買取実績

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掛軸
平福百穂
「木兎」
- 買取地区:
- 一宮市
- 買取方法:
- 店頭買取
参考価格¥50,000
平福百穂の掛軸を買取いたしました。古木に木兎が止まっています。まんまるで可愛らしいですね。
何となく頭が丸っこいのがフクロウで、耳があるのがミミズクなのかなと思いましたが、違いが分からなかったので調べてみました。
一部例外もあるようですが、羽角(うかく)がないのがフクロウで、羽角があるのがミミズクと一般的には呼ばれています。どちらもフクロウ目フクロウ科の鳥で、生物学的には一緒のようですね。
ミミズクの仲間には「~ズク」で終わる名前が付いており、「ズク」とは日本の古語で「フクロウ」を指しています。そのため、耳があるフクロウ=ミミズクと言うそうです。
「丙寅夏日」とあります。丙寅は干支の一つで、60年で一巡してくる寅年ですので、1926年の作品となります。
平福百穂(ひらふく ひゃくすい)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家です。1877年、円山四条派の画家である父・平福穂庵の第4子として秋田県角館町に生まれました。家は染物屋を家業としていました。
1890年に父親が亡くなると、後援者・瀬川安五郎(盛岡の巨商で穂庵の恩人)の勧めにより、本格的に絵の勉強を始めて百穂と号します。
1894年、画家になるために上京し、川端玉章門下に入門します。そこで兄弟子・結城素明(ゆうきそめい)と出会い、アララギ派の歌人たちとも交流の輪が広まり、画家としてだけでなく、歌人としても活動していくこととなります。
百穂は、師・川端玉章ゆずりの伝統的な歴史画を描いていましたが、東京美術学校在学中から徐々に歴史画から離れ、現実的なものに目が向けられていきます。
日本美術学校日本画科選科を卒業後は、絵画における自然主義を掲げる无声会に参加し、その後は珊瑚会や金鈴社で作品を発表、政府主催の文展や帝展でも評価を得ました。
百穂はスケッチの画家としても定評があり、新聞や雑誌の挿絵も多く手がけました。また同時代の日本画家、洋画家、漫画家、歌人などとも交流し、制作活動の場を広げました。
制作の根底にあったのは写生でしたが、明冶前期の円山四条派の写生画家であった父から受け継いだ精神と、幼少から親しんだ秋田蘭画の影響が大きかったということでしょうか。
常に研究と工夫を重ね、洋画の写実を取り入れた多彩な表現の作風は、従来の日本画にはない清新なものでありました。写生と装飾の絶妙な調和を試みた独創的作品は、新しい写実画といえるのかもしれません。
北岡技芳堂では、平福百穂の作品の査定、買取を行っております。ご不明な点などございましたら、お気軽にお問い合わせください。
掛軸の買取につきましては、よろしければこちらもご覧ください。
https://gihodo.jp/kakejiku/
【平福百穂 略歴】
1877年
秋田県仙北郡角館町生れ
本名:貞蔵
1890年
角館小学校卒業
12月に父・穂庵没(47歳)
1891年
百穂と号す
1894年
1月に上京して川端玉章に入門
1897年
2月に東京美術学校日本画選科第二学年に編入学
川端教室で学ぶ
1899年
7月、美術選科卒業
郷里角館に帰る
1900年
春、福井江亭、結城素明と共に自然主義を標榜して无声会を組織
3月第一回展を開催、以後大正2年に解散するまで毎回作品を発表
1901年
4月、上京して向島の素明宅に寄寓
文芸雑誌 「新声」 の表紙絵挿絵などを描く
1902年
歌人伊藤左千夫、長塚節らと相知り、更に正岡子規を知る
東京美術画稿西洋画科選科に入学し、一年たらず長原孝太郎についてデッサンを学ぶ
1903年
神田に下宿する
電報通信社に挿絵画家として入社(明治38年退社)
創刊の平民新聞にも関係し、即興的なコマ絵を描く
1904年
太平洋画会研究所が開かれ、夜間部にてデッサンを研究し、小杉未醒と知り合う
1906年
斎藤茂吉、島木赤彦らを知り、根岸派の機関雑誌 「馬酔木」 の表紙や挿絵を描く
1907年
美術雑誌 「方寸」 創刊、同人となる
北海道に遊びアイヌの写生数点を无声会に発表し注目される
国民新聞社に入社、以後20年間同社に籍を置き、相撲や議会をスケッチし人気を博す
1908年
歌誌 「阿羅々木」 創刊され表紙絵を描く
安藤はると結婚して青山に住む
1910年
長男一郎生まれる
3月、離婚する
1911年
後援者・瀬川安五郎没
1913年
鷹野ますと結婚
師・川端玉章没(72歳)。
1914年
大正博覧会に 「鴨」 出品
第八回文展に 「七面鳥」 を出品、 共に好評を得て出世作となる
1915年
川端龍子、小川芋銭、森田恒友らと共に珊瑚会を組織する
1916年
結城素明、鏑木清方、松岡映丘、吉川霊華と金鈴社を組織する
1917年
第十一回文展に「予譲」 出品、特選となる
画壇における地位を確立する
1918年
田口掬汀と共に第四十一議会に帝国美術館建設建議案提出のため奔走
光琳社から「百穂画集」 を刊行
1919年
世田谷三宿に画室を建て、画塾白田舎を創設、後進の指導に当たる
帝展開設され、無鑑査に推薦される
しかし、この頃から官展に興味を失っていたので、暫くは帝展に不出品となる
1920年
九州大演習陪観、東宮の命により「耶鷹渓所見」「大演習実写」各五帖を描き献上する
1922年
金鈴社解散
第四回帝展審査委員に任命され、以後毎年委員となる
1925年
朝鮮美術展審査のため京城に赴き、更に満州に遊ぶ
1927年
世田谷三宿に移転
歌集「寒竹」 刊行
1930年
ローマ日本美術展の用務を帯び、文部省在外研究員として、松岡映丘と共に渡欧、満州を経て11月帰国する
帝国美術院会員を拝命
1932年
小堀鞆音の後任として東京美術学校教授に任ぜられる
従六位に叙せられる
1933年
白田舎塾第一回展開催
帝展審査員を命ぜられたが、この頃から気分勝れず、審査に従事することはなかった
10月下旬、次兄の喪に秋田県横手町に赴き、10月30日、脳溢血のため逝去
享年57歳
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※買取価格は制作年、作風、状態などにより相場が変動いたしますので、
掲載されている金額は、ある程度の目安としてご参考にしていただけますと幸いでございます。
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