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2014年3月31日

ギャラリー北岡技芳堂 新CM

桜の花が咲き春らしくなってきましたね!
気分を一新して新しいCMを制作致しました。
ご覧ください。

ギャラリー北岡技芳堂 新CM
絵画や骨董品の鑑定や買取は名古屋大須のギャラリー北岡技芳堂へどうぞ
お待ち申し上げております。

2014年3月24日

北大路魯山人 色絵叩丸平鉢


北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん とも、1883年(明治16年)3月23日 – 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。
晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。

2014年3月20日

西郷孤月 天才と呼ばれた幻の画家

西郷 孤月
天才と呼ばれた幻の画家
明治6年(1873年)9月23日〜大正元年(1912年)8月31日)
松本藩士の家に生まれる。

明治22年(1889年)、英語学校で同窓だった横山大観や、下村観山らとともに東京美術学校の第一期生として学ぶ。校内臨時試験で、観山と共に乙組に編入された。同27年2月に絵画科を卒業。この頃から橋本雅邦に見出され、同校研究科へ進む。
明治31年(1898年)に岡倉天心が東京美術学校を辞任するのに従い辞職し、日本美術院の設立に尽力、評議員に挙げられる。雅邦門下の四天王、大観・観山・弧月・菱田春草のうち、最も将来を嘱望され、同年末橋本雅邦の娘と結婚。媒酌人は岡倉天心であった。しかし、ある酒席で雅邦と激突、以降、酒と遊蕩に明け暮れるようになり、それが要因となり1年後に離婚してしまう。
明治36年(1903年)、弧月会をつくり渡欧資金集めようとしたが、上手くいかず挫折する。同年6月木村武山と東北を巡遊したのち、中央画壇を離れ各地を放浪することとなる。
明治39年(1906年)、大観と春草は弧月の才能を惜しみ、日本橋倶楽部の展覧会に参加させるが、もはや昔日の面影はなかった。だが、明治44年(1911年)に盟友の春草が病死した後、何かが吹っ切れたように翌大正元年(1912年)に台湾へ渡り「台湾風景」(山種美術館蔵)を描く。大陸への更なる進出を望んでいたものの、台北で発病し7月帰国するが、自宅で急逝した。
場所
宝蔵院の書院

2014年3月18日

河井寛次郎 呉須茶碗

河井 寛次郎
かわい かんじろう
1890年(明治23年)8月24日 –
1966年(昭和41年)11月18日)日本の陶芸家。
陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも優れた作品を残している。

学校での研究
当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。松江中学(現島根県立松江北高等学校)を経て、1910年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。1914年東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場[1]に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。同年、京都の宮大工の娘・つねと結婚する。
華麗な作風からの転換
1926年、柳、濱田とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになる。富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとも合流し、1929年に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では、古典から日用の器へと路線を変更した。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。
室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、登り窯の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力して1937年に完成させた。この自宅兼仕事場が現在の河井寛次郎記念館になっている。同じ年、川勝堅一の計らいで「鉄辰砂草花図壷」がパリ万国博覧会でグランプリを受賞する。
より奔放な作風へ
第二次世界大戦後、世界の民族芸術に関心を深めた寛次朗は木彫の制作も開始する。陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げた。材料の入手が困難であった戦時中より詩、詞の創作を始め、1947年には寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功の板画で制作。随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成させる。老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期だったが、壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、アクション・ペインティングのように釉薬を刷毛で打ちつけるような作品を残している。またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が生涯枯れることはなかった。
1955年文化勲章を辞退する。人間国宝、芸術院会員などへの推挙もあったが、同様に辞退している。1957年には川勝堅一の計らいで「白地草花絵扁壷」が、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するも、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没した。

2014年3月14日

織田瑟瑟 牡丹桜眞図

織田瑟瑟
牡丹桜眞図
二年春の作
安永8年(1779年)、近江国神崎郡(現在の滋賀県東近江市)川合寺で、知行700石を領する。津田内匠貞秀の長女として誕生。名は政江。
津田家は織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた。
信貞は関ヶ原の戦いおいて東軍に属し、以後は徳川家康に仕え旗本となった。
代々江戸に住んでいたが信貞の次男で高家旗本であった織田貞置の孫・織田長経(貞秀の父)が領国川合寺に隠棲し津田姓を称したことから川合寺津田家は始まる。
幼い頃から絵を描くことに優れていたと伝えられている。
父・貞秀に男子がなかったことから、政江が10代前半の時、縫殿助岐山なる風流人を婿に迎える。
瑟瑟は京都に移り住み、やがて娘が生まれるが寛政6年(1794年)に娘は夭逝する。
その後、京都鳴滝の女流画家で桜花の写生を得意とした三熊露香に入門し、本格的に絵を学ぶ。
三熊露香への入門は瑟瑟自身が桜を描くことが好きであったことによる。
画名を「瑟瑟」とし、これは風の吹く様、或いは深緑色を意味する。
早くも寛政8年(1796年)と翌9年(1797年)京都の「東山新書画展」に夫と共に出品している(同目録)。
ところが夫も寛政9年に死別する。

文化7年(1810年)の『近世逸人画史』には「平安人」と記載され京に住んでいたようだが、その後川合寺の本家に戻り、11歳年上の彦根藩士石居家の三男・信章を瑟瑟の婿養子津田信章として迎え入れた。
しかし、文化10年(1813年)瑟瑟が35歳の時に夫・信章は病死し、その後は再婚せず、子の貞逸の教育に徹する。貞逸成人後の50歳前後で剃髪、妹の八千代と共に隠棲した。なお、八千代も絵を良くしたという。
また、瑟瑟に弟子がいたという所伝はないが、守山輝子という絵師が瑟瑟に類似した桜図を描いている作例があり、瑟瑟の弟子だと考えられる。
天保3年(1832年)に54歳で死去。
墓は川合寺にある津田家の菩提寺・西蓮寺にあり、法名は専浄院殿天誉快楽名桜大姉。
なお、墓は自分が写生し、寺に移植した桜の下に設けるよう遺言したが、現在はその桜はない。

瑟瑟が描く絵はほとんどが桜絵であったことから地元近江では「織田桜」と称され、今も数多くの作品が残る。
露香門下で瑟瑟の名は類まれな彩色手法より高く評価され、瑟瑟が桜の絵を描いていると空飛ぶ鳥が実物と間違えその絵の桜に止まりに来たとの逸話も残されている。
瑟瑟の落款や画風の変遷はおよそ4期に分けられる。
第一期は寛政後半から享和初年までの、結婚から死別を経て再婚するまで。款記には織田姓を記さず瑟瑟のみ記し、印には「織田氏女」「瑟瑟」の大印を用いる。画風には、師・露香の影響が残る。
第二期は享和初年以降から文政4年(1821年)20代から43歳までで、貞逸が成人する頃までに当たる。
落款に織田姓をほとんど書き込み「織田氏女瑟瑟」と記す。印は、第一期の大印は使用せず、「織田氏女」「瑟瑟」小印と「惜花人」印を組み合わせる。
作風は師と決別し、桜そのものの描写に重きを置いていく。絵の上部は幹の上を花が覆い、絵の下方からも若枝が伸び花を咲かせるといった二層式構図が典型的に用いられる。
第三期は文政4年から文政12年(1829年)51歳までもっぱら「貞逸母」と記す。印は第一期の大印を再び用い、「家在越渓南岸」の巨大印を併用することも多い。
画風は最も特徴的で、地面は盛り上がり幹は老木となって、花はみっしり咲き誇る美しくも力強い作品が多い。
第四期は文政12年から没年まで。落款は「貞逸母」から「織田氏女瑟瑟」に戻って自体は細く弱くなり、印も第二期のものに戻る。画風も優美になり、繊細かつ円熟した作品が残っている。

2014年3月14日

籔内佐斗司  喜こぶ童子

籔内佐斗司
喜こぶ童子
手に五円玉を入れました。

1953年、大阪府大阪市にて生まれる。大阪府立三国丘高等学校を経て、1978年、東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。1980年、東京芸術大学大学院美術研究科澄川喜一研究室で彫刻を専攻し、修了する。
1982年から1987年まで、東京芸術大学大学院美術研究科保存修復技術研究室の非常勤講師を勤める。仏像などの古美術の古典技法とその修復技術を研究、新薬師寺地蔵菩薩立像(奈良市)、平林寺十六羅漢像(新座市)などで東京芸術大学が中心となって行った、保存修復に参加する。
1987年、彫刻家として活動を開始する。作品には、横浜ビジネスパークの「犬も歩けば」(1990年)など、パブリック・アートも多い。2004年、東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室教授に就任する。

2014年3月7日

松下幸之助の書

松下幸之助の書
青春とは、
心の若さである。


深くて重い書です。
松下幸之助(まつした こうのすけ/1894年11月27日-1989年4月27日)は、和歌山県出身の実業家・発明家・技術者。日本を代表する電機メーカー「パナソニック」(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者であり、「経営の神様」とも称されている人物。16歳の時に大阪電燈(後の関西電力)に入社し、7年間勤務した後、妻や友人5人で電球ソケットの製造販売事業を開始(この時のメンバーには後に三洋電機を創業することとなる井植歳男がいる)。1918年に事業拡大に伴い「松下電気器具製作所」を創業。1935年に「松下電器産業株式会社」へと社名変更。1946年に「PHP研究所」を設立し倫理教育に乗り出す一方で、晩年は「松下政経塾」を立ち上げ政治家の育成にも力を注いでいた。

2014年3月7日

岡村智晴 流転

岡村智晴
流転

1984年 愛知生まれ。2008年 東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒。誰もが共感できる身近なモチーフ「光」を題材にした作品は、見る人の心にも優しく降り注ぎます。「東京コンテンポラリーアートフェア2009」の来場者アンケートにて、「最も印象に残った作家」の第一位にも選ばれました。
今月、3月7日(金)〜3月9日(日)に東京アートフェアに出品中

2014年3月1日

熊谷守一 落花流水

熊谷守一
落花流水
落ちた花が水に従って流れる意
年をとったら皺が現れ老ける。
そのままでよいではないか、ありのままで生きていこう、それが自然です。

2014年3月1日

北大路魯山人とドームナンシー

上 ドームナンシー 夏景色文花瓶
下 北大路魯山人 染付祥瑞写腕
飾り棚に飾ってみました。

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