買取実績

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横山大観「霊峰不二」

掛軸

横山大観
「霊峰不二」

買取地区:
京都府
買取方法:
出張買取

参考価格¥10,000,000

横山大観「霊峰不二」の掛軸を買取いたしました。日本の伝統を取り入れて近代的に仕上げた大観の富士は、やはりとても迫力がありますね。こちらの作品は、横山大観記念館の鑑定登録済です。

「大観といえば富士」という言葉があるほど、富士山を題材にした作品が有名で、生涯に約1,500点も描いたといわれています。自ら進んでいつも富士山ばかり描くというわけでありませんでしたが、富士山の山容や、四季や時刻によって刻々と変化する姿が大観は好きだったようです。

横山大観(よこやま たいかん)は1868年、水戸藩士・酒井捨彦(すてひこ)の長男として水戸市に生まれました。一家は1878年に上京します。旧姓は酒井ですが、1888年に母方の親戚である横山姓を継ぎました。

祖父と父は、幕藩時代より測量と地図制作を生業としていたため、大観には工科系の道へ進むことを望んでおり、成績優秀だった大観も建築の道を目指していました。

東京大学予備門と同大学付属英語専修科の2校を同時受験したところ、規約違反となりどちらも無効となってしまいます。自暴自棄となった大観は、とりあえず私立の東京英語学校で英語を学んでいました。

そんな時、官立の美術学校が創設されることを聞いた大観は、突然画家を志します。そして結城正明や狩野芳崖らに3ヶ月ほど学び、受験に臨みました。

1889年、晴れて第1回生となった大観は、そこで生涯の師となる岡倉天心と出会います。若くして東京美術学校の校長を務めた天心は、明治という新しい時代にふさわしい日本美術の創造を目指して、熱心に指導をしました。天心や教授陣から、従来の流派の枠組みにとらわれない教育を受けたことが、大観の後の人生に大きな影響を及ぼすことになります。

しかし、天心は鋭い美意識の反面、放埒な言動で敵も多く、また急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになります。

そして、学校内部の確執に端を発した「東京美術学校騒動」により、1898年に校長職を追われます。すでに同校助教授職などにあった大観、下村観山、菱田春草ら十数名も共に辞職しました。

その半年後、大観は天心のもとに集まった26名の同志とともに、在野の美術団体として日本美術院を設立しました。研究を重ねて作品を発表するとともに、仏像修復を行なう機関でもありました。

大観らは朦朧体に象徴される日本画の革新を行なっていましたが、その作品は世間から酷いバッシングを受けます。墨の輪郭線を描かずに、無線彩色で繊細なグラデーションから気分や情感を表現する新しい日本画は、世間の理解を得ることができませんでした。作品は売れず、最初の妻・文子、弟、娘を失う不幸が大観を襲います。

1903年から1905年にかけて、大観は日本美術昂揚のため、菱田春草とともにインド、次いでアメリカ、ヨーロッパを訪れています。ニューヨーク滞在中は旅費を稼ぐため展覧会を開いたところ大評判となり、その後赴いたパリ、ベルリンでも同様に受け入れられました。

1906年には美術院の経営難から茨城県五浦(いずうら)への移転を余儀なくされます。五浦時代にも絵は売れず、魚を釣ってしのぐような貧しさでした。なかなか負の連鎖を断ち切ることができず、数年のうちに父と妹が相次いで病没、2番目の妻・直子も肺を病み、新築したばかりの家が全焼するなど不幸続きでした。

家が全焼したため五浦での生活は1年10ヶ月ほどでしたが、その後東京に戻った大観は、翌年に五浦の邸宅を再建、度々訪れていました。大観にとって五浦は、生涯大切な場所だったようです。

大観は当時のことを「私と菱田君は餓死寸前まで来ていた。しかし私たちはそれに屈しないで、自己の信ずるところに進んだ。」と後に語っています。この苦難の時期は約7年続きましたが、大観らは天心とともに新しい時代の到来を信じて制作に取り組み続けました。

苦楽をともにしてきた春草でしたが、五浦で腎臓や目を患ったため1908年に1人東京へ戻り、1911年36歳の若さで亡くなります。大観は才能ある盟友の早世を生涯惜しみました。

明治から大正へと元号が変わる頃、日本画の新画風として徐々に受け入れられ、大観の芸術は広く認められるようになっていきます。また、富士の絵を精力的に描き始めます。著名人のファンも現れ始め、その一人が夏目漱石でした。漱石は大観の作品を新聞紙上などで高く評価し、二人には交流があったといいます。

1913年、天心が亡くなります。失意の中奮起した大観と下村観山らは師の遺志を継ぎ、一周忌に日本美術院を再興しました。大正時代は、大観の芸術が花開いた黄金時代でもあります。彩色画と水墨画の制作を通して、自らの芸術を高めていきました。

その後昭和に入ると、時局と密接に関わりながら、国民画家としてその立場を変えていくこととなります。この時、70半ばを過ぎていましたが、敗戦の混乱から復興へ向う時期も大観は絵筆を握り続けました。

気難しさでも有名だった大観ですが、3番目の妻・静子は、気分屋で人の好き嫌いが激しい大観を上手に働かせました。大観は、嫌な相手の来訪や気に入らない人からの注文は平気で門前払いしていましたが、静子が丁寧に頭を下げて交際を絶たないようにしていたそうです。このような静子のサポートもあり、第一人者へと歩みを進めていきます。

大観は明治、大正、昭和を生き抜き、それぞれの時代に表れた精神や感情が敏感に作品に反映されています。戦後の一時期は伝統的な価値観の否定が行われ、日本画も例外ではありませんでした。洋画風の表現へと傾倒する画家が多い中、大観は理想とする日本画を追求し続けました。

1957年頃より気管支炎のため自宅で療養中でしたが、その後の衰弱は甚だしく、1958年1月26日、その生涯を終えます。享年89歳でした。晩年、画題に多くの富士山を描きましたが、1957年の「不二」が絶筆となりました。

 

【横山大観・略歴】

1868年
水戸に生まれる、初名は酒井秀麿

1878年
一家で上京

1881年
東京府中学(現在の都立日比谷高校)入学

1885年
東京英語学校に入学、傍ら渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ

1888年
東京美術学校を受験、横山家との養子縁組により酒井秀麿から横山秀麿となる

1889年
東京美術学校一期生として入学、岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ

1893年
東京美術学校卒業、その後は京都で修養、古画の模写の仕事に励む

1895年
京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)教諭、雅号を「大観」とする

1896
東京美術学校助教授に就任

1897年
滝沢文子と結婚、第2回絵画共進会に『無我』出品。銅牌受賞

1898年
岡倉天心が東京美術学校々長を辞任、横山大観ら14人も続いて辞職、その後天心は日本美術院を設立

1899年
長女誕生、 第7回絵画共進会に『夏日四題』出品 銅牌受賞 1901年 菱田春草と九州・北陸各地へ写生旅行

1903年
妻・文子死亡、菱田春草とインドを訪問し釈迦の実像を描こうとする

1904年
菱田春草らと共に渡米、ニューヨーク、ボストンで作品展開催

1906年
遠藤直子と再婚、岡倉天心が住んでいた茨城県の五浦へ転居

1907年
父死亡、国が主催となって、官営の文展開催、横山大観、下村観山は文展の審査員を務める

1909年
第3回文部省美術展覧会に『流燈』出品 1910年 中国へ出発、ロバを買って帰る、第四回文展審査員

1912年
明治天皇崩御

1913年
妻・直子死去、第七回文展最後の審査員、9月岡倉天心死去、日本美術院を再興する

1924年
下村観山、竹内栖鳳、川合玉堂らと淡交会を結成

1928年
ベニート・ムッソリーニに「立葵」が献呈される

1935年
帝国美術院会員となる

1937年
文化勲章を受章

1938年
アドルフ・ヒトラーに献呈するため作品「旭日霊峰」完成

1952年 第37回院展に『或る日の太平洋』を出品、『霊峰不二』制作

1955年
第40回院展に『風簫々兮易水寒』を出品

1957年
作品『不二』絶筆となる

1958年
死去 

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※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。

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