢で世話した細野燕台 書
1915年(大正4年)には、石川県金沢の細野燕台のもとに寄留し、美食や陶芸への関心を啓発されました。 1916年(大正5年)、3年前に長男である房次郎の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿と名乗ります。そして北大路魯山人の号を使い始める。
北大路魯山人 織部扇面形鉢 昭和15(1940)年ごろ
その後も滋賀県長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていきました。また内貴清兵衛と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流も深めていき料理に目覚めていきました。1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになります。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになります。1921年(大正10年)、会員制食堂「美食倶楽部」を発足し、自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していました。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町の星岡茶寮を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めました。
北大路魯山人 星ヶ丘茶寮
1927年(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。1930年(昭和5年)秦秀雄と出会う、意気投合し秦秀雄を星岡茶寮の支配人へ取り立てます。魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放された。同茶寮は太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、空襲により焼失しました。
荒川豊蔵 志野茶垸 銘 不動
戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房」を開店し、在日欧米人からも好評を博します。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチと山口淑子の夫妻を星岡窯に一時寄寓させました。
イサムノグチ 1971年 和歌山県立近代美術館
1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソとマルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退しました。 孫として鎌倉で生まれた陶芸家の北大路泰嗣は、祖父の北大路魯山人から「泰嗣(ひろし)」と命名されました。陶芸家でも有名であった北大路魯山人の影響を受けており、幼ない頃から魯山人と親交のあった荒川豊蔵の水月窯で陶芸の修業を積み、1992年(平成4年)岐阜県にに无疆窯を開設し、その窯元として活動します。 1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜市立大学医学部病院で死去。 1998年(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失しました。
北大路魯山人 星岡窯
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北大路魯山人の芸術の魅力
北大路魯山人は、その独特な美しい感覚と類まれな技により、数々の名作を世に送り出しました。 特に彼の陶芸作品は、シンプルでありながらも繊細な形状と、美しい釉薬で懐石料理人を虜にしています。また、書家としても名高く、魯山の人の書には独特の考えに基づく理論と繊細さが共存しています。 彼の作品は、日本の伝統的な美意識を体現しつつも、独自の芸術性を追求したものです。
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