2024年12月7日
加守田章二の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取りブログ
御所蔵の加守田章二の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。
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加守田章二作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の加守田章二のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた加守田章二の作品を鑑定して買取りいたします。
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加守田章二の買取でよくある質問
Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。
Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.加守田章二の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。
Q.加守田章二の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。
Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。
Q.加守田章二の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。
Q.加守田章二の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。
加守田章二の解説
岸和田から京都へ
加守田章二は、20世紀後半に活躍し、50歳を目前に亡くなった近代日本を代表する夭逝の陶芸家です。陶器の形態に造形、文様、質感の関係性を追求し、独自の陶芸表現を追求して切り拓きました。 大阪府岸和田市に生まれました加守田章二は、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)で陶芸を学びました。
加守田章二 本人
1959年に栃木県益子町にて独立します。灰釉作品で注目されるようになると、新たな制作環境を求めて1969年に岩手県遠野市へ陶房を移し作陶を始めます。遠野で約10年間を過ごした後、晩年の一時期は東京都東久留米市にて作陶します。
独立後わずか 20 年程であったその作陶期間において、加守田章二は旺盛な制作意欲で絶えず作風を変容させていきました。しかし、いずれの作品にも、大地の根源的な力を表すような土肌の荒々しさや、独自な造形に見る鋭さと緊張感、そして器体を覆うように描き込まれる文様の密度といった力感が示され、同時に、造形と文様を緊密に連動させる計画性や、陶器の形態に個人の表現を求める意思といった現代陶芸作家としての思考を窺うことができます。
加守田章二 扁壺 1965年頃
益子へ
益子時代の作品は、益子の土を手びねりで成形した小判形の扁壺にした明るい青緑の灰釉の玉垂れが目を惹きます。すぼんだ口造りに、稜線のエッジをきかせながらも豊かに膨らんだ器体、そこに釉で意匠を施すのは、加守田章二の益子時代作品の代表的な色調の造形力のあるモダンな作品です。
益子から遠野へ
灰釉作品だけではなく、土肌の表情が豊かな土器を連想させる陶芸作品も制作しました。加守田章二はこの作品群を「酸化文」と呼んでおります。 柔らかそうにも見える、酸化文の土肌は、実際には高火度で焼成されており、作品は硬く焼き締まっています。全体に化粧掛 けをした上に釉薬をかけ、それを焼成後に削り剥がしているため、 火に直接当たらない素地が見え、独特な表情を作っています。
この方法は、化粧土ごと釉薬がめくれてしまった失敗にヒントを 得て生み出されたといわれます。 この土肌を作るために、加守田章二は焼成前にも土に手を加えています。あらかじめ化粧土を象嵌して白い線を土肌に刻み、また酸化鉄などの呈色剤を塗って色彩に斑(むら)を生じさせることで、土の表情に重厚感をもたらしているのです。
加守田章二 炻壺 1968年
加茂田章二自身の手で作り出すオリジナルな土肌であると言えます。 1967 年、東北を旅した加守田章二は、遠野を訪れました。そして、遠野の風土を気に入り、陶房を移す準備を始めると同時に、遠野から益子に土を持ち帰り、新たな土での制作を研究しています。そ して、陶房が完成すると1969年に弟子一人を連れて遠野へと移りました。
加茂田章二 曲線彫文 1970年
岩手県遠野市に陶房を移してから初めての発表となったのが 1970 年の日本橋髙島屋での個展でした。幾何学的な形態に波状の彫文が施された陶芸作品が生み出されました。 底から口元まで器体の凹凸と波文様が連動し、造形と文様に一 体感があります。紐づくりで成形された後、竹箆で文様を彫っており、鋭い口造りも特徴的です。土肌は化合物と土を混ぜた液体を塗ったり、化粧土を塗って焼成後にその土を削り剥がしてお り、酸化文の技法と繋がりますが、造形が複雑になった分、土肌は整えられ洗練されています。 加守田章二は遠野の土を「悪い土」と言いました。轆轤で挽けな いほど石が多く、鉄分は多いし、水は漏る。しかし、耐火度は普通で、粘りがあり、成形しやすい。加守田章二はこの土で幾何学形態の造形作品を生み出し、その後、個展ごとに制作を変化させていきました。
加守田章二「彩色扁壺」1972 年
色彩への飛翔 「曲線彫文」を発表した翌年、加守田章二は一転して色彩のある作風を打ち出しました。以下は、1971 年ギャラリー・手で開催された 個展の会場に掲示された文章です。
「飛翔の色
私は矛盾を感じ
抵抗を感じ
内に暗さや重さを秘めながら
軽く明るい飛翔したい欲望がある
そんな気持ちが 私に色を使わせた」
失透させた赤や緑、白色の釉薬で波模様を器全体に描いて始ま った加守田章二の色彩の作品は、次の展覧会では朱色を基調にして波文の中に鱗のような文様を描き込み器面を覆うといった展開を見せ、その後も展覧会ごとに文様や色調を変化させていきました。鉄分が多い遠野の土は、その上に直接釉薬を塗ると発色が鈍くなってしまうため、下地に白泥を塗った上に彩色していますが、1972 年に発表した作品はより色彩が鮮やかになり、波文の境界線には穴が穿たれ曲線を強調します。 「曲線彫文」にみる土の肌を掘り出すようなこれまでの方法とは異なりますが、失透させた釉薬を細い筆で塗り重ね、色面には筆致の斑(むら)を残して、彩色の作品においても加守田章二は複雑な土肌を作り出しています。
また造形と文様の関係性という点においても「曲線彫文」とは異なる試みが為されているようです。曲線彫文では造形の凹凸と文様の抑揚を緊密に連動させていましたが、彩色の作品の中 には造形に捻りのあるものがあり、その形状と文様のリズムをずらしています。結果的に器の形状を錯覚させるような効果となっており、文様と造形が有機的に絡み合って、立体造形を作りあげています。
加守田章二 壺 1974 年
1971 年、1972 年に発表された色彩の波文は、1973 年には突き刺さる ような勢いのある文様に変化し、色彩も茶褐色、灰白色など抑えた調子になります。次の個展では灰白色の器体に波状の曲線が平行に刻み込まれるようになり、翌年にはその線刻が網目のパ ターンをとるようになりました。線刻には黄土色や灰青色の 釉薬の線も沿わせて描かれていますが、1971年や1972 年の彩色の作品群とは変わって、土のざらついた渋い表情と縁の鋭い造形が融合し 重厚感があります。
加守田章二 壺 1978 年
遠野から東久留米へ
全面が濃淡のある線状の文様で覆われており、色の輝きが乱反射する ような錯覚にとらわれます。 そして、1979 年になると、加守田章二は遠野から離れて、東京都東久留米市で制作する時期をもち、1980 年には半磁土を用いた作品 の発表が続きます。
加守田章二 壺 1980年
菱形の作品もその時期の一点です。赤い線で区切った菱形の文様が青・白・黒の釉薬で塗られ、全色彩の質感に変化をつけています。半磁土の滑らかな肌に色彩が鮮やかに映え、遠野の土の上に白泥を塗ってから着彩するのとは異なる釉調を示します。 この後、加守田章二は体調を崩し、白血病との診断を受けることになります。東京での制作は短期間に終わりますが、次の展開を見据えていたことが窺えます。
私の陶芸観
私は陶器は大好きです。
しかし私の仕事は陶器の本道から完全にはずれています。
私の仕事は陶器を作るのではなく陶器を利用しているのです。
私の作品は外見は陶器の形をしていますが中身は別のものです。
これが私の仕事の方向であり又私の陶芸個人作家観です。
加守田章二
加守田章二 略歴
昭和8年
1933年4月16日大阪府岸和田市に生まれ、府立岸和田高校在学中から油絵に興味を抱き、卒業後上京して本格的に油絵を学ぶ志をもったがこれを断念します。
昭和27年
京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学、教授富本憲吉、助教授近藤悠三の指導を受けます。
昭和30年
夏、在学中に、茨城県日立市の大甕窯へ実習へ赴き、この時はじめて益子を訪れ作陶者が個々に窯を持っていることに強く心を惹かれました。
昭和30年
新匠会に「鳥文灰釉皿」が入選し佳作賞を受けます。
昭和31年
京都市美大を卒業、学長長崎太郎と富本憲吉の勧めで日立市の日立製作所大甕陶苑の技術員となりました。
昭和33年
日立製作所の派遣研究生となって益子に移り、塚本製陶所で作陶の研究を始めます。
昭和34年
日立製作所を退社し自立、当初は石灰釉、飴釉、灰釉を手がけ、益子の民芸調とは異質の文様、意匠、器形が不評を買ったりしたが、浜田庄司には注目されました。
昭和36年
日本伝統工芸展に初入選、以後同展には連続入選します。
昭和39年
日本工芸会正会員に推挙されます。
昭和40年
日本伝統工芸展出品の灰釉平鉢が注目され、翌年日本陶磁協会賞を受賞
昭和42年
東京日本橋高島屋で個展を開催
昭和38年
須恵器風灰釉が本焼土器風のものに変り作風は第二期と呼ぶべき本格的な創作の段階に入りました。
昭和38年
第10回高村光太郎賞を受賞し、暮れには東北地方を旅行して岩手県遠野の地形、風土に魅せられます。
昭和43年
個展(ギャラリー・手、日本橋高島屋)からは遠野の土による面取りの形体の作品を発表する。
昭和43年
日本工芸会正会員を辞退して無所属となります。
昭和44年
6月からは遠野市青笹町糠前字踊鹿に窯場と住居を設け弟子と二人での制作に没頭する。その後、制作発表は主に年2・3回開催した個展でなされ、激しい制作意欲にかられながらその作風はほとんど半年毎に変貌を見せました。
昭和45年
日本橋高島屋での個展における波状曲線文様の器形から、翌年の彩陶波文、さらに昭和47年の現代陶芸選抜展(日本橋三越)で示した灰緑色の地に施された白の不定形文様を制作します。
昭和48年
個展(日本橋高島屋)では中国・殷の銅器を思わせる重厚な器形に白い色面による不定形な波頭状文様を示すといった展開である。
昭和49年
昭和48年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。
昭和54年
東京・久留米に画家の家を購入し陶房とし、同年遠野からは引き揚げました。
昭和55年
白血病により体力の消耗甚しく、翌年からは専ら入院生活による療養を余儀なくされたが、体調のよい時にはなお、釉付け、窯焼きも行っていた。没後、『加守田章二作品集』(昭和59年)が弥生画廊から刊行された。
昭和57年
自治医科大学附属病院を退院。 1983(S.58) 同病院に再入院。 2 月 26 日肺炎のため死去、 没年 49 歳。
加守田章二の買取で当社が選ばれる理由
1.当社は人件費や運営のコストを削減しておりますので、その分高価買取が可能になります。
2.創業昭和25年より、秘密厳守にて買取させ頂いております。
3.加守田章二の作品のオークションデータに基づいて適正価格で買取りさせて頂きます。
4.都合があえば即日でも出張買取に伺わせていただきます。
5.従業員ではなく、店主自らが鑑定に伺わせていただきます。
加守田章二 査定価格におけるポイント
加守田章二の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。
幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。
作品の種類
加守田章二先生の作品は、曲線彫文の作品に高値の査定価格がつきます。
100万円から500万円ぐらいの買取相場です。
保存状態
茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。
作品の出来・不出来
加守田章二の作品は壺や大皿の作品が評価されます。
徳利や盃の作品は小さくても高値で取引されております。
加守田章二展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。
制作年代
加守田章二先生の作品は、初期の作品も高値で取引されております。晩年の作品が査定価格が上がる傾向にあります。
※このように同じ加守田章二の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。
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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。
美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。
どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。
裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。
北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。
出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただきます。
まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。
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