買取実績

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山岡鉄舟 一行物

掛軸

山岡鉄舟
一行物

買取地区:
津島市
買取方法:
店頭買取

買取価格¥10,000

山岡鉄舟の一行を買い取りいたしました。こちらは書体から、晩年の作品と思われます。山岡鉄舟は書が巧みであり、頼まれれば断らずに書いたといわれています。一説には、生涯に100万枚書したとも伝えられるほど各地で鉄舟の書が散見されます。数が多く存在するということもあり、状態も踏まえて査定額をお出しいたしました。

幕末の剣豪にして明治の志士、剣と禅と書に生きた武人であり政治家です。江戸城引き渡しの際、勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、駿府で西郷に談判し江戸無血開城の立役者となりました。勝海舟、高橋泥舟とともに幕末三舟の一人としても知られ、明治維新後は官僚として活躍し、新時代の礎を築きました。身長6尺2寸(188センチメートル)、体重28貫(105キログラム)という堂々たる偉丈夫であったと伝えられています。

山岡鉄舟(姓は藤原、名は高歩、鉄舟と号す)は、1836年(天保7年)小野高福と磯の四男として江戸に生まれ、鉄太郎と名付けられました。父は小野朝右衛門という600石取りの旗本でした。浅草の米蔵で蔵奉行を務めていましたが、飛騨高山の郡代を命じられ、10歳の時に家族で高山へ引っ越し17歳まで過ごします。幼少期を山野で過ごしたためか、鉄舟は健脚だったようで、15歳の頃に飛騨高山から伊勢神宮までの一日10里(40km)の道のりを歩き続け参拝したとされています。googleマップで調べてみますと、飛騨高山から伊勢神宮までは約245kmとなっており、今の時代では信じられない距離を歩いていたのですね。幼少時から神陰流槍術や北辰一刀流を学び、武術に天賦の才能を示しました。9歳にして撃剣の道に志し、久須美閑適斎に真影流を、また父が招いた井上清虎の門に入り北辰一刀流剣術を学びます。

16歳の時に母親を亡くし、さらにその1年後、17歳の時に父を亡くします。5人の兄弟がいた鉄舟は異母兄の小野古風を頼り、再び江戸へと戻ります。鉄舟の後ろには、五人の弟が連なっていたそうです。金五郎、忠福、駒之助、飛馬吉、末弟の務はまだ二歳の乳飲み子でした。飛騨高山では乳母がいたので末弟務の世話はしなくてすみましたが、次弟の金五郎では赤ん坊の面倒は難しかったため、江戸に戻ってからは何から何まで鉄太郎が面倒を見なければなりませんでした。乳母も雇ってもらえず、鉄太郎が一切の子育てをしていましたが、なかなか17歳の少年に出来ることではなかったと思います。やはり兄弟5人を世話するのは大変であったようで、いつもぼろばかり着ていたため、ぼろ鉄と呼ばれていました。1855年20歳の時、剣術を学んでいた山岡静山急死のあと山岡家の養子となり、静山の妹英子と結婚しますが、結婚してからも変わらず貧しい生活だったようです。しかし義理堅い鉄舟は、国事に奔走する浪士がいれば自分の生活を顧みず、家に連れてきては食事その他の面倒を見たようです。鉄舟の性格について、剛直で純朴、人倫に篤く困った人を放っておけないなどと言われていますが、そういったことを想起させる話ですね。

江戸に戻った後、北辰一刀流を極めるため、開祖、千葉周作の玄武館で学びます。千葉周作の弟、定吉の桶町千葉道場には坂本龍馬も学んでいました。鉄舟は剣の他に父の勧めで禅も学んでいました。その修練は非常に熱心なものであったようです。

1857年(安政4年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成します。1863年(文久3年)には、浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍・徳川家茂の先供として上洛しますが、間もなく清河の動きに警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰ります。清河暗殺後は謹慎処分となり、浪士組は新徴組として再組織されます。その後大政奉還を迎え、幕府は賊軍となります。

1868年(慶応4年)政府軍の江戸城攻撃が目前に迫る頃、精鋭隊歩兵頭格となります。3月7日に江戸を戦火から救うべく、徳川慶喜の命を受けて薩摩藩士益満休之助を伴い駿府に向かいます。既に六郷土手(川崎)辺りまで進軍していた敵軍の中を通り抜け、駿府までの45里(180km)を駆け抜けます。その道のりは往復360km。決死の覚悟で3月9日官軍の駐留する駿府にたどり着き、その健脚と無私の心で任務に当たり単身で西郷と談判。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩いていったといいます。 西郷との談判において江戸無血開城の基本条件五ヶ条(徳川家存続他)について合意を取り付けることに成功します。その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させたのは有名な話ですね。3月13日・14日の勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも立ち会いました。

明治維新後は徳川家達に従い静岡県に下り、静岡藩権大参事、伊万里県令などを経て宮中へ出仕。侍従や宮内小輔などを歴任し、西郷のたっての依頼により、1872年(明治5年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えました。

1888年(明治21年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌、享年53でした。
勝海舟は「達人はその身死するも、偉跡は百世に彰る。君の働きにより万衆はその恩沢を蒙り、旧主とこしえに泰然たり。」と、その功績をたたえました。

 

1836年    御蔵奉行小野朝右衛門(600石)の4何として江戸の本所大川端に生まれる
1844年(9  歳)久須美閑適斉について真影流を学ぶ。
1845年(10歳)父が飛騨高山郡代に転任、ともに高山にへ行く、北辰一刀流の井上清虎に剣を学ぶ
1848年(13歳)禅を学ぶ
1850年(15歳)書道の師である岩佐一亭より入木道五2世を譲られ「一楽斎」を名乗る
1851年(16歳)母死去(41歳)
1852年(17歳)父死去、5人の弟たちを連れて江戸に到着
1854年(19歳)山岡静山に剣術を学ぶ
1855年(20歳)静山急死のあと山岡家の養子となり、静山の妹英子と結婚す(弟はすでに養子に出ていた高橋泥舟)、千葉周作のもとで剣の修行
1857年(22歳)清河八郎らと「虎尾の会」結成、尊皇攘夷党を起こす 

1860年(25歳)井伊直弼桜田門外の変、暗殺される
1863年(28歳)将軍家茂の先供として、浪士隊(新選組の前身)を率いて上洛するがまもなく江戸に戻る
1864年(29歳)浅利又七郎に出会う
1867年(32歳)坂本竜馬死亡
1868年(33歳)戊辰戦争勃発、3月、慶喜から直接の命を受け、東征軍大参謀西郷隆盛と駿府で談判、江戸城無血開城の道を開き、徳川家の安泰も約す
1871年(36歳)茨城県参事 、伊万里県知事
1872年(37歳)西郷のたっての依頼により10年の期限を約し、明治天皇の侍従となる、三島の龍沢寺の星定和尚について参禅する(東京より歩いて三島に3年間通う)、皇居炎上
1874年(39歳)西郷隆盛説得のため、内勅を奉じ九州に差遣せらる
1884年(49歳)白隠禅師の国師号宣下に尽力
1886年(51歳)大藏経の書写を始める
1887年(52歳)勲功により華族に列せられ、子爵を授けられる
1888年(53歳)7月19日、坐禅のまま大往生、7月22日、東京谷中の全生庵に埋葬される

 

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※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。

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