2024年10月27日

富本憲吉の作品を買取り致します。 北岡技芳堂の骨董品買取ブログ

御所蔵の富本憲吉の陶芸作品の買取価格を知りたい方は、高額査定の北岡技芳堂にお任せください。

 

富本憲吉の作品を他社よりも高い買取価格で査定しています。 買取査定のポイント、富本憲吉の作品の買取情報をご確認ください。 簡単LINE査定も随時受付しております。

 

富本憲吉の作品をお持ちでしたら、ぜひ北岡技芳堂にご相談ください。 先代様の富本憲吉のコレクションやご自身が蒐集されました作品、または譲り受けた富本憲吉の作品を鑑定して買取りいたします。

 

陶芸作品の遺品整理、生前整理、コレクションの整理、お引越し、リフォーム、お片付けなどでご所蔵の富本憲吉の作品を適正評価でご売却したい方、ぜひ当店にご相談下さい。 誠意を持ってご要望に沿うよう、高価買取をさせていただきます。

 

富本憲吉は1886年に奈良県生駒郡安堵村の法隆寺寺侍の出である旧家富本家の長男として生まれました。

 

7歳の頃より祖父の友人で日本画家の嘯園について南画を学ぶなど、幼いころから美術や芸術に触れて感性を磨いていきました。

 

1908年に東京美術学校図案科建築部を卒業すると、ウィリアム・モリスの思想と工芸の仕事に興味を持ちロンドンに自費留学します。

 

ロンドン州議会立セントラル・スクール・オブ・アーツ・アンド・クラフツの夜学に通ってステンドグラスの技法を学びました。

 

また、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に日参してスケッチを重ねたり、イスラム建築調査の為にインドを旅行、パリ・マルセイユ・カイロを訪問するなど、1900年初頭の西洋美術を自らの目にしっかりと焼き付けてその後の装飾図案家としての糧にしました。

 

25歳の時に帰国すると、来日中であったイギリス人画家バーナード・リーチと出会い親交を深めました。

 

ともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼に興味を持ったバーナード・リーチに六代尾形乾山を紹介し、その通訳をしているうちに自分でも楽焼を始めるようになりました。

 

 

富本憲吉 本人

富本憲吉 本人

 

人間国宝の陶芸家である富本憲吉は、「模様から模様を造らず」という言葉を残しています。これは、工芸製作における富本憲吉の信念であり、作家としての創造性を重要視する言葉として知られています。

 

 

富本憲吉の買取でよくある質問

 

Q.1点でも買取りしていただけますか?
A.1点でも買取り可能ですが、品物により出張買取が難しい場合もありますので、一度ご相談ください。

 

Q.本物か偽物か分かりませんが買取りしていただけますか?
A.富本憲吉の作品は、当店が真贋を拝見させていただき判断させていただきますので、一度お問い合わせ下さい。ラインやメールで先ずは画像をお送りいただく方法もございます。

 

Q.富本憲吉の作品以外にも陶器などがあり運べませんので出張買取りしていただけますか?
A.もちろん出張鑑定いたします。お値段が合いましたら、買取りもさせていただきます。

 

Q.箱や箱書きが無いのですが買取りしてもらえますか?
A.共箱が無くても買取りは可能ですが、査定額は低くなってしまう可能性がございます。

 

Q.富本憲吉の作品は画像で査定していただけますか?
A.画像で判断できる品もありますが、簡易査定となります。画像査定が難しい場合は、実際に作品を拝見させていただきます。

 

Q.富本憲吉の作品ではありませんが買取りしていただけますか?
A.陶芸作品でなくても、絵画や骨董品など様々な物が買取り対象となります。

 

 

 

富本憲吉 白磁八角壺

富本憲吉 白磁八角壺

 

富本憲吉先生は白磁について、「厚く柔らかい白磁釉を壺に用いて、一種特別な感じのする陶器を造り出そうと考え出したのは、私がまだ陶磁家として身を立てなかった若いで、フランスでマイヨール作の小像を見てその柔らかくふくよかな肉付きに感心した時に始まると、『陶技感想五種』で述懐している。

 

色彩や模様によるごまかしが一切きかない白磁には、轆轤で整形した段階で最も形の整ったものを用いたという。

 

写真の作品は八角に面取りした壺で、そのしっとりとしたやわらかさと深く沈んだ気品が漂う白磁釉と、当時の常識を破る首の低い安定感と力強さを持つ壺の形は、富本憲吉独特の美意識を示すものである。

 

 

 

富本憲吉 白磁壺

富本憲吉 白磁壺

 

「形は身体骨組であり、模様はその衣服である。模様や色で飾られた衣服を脱ぎすて、裸形になった人体の美しさは人皆知るところであろう。」

 

下図なしで思うがままに壺を轆轤成形したあと、青空の下に一列に並べ、最も形の整った3分の1を白磁に、それに次ぐ3分の1には呉須や彫線を施し、残りを色絵の素地とするとも述べています。

 

「未だ白定に遠い私の白磁を その同一位置に迄漕ぎつけるのは モウ永くはない私の死に至る迄の望みであり 又責任であろふと考へる」との言葉からも、白磁への強いこだわりが感じられます。

 

白定は宋代定窯白磁を意味します。

 

「造らんとする壷の外線を心におきつつ轆轤すれば、軟らかき陶土の無数の異なりたる外線は内に外に動きて止まず。

 

われはこれを「線の戦い」と名づけたり」

 

富本先生の言葉からは形に対する厳しい追求が感じられます。

 

瑪瑙質の白磁の肌は柔らかで美しく、壷の中からは高雅な香りが立ち昇っているかのようです。

 

 

富本憲吉 染付祖師ヶ谷風景飾壺  1929年

富本憲吉 染付祖師ヶ谷風景飾壺  1929年

 

富本憲吉の染付は、独自性の高い模様が描かれています。

 

呉須象嵌の技法が使用されていて、自然や草花をモチーフにした詩情豊かな模様が特徴 です。

 

富本憲吉の染付作品の特徴は、従来にない斬新な造形と高い技術で描かれた独自性の高い模様、素地に模様を刻みつけて、青い顔料である呉須を埋めて模様とする「呉須象嵌」の技法が使用されている 代表的な常用模様に「竹林月夜」「大和川急雨」「四弁花」「羊歯」などがあります。

 

 

富本憲吉 色繪飾壺

富本憲吉 色繪飾壺

 

「白磁丸壷」とほぼ同型の器体に、紫を地として緑・黄で四弁の花模様を描き、口縁をあざやかな朱で彩っている。四弁の花はテイカカズラの花をモティーフとして考案された作品です。

 

本来は五弁の花を連続模様とするため四弁に変更したもので、富本憲吉独自の模様です。

 

富本憲吉は、奈良の安堵町から東京の祖師谷にテイカカズラを移植し、自宅の玄関脇に植えていました。

 

幼少期に花の中心に糸を通して吹くと花弁が風車のように回ったという思い出があり、この花を身近に感じていました。

 

富本憲吉は、この花を模した四弁花模様を作品に取り入れ、独自の作陶の世界を構築しました。

 

四弁花模様は、単独の模様として使われるほか、連続模様として用いられる場合もあります。連続模様のタイプはインドの更紗と類似していることから「更紗模様」とも呼ばれます。

 

 

富本憲吉 色絵金銀彩羊歯文飾壺 1958年

富本憲吉 色絵金銀彩羊歯文飾壺 1958年

 

色絵金銀彩の作品を多く発表した京都時代らしい華やかな作品です。

 

羊歯模様は、植物の生命感を保ちつつ連続文様として多彩な展開が可能で、晩年に多く用いられました。

 

晩年の京都時代は独自の造形とさらに複雑な模様が昇華した作品が生まれます。

 

模様は、金銀彩で描かれた羊歯(しだ)模様が特に有名で、従来の色絵時期に金彩・銀彩を一緒に施す技法を確立しています。

 

融点の異なる金と銀を、赤化粧の上に加彩した飾壺は代表作のひとつです。

 

奈良県立美術館や、京都国立近代美術館に収蔵される「蓋付飾壺」などが該当します。

 

「従来にない作品を作る」という信念が新たな作風と技法を次々と生み出していきました。

 

 

富本憲吉 略歴

 

大阪府平群郡安堵村(現・奈良県生駒郡安堵町)の大地主の家に生まれ、幼少より絵を学びます。

 

東京美術学校に入学して建築、室内装飾を専攻し、在学中にウィリアム・モリスの工芸思想に影響されます。

 

1908年(明治41年)、卒業前にロンドンへ私費留学(留学中に卒業)。ヴィクトリア&アルバート美術館に日参し、アーツ・アンド・クラフツの作品にふれる。

 

ロンドンで建築家・新家孝正と出会い、写真助手としてインドを巡ります。

 

実家から帰国命令が届いたため1910年(明治43年)帰国します。清水組(現・清水建設)に入社するが、ほどなく退社。

 

1912年(明治45年)『美術新報』に「ウイリアム・モリスの話」を発表します。

 

その後来日していたバーナード・リーチと出会い、交友を深めていきます。

 

バーナード・リーチは陶芸に熱中しており、陶芸家の六代目尾形乾山に学んでいた。富本も影響を受けて興味を持つようになり、1913年(大正2年)に故郷の裏庭に簡単な窯を作り楽焼作りを始めます。

 

1914年(大正3年)『青鞜』の同人で「新しい女」として評判だった尾竹紅吉(尾竹一枝)と結婚します。

 

1915年(大正4年)、故郷奈良に本格的な窯を築きいっそう創作に励みます。独学で多くの技術を身に付けました。

 

陶磁器の研究のため信楽、瀬戸など各地の窯場や朝鮮半島にも足を運びます。また、奈良の陶芸家今西洋が波佐見・中尾山で収集した「くらわんか茶碗」の破片などを今西洋の仕事場で「肥前中尾山 茶碗集」としてスケッチし、雑誌『工藝』に寄稿します。

 

李朝に影響された物や民芸調の作品を制作する中で、白磁の焼成に成功します。この奈良にいたのは主に大正年間だったため、この時期を富本の「大和時代」ともいいます。

 

1926年(大正15年)、奈良から世田谷に住まいを移し窯を築きます。(以後を「東京時代」ともいいます)。

 

主に白磁、染付の作品を制作します。この時点ではまだ世に知られる存在ではなかったが、1927年(昭和2年)の特別展で評判を得た。

 

昭和10年代は本格的に色絵磁器の制作に励んでいます。このころは柳宗悦の民藝運動にも共感を寄せているが、のちに訣別します。

 

長く在野だったが、1935年(昭和10年)帝国美術院(日本美術院、帝国芸術院の前身)の改革に伴い会員に選ばれます。

 

1944年(昭和19年)には東京美術学校教授になります。

 

第二次世界大戦中は疎開のため生徒とともに一時高山に移ります。

 

終戦後の1946年(昭和21年)には美術学校および芸術院会員を辞し、家族とも別れ京都へ移る。以後を「京都時代」ともいいます)。色絵に加えて金銀を同時に焼き付けるという技法・金銀彩を完成させ、羊歯文様などによる独自の作陶様式を確立しました。

 

1949年(昭和28年)京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)客員教授

 

1950年(昭和29年)京都市立美術大学教授

 

1955年(昭和30年)2月15日には重要無形文化財「色絵磁器」保持者として人間国宝に認定、前年の文化財保護法改正によって新設された重要無形文化財の保持者認定制度発足後に最初に認定された人間国宝の一人となった。晩年の1961年(昭和36年)には文化勲章を受章している。その2年後満77歳で死去した。

 

 

富本憲吉 査定価格におけるポイント

 

富本憲吉の作品は同じ様な作品であっても、査定額は大きく異なってきます。

 

幾つか要素を挙げますのでご参考にして下さい。

 

作品の種類

 

富本憲吉先生の作品は、金彩や銀彩の作品が高値の傾向にあります。

細かく絵付けが鮮やかな作品に高値の査定価格がつきます。

10万円から100万円ぐらいの買取相場です。

染付だけの作品は安値の傾向にあります。初期の作品は査定価格が低くなります。

作品は大きければ大きいだけ高値が付く傾向にあります。500万円の高値が付いたこともあります。

 

保存状態

 

茶碗などは使いすぎると汚れてしまい査定価格が下がります。箱が汚れているのも査定価格が下がります。

 

作品の出来・不出来

 

色彩が鮮やかな作品が高値で売れる傾向にあります「四弁花」「羊歯」の題材の作品が高値で取引されています。

模様が強く出ている作品が高値の傾向にあります。富本憲吉展などの展示会での掲載作品であると高い評価が出来ます。

 

 

制作年代

 

富本憲吉先生の作品は、初期の作品よりも後期の作品の方が査定価格が上がる傾向にあります。

 

※このように同じ富本憲吉の作品でも、様々な要素により査定額は異なります。 また、相場(業者間での流通価格)も変動します。

 

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弊店は販売をする店舗だからこそあらゆる骨董品が高価買取を可能にします。

 

美術品の売却をご検討なさっているお客様や、ご実家のお片付けや相続などでご整理をされているお客様のご相談を賜ります。

 

どうしたら良いか分からなかったり、ご売却を迷われている方がが多いと思いますが、どのようなことでも北岡技芳堂にお任せください。

 

裁判所にも有効な書類を作成させていただく事も出来ます。

 

北岡技芳堂では骨董品の他にも、絵画や貴金属、宝石、趣味のコレクションなど様々なジャンルのものを買受しております。

 

出張買取も行っております。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県その他の県へも出張させていただくます。

 

まずは、お電話にてお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

骨董品の買取【北岡技芳堂 名古屋店】

 

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