買取実績
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掛軸
竹内栖鳳
「はまぐり」
- 買取地区:
- 春日井市
- 買取方法:
- 出張買取
買取価格¥30,000
竹内栖鳳(本名 恒吉)は、1864年に京都の料理屋「亀政」の長男として生れました。終始官展にとどまり、在野の横山大観と画壇の双璧をなし「西の栖鳳、東の大観」と並び称され、明治から戦前にかけて活躍した日本画家です。
空白の中にぽつんと置かれたはまぐりの図、なんだかとっても可愛らしいです。この辺りですと桑名のはまぐりが有名です。春頃から初夏が旬で、この季節のはまぐりは身がぷりぷりとしており、味も濃厚で、殻の中いっぱいに身が詰まっていてとても美味しいですね。こちらの作品は残念ながら全体的にシミが出てしまっておりましたので、状態なども踏まえまして査定額をお出しいたしました。
竹内栖鳳は13歳の時、近くに住む四条派の土田英林(鈴木百年の門人で鳥の画が得意)について絵を習い始めます。17歳、同派で京都画壇の中枢にいた幸野楳嶺に入門します。凝り性の楳嶺が入門三日目には「鳳は梧桐に棲み竹実を喰う」という古語から棲鳳という雅号を授けたと言いますから、竹内栖鳳の素晴らしい素質を見抜いていたのでしょう。まもなく棲鳳(のちの栖鳳)の画号を師よりいただき、翌年には楳嶺塾の工芸長に任命されるなど、早くからその非凡さを認められます。その後は各種の展覧会で受賞を重ね、「楳嶺四天王」の筆頭と呼ばれました。
1883年20歳の頃より京都府画学校に出仕、以来京都新興画壇の先頭に立って活躍、1900年、栖鳳はパリ万国博覧会視察とヨーロッパ各国の美術事情視察のため農商務省、京都市より命じられて渡欧、7ヶ月間かけてフランス中心にイギリス、ドイツ、オーストリアなどを訪れます。その際にターナー、コローなどの影響を受けました。渡欧中にアントワープの動物園に三週間通い、ライオンを写生し獅子図の構想を練りました。残念ながらこの作品は所在不明ですが、1902年頃に描かれた「大獅子図」があり、写生を基本とした円山四条派に西洋画の写生を取り込んだ、栖鳳ならではのリアルなライオンを見る事ができるでしょう。帰国後には西洋画の画法も取り入れ、渡欧の経験と収穫を記念して雅号を「栖鳳」に改めました。この頃より次第に軽妙斬新な独自の写生画風をなし「獅子」「和蘭の春・伊太利の秋」「古都の秋」等の習作を発表、1907年に栖鳳は新たに開設された文展の審査員となり、1913年「帝室技芸員」に推挙され名実ともに京都画壇の筆頭としての地位を確立しました。1909年京都絵専教授、1913年帝室技芸員を仰付けられます。栖鳳はあまりしゃべらないタイプだったそうですが、自ら教授となり後進の指導をし、その中で写生と省筆という表現方法を徹底させました。文展開始以来次々と問題作を出陳、1920年と翌年に中国旅行、1922年日仏交換展には「蘇州の雨」を出品して、1923年仏国サロン会員に推薦され、続けて1931年ハンガリー最高美術賞、1933年ドイツ政府よりゲーテ名誉賞を受け、日本を代表する画家となりました。
画壇革新を目指した明治期には、旧習を脱却した新たな日本画表現を模索して西洋に渡りました。技術が円熟に達した大正・昭和期には、画壇の重鎮として第一線で活躍しながら多くの弟子を育成したことでも知られています。主宰した画塾竹杖会では、上村松園、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨、橋本関雪ら近代日本画に残る多くの逸材を輩出しました。
竹内栖鳳は、京都の伝統的な絵画に西洋的な写実という新しい風を吹き込み、日本画の近代化をうながしました。抜群の筆力で生き生きとした作品を生み出し、圧倒的な求心力で画壇をリードして近代京都日本画の礎を作りました。現在では巨匠として多くに知られる存在ですが、そこへ至るまでには古い常識を破壊し、新たな地平を創生するエネルギーが不可欠だったのではないでしょうか。
1929年に「霞中山房」が落成した年の秋、栖鳳は肺炎にかかり一時床に臥せることとなりました。その後も流行性感冒にかかったり、カタル性の肺炎や胃潰瘍、胆石症、栄養障害、神経痛などの病に続けて罹り、ついに医者より気候温暖な土地で療養すべしと忠告され、そこで人を介して探し当てたのが、熱海に近い湯河原温泉の「天野屋」でした。こちらの宿は、伊藤博文や犬養木堂、夏目漱石などが逗留したこともあり、栖鳳は大変気に入り東京の帰りに立ち寄っていたそうです。主人の好意で、こちらの宿の一隅に小さな居室と画室を兼ねた別宅「山桃庵(やまももあん)」を新築することになります。栖鳳は湿気の多い高台寺の新邸をあまり使わないまま湯河原での生活が常態化し、77歳で亡くなるまで作画三昧の日々を過ごしました。
1864年 11月22日京都市にて出生、父竹内政七
1876年 11月より同12年(16歳)12月迄吉田勘介に就て漢籍を学ぶ
1877年 土田英林に師事し画学修行を初む、5月17日母きぬ死去(49歳)
1881年 幸野楳嶺の門に入る
1882年 19歳で私塾工芸長に任ぜらる、10月第1回内国絵画共進会「雁に双鶴」「瀑布」
1883年 3月京都府画学校に出仕を命ぜらる
1887年 8月開業、西陣織業の高山家の長女奈美と結婚
1889年 2月より高島屋の画室に勤務、輸出用染織品の下絵を描く、高島屋が国内外に出品した数々の“美術染織品”製作に関わった
1890年 逸三出生
1892年 2月9日父政七死去(65歳)
1894年 9月-12月東本願寺須弥壇揮毫の楳嶺の助手となる、1
1895年 2月2日幸野楳嶺逝去
1901年 37歳、4月巴里万国博「雪中燥雀」銅牌、8月渡欧、フランス、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、イタリア等巡遊、棲鳳を栖鳳と改む
1906年 2月6日姉こと死去(53歳)
1909年 京都市立絵画専門学校教授
1913年 帝室技芸員
1919年 帝国美術院会員
1920年 4月渡支上海、蘇州、杭州、南京、漢江、鄭州、北京、朝鮮経由、7月帰洛、10月帝展「薫風行吟」「槐下博戯」
1921年 4月渡支上海、蘇州、鎮江、楊洲、南京、九江、盧山、南京、済南、天津、北京、八逹嶺、張河口、大同、北京、京城経由、7月帰洛
1931年 68歳、歯痛・レウマチス・胃疾・感冒連続、3月下旬肺炎併発、一時重態に陥りしも恢腹病後湯河原に赴く
1936年 73歳、6月7日土田麦僊危篤見舞の為め帰洛
1937年 横山大観などと共に第一回文化勲章を受章
1938年 75歳、8月西村五雲葬儀の為め帰洛
1942年 8月23日、客舎湯河原にて病気療養中のところ肺炎のため逝去、享年79
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